・文字と発音
目が覚めると、目の前には好奇心の塊みたいな彼の顔が飛び込んでくる。思わず蹴飛ばしてやろうかと思ったが、世話になっているし、俺が起きるのをずっと待ち構えてみたいな無邪気な笑顔についつい騙されてしまう。窓にはカートンが引かれ、その隙間から光が凝縮されて俺の腹の辺りを横断するように降り注いでいるみたいだった。
「おはよう、サーファーズ」
「ああ……」
いい加減に返事をして、欠伸をして、目を擦って、頭の後ろを掻いて、彼女に返しそびれたスクランチィをどこに置いたか思い出そうとする。手にも填めてないし、シートを軽く持ち上げてみたり、辺りを見回してみたりしたが見当たらない。
「どうしたの?」彼が不思議そうに尋ねる。
「何でもない」
「じゃあ、着替えて下りてきてね」
随分まえから起きていたのか、彼が機嫌良さそうに部屋を出ていくと、すぐさまシートを引っくり返した。ベッドの下も見てみたが、どこにも見付けることができない。仕方なく顔を洗って気分を変えることにする。
洗面台の鏡を見た俺は今度の場合、あいつの噓吐きな口を引き伸ばしてやりたい衝動を我慢するのが大変だった。何と! 例のスクランチィで前髪がイヌの尻尾みたいに括られていたのだ。深呼吸を何度も繰り返してようやく落ち着きを取り戻し、髪をほどいてスクランチィを手首に移し、顔を洗って昨日の分の歯磨きをし、服を着替えて台所に行く。
「あれ、解いちゃったの? 可愛かったのに」いつもの席に座った彼が振り向いて言った。機嫌が良かったのは、どうやら悪戯に満足していたかららしい。
「二度とするな……」
睨み付けて凄んではみるけど、効果があるかどうか悩むところだ。むしろ、すぐにそっぽを向いた彼が見ていたかどうかも怪しいし。
自分の席を見るとそこには食事が置かれている。彼はコフィを飲んでいる。台所を見るが、彼女は見当たらなかった。
「彼女は?」席に着きながら聞く。
「気になる? ルニエはねぇ……、仕事だよ。し・ご・と」かなりイライラするような言い方で、しかもニヤニヤしながら彼は言う。「だから、今日も明日も明後日も明々後日もその次の日も、僕と二人っきりで勉強しようね」
「勉強?」
大変だ。ニヤニヤのせいで聞き逃しそうになった。
「そうだよ。だって、君はお医者さんになるんだもん。いっぱい勉強してもらわなくちゃね」満面の笑みを浮かべて彼は言う。
医者? 俺を連れてきた目的は、医者にするためだとでもいうのだろうか。
何の見返りも求めないで面倒を見てくれるわけがないし、目的があるだろうことは当然だが、医者といえば、俺とは別世界の大層なイミッジがある。彼が言うのなら嘘か冗談かもしれない。本気にしないことにする。
「嫌だ、って言ったら?」
「チョクラットあげない。君の分の食事、僕が食べてやる。毎朝顔に落書きしてやる。それから、えっと……」
一生懸命考彼なりに考えているようなのに悪いが、どれもかなり低レヴァルである。もはや単なる嫌がらせの域だ。しかし、彼女の作ってくれた料理を食べられてしまうのは嫌かもしれない。
「でもお前、彼女の料理は食べられないんじゃないのか?」
「うん、食べたら倒れるんだけどね」
「口に合わないからか?」
「いや……、アラジィのショックでだよ。彼女はほとんど菜食主義者だし、大体のものは大丈夫のはずだけど。それでも、ね。たまに好きだから、無理してアイスクリームを食べるかな」
それからアラジィの説明を長々と聞かされたが、特殊用語が多すぎて全くちんぷんかんぷんだった。とにかく、結論として彼は特殊なものを喰って生きているらしい。コフィを飲んでいるところしか見たことないし。俺が太らされて喰われるのでさえなければ、どうでも良い。
「勉強って、なにをするんだ?」
「そうだね、今日はアルファベットと発音記号を覚えてもらうつもり。だから早く食べてよ」
