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ロンド  作者: 青砥緑
本編
17/64

怪我の功名-1.

 病院での診察は滞りなく済み、足首の捻挫の他に膝の打撲と診断された。捻挫の程度が悪いので当面は松葉杖を使うようにと指示される。

「骨は大丈夫だけどねえ、靭帯とかは大事にしないと繰り返すからね。本当に無理しちゃダメだよ。」

 高齢の医者はにこにこしながら、松葉杖の言葉に一瞬顔を顰めた円香に釘を刺した。

「特に膝は長引かせると良いことないからね。」

 それは運動部にいる人間なら誰でも知っていることだろう。腰や膝。重要な関節をこじらせて良いことはない。円香は病院の松葉杖を借りて診察室から受付へ戻った。あとは支払いを済ませて湿布でももらえばおしまいだ。


 使いなれない杖に苦戦しながらソファに腰を下ろすと真っ直ぐに自分に向かってくる人物が目に入った。思いがけないその人に目を瞬かせる。

「どうしたの?」

 円香が問いかけると、森野は苦笑いを浮かべた。

「それは、こっちの台詞。向井が教室に来て八坂が階段から落っこちたっていうから。心配になってきちゃったじゃない。」

 校内で怪我人が出た場合に担ぎこまれる病院は決まっている。きっとここだと当たりをつけて来たのだろう。その行動力を意外に感じてしばらくぼけっと彼の姿をみつめてしまう。小首を傾げられて我に返る。

「ご心配をおかけして。ごめんなさい。不注意でした。」

 円香が素直に謝ると、森野はため息をつきながら彼女の隣に腰かけた。

「不注意、ねえ?」

 眼鏡の奥で一重の細い目が更に眇められる。

「向井曰く、単純な不注意ではないみたいだったけど?」

 森野の言葉に円香はぞくりとしながら眉間に皺を寄せた。

「どういうこと?」

 緊張して問い返せば飄々としたところのある学級委員は「怖い顔しないでよ」と笑う。

「敢えて言うなら、前方不注意じゃなくて、後方不注意。誰かにぶつかったかなんか、しなかった?」

 森野の言葉に円香は彼の優しさを感じた。きちんと、円香に逃げ道を残してくれている。先程の様子では黒江は黙っていてくれるように感じたけれど、向井曰く、と森野が言ったということは、委員長も黒江と同じ景色を見たということだ。二人がそう言うのなら、きっと、あれは故意だったのだ。誰かの悪意が円香を階段から突き落とした。

 それでも、円香は認めたくなかった。

「見間違え、じゃないかな。確かに人を避けようとはしたけど、それでバランスを崩して自分で転んだだけだし。」

 円香がそう返すのを、森野はじっと彼女の目を見て聞いていた。瞳の中で円香は謝る。心配してくれているのに素直に本当のことを話せない自分を。森野の瞳は静かにその謝罪を受け止めた。

「そう。怖かったね。」

 森野はそれだけ答えて薄く微笑んだ。その言葉に円香は隠していたものが暴かれそうになって顔を俯けた。

 そうだ、怖かった。怖かったに決まっている。誰かに階段から突き落とされた。その人物は無様に転げ落ちた自分をどんな目で見下ろしていただろう。黒江に抱えられていた自分をどう思っただろうか。同じことはまたあるのだろうか。もっとひどいことは?そんなことを考え出せばきりがない。でも、円香は知っている。自分が怯えれば、自分を突き落とした相手が喜ぶことを。だから怖くても絶対に誰にもそんな様子を見せたくない。卑怯な脅しになど負けたくない。あれは事故で、円香はちっとも傷ついてなどいない。そう装っていたかった。もちろん、森野は自分を突き落とした生徒ではない。それでも彼にも怯えた様子を見せたくなかった。自分を心配してくれる相手に嘘をつくなんて不誠実だと思うけれど、一つでも口にしてしまえば、それは円香の手を離れてどこに伝わっていくか分からないものだ。

 自分が誰かに押されたことを知っていて疑っていないような言葉を口にしながらも、森野は円香の言葉を否定もしなかった。それ以上、問い詰めもしない。円香が自分のためについた嘘を許してくれるのだと思うと申し訳なくなる。

