・嘘と明かり
気配を感じて目を覚ます。
目を開けると、予想どおり彼が覗き込んでいた。身体を起こすと同時にまた悪戯がされていないか、前髪を恐る恐る触って確かめてみる。無事だった。少なくともあのスクランチィは机の引き出しの中にしまってあるのだ。
「おはよう、今日はなにもしてないよ」
今日は、という限定が恐ろしい。欠伸をして目を擦る。彼はそうしている間に部屋から出ていってしまっていた。やれやれ、とサンドルズを履こうとしたら脱いだ場所にない。ベッドの周りを見回すと、頭側に移動されているのだ。
「嘘吐きめ!」舌打ちする。
しかし、彼が嘘吐きなのは、いまさら驚くことでもない。思い出してみれば、初めてこの家に来たとき、明日からルニエが勉強を教えてくれるみたいなことを言っていたくせに、実際は二日後の昨日からで、しかも教えているのは彼だし。
身支度を整え、台所へ行くと、彼がちょうど皿を並べているところだった。食器節約のためなのか、トウストの上に卵をそのまま焼いたやつが載っている。今日の朝食を作ったのは彼のようだった。
「今日はね、僕がルニエの朝食も作ってあげたんだよ」
少し自慢そうに彼は言う。彼の設定では、ちょうど十五歳の同い年である俺は料理できないし、たとえ簡単な料理でもできる彼はすごいのかもしれない。まあ、これまで過ごしてきた状況的に、俺が料理を習得できていないのは当然であろう。
皿の中を覗き込み、そこにソシッジを発見する。ルニエが作ってくれた料理は、どれも肉が入っていなかったようで、これが久しぶりの肉となる。別にほとんど食べる機会がなかった贅沢品だし、食事に出なくてもそれほど耐えがたい禁断症状に陥るわけでもない。二日まえに買い物へ行ったとき、彼女に肉は食べられるか? と聞かれ、それならとソシッジを買ってもらった記憶があるから、きっとそのときのだろう。
「どうして、ルニエは肉を食べないんだ?」
「どうしてって、さあ? 昔は食べていたけど、僕が動物性のものは特に駄目だって言ったら、彼女も食べるのを止めちゃったの。でも、ミルクとかジェラティンとかはケイクが食べられなくなるから駄目なんだって」
そうか、魚も食べず、野菜とケイクだけでよく生きていけるものだ。けど、卵は鳥が産むんじゃなかったっけ? 鳥が産むならきっと肉とかと同じ部類に入る。これもケイクに使われるものなのだろうか。
ソシッジにフォークで穴をたくさん開けながら、彼女の食生活について考えてみた。本当は……それより、彼がなにを食べているのかが謎である。
「ねぇサーファーズ、ソシッジはどうやってできるか知っている?」
「さあ……」肉がどうにかなっている、くらいしか分からない。この指みたいな独特の形は、どうやって作り出しているのだろう。
「ソシッジはね、樹になるんだよ!」
「へ?」
「ソシッジの樹があるんだ。それに、樹になるブレッドもあるんだよ。それにそれに、畑には卵草が植わっていて、そこから卵が取れるんだ」彼はお菓子を買ってもらった子どもみたいに、嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた口元をカップで隠した。
さらにソシッジに穴を開け、持ち上げてじっくりと観察してみるが、どうしてもこれが樹になっているとは思えない。だが、いままでこれが肉だと思い込んでおり、真実を知らなかっただけかもしれないし。判断が難しいところである。
でもそれなら、ルニエもソシッジを食べるはずではないか? そこが引っかかる。買ってくれたときも、俺が肉を食べるかどうか確認してから買ったわけだし。
卵が植物になるのなら、ルニエが食べているのは納得できるが、さすがにブレッドが樹になるのは明らかに嘘だと思う。
「ほら、その白い粒々が種なんだよ。卵もね、黄色い部分が種で、最初は軟らかいんだけど、そのうち硬くなって茹で卵と呼ばれる状態になるんだ。種があるブレッドは、食べにくいから最近出回ってない。あ、写真があるけど見る?」
疑いの眼差しを気付かないうちに向けていたのか、彼は証拠として一枚の写真を見せてくれた。そこに写っていた樹には、たくさんのソシッジがぶら下がっている。……やっぱりブレッドは信じられないが、ソシッジは本当かもしれない。
あとでルニエに確かめてみよう。
「今日はなにをするんだ? 昨日の続きか?」
「うーん、実は、昨日も本当に全部覚えられるとは思っていなかったんだ。物覚えの良さは素質だね。あーあ、さきが楽しみだよ」もしかしなくても褒められているらしい。彼はやたらと嬉しそうだった。「今日は、数字にまつわるものとかどうかな」
数字か……、難しくなければ良いが。フォークを置いて、数字関係とはどんなだろうかと思い描いてみる。数字だから、正しい買い物の仕方? 1から始まる数字をいくつまでも言えるようにする? 二十歳を越えた女性の見分け方?
