実験I.先生との接触1
月も七 月から八 月に変わったが、ラ・コスタに起こされ、朝食、勉強、昼食、自習、ルニエが帰ってきて夕食というサイクルはここ数日続いていた。俺の名前は彼が自分でつけたくせに、長いからといって、あっという間に短く『サーフ』と呼ばれるようになっていた。
八月四日の土曜日、俺はまた揺り動かされて嫌々ながら目を開ける。しかし、目の前にいるのが彼でないことを知り、飛び起きずにはいられなかった。
「おはよう、サーフ」
「お……おはよう……ルニエ」
何故彼女がそこにいるのか判らず、内心かなり焦りながら、おずおずと彼女を見つめる。彼女はいつもと違う赤い唇をしていて、そのせいなのか、いつもより随分と大人びて見えるようだ。
「朝食ができたから、食べにきてね」
「うん……」
部屋から出ていく彼女の背中を見送り、時計を見たら七時過ぎだった。そのときの様子がまるで悪戯の成功したラ・コスタさながらの機嫌良さだったので、まさか同じように悪戯をされているのではあるまいか、と不安な気持ちで洗面台で顔を洗う。
起こしにきたのが何故、彼でなかったのか考えてみる。冷たい水で記憶を洗い直してみると、たしか彼は『今日も明日も明後日も明々後日もその次の日も、僕と二人っきりで勉強しよう』と言っていたから、七月三十日の次の次の次の次の日に当たる昨日までで、その期間は終わりなのだ。
なら今日は、もう勉強しなくて良いのか? それとも代わりにルニエが勉強を教えてくれるのだろうか。
着替えてダイネットへ行くと、ルニエがコフィを飲んでいた。テイブルの上を見たら、彼女の前にはサンドウィッジが数切れ載せられており、俺はやたらとサンドウィッジが積まれている自分の席に着く。
彼女はにっこり微笑んで「いっぱい食べてね」と言ったが、朝からこんなに食べられるだろうか……。
三角のサンドウィッジは二個に一個くらい、涙が滲むほど妙に辛いやつが混ざっていた。ときおりルニエを見ると、彼女は両手でカップをかかえ、夢を見るようにぼんやりしている。何となく話しかけにくい雰囲気だ。
一切れの大きさが小さかったためか、いつもより多めの食事を何とか食べ切ることはできたが、それにしても今日の彼女はどこかおかしい。
「これも食べる?」
空っぽになった皿を見て、彼女が自分の皿を少し持ち上げて見せる。さすがにもう無理なので、黙って首を振った。すると彼女は渋々(本当にそんな顔だった)食べ始める。
考えてみれば、ラ・コスタとは相変わらず中途半端な間柄のままで、ソシッジとブレッドが樹になっている、と騙された事件の真相がルニエが卵草、――というかナスを買ってきたその翌日に明らかとなったいまでは、どちらかというとマイナス側に進展……いや悪化していたが、彼女とは割合仲良くやっていけていると思っていた。
でもそれは、彼女と過ごす時間が少なかったから、勝手にそう思い込んでいただけかもしれない。
「今日は仕事ないのか?」
「土日は基本的にお休みなの」
仕事の話はまずかったかな……? 以前、仕事を尋ねたときに訪れた気まずい雰囲気を思い出す。今回はまずそうな気配は見えなかったものの、早々に話題を変えておくべきかもしれない。
「今日はあいつ、静かだな」代わりに、気になっていたことを尋ねた。朝っぱらからあの、不必要に疲れる彼のちょっかいがないのは、嬉しく思いながらも肩透かしを喰らう。
「だって、出かけているもの……」ようやく彼女は俺を見る。「ねえ……、サーフは彼のことが嫌い?」
「な……、何で?」
ルニエが気に病むほど露骨な態度を取ってしまっているのか、と少し後悔する。もしかすると彼女は、そのせいで落ち込んでいるのかも。
「……だって、名前で呼ばないでしょう?」
鋭い指摘にドキッとさせられる。最初の数日は確かに名前なんかで呼んでやるか、と反感を持っていたにほかならないが、いまは勉強も教えてもらっているし、名前くらい別に呼んでも構わない。実際、何度か本人に呼んだことはある。だから俺がいまラ・コスタを名前で呼ばないのは、別の、子どもじみた理由からだった。
「それは……あいつが、自分のこと『ラ・コスタ』じゃなくて『先生』と呼べって言うから……」
彼女がくすっと笑う。
「ふふ、彼らしい……。『先生』って呼ばれたり、眼鏡をかけていたりすると、格好良く見えると思っているのよ。変なところで子どもっぽいのだから。だからサーフは、呼んであげないの?」
「嫌だよ……絶対」
話題がラ・コスタなせいか、彼女はニコニコしている。本人がいないのに、こういう効果が現れるのはすごいが、本音を言うと彼がいないときくらい彼の話題から離れたかった。
「今日、勉強は?」
「そうね、カードゲイムでもする?」
「えっ? 勉強じゃなくて? 今日は、なにか特別な日なのか?」
彼女は微笑む。「そうよ。今日は満月だもの」
満月?
