怪我の功名-6.
円香は言葉を選んで、森野に答えた。
「誰にも言いたくないことだって、一度でも口に出したらそれもう秘密じゃなくなるでしょ。相手が約束を破って他の誰かに話してしまったとしても、うっかり誰かに聞かれてしまったとしても、それは最初に秘密を口に出してしまった私のせい。だから誰にも知られたくないことは、最初から口にしたらいけないと思う。」
円香の言葉を聞いて、真顔に戻った森野は一拍おいて静かに問い返してきた。
「秘めたるは、恋ですか。」
円香は顔を上げて森野をまじまじと見返した。円香が隠し通したいこと。それは自分の弱さであり、一つ一つの心ない言葉や態度に傷ついている自分自身のつもりだった。けれど、言われてみるまで忘れていたことが信じられないくらい、ほんの少し前まで、隠しておきたい最大の秘密は恋だったはずだ。自分の弱点。そして宝物。そんな陽太への気持ちが自分の中で、いつのまにかとても小さく溶けて無くなっていたのだと思って、円香は喜びに近い感情を抱いた。自然に口元がほころんでしまう。
ああ、やっと忘れられたんだ。忘れようと思わなくていいくらい、忘れられたんだ。
気が軽くなった円香は森野に軽口で返した。
「森野の口から恋という言葉を聞くのは何だか新鮮だわ。」
「一応これでも17歳なので。思春期真っただ中ですから。」
森野はそれ以上、円香を問い詰めずに憮然とした様子でそう返してきた。円香はその表情に小さく声を上げて笑う。
「そう言えば、そうだったね。ごめん、忘れてた。」
円香の笑い声を聞いて森野は顰め面を解いて、小さく微笑んだ。
「たまには思い出しておいて。」
円香が頷いたところで、赤と緑の液体で満たされたグラスが届いた。二人はしばし口を閉ざして白い紙のコースターの上にそれぞれの飲み物が揃えられるのを行儀よく待った。ウェイトレスが厨房近くまで戻っていくのを見届けて森野はストローをグラスに差しながら言う。
「自分が17歳だってことも、たまには思い出したら良いと思う。」
先がスプーン状になったストローでアイスを削っていた円香は意図を掴みかねて顔を上げる。
「うん?あ、落ち着きすぎ?良く言われる。可愛い気とかないからなあ。あ、でも私まだ16歳だよ。って、どうでもいいか。」
ちょうどアイスティーを吸い上げていて返事の遅れた森野は呆れ顔で首を横に振った。
「そういう意味じゃない。もう少し我儘で良いってこと。」
また、弱音を吐けと言いたいのだと理解して円香は僅かに表情を硬くした。それは本当に言いたくない。弱みを口にすれば本当に自分が弱くなる気がする。
「もうすぐ17歳だよ。」
円香がそれだけ返せば、森野は「じゃあ、俺はもう17歳だよ。」と言い返してきた。そのままじっと円香を見つめてくる。
「もっと頼って欲しい。ちゃんと守るから。」
これ以上見つめあったらいけない。これ以上言わせたらいけない。円香は直感的にそう思って口を挟んだ。
「でも。それじゃあ。」
たどたどしい円香の反論を遮って森野は言葉を続ける。いつもは穏やかな細い瞳がこの時ばかりは鋭くなる。
「守らせて欲しい。せめて傍にいさせて。」
「やだ、止めて。」
円香は今度こそ涙声で両耳を覆った。
優しさに縋りたくなる。差し出される好意が友人の域を超えていることに薄々気づいていた。気付いていて離れられなかった。けれど、こうやって剥き出しにされると円香の心は揺れた。今、ここで森野の優しさに甘えてしまったら、自分はどうなってしまうだろう。もう悪意に耐えられなくなってしまうのではないか。彼を失うことに耐えられなくなってしまうのではないか。円香は不安で、だからこそこれ以上森野に近くに来てほしくなかった。彼を頼りたいと思えば思うだけ、寄りかかってしまうことが怖かった。
円香の言葉を聞きいれて森野はただ黙っている。自分で言い出したことなのに居たたまれなくなって円香はそっと視線を上げた。テーブルの上でもうジュースとの境界が分からなくなる程、メロンソーダの上のアイスは溶けてしまっている。濁っていく緑色のメロンソーダの中途半端な色は、不甲斐なく迷ったままの今の自分のように思えた。
「ごめん。」
円香は小さな声で謝った。森野は何も言わずに視線だけを向けて彼女に続きを促してくる。
「話、途中で止めさせてごめん。でも、そんなに甘やかされたら私、駄目になる。」
これまで、誰にも弱音を吐かなかった。大丈夫だと自分に言い聞かせてきたし、周りにも大丈夫だと思ってもらっていたから耐えられたのだ。君は大丈夫なんかじゃないと言われたら、自分がどれほど弱くなってしまうか恐ろしいほどだ。円香が思い詰めたようにそう言うのを聞いて森野は、長く息をついた。
「駄目になるのは良くないかもしれないけど、俺は少しは甘やかしたいよ。」
躊躇うように視線を泳がせる円香の目をじっと見て森野は、ちゃんと言っておくね、と断って続ける。もう、円香に彼を遮る気力はなかった。
「好きだから。」
円香は自分が恋愛の機微に詳しい方だとは思わないけれど、ここまでくれは予想外ということはない。予想していても、どう答えればいいのかは決まっていなかった。円香は「うん」と言ったきり、また俯いた。だいたい森野は自分の何が良いというのだろう。なんで好きになってくれたのか全然わからない。何を好まれているのか分からないから、期待に応えられるかも分からない。何より、円香自身が森野に向ける感情は陽太の時に比べると穏やか過ぎて、それが恋だという自信もなかった。好意の一種であるとは思うけれども、例えば森野とキスができるかと自分に問いかけると、何とも不確かな気持ちになる。
良い様な、悪い様な。
「お友達から、お願いしてはいけませんか。」
明らかに既に友人である森野に言うのはおかしいけれど、他に何も思いつかずに円香は苦しい返事を返した。きちんと返事をすべきなのだということは分かっているけれど、どうしても今すぐ答えを出せない。森野は円香の言葉に吹きだして笑った。
「友達から、と言われると先があると期待しますよ。」
鋭い切り返しに円香は「うう」と唸り声を上げた。けれど、この場で断ってしまえない程度に未練があるのは確かなのだ。先があるかと問われれば、ないとは言い切れない。
「ごめん、ごめん。」
森野は笑ったまま、軽く手を上げた。
「はあ、ほんとごめん。ちょっと焦った。うん。もう少しお友達でいよう。待つよ。待つから、同じ気持ちになれたらその時は教えて。」
やっぱり森野は優しすぎる。
「甘やかしすぎ。」
アイスが溶けて甘すぎるソーダを飲みながら円香は眉を寄せた。今、甘やかしてもらわなかったら困ったのは自分の方なのに、甘やかされても困ってしまう。
「だから、甘やかしたいんだって。」
自分も頬と耳を染めながら森野はそう繰り返した。
円香はちらりと森野を睨んだけれど、彼は眼差しまで甘く円香に微笑みかけるので何も言い返せずに黙ってメロンソーダにだけ集中することにした。
その日はそのまま、少し気恥ずかしい気持ちのままで別れ、翌日からもこれまで通りの送り迎えが続いた。森野は少しも急かさない、態度も変わらない。
円香は、やっぱり森野は優しすぎると思った。