いつの間にか皿は下げられていた。その代わり、目の前にはあるものが置かれている。公園とかで見たことはあるのに、名前を知らないものだ。俺の部屋にもある。
「これがなにか分かる?」
「んー、名前は知らない」
「じゃあ、なにに使うかは知っているの?」
「飾りじゃないのか……?」
根拠として、この部屋にも飾られていた。ただ飾ってあっても別に面白くないから、機械仕掛けで少しずつ動くようにしてあるのだろう。公園にあったのは、ときどき音楽が鳴っていた。
いま改めて見ると、その装飾品に縁取りとして書かれているのは数字だった。数字は、1から12まである。もしかして、ここに書かれている数字にまつわることなのかもしれない。
「飾り的要素を含まないわけでもないけど、これは時計といって、時間を知るためのものなんだよ。一日とは、この短い針が二周する間の時間。それに日、週、月、年。この流れにまつわる数字を覚えてみようか」
時間を知るための道具? 二周したら一日?
俺の頭の中は細い針みたいに忙しくぐるぐる回り始める。
「まず、時計の針は右に回る」
「……右ってどっち?」針は上を指したり、下を指したり、横を指したりして回っているので、どっちが右なのか判らなかったのだ。
「どっちって……、なら片手を出してみてくれる?」
言われたとおり手を出した。
「そっちが左手。反対が右手ね。もしかして、サーファーズ、左利き? でも、数的に見て右利きが圧倒的に優遇されているから、既に慣れているのならともかく、字を書くときは右手で練習すると良いよ」彼は大げさに瞬きをする。「右と左は解った? じゃあ、これはどっち?」彼の片手が出された。
「右手」自分の手と比べて即答する。
「外れ。君の右手がこっちでしょ? でもほら、僕は君と逆の方向を向いているんだよ? 左右が反対なんだ。だから、これは左手」
なるほど、と納得してしまう。鏡の中では、動かしたのと同じほうが動いていたので紛らわしい。
そして彼は図を書いて右回りを説明してくれる。つまり、針先の指す方向ではなく、針先が真上から数字の若い順に右方向へ回転する、ということらしい。下から始めて左回りにならないのは、数字の途中から始まることになるからだろうか。
それからしばらくかけて頭に叩き込んだのは、数字の順番と読み方。数字は、掏った財布の中のお金で、どれを使えば大体どれくらいのものが買える、という漠然とした目安で使っていたことしかなく、計算ができていたわけではない。教えてもらってみると、法則があることに気付かされる。
「0から9まで規則的に増えていくのは分かったけど、どうして十の位だと、11と12だけ発音が違うんだ?」
「それは……、十二進法の名残だからかな」
「に……、なに?」
彼の口から聞いたこともない単語が飛び出る。
「12を基準とした数え方だよ。さっき教えたのは、0から9もしくは、1から10までを一区切りとする十進法。これは、指の数が十本だから、数えやすいように発達したんだろうね」
「え?」彼に言われて、急いで自分の指を数える。「0、1、2……」
「違うよ。0は、なにもない状態だから、数えるときは1から。単純に10までのものを数えるなら、手を広げた状態で端から指を折っても良いし、握った状態から広げても良い。片手でその両方の動作をしても良い。握り拳を0、親指を5として、人差し指から順番に立てていけば、両手で実質百まで数えられる」
そう言いながら彼は、ゆっくりと手で示しながら10までを数え、そのあと、だんだんと手の動きを早くして、最終的には99まで数えて見せてくれた。
「十二進法が使われているといえば、その最たるものが時間。六十秒が一分、六十分が一時間。60は、12の倍数だからね。そして、二十四時間が一日」
あまり意味が解らなかったが、黙って聞いていた。彼は途中で思い出したようにノウトブックへ単語と発音記号を並べ始める。そして、さきほどの時計のスウィッチを止め、枠を外し始めた。