ふっと、頭の後ろの方に光が差す。太陽の光ではない、それは月明かりだ。
運悪く夜中に目を覚ましたとき、空の真ん中にぽっかりと黄色い月が浮かんでいたときのことを思い出した。それからは月を見付けると眺めたが、彼女は俺が見ることにストレスを感じたのだろうか、日に日に痩せ細り、なかなか顔を出さなくなり、ついには消えてしまったのだ。
ショックだった。
その日以来、俺は月を探すのを止める。すると、あるときまた元気になった彼女を偶然に見かけた。しかし今度は、それ以上、彼女を悩まさないように、さよならを言うことにしたのだ。
月が満ち欠けすることを知らず、そんな思い込みをしていたことを思い出した。今日の彼女がその丸い月なら、なるほど特別な日なのかもしれない。
「初めてでしょう? カードで遊ぶのは……」
「ああ……うん」
食器を片付けてカードを取ってきたらしいルニエに、まだ考え事から抜け出せてない変な返事をする。彼女はカードを両手で上下と真ん中の二つに分けることを繰り返していた。
「カードの種類とかは知っているのよね? とりあえず、一番簡単なのはオウルドメイドかしら」そう言って、彼女はカードを二つに分け始める。「サーフ、カードは一組で何枚ある?」
「ジョウカを除いて52枚」
「そう。今配っているカードはジョウカ一枚を含む53枚。ルールは簡単、同じ色で同じ数字の札を捨て、最後までジョウカを持っていた人が負けよ。手札は相手に見られないように。あら、自分がジョウカを持っていても顔に出しちゃ駄目だわ」
ジョウカどころか自分の手札を見るまえに、そんなことを言われたのでびっくりするが、本当にジョウカは俺が持っていた。まあ、二人っきりなので、自分が持っていなかったら相手が持っているしかないのだが。
勝負は五回して、最初の二回は彼女、続いて俺が勝って、また彼女が連続して勝つ。何でも、俺の顔を見ていると、どれがジョウカなのかバレバレなのだそうだ。こういうとき、人形だと有利そうではないだろうか?
「それでは、本日の勉強を始めます」コホンと咳払いして彼女が言う。「おおよその足し算と引き算を覚えてね」
それから彼女はカードを使って例を挙げながら説明を始める。字と同じように教え方も人によって違っていた。それに彼女は解ったかどうか確認するため、俺の顔を見るのだ。何だかそれが恥ずかしくて、そのたびにさり気なく目を逸らした。こうなってみると、ラ・コスタがすぐに目を逸らせるのも、もはや責められる立場ではない。
計算することを知らなかったわけではないが、買い物をするときは、さきに金を出し、それで買えるものを教えてもらっていた。わざわざ自分で習得する必要性も感じなかった。そんな俺が、計算の仕方を学んでいる。何だか不思議だ。
一桁の足し算・引き算を理解すると、呑み込みの速さを褒められつつ、桁数の多い場合の計算の仕方を習い、簡単な問題から順に彼女は問題を解かせた。
「この答えは?」
手元にある紙に式を書いて計算する。どうせどっちの手でも持つことに慣れていないので、ペンは右手で持つことにしていた。まだまだ書く速度は遅い。出題はカードによって出され、スペイドとクラブなら足す、ハートとダイアマンドなら引く、という具合だ。例えば、ハートのエイスと4、スペイドの2とキング、クラブの7と3が並べられているなら、〔-14+213+73=?〕となる。
「272」
「正解よ」
答えを聞いてすぐに彼女が反応するので、頭の中で計算できるのかと感心していたら、どうも予め問題と答えが用意されていたらしい。
「どう? 大丈夫そうかしら」
「うん、どうせ数が大きくなっても同じことをすれば良いんだろ?」
「ええ、そうね。最後にもう一度ゲイムをする?」
時計を見るともうすぐ十時だった。配られたカードを見て、揃っていた組み合わせを捨てる。
「さあどうぞ」彼女が広げたカードを差し出す。
ジョウカは持っていない。
一枚引いては捨て、一枚引かれては捨てられ、お互いのカードの枚数は、だんだん少なくなっていく。ルニエが持っているジョウカを一度も引くことがなく、残るはハートのエイスとスペイドのクウィーン。次はルニエの番になった。彼女は最後の一枚だ。
「さあ……、どうぞ」真似をして言う。
彼女が持っているのがジョウカだ。俺は、どちらを引かれても問題ない。できるだけ表情を変えないために、カードではなく彼女を見る。一瞬躊躇いがあり、ハートのエイスが引き抜かれた。よし、あとは俺が……。
あれ……? そこでやっと、おかしさに気付く。
「わたしの勝ちね」
