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ロンド  作者: 青砥緑
本編
19/64

怪我の功名-3.

 ゆっくりと始まった学園祭の準備も夏に向かって熱気を帯びて行く。夏休みまで残り一カ月に迫った学校の中で、学園祭の準備はピッチを上げて進められていた。期末試験が近いと言うのに円香は連日学校に居残って印刷の交渉だ、なんだと準備作業に明け暮れている。

 先日の階段の事件以来、黒江と委員長と三人での打ち合わせは無くなった。他の役付きの委員が一緒か、あるいは黒江と委員長だけで打ち合わせをしてから結果のお知らせが来る。その理由を円香は委員長から知らされた。その連絡さえも直接の会話ではなく、念のためにと交換したものの使っていなかったメールアドレスに届けられた。


「階段の上で八坂さんを押した子にはたっぷり反省してもらいました。もうしないって約束してくれたからたぶん大丈夫だと思うけど、しばらくは背後注意してね。こんな事態になったのも俺達のせいもあると思うから、これから呼び出しは控えます。頼りにしてたから本当はきついけど。。。必要なことはちゃんと連絡が行くようにするから、心配しないで。お大事に。ちなみにそっちから声をかけてくれるのは全然OKだから、待ってまーす。」


 そのメールによって、自分が故意に階段から突き落とされ、それが委員長か黒江に関する嫉妬だったことも確定的になった。そのこと自体に僅かに落ち込む気持ちはある。しかし、それと同時に委員長から自分への配慮に救われた。黒江も委員会で顔を合わせた時には気遣わしそうに捻挫の程度などを聞いてくる。心配してくれている。だからこそ、離れていてくれるのだということも伝わってきた。


 皆、優しいなあ。


 昨年来、人から悪意をぶつけられ続けている円香にとって、様々な形で次々と差し出される優しさは時に泣きだしたくなるほど温かいものだった。


 黒江、委員長と顔を合わす機会は減らされたものの、自分の班の仕事はそのまま続けている。忙しくなれば今度は自然と陽太と顔を合わせる機会が増える。以前ならば、それは甘く苦しい出来事で、会いたいけれど会いたくないなんて絵にかいたような乙女心を一日中引きずったことだろう。ところが最近の円香には完璧に自分をエスコートしてくれる森野の過ぎて感じる優しさだったり、遠くから確実に自分のためを思ってくれる委員長の思いがけない細やかな気配りだったり、辺りの視線を気にするように早口で怪我や身の回りの様子を聞いてくれる黒江の意外に不器用な心遣いだったりと気にかけるべきことがすっかり増えてしまった。陽太の顔を見れば、未だに落ち着かない気持ちになったけれど、それを家に帰るまで引きずるようなことはもうない。まるであの階段の事件がショック療法だったようだ。こういうことを怪我の功名というのかもしれない。



 授業が無い時間帯は空調も切れている部屋が多くとにかく暑い。同じ暑いのでもグランドで運動して汗をかくのは爽快なのに、どうして教室でノートに汗がこぼれるとこうも不愉快なのだろう。教室でパンフレットなどの印刷物の初稿を確認しながら円香は伸びかけの髪を乱暴にかきあげる。汗ですっかり湿ってしまった襟足が気持ち悪い。


「おーす。お疲れ。」

 がらりと扉を開けて入ってきたのは陽太だ。今は試験期間前で部活が禁止になっている。この時期を狙って普段は手伝ってもらえないメンバーにまで招集をかけていた。さすがに千部を超えるパンフレットに訂正文を挟みこむ作業をするには人手がいる。

「お疲れ。」

 最近では彼と交わす言葉はほとんどこればかりだ。しかし今日は図らずも二人きりで、円香は分かりやすく松葉杖をついている。当然陽太はそれについて訊いてきた。

「どうしたの、それ。捻挫?骨折?」

「捻挫。」

「また復帰が伸びるな。」

 いずれにせよ復帰の予定がない円香はその言葉には何とも返せず、曖昧に笑って見せた。違う話題をと少し考えれば梅雨明けはまだだというのに既に真黒に焼けている陽太の肌に目が行く。

「もうずいぶん黒いね。」

 素直に感想を述べると、陽太は自分の腕を見下ろして笑った。

「これでも日焼け止め塗ってんだぜ?」

 そんなものは練習が始まればあっという間に汗で皆流れてしまう。円香も去年までに経験済みだ。去年とは見違えるように白い自分の腕を見下ろした。その視線につられるように陽太の視線も円香の腕に向かう。

「円香は白いな。」

 腕を差し出されて並べてみれば冗談のように色が違った。色だけでなく長さも太さも違う腕。円香にはその差が今の自分と陽太の距離を示しているように思えた。その違いを冷静に受け止められる自分に僅かに満足感を覚えた。まだ少し心が痛む気がするのは陽太を想うからではなくて、ただ恋の終りを惜しんでいるからだろう。いつの間にか円香は人を好きになって知った自分の感傷的で乙女チックな部分を否定せずに受け止められるようになっていた。

