怪我の功名-2.
夜、それぞれに仕事から帰宅した円香の両親は急に松葉杖をついている娘の姿に驚いた。当然、何があったのか聞かれたけれど円香は人を避けようとしてバランスを崩したのだと答えた。家族にも人に背を押されたとは言えなかった。それは弱みを晒さないためというよりも、余計な心配をかけたくないという思いが強い。円香は大好きだった陸上を辞めた理由も親にきちんと説明できておらず、それだけれでも心配されているのを感じているのに、階段から突き落とされたなんて言ったら母は仕事を辞めてしまいそうだ。
母は翌日から会社に向かう前に駅まで車で送り迎えしてくれると言った。ただでさえ、仕事と家事の両立で忙しそうな母に負担を増やすようで申し訳ない。
「自分で駅までくらい歩けるよ。」
そう言ってはみたものの、母は取りあわなかった。こんなときくらい甘えなさい、とか、なんなら学校まで送ってもいいのよ、などと言いながら強引に話を決めてしまう。助かるのは事実なので素直に礼を言えば、母は優しい顔で笑った。
翌朝、母親に駅まで車で送ってもらいながら円香は助手席でうつらうつらとしていた。夜中、何度も階段から落ちる夢を見て目を覚ましてしまった。おかげで目の下にはうっすらクマができてしまっていたし、体もぐったりしている。親に心配をかけるとか、森野を駅で待ちぼうけさせられないとか思わなければ学校を休んでしまいたいくらいだ。車が止まり、あくびを噛み殺しながら母に礼を言う。
「気をつけて行ってくるのよ。時間には余裕があるんだからゆっくりね。」
軽く手を振って車を見送り、本当に森野は迎えに来ているのだろうかと半信半疑の気持ちで改札へ向かった。大きな駅ではないが、朝のラッシュ時はさすがに人でごったがえす。いつもはコマーシャルで言われる通りにスイスイ進める改札も松葉杖があると、途端に不便なものになった。一度足を止めて、ピッという音を確認してから定期をポケットにしまって歩き出す。自分をすんでのところで避けながら追い抜いて行く人にぶつかられそうで緊張が耐えない。すい、と背中から人が自分を追い越して行くたびに、昨日の記憶がよみがえって手に嫌な汗をかいた。ドン、とぶつかられれば、そのままぐらりと揺れた学校の天井が蘇る。なんとか人の少ない通路の隅の方へ抜けだして大きく息をついたところで声をかけられた。
「おはよう。」
顔をあげると、予告通りに森野がにこにこと笑っていた。
「お、おはよ。」
本当に来たのかと改めて驚く気持ちと、今までの雑踏の中で抱えていた不安が薄らいでいく気持ちが同時にこみ上げて、円香は間の抜けた顔をしてしまう。
「行こうか?」
彼が促すままに頷いて歩き出す。先ほどに比べれば格段に歩きやすくなって、自分を壁際においてなるべく人とすれ違わないようにしてくれている彼の配慮に気がついた。
「森野。」
ホームへ向かうエスカレーターで自分の前に立っている森野に声をかける。1段分の段差のおかげで今は円香の方が僅かに視線が高い。
「ありがとね。」
振り返った森野にそう言うと、彼はにこっと笑った。
「来た甲斐あったでしょ。」
そう言われれば、頷くしかない。松葉杖の不便さもさることながら、人混みで背中から誰かにぶつかられることがこんなに怖くなっているなんて昨日は思いもしなかったのだ。
そこまで、彼は分かっていたんだろうか。
まじまじと見つめ返していると森野の顔からは笑顔が抜けてじっと円香を見返してくる。しかし、どちらかが何かを言うより早く降り口に近づいて彼はふいと目を逸らした。そのまま、電車に乗ってみれば森野は円香を人から守るように壁際に立たせてくれる。吊革につかまれない彼女がふらつくほど電車が揺れれば、その肩を支えてくれた。何気ない会話をしながらも、森野は円香の半歩先を考えて彼女のために手を差し出してくれた。バスの乗降も今度はパスを森野が代わりに持ってくれたので、あまりまごまごしないで済んだ。学校についてげた箱で靴を履き替える間、転ばないように肘を支えてもらった。
「本当に助かった。」
やっと教室に辿りついて席についてから机に額をこすりつけるようにしてお礼を言うと、森野は相変わらずの笑顔で「だから言ったでしょ。」と繰り返した。
「しばらくは付きまとうからね。」
冗談めかして笑うと森野はくるりと円香に背を向ける。押しつけがましくない優しさに円香は無言でもう一度感謝した。
黒江のお姫様抱っこ事件は比較的目撃者が少なかったせいかゆっくりと広まったようだった。とはいえ学校の有名人のことであるので休み時間毎に昨日のドラマのストーリーを語るのと同じ調子で生徒の口に登って、段々と広まっていったけれど抱えられて行ったという相手のことは「通りすがりの不運かつ幸運な生徒」くらいの扱いで話の中心は常に黒江だった。円香はそのことに安堵する。昨日から胸の中にずっと重苦しい緊張があった。平気な振りをしても、どこから悪意を投げつけられるか分からない環境に戻ってしまうかという怖れは頭から離れなかった。もちろん、何回同じことがあっても、加奈は変わらないでいてくれると信じていたし、森野も変わらないだろうと思ったけれど、それでもやはり嫌なものは嫌で、怖いものは怖い。
大事にならないで良かった。無責任に「黒江、マジ王子。高校生でお姫様抱っことかありえねーだろ。」なんて笑っている同級生の声に円香は肩の力を抜いた。
「円香、次いこ。」
移動教室のために円香が机の上に用意した教科書の上に自分の教科書を重ねて、加奈はさっさと二人分の教科書と筆記道具を抱え上げる。
「あ、ありがと。」
立ち上がって廊下を歩いても、誰も円香に特別注目する様子はない。そこここで黒江の噂は流れるのにそれと、目の前の松葉杖が結びついてはいないようだ。
「良かったね。」
ほっとしている円香に向かって加奈が微笑む。きっと同じことを考えていてくれたのだろう。
「うん。黒江君、王子様キャラ似合うからそっちに皆の目がいっちゃったみたいね。」
「そうね。」
黒江君には悪いけれど、と二人はくすくすと笑いをこぼした。