催促するように口を尖らせると、彼は溜息を吐いてコフィを飲み始める。観察してみたらやはり、コフィを飲むときは人形になるらしい。俺は慣れないスプーンやフォークを使う食事中に話しかけられたら気が散るので、静かなことは良いことだ。
食事は彼女が用意して出かけたようだが、トウストは熱々だったから、彼がさっき焼いてくれたのだろう。今日のトウストの上には、糸を引く白っぽい卵が散らされていた。
食べ終わり、そのことに彼がいつ気付くだろうかと見ていたら、不意に彼が顔を上げてなにかを言おうとして、いきなり噎せ始める。かなりゲホゲホと苦しそうだったが、どうすることもできない。
「おい……」びくびくしながら声はかけてみる。
「は……はぁ、苦しかった。あ、食事終わったの? じゃあ、勉強勉強」
彼は楽しそうに自分のカップを横に寄せて、俺の食べ終わった食器を下げ、どこからともなく記号がたくさん書かれた二枚の紙を取り出す。一枚はよく見かけることのある記号、もう一枚はよく見かけることのある記号と謎の記号が入り混じったものだ。
「これがアルファベット。こっちが発音記号。単語はアルファベットの組み合わせで構成され、発音は発音記号で示される」
お勉強モウドに入ると、彼の口調が変わった。普段の会話のような鬱陶しい語尾が簡略化されたものになっているのだ。このちょっと気の抜けて真面目そうな顔なら好感が持てるかもしれない。
彼は俺の前に広げた紙に手が届くようにするため一所懸命に、椅子で挟まれテイブルの上で伸びたネコみたいになって説明をしていた。睫毛が長いから見下ろすと、――本人は怒るだろうが、女の子みたいだ。片方の頬っぺたに青い痣のようなものがある。それに……
「ねぇ、聞いてる? だから発音記号を覚えれば、辞書を引いて読めない単語を読むことができるし、君の場合だと音を聞けば意味も分かるかもしれないしね。今日は発音記号を全て発音できてかつ、アルファベットが全部読めればお終いにしま~す」
「分かったよ。やれば良いんだろ? やれば……」
取ってつけたように語尾を伸ばす彼に呆れて嫌々返事をする。すると彼はニッと笑って口を尖らせた。同時に笛の音が聞こえてくる。
「サーファーズ格好良い!」
どこから笛の音が聞こえてきたのだろうと目だけ動かしてみるが、やっぱりほかに誰もいないので音の主は彼のようだ。たまに呼吸の音があんな風になるのかもしれない。
「僕が発音してみせるから、そのあとで繰り返してね。じゃあ母音から……」
◆◇◆
発音で合格点を貰い、俺が全部覚えたと宣言したら、約束どおり勉強は終わりになり、驚いたことに彼は昼食を作ってくれた。多少彼女より薄味で作り方がいかにも適当だったくらいで、見かけからは想像できない味がするとか、突然動き出すなどといったこともなく、相変わらず自分自身は食べないらしい。
「あとは夕食まで自由にしていて……」欠伸をしながら彼は言った。
それから彼が多分お昼寝に行ってしまったので、俺は自由にと言われてもすることを思い付けずにダイネットを見回す。テイブルの上には、文字の練習にもなるから日記でも書いてみたらどうか、と貰ったノウトブックが置かれている。単語を書く練習にはなるかもしれない。ただ、さっき教えてもらったばかりなので、いきなり書いてみる気にはなれなかった。
ふと、シッティングルームのテイブルにある本を思い出し、絵があるらしいから、それでも眺めてみることにした。
一番上にあったのは昆虫の本。綺麗なチョウの絵があって、横にアルファベットがいろいろな長さでたくさん並んでいる。なにが書いてあるかはもちろん解らないが、勉強すれば読めるようになるのだろう。
進んでいくとそのうち、足の数が増え始めたので一旦、最初のほうのペイジに戻る。青い翅をしたチョウが綺麗だった。トンボなどが持つ透明の翅、特に鳥の翼とは違う翅に入った模様が綺麗だと思った。
クモの脚を数えているときだ、「ただいま」と彼女が肩越しに覗き込んで小さく叫び声を上げる。
「どうしたんだ……?」
