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ロンド  作者: 青砥緑
本編
20/64

怪我の功名-4.

 梅雨の晴れ間のひどく蒸し暑い日。円香はいつも通りに教室で居残っていた。

 窓の傍は眺望の意味では特等席だが、夏の日差しが差してくるようになると非常に暑い。窓を開けてもねっとりとした重たい空気が申し訳程度に揺れるばかりで涼をとることもできない。それでも窓際を離れる気になれなくて、薄いカーテンで日差しをよけながら宿題を続けていた。開け放した窓からはどこかの部活の掛け声が途切れることなく続いている。外周を走るときの掛け声だ。こんなに暑いのに、ずっと走っていて倒れないのかと心配になる。


「八坂さん。向井くんからこれ、言付け。」

 コツコツと申し訳程度に扉を叩く音がして学園祭委員の女子生徒が二名がやってきた。

「ありがとう。」

 相変わらず、委員長と黒江は三人での打ち合わせを避けている。決まったことを伝えるときも自分たちが円香を訪問したのでは意味が無いからと誰かに頼んで資料や伝言を届けてくれていた。その日は、いつも来てくれる書記の生徒ではなかったけれど、いつも通りにお礼を言って受け取る。うん、と言いながらプリントを渡した後も彼女達が立ち去らないので、他に何かあるのかと円香は首を傾げた。

「ええと、他にもあるの?」

 問いかければ、二人は顔を見かわしては一瞬ためらってから口を開いた。

「聞いて良いかな?八坂さん、どうして最近特別扱いなの?」

「ああ。ごめんね。わざわざ教室まで来てもらっちゃって。」

 どうして、こんな扱いなのかは説明のしようがない。階段から突き落とされた話はしないことに決めているのだ。それ以上言い様がなくて口をつぐむと、今度は二人が交互に話し始めた。

「ほら、ミーティング欠席でこうやって結果だけ持ってきてもらったり。案内班の仕事、向井君に手伝ってもらったり。できないんだったら班長辞退した方がいいんじゃない?」

「捻挫だけで教室移動できないから委員会でないのって変じゃない?」

 黙ったままの円香に問いかける。いや、問いかけの形を取りながら彼女を責める。

「ずっと向井君と黒江君とべったりだったと思ったら、怪我したらさぼり出して、まだ贔屓してもらってるのって良くないよ。」

「部活もさ、仮病でずっと休んでるんでしょ?そういう自分だけ甘えるの、やめなよ。」

「皆、ちょっとくらい大変でも頑張ってるのに。」

 次々と言葉を継ぐ二人を円香は座ったまま見上げた。自分達の言葉に酔ってしまったのか二人の眼はどんどん攻撃的になる。このまま言わせておきたくはないけれど、何を言い返しても彼女たちはどうせ聞きもしないだろう。

「特別扱いしてもらって当たり前みたいに思ってないでさ。委員会くらいくればいいじゃん。」

 別にさぼりたくてさぼっているのではない。委員長が必須でない日は円香にだけ連絡をしてこないから、いつどこでミーティングが開催されているのか知らないだけだ。呼ばれた会はちゃんとでている。円香がどんどんと熱を帯びてくる二人の言葉をどうやって止めようかと考えていると、二人の女子生徒の後ろ側から声がかかった。