「ありがと。」

 二つの意味を持たせてそういうと森野は小さく首を横に振った。

「それで?足は?」

 話を切り替えるように指で包帯が思い切り巻かれた足を示される。

「捻挫だった。骨は大丈夫だって。」

 まだ少し落ち着かない気持ちのままに無理に笑って見せれば、森野はそれに気づかないように「最悪の事態は免れたってところか」と綺麗に微笑み返してきた。

「でも、しばらく松葉杖だけど。」

 円香は椅子の脇に立て掛けたままの杖を示す。

「松葉杖?」

「うん。膝も打っちゃったから痛くて。しばらく杖なしで歩けないかな。」

 そうか、と一つ頷いたきり森野は慰めを言わなかった。僅かな沈黙を看護師が患者を呼ぶ声がよぎっていく。

 静かになると、円香の意識はズキズキと主張する足首と膝に引き寄せられる。部活を辞めてから大事にしていなかったくせに、傷つけばもう走れないのではないかとひどく不安になった。

「嘘、ついた罰があたったかなあ。」

 円香が吐息に乗せるように呟くと、ようやく森野が口を開いた。

「嘘?」

「うん、足を痛めたから部活辞めますって。」

 その休部理由が嘘だと言うことは明らかだと分かっていても、誰にも口に出して言ったことはなかったのに、現実に足を痛めて初めて口をついて出た。昨年は知り合いでもなかった森野に聞かれても何のことか分からないかもしれないという僅かな期待もあった。何か知っていても、彼なら聞き流してくれるような気もした。

 しかし、森野は静かにこう答えた。

「それは嘘じゃないでしょ。」

 静かだけれど何もかも知っているかのように揺るぎない自信を持って。

「嘘だよ。」

 なぜか頑なに円香は、それは嘘だったのだと繰り返した。森野は首を横に振って円香の言葉を否定する。

「走れなくなったのは嘘じゃないんじゃないの。足は元気だったかもしれないけどさ。」

 彼はどこまでを知っているのだろう。去年流された噂はクラスだけに留まっていなかった。森野くらい敏ければ、何が起きていたのか円香自身と知り合う前に分かっていたのかもしれない。同じクラスになってから加奈から何か聞いたのかもしれない。思い返せば彼は知り合って間もない頃から円香を悪意から守ろうとしてくれていた。

「走れた、よ。」

 円香が小さな声で反論すると「本当に?」と聞き返された。目を逸らし、俯いたまま頷いて見せれば森野はそれ以上聞かなかった。自分の足元を見つめたまま顔を上げられない円香に少し高い位置から声がかけられる。

「とりあえず、しばらく送り迎えがいるだろうね。家、どこだっけ?」

 話題の転換は森野の得意技だ。いつものように軽い調子で尋ねられて円香はほっとして顔を上げた。

「聞いてどうするの?」

 答えは分かっているようなものだが、信じられない気もする。クラスメイトとして自分達は仲が良い部類だ。でも、互いの家を訪ねたり、休日にわざわざ会ったりするほどの仲ではない。

「明日の朝、迎えに行くよ。」

 あっさりと返してくる森野を見上げて、思わず首をかしげてしまう。森野の家はどこだと言っていただろう。どう考えても遠回りになるのに。そうしてもらうほどの仲だとは思えないのに。それに松葉杖があれば歩けるのだから、通学カバンをリュックにすれば一人で問題ない。

「いいのに。」

 円香がそう返しても、森野は聞かなかった。

「まあ、見てなさいな。」

 少し強引に円香の最寄り駅を聞きだすと、明日は改札の中で待っているからと言って彼は立ち上がる。

「帰り、先生が送ってくれるんでしょ?俺は乗せてもらう理由が無いから今日は帰るよ。また、明日。お大事に。」

 送り迎えをすると言いながら、今日はあっさり帰ると言う。相変わらず掴みきれない彼の言動に戸惑いながら、円香はいつもの癖で彼に手を振って別れを告げた。


 去り際の二人を目撃したらしい養護教諭に彼氏が来てくれてたなら一緒に送ってあげたのに、と言われて円香は何ともいえない表情を浮かべることしかできなかった。ただのクラスメイトでお友達のはずだけれど、普通はそんな人が病院まで駆けつけてくれるはずはなく、言う前から説得力が無いと自分で分かってしまったからだ。養護教諭は円香が照れたものと思ったらしく「彼氏は私を見た途端に帰っちゃうし、シャイなカップルね」と笑った。

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