「この、細い針が秒針。ここに目盛りがあるでしょ? 秒針がこれの一つ分を動く時間が一秒」彼は指で針を全て真上に揃え、秒針をゆっくり右回りで一周させた。「時計の針が進む右回りは、時計回りとも言う。目盛りは、四分の一である3まで進むのに十五秒かかる。半分の6までが三十秒、一周するのに六十秒。一周したら、今度はこの長い針が一目盛り進む」
彼が言っていることは半分も解らない。けれど、彼は同様に長針を説明し、短針を説明した。やはりよく理解できなかったが、実際に針を回させてくれた。俺が長針をぐるぐる回すと、だんだん短針も動いていくのが実感できる。そして、再びスウィッチを入れた時計が勝手に動くのをしばらく見た。
彼の言うとおり、秒針が一周すると長針が一つ動き、長針が一周すると短針が動く、というのは、視覚的な面もあり、何とか理解できる。
時間にまつわる数字は、一日になり、一週間になり、一ヶ月になり、一年になった。一通り彼は説明してくれたけど、覚えることがたくさんありすぎて呑み込めない。これからしつこくキャランダを眺めて、慣れていくしかない。最後に彼は簡単に辞書の使い方を説明して、その辞書と『これはなに?』という図書館から借りてきた、という本を貸してくれる。
で、適当に昼食を用意すると、さっさとお昼寝に行ってしまった。こっちも負けず劣らず、しかも忘れず手を洗ってからさっさと食事を終わらせてしまい、早速本を開いてみる。
そこには絵が描かれており、例えば顔があって矢印がたくさん突き刺さり、ここが口でここが鼻、といった具合に名前(もちろん発音記号も)が記されていた。絵と発音記号まであるのだから、単語が何の名前を表すのか明白で、発音が分かる単語は、ひたすら綴りを覚えるしかない。
ちょうどキャランダのペイジもあったから、一週間を覚えることにした。誰もいないことを良いことに、まずは発音記号を見ながらゆっくり慎重に発音する。次に単語を見ながら発音する。こうすることによって、音とアルファベットの並びに関連性が見出せるかもしれないと考えたのだ。
「日曜日……月曜日……火曜日……」
◆◇◆
「赤と青と……紫それから……」
ぶつぶつ呟きながら指を折っていると彼女が帰ってきた。またもや扉の音に気付かず、顔の横で声をかけられて初めて彼女の帰宅を知る。
「ただいま」
「お、お帰り」彼女は俺の顔を見て少し笑った。
「サーファーズ、その色の順番を覚えるにはコツがあるの」さらさらと紙に文章が書かれる。「こうやって覚えるのよ。ほら、単語の頭文字がそれぞれ色の頭文字を表して、しかも順番どおりになっているのね」
「ふ~ん」
彼女は食事の準備を始め、俺はまず、頭文字が全て順番どおり対応することを確かめた後、慣れない辞書を片手に一つ一つ読み方を再確認していく。最後の単語なんて発音を読んでみてさえも心当たりがないため、辞書を読むために辞書を引くという非効率的なことをしている間に、食事の準備ができてしまう。
仕方なく途中で諦めて手を洗ってくる。
「韻文って何だ?」椅子に座りながら尋ねた。
「言葉のリズムを持つ文かしら。例えば詩ね」
「ふ~ん」
熱い液体をスプーンで口に運び、その熱さで痺れた舌をできるだけ動かさないようにして返事をする。ここでさらに、詩とはなにか? と聞きたかったけど、何だか気が引けたので思い止まった。代わりとして、彼が起きてこないうちに例のことを聞いておくことにする。
「あのさ……、ブレッドとソシッジの樹を知ってる?」
「もしかして、アルトゥカルプスとキゲリアのこと? 実物を見たことはないけれど、写真ならあるわ」
「じゃあ、卵草は?」
「あら、食べたいの? 今度買ってきてあげる」
驚いた。全部実在するらしい。卵草に至っては、実である卵以外に植物体自身も食べられるようである。
「ルニエは……」
「おはよう……、今日も綺麗だねルニエ」
寝起きのくせに彼は両手を広げ、かなり機嫌良さそうに登場した。昨日より楽しそうにルニエの首筋にキスをして、さらに頬っぺたにもキスをする。彼女もその二度目のキスには目をぱちくりさせ、コフィを取りにいった彼を目で追いかけていた。