「お前さあ。」

 それぞれになんとなく腕を下ろした後で陽太が躊躇いがちに口を開いた。

「本当は、もう部活に戻って来ないつもりなの?」

 いつもの彼にしたら小さな声で問いかけられる。質問を聞いて、ようやく円香はこれが自分の実質的な退部以来、初めて二人きりで話す機会なのだと気がついた。もう丸々一学期休んでいる。今は分かりやすく捻挫しているが、それ以前は普通に体育の授業も受けていた。怪我で休部など嘘だとすぐに知れそうなものだ。きっと陽太も気がついていたのだろう。それを今日まですれ違っても問わないでいてくれた。むしろ、放っておかれたと思うべきなのかもしれないけれど。

「そう、かもね。」

 円香は曖昧に笑って答えた。その顔を見て、陽太は眉を下げてなんとも情けない表情を浮かべた。彼だって、もうきっと知っているだろう。円香が部活を辞めなければならなかった理由に自分が関わっていることくらい。どんなに陽太が円香をチームメイトとして大事に思っていても、それだけでは円香を守ることはできなかったことも分かっているはずだ。

「俺が言うのおかしいかもしれないけど、ごめん。」

 陽太は小さく頭を下げる。

 その言葉に円香は違和感を覚えた。自分が言うのはおかしい、というからには本当は自分が悪いとは思っていないということだ。けれど謝るのだから何か責任を感じてもいる。つまり、それは円香が部活を辞めた原因を知っていて、自分が手を下したのではないけれど、決して無関係ではなかったと知っているからこその言葉ではないのだろうか。違和感の原因に思い当たるのと同時に急にどきどきと煩い程に心臓が強く打ち始める。

「どうして謝るの。」

 問い返した声が震えていないことを自分で意外に思う。

「わかんないけど。でも、円香、本当に走るの好きだったろ。部活、好きだったろ。」

 陽太は迷子みたいに子供みたいに不安げな顔をする。

 彼が自分の方を向いてくれたら。せめて、柏木に下手な嫌がらせは止めろとしっかり言ってくれたら。同じクラスで円香がどんどん孤立していくときに、もっと積極的に守ってくれたら。半年前には思いもつかなかった陽太を責める言葉が次々と胸に湧いてくる。本質的に陽太が悪いわけではない。彼を好きなったのは円香と柏木の勝手で、同じくらい勝手に陽太が柏木を選んだだけのことだ。そのくらい分かってる。けれど、さきほど謝ってくれた彼の言葉にはそれ以上の意味があったはずだ。円香が一番助けて欲しかった時に見て見ぬふりをしていたこと。本当は円香の近くで何が起きていたか知っていたのに、円香を庇って、柏木との関係がおかしくなることを恐れたこと。そのために、円香を見殺しにしたこと。その懺悔の「ごめん」ではないのか。そうならば、今になって円香に良い顔しようとしないで欲しかった。謝って自分だけ気を済ませようなんてしないで欲しかった。

 

 今、彼の言葉を受けいれたら、自分は何を許すことになるのだろう。柏木のことだろうか。見て見ぬふりをしていた陽太のことだろうか。


 円香は何とか自分の怒りを鎮めようと違う解釈を考える。けれど今、きちんと円香を思って守ってくれる人達がいるから余計にはっきり分かってしまう。去年の陽太は彼らのようには自分を守ってくれなかった。庇ってくれたこともあったけれど、目の前で起きることに対処しただけで本当に悪意から彼女を守ろうと考えてくれていた訳ではなかった。それが分かった今になって聞く謝罪の言葉は、まるで確信犯で自分を見殺しにされていたように聞こえた。胸に湧きあがる不快な熱に任せて、これ以上余計なことを口にしたらいけないと円香はぎゅっと手を握りしめて喉を鳴らす。今更、陽太を責めて何になるだろう。

「走るだけなら、どこでも走れるよ。」

 だから心配しないで。そう続けるつもりだった言葉は口から出て行く寸前にするりと入れ替わった。抑えきれない苛立ちと悲しみが円香の言葉から上辺だけの優しさを剥がしとる。

「今更、謝ったりしないで。」

 円香の口から零れ落ちた冷たい響きに陽太はぱっと顔を上げたが、円香は目を逸らした。どんな感情が彼の瞳に浮かんでいるか見たくなかった。悲しんでいたら、腹が立つ。哀れまれていたら、許せない。後悔していたら、もっと詰ってしまう。円香はただ目を伏せて続けた。

「大丈夫だよ。」

 あなたが私を見殺しにしていることに私も気がついていたのかもしれない。それでもどうしても憧れて、嫌いになれなくて、長いこと自分で自分を騙してきたのかもしれない。だとしたら二人とも同罪だ。


「ありがとう。」


 あなたの狡さや弱さを見せてくれてありがとう。これで僅かに残っていた恋を惜しむ気持ちともお別れできそうな気がする。


 改めて笑って顔を上げると、陽太は何か言いかけていた口を閉ざしてそれ以上言わなかった。

 円香はやりかけていた作業に戻り、陽太はせっかく手伝いにきたというのに何もしないまま教室を出て行った。

 顔でも洗ったのかしばらく後にTシャツの胸を酷く濡らした彼が戻って来た時には他の委員もやってきていて、二人は直接話すことはなかった。

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