「駄目! わたし脚がたくさんあるものは駄目なの……」
これは大変、と慌てて本を閉じた。別にクモに特別な愛着を持っているわけでもないが、見ているだけ(ただの絵だし)なのに怖いなんて不思議だ。俺もかなり苦手な生き物がいるけど、絵で見るくらいなら大丈夫だろうし、実物がいてもある程度の距離を保ち、飛びかかってこない前提なら問題ない。
「閉じたけど……」
「ありがとう。食事の準備をするから待っていてね」
台所へ行く彼女を目で追い、もう一度本を開くべきかどうか悩む。それにしても、もう食事の時間になっていたとは。それだけ夢中で本を見ていたという証拠である。
つまり、楽しんでいたのか? 頭を抱えてその頭を悩ませてみた。多少癪に障るが、絵だけでなく文章でも情報を得られるとなると、大人しく彼に読み書きを教わるのが得策かもしれない。
台所から本は見えないだろうと、もう少しだけ図鑑を見た。クモの脚は八本あって、もっとたくさん脚があるやつもいたけど、あまりにたくさんすぎて数えている途中で諦める。数字が判らなくなった。
頃合いを見計らって立ち上がり、トイリットに向かう。薄暗い中、鏡に映った俺の眼だけが青かった。あのチョウの翅もこんな色だったっけ? いや違う。……この色は、なにに似ているのか思い出せないでいる。まるで周囲に霧がかかっているかのようで、その霧を洗い流すかのように手を洗う。しかし、霧は晴れそうにもない。
ダイネットへ戻ると、既にテイブルの上に皿が並べられており、前かけを外した彼女が席に着こうとしているところだった。俺も自分の席に着き、皿を見てみるが食べ方が判らなかったので、フォークを持ったまま彼女が食べるのを見ていたら、これはフォークを回して絡ませるようにして食べるようだ。
「勉強はどうだった?」
必死にフォークから逃れようとするその料理と、格闘しながら顔を上げる。「LとRの区別、それに発音をもっとはっきりするように……って」
どうも俺の喋り方は、口をあまり動かさないようにしているため、ときどき聞き取りにくいらしい。
「そう……。わたしね、彼が説明をしてくれるときの顔が好きなの」
「あ……それは……」鬱陶しくない、という点では同意見だ。
「おはよう。……あれ? 僕の話してなかった? 僕は格好良いとか」
タイミングを見計らったかのように彼が出現し、昨日と同じく彼女にキスをしてコフィを淹れたカップを持って椅子に座る。
「可愛いの間違いじゃないのか?」思わず私見を口にしてしまう。
彼女は一瞬驚いてくすくす笑い出し、彼は不満そうな表情をした。
「サーファーズまでそんなこと言う!」
どうやら普段は彼女に言われているらしい。彼も人形みたいだとか、可愛いだとかいろいろ言われて大変だ。
様子を見ていると多少矛盾点もあるが、この二人の間に特に気を使った感じも見られないし、やはり彼女は彼の姉であるようだと思う。親戚の子を預かっている可能性も考えられるが、それにしては彼の態度がでかすぎる。以前は一緒に暮らしてなかったみたいな話だったので、生き別れのきょうだいとか、最近きょうだいになった(突然なれるものなのか知らないけど)とかかもしれない。聞けば教えてくれそうなのに、そういう質問をしても良いのか判断がつかず、聞けないでいた。
それは、まだ俺が彼らに馴染んでいるとは思えていないからなのだろうか。
「ソースがついているわ」
横から口を拭かれたかと思うと、いつの間にか食べ終わっていた食器を下げられる。彼女は洗い物を始め、不覚にも向き直ったときに彼と目が合ってしまう。
「さて、お腹もいっぱいになったことだろうし、小テストをしようか」
どこからともなくペンが取り出された。(実はこのテイブルに引き出しがあったことに気付くのは、随分とさきのことである)まだテイブルの上にあったノウトブックが日記以外のことで活用されるべく、最初のペイジが開かれた。
「テストって?」