「あのさあ。ちょっとうるさいんだけど。」

 うんざりした声音で話しかけて来たのは、いつも通り円香と一緒に教室に残っていた森野だ。口を挟まれると思っていなかった二人はぎょっとしたように彼を振り返った。

「それ、向井に頼まれて持ってきたんでしょ?」

 ペンの先で円香の机の上のプリントを指して言う。

「他に大事な用事、あるの?」

 首を傾げて森野が問うと、二人は顔を見合わせて気まずげに頷き合わせた。

「もう、済んだ。」

 つんとして一人が答える。

「ああ、お説教?」

 からかうように森野が答えると彼女は耳まで赤くした。

「な、何よ。」

「何でも?終わったんでしょ。出て行ってくれる?気が散るから。」

 森野はペンをすっと出入り口に向けて出ていけと示す。二人は非常に不満そうに乱暴な足取りで教室を後にして行った。円香を一度も振り返りもせず。


 円香は二人が目の前からいなくなってから、よれたプリントをみて自分が手にひどく汗をかいていたのだと気がついた。ポケットからハンカチを取り出して何度も拭う。心が軋んで、たわんで、思考がまとまらない。もうすっかり汗を拭い終わってからもじっとハンカチを握りしめていた。

 廊下がすっかり静かになってから、森野が、はあ、と一つ息をついた。

「八坂、大丈夫?」

 後ろからかけられた声に円香はびくりと肩を揺らした。優しい声音に涙が湧きあがりそうになって慌てて目を伏せた。俯いたまま無言の円香の背中に向かって森野は続ける。

「なんていうのか、女の子はときどき残酷だね。二人で残ってるっていうのに俺の存在なんてまるで無視だもんな。別に付き合っているんじゃないかと勘繰れとまでは言わないけど、目の前であんなこと言って、俺の心証なんて知ったこっちゃないってことなんだろうね。」

 軽い調子で話し続ける森野の言葉に円香の頭はゆっくり思考を再開した。確かに、彼女たちがやってきた最初の瞬間から円香の席の斜め後ろには森野が座っていた。そして彼女たちは見向きもしなかった。森野はフォローのしようも無いことを言う。まだどこかぼんやりした頭で思いながら円香はようやく振り返った。薄く笑っている森野の表情は、とても冷たく見えた。思わず椅子の背を握る手に力が入る。


 彼でもこんな表情をすることがあるのか。


「俺も、ああいうのを女の子だと思ってみないからお互い様だけどさ。男としてのプライドが傷つくわあ。」

 おどけた様子で目尻を下げると冷たい印象はあっという間にかき消された。見間違いかと彼の顔を見つめるけれど、消された表情は戻らない。森野は自分の方を見ている円香に片眉を上げてみせた。

「で、本当に大丈夫なの?それはどういう意味で微妙な顔してんの?」

「え?いや。私は大丈夫だけど、なんか嫌な思いさせてごめんね。」

 曖昧に微笑んで告げると、森野はふうとため息をついた。

「八坂は嫌な思いをさせられた側でしょ。なんで謝るの。」

「それはそうだけど、森野は完全にとばっちりだったから。」

 一緒にいなければ聞く必要もなかった胸の悪くなる暴言。悪意の籠った言葉。自分のせいではないことは分かっているけれど、なんとなく申し訳なくなる。

「あのね。俺がとばっちりって、お前にはあんなこと言われる正当な理由でもあるの。」

 あるわけないだろう、と言外に断定しながら森野は立ち上がって円香の前に立つと、じろりと彼女を見下ろす。

「ないけど。」

「じゃあ、謝らないの。」

 人差し指で額を押される。ぐらりとゆれた頭を戻して髪を整えながら頷くと、彼は満足げに頷いた。

「完全にやる気が失せた。今日は寄り道して帰ろうよ。」

 あっさり通常運転に戻った森野は聞いた端から自分のノートや参考書を閉じ始めている。確かに、今日はもうこれ以上教室にいる気になれない。

「うん。」

 松葉杖生活が始まってから大袈裟ではなく毎日、森野は送り迎えをしてくれている。一緒に帰るのももうだいぶ慣れて来た。

「どこに寄ろうか。」

 言いながら手際よく立ち上がったあとの円香の椅子を机の下にしまってくれる。

「今日はもううちの生徒の制服見たくないな。」

 森野はそう言って、同意を求めるように円香を振り返る。円香が曖昧に頷くと、彼は「だよねえ」と言いながら歩きだした。

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