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ロンド  作者: 青砥緑
本編
15/64

反転-7.

 保健室につくと、黒江は約束通り円香をベッドに下ろした。養護教諭は女子生徒を抱えながら足で扉を開いて入ってきた黒江に少々驚いたようだが、黒江が「階段から落ちた」と簡潔に事情を説明すると、すぐに円香の診察を始めてくれた。

 黒江が階段から落ちた理由の部分を口にしないでくれたのは幸いだった。彼が円香のすぐ後ろを歩いていたのだとすれば、円香が階段から落ちる瞬間、ぐらりと揺れた背中の後ろに誰かの手を、そしてその持ち主を、はっきりと見ていたはずだった。

 あのとき、確かに背後に誰か来たと思った。避けないとぶつかると思って一歩横へずれた。その肩のあたりを、ドンと人に突かれた感触があった。もし自分が一歩も動かなかったらあの腕は自分の顔の脇を掠めるだけで、自分はひやっとするだけで済んだのかもしれない。あるいは、もっと背中の真ん中を容赦なく押されていて顔面から墜落し、鼻の骨くらい折れていたかもしれない。それは押した側ではない円香には分からないことだ。だからこそ、あの腕がどれほどの悪意で自分を押したのか、はたまた何かの不幸な偶然だったのかわからないなら、不幸な偶然ということにしておきたかった。

 黒江が黙っているのをいいことに養護教諭には階段の上で眩暈を起こして足を滑らせたと説明した。横に立ったまま難しい顔をしている黒江にも同じ話を信じて欲しいと思いながら。


 手早く用意されたタオルの山の上に足を載せて氷で冷やす。捻挫の治療は運動部にいれば何度も見かけるし、自分も行ったことがある。大人しく言うなりになっているとガラリと保健室の扉があいた。

「八坂さーん、大丈夫?」

 委員長は扉の真ん前にいた黒江を見て、それからぱっと円香を振り返った。焦ったような表情が、次第に弛緩していく。委員長の表情の変化が気になって、円香が黒江の方をうかがうと彼の表情はかなり険しかった。あれを先に見たら、骨折か、頭でも強打したかと心配にもなるだろう。円香がけろりとしているのを見て拍子抜けするのも納得だ。そう思いながら円香は小さく息をつく。


 黒江君には、私が押されたように見えたんだろうな。


 そうでなければ、あの表情は説明がつかない。それから円香を強引に抱えあげて保健室まで連れてきたことも。彼はこのまま黙っていてくれるだろうか。余計なことをしないでいてくれるだろうか。もしも黒江が円香を庇うような言動を続ければ、事態が悪化するのは確実だ。

 どう話を持って行くべきなのか。円香が顰め面になったのを痛みの為と勘違いした委員長が心配そうに声をかけてくる。ほったらかしにしていたことを思い出して、慌てて彼に顔を向けた。

「うん、大丈夫。たぶんただの捻挫。それより、荷物ごめんね。ありがとう。」

 階段にぶちまけてしまったノートやペンを全て拾ってくれたらしい委員長に礼を言うと、彼はにかっと笑った。

「あ、いや。全然いいよ。このくらい。大変だったね。」

「うん、うっかりした。」

 何とか笑って誤魔化そうとしてみると、目の前の委員長は眉を寄せながら片眉尻を跳ね上げる難しい表情を作って円香を見下ろした。それから彼の視線は無言を貫く黒江に向かう。黒江は相変わらずの険しい表情でじっと円香を見つめている。


 違うだろう。


 そう言われているような気がした。円香はぎこちなく彼から目を逸らした。

「ふうん?」

 委員長の声は、円香の言い分を疑っているのがありありと分かるものだったが、ちょうどいいところで養護教諭が声をあげてくれた。

「よし、応急処置おしまい。このまま病院に行きましょう。私もただの捻挫だと思うけど、念のためにレントゲンも撮ってもらった方がいいわ。向井君、それで彼女の荷物全部なの?」

「いや、この鞄は黒江のです。」

「私の荷物、まだ更衣室に置きっぱなしだから。」

 つまり委員長も黒江も取って来られない。養護教諭は腰に手をあてて二人を見た。

「誰か、彼女のクラスの子に制服と鞄とって来てもらってくれる?」

「はい。」

 委員長はぽんと黒江の肩を叩いて、軽い足取りで保健室を出て行った。円香が礼を言う暇もない。

「先生、ちょっと職員室に行って支度してくるから。八坂さんは横になって足上げて、そうそうこのポーズのまま待ってて。あなた、留守番お願いね。」

 てきぱきと指示すると養護教諭もパタパタとスリッパを鳴らして出て行ってしまう。足を固定してベッドに横たわった円香と、少し離れて立ったままの黒江が所在無げに残された。

 円香は話すなら、今しかないと思った。


「黒江君、ごめんね。なんか巻きこんじゃって。」

「巻き込まれたんじゃない。知り合いが目の前で階段から落ちたんだ。普通、放っておかないだろう。」

 黒江は不機嫌顔のまま、いつもより余程乱暴な口調で言う。怒っているのだ。そのことを円香は意外に感じた。彼が怒るべき理由がない。

「まあ、そうか。ご迷惑をおかけしました。」

 とりあえず謝罪すると、黒江は不機嫌な顔のまま、少し目を逸らした。

「八坂、お前。もしかして、こういうこと初めてじゃないのか?」

 言いにくそうに口にされた問いは言葉足らずのものだったが、円香には十分通じた。こういう、階段から突き落とされるようなこと。たぶん彼はそう言いたいのだ。でも、円香はその問い自体を認めたくなかった。だからわざと誤解した振りをした。

「足を滑らせて階段から落ちるなんて、年中やるほど間抜けじゃないつもりなんだけど。ほんと、うっかり。」

 笑顔は下手くそなものだっただろう。黒江の眉間にぐっと力が入った。怒気を感じた円香はシーツの中に隠した手をきゅっと握った。

「お前。」

 黒江は睨むように円香を見つめる。そのまましばらく彼は黙っていた。怒っている顔は、見様によっては悲しんでいるようにも見える。

「とにかく。無理、するなよ。」

 目を伏せて黒江が続けた言葉は、告発ではなかった。円香は彼に感謝する。黒江が何を見たのかはしらない。けれど彼は円香の言葉を真実にしてくれるつもりのようだった。

「うん。ありがとう。」

 今度は心から笑えた気がした。

 今日、あの階段の上で起きたことは事件ではなく事故になる。それで良かった。それならば、円香は可哀想な被害者にならずに済む。

 その後、二人は黙って養護教諭と委員長が帰ってくるのを待った。



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