「いまから僕が言うアルファベットをノウトブックに書いて下さい。まずは……」
「待て。覚えたけど、どうやって書くか分からない……ぞ?」
かくんと首を傾げた彼は、別のペンを指でくるくる回しながら取り出し、持ち方を示してくれる。何とか真似をすると、アルファベットを最初から書いてみろと言われ、地面を棒で引っ掻くようにぎこちなく線を引っ張った。彼は頬杖を突いて見ている。書き終わるころには彼女まで見学に加わっている始末だ。
「はい、お疲れ。良くできました。次は僕が書くのを見ていてね」反対方向から器用に文字を書き始める。
青い形良い字が俺の書いたへなちょこの間に並んでいく。彼はZまで書き終わったあと、まだなにかを書き並べていて、もちろんなにを書いているかは判らなかったが、ご丁寧にもそれには発音記号までつけられており、それを読むことで書かれていたものの意味を知ることができた。
「で、これが君の名前ね」
「ね、ね、わたしにも貸して……」手を伸ばした彼女は半ば強引にペンを奪い取ると、ノウトブックを引き寄せて字を書き始める。「ええと、ルニエ・キュラソウ。ラ・コスタも書いておくわね」
二人の書いた字を見比べてみて、本当に人によって書く字が全く違うのだ、と感心させられた。彼の字は直線と曲線がきっちりしており、彼女の字は柔らかい。因みに俺の字はできる限り続けて書いたので、角が取れて丸っこかった。
二人の名前を見たら、偶然にも始まりがLとRだ。もしかして、こんなの場合に縁起が悪いと言うのだろうか。
「固有名詞、――例えば人名、国名、商品名などのことね、……は頭文字を大文字にして表記するの。人名だと、基本的にはファーストネイム・ファムリィネイムの構成になっているわ」
「つまり俺はサーファーズがファーストネイムで、ブルーがファムリィネイムなんだろ? ……もしかして、こいつは『ラ』がファーストネイムだったりする?」短くて簡単だ、と考えながら、チラッと彼を見て横目で彼女を見る。
彼女は俺から目を逸らして俯く。どうやら気分が悪くなったらしく、口元を押さえていた。どうしたものかと彼を見ると、目をキラキラ輝かせている。
「すごい! やっぱり君は天才かも。子どもの発想力には、時として僕らの想像力を凌駕する可能性が秘められているんだね!」一体彼はなにを言っているのか……。「でも残念。『ラ』は接頭語。特に意味はないらしいけど、僕の生まれた地域ではつける習慣になっているんだ。そこじゃあ、住んでいる人がほとんどキュラソウさんだから、みんな名前が似たり寄ったりでね」
無理やり要約するとすれば、正式にはコスタ・キュラソウであるのだが、おまけで『ラ』がついている、……だろうか? なにはともあれ、たかが『ラ』で悩むのは止めよう。
「もう寝る」溜息を吐いて立ち上がった。
「そう、シャウア浴びるなら、そのまえに髪を切ってあげる。きっと、サーファーズには短いほうが似合うもの」
そうかな? と思って小さく同意の返事をする。
「僕も切りたい」
「止めろ……」即答した。
彼は即否定されたことがかなり気に喰わなかったようで、しばらく独りでぶつぶつ文句をカップに向かって呟いていた。愚痴を聞かされたカップも良い迷惑だ。
そして何故か、階段の前にある、多分この家で一番大きい鏡の前に連れていかれ、あっという間に髪は短くされた。彼女の話にときどき答えながら、鏡越しにハサミを手にした彼女を見ていた。
「どう?」
促され、改めて鏡を見てみると、鬱陶しかった後ろ髪がさっぱりしている。
「う……うん、……る……ルニ……」どうしてか言えない。
「なあに?」
「あ! ありがとう、……ルニエ」
口の中に髪の毛が入った。手で取ろうとしたら手は毛だらけで、余計に口に髪の毛が入る。どうにかチクチク感から抜け出し、顔を上げて見た鏡の中の彼女は目を細めて微笑んでいた。
「どう致しまして」
*補足 アラジィ:アレルギィ
2012.8/8;9/8 表記変更