「どうしたの?」彼が椅子に座るのを待ち切れないように彼女が尋ねる。
「秘密」
くすくす笑いながら彼は答え、それ以上いくらルニエが尋ねてもくすくす笑ってばっかりだった。彼女は話しかけても返事をしなくなったので膨れていたが、そのうち諦めて食事を再開することにしたようだ。
「サーファーズ、そろそろ、ここの生活にも慣れてきた?」
「ああ」ラ・コスタだけは、どうも手に負えないが。どうやらここでのペイスは掴んできた模様だ。
「いままで住んでいたところは、どんなところだったの?」
尋ねられてみて気付く。彼は俺を連れにきて知っているが、彼女は知らないのだろう。
「空が細長い場所」
ここに来て、あそこで日課となっていた空を見上げるという行為は、すっかり忘れてしまっていた。ここでは、わざわざ見上げなくても空がある。
「空が細長いの? ああ、空が見える空間が限られていたということね」
「そう。狭い、壁に挟まれた場所」
目を閉じると、瞼の裏に浮かんでくるあの景色。何故か白黒で、寒々しかった。
「路地裏みたいなところだったのね。そこには帰りたい?」
「帰りたくない……」
あそこは暗くて寒い。
「そう、良かった。それならずっとここにいてね」
ここは……
珍しく彼は会話に混じらず、独りでやっぱりくすくす笑いながら、うわの空でコフィを飲んでいた。
「ルニエはどんな仕事をしているんだ?」
代わりに俺が、彼女と何とか頑張って会話をしなければと思う。
「相談員……」ちょっと不意を突かれたような顔でそう答え、彼女は少し悲しそうな顔をした。
もしかして、出すべきでない話題だったのだろうか。それなら、ほかの話題を探さなければいけない。彼は思い出したようにコフィを一口飲むと笑うし、彼が笑うと彼女が横目で寂しそうにそれを見るし。
そんなに彼のことが気になるのだろうか?
考えても解らない。そういうときは、考えることを放棄する。
「俺、もう寝る」
席を立って、そこから逃げ出してしまった。
ルニエがなにかを言った気がする。でも、それは俺の耳には届かなかったのだ。いや違う、それが届くことを拒んだのだ。彼女の言葉を振り切ってさえ、この場所から逃れたかった。
ここは温かい、なのに……、俺はやっぱり独りぼっちの気がする。
二階へ上がり、部屋からパジャーマズを取ってくると、暗い浴槽で蹲って熱めのシャウアを浴びた。浴室に響く水音は、土砂降りの雨の音に似ている。響いてくるその音は耳障りだったが、冷たい雨ではなく熱い雨なのだ。
少し、……救われた。
どうしてこんな気分になるのか解らない。
いきなり浴室が明るくなる。驚いて顔を上げると、カートンに影が映った。その輪郭はルニエだ。彼女はなにか言っているようだが、シャウアの音で聞こえない。俺も恥ずかしいので、このままカートンを開けられたら大変、と急いでシャウアを止める。
「な、なに?」
「ごめんなさい……。使っているみたいなのに、明かりが消えていたから心配だったの」
そうか、ここにも照明があるのか。それが一番驚いた。
「それと……、さっきはごめんなさい。ラ・コスタのこととなると駄目なの。彼が機嫌の良いときにコフィを飲むとあんな風になるのはいつものことなのに、つい気になってしまって……。とてもサーファーズに失礼だったわ」
「良いよ、別に」
「……そう、ではお休みなさい」
しばらくの沈黙のあと呟かれた彼女の声は涙ぐんでいた。彼女の影が消え、扉の閉まる音がする。
冷たく言い過ぎたのだろうか? けど、それほど優しく言う台詞でもなかっただろうし。彼女を悲しませたことは後悔したが、原因となったどの行為を後悔すれば良いのか判らなかった。
ただ、彼と彼女の関係は、ますます解らなくなった。あの一瞬に見せた彼女の切ない視線は、相手にしてくれない兄弟や親戚の子を寂しそうに見つめるような類のものだとは思えなかった。
あれは……
*補足 ソシッジ:ソーセージ、ジェラティン:ゼラチン
アルトゥカルプスはパンノキ、キゲリアはソーセージノキ、卵 草はナスです。
2012.8/15;9/8 表記変更