「まさか!」俺の反応に微笑みながら彼女が見せたカードは、ハートとダイアマンドのエイスだった。「そんな……、ジョウカは?」
そもそも彼女がジョウカを持っていたら、俺の二枚の手札が揃っていないのはおかしい。運良くジョウカを引かなかったものだとばかり思っていた。
最初から、ジョウカは入っていたかったのだ。
手の中に残ったスペイドのクウィーン。
「オウルドメイドはね、ジョウカを一枚加える以外に、クラブのクウィーンを抜くの。残されたスペイドのクウィーンはペアになれないから、オウルドメイド、――いつまで経っても結婚できない、というわけね。でも、この言葉を女性に使っては駄目よ。とても失礼な言葉だもの」
まえにラ・コスタが言っていたように、女性の年齢に関する発言は禁句であるようだ。
「分かった」
完敗である。予め抜かれていたのがクウィーンだと分かっていたとして、なにかが変わっていたとは思えないが、ジョウカを偶然引かないことを喜んでいた自分が虚しい。
「では、わたしは掃除をするから、昼食まで好きにしていてね」
ルニエがハミングをしながら洗い物や掃除をしてる間、俺はルニエのしているのを思い出しつつ、カードを切る練習をしていた。しかし何とかたどたどしくできるようになったころ、突然聞こえてきた窓グラースをコツコツ叩く音で思わずカードをぶち撒く。レイスのカートン越しに窓の外を見ると、オリンジ色の鳥がコツコツやっていた。恐る恐る近付いてどうにか窓を開けたら、鳥は中に飛び込んでテイブルの上に留まる。この不思議な来訪者をどうやって歓迎するか悩んだ。
捕まえるべきか?
「おい!」
耳を疑った。鳥が喋ったような気がしたのだ。気のせいだろう。鳥が喋るわけがない。
「オマエがサーファーズカ?」
再び耳を疑ったが、今度はちゃんとこちらを向いて鳥は喋る。酷い雑音が混じったような声だったが、確かにそいつは喋っていた。
「すごい! ……喋る鳥だ」
人間以外が言葉を喋っているのなんて、聞いたことがない。
鳥は頭を傾げ、両足でテイブルの上を引っ掻くような動作をする(滑っていたのかも)。飛び跳ねて散らばったカードの一枚に載ったとき、ルニエが洗い場から入ってくる。
「ねえサーフ……、あら、ジャック?」
ジャック、それはちょうどオリンジ色の鳥が偶然踏ん付けていたカードと同じだった。ジャックと呼ばれた鳥は彼女の肩に飛び移り、しきりになにかさえずっているようだ。
そいつは入れてもらった水を飲んで、またどこかへ行ってしまう。
「さっきの鳥は?」
「彼は……カナリアのジャック……ね」彼女は困ったように答える。
「オスなのか……」彼、と言うからにはオスだろう。
「そうよ」
どうしてかルニエは、それ以上カナリアについて触れようとはしなかった。俺は散らばったカードを拾い集め、枚数もちゃんと確認して顔を上げると、彼女はもうそこにはいない。ケイスにカードを突っ込み、二階の自分の部屋へ行こうと思った。別に自分の部屋に用があるわけでもないが、このほかにすることが見付からなかったのだ。
重い足取りで階段を上り、ふと扉の隙間が開いたラ・コスタの部屋が目に入る。彼の部屋はいつもきちんと閉まってない。閉まっていたとすれば、彼女が閉めたと考えられるだろう。
いま、彼はいない……! そうだ、部屋を覗いてやろう。彼の部屋は入ったことがなく、前々から覗いてみたかったが、彼と部屋で二人っきりになって話すこともないので止めていたのだ。暇潰しを見付けて少し楽しくなった。
まず、ルニエの部屋の前で立ち止まってみたけど、やはり彼女は下の階にいるらしく物音はしない。次に念のために辺りを見回して、素早く彼の部屋の前に移動して、扉の隙間から中を覗いてみる。薄暗くて隙間程度ではよく見えなかったので、仕方なく扉を半分くらい開け、明るさが増したそこに見えたのは、山積みされた本! すごい部屋だ。汚いのではなく煩雑で、本だけが錯乱している。机とベッド以外にあるのは本だけだと言っても、強ち間違いじゃない。しかし、その二つも本に侵食されつつあった。そのうち床が抜けるかもしれないぞ……。
食事をしていたら、急に上から本が降ってくる、なんて事態を想像してみる。とてつもなく嫌だ。でも、この部屋の下は台所か?
足音でふと我に返った。きっとルニエだ。扉を閉めてさり気なく自分の部屋に飛び込む。部屋の中で扉をちゃんと閉めてしまったことを後悔した。が、足音が二階に上ってくる様子はなく、ただ階段の横を通りすぎただけだったのだろう。心臓がドキドキしていた。
2012.8/4 ルビ追加
2013.2/25 表現変更