・名前と部屋
誰かが俺を呼んでいる。どうして俺を呼んでいると判るんだ? だって、俺にはブルー以外の名前がないのに。
「おーい、おはよう。起きて、起きて、起きて!」
ゆらゆら揺れる。それでも目を開けないでいたら、両方の頬を引っ張られた。
「ひゃめろ!」
目を開けて飛び起きる。思わず光の眩しさに目を細め、その隙間からニッと笑っている眼鏡をかけた彼が見えた。開けられた窓から風が吹き込んでくる。
「寝るときは脱いでね、靴」
「え?」
驚いて自分の足を見た。靴は脱いで寝る、という発想をすることもなく、そのまま寝てしまったのだが、サンドルズは片方脱げて床に落ち、もう片方はしぶとくまだ足にしがみ付いている。慌ててそっちのサンドルズも床に落とす。
「宜しい。今日は晴れちゃったから、ルニエと買い物にでも行ってきなよ。君が着られるようなサイズの服も、それしかないし」
彼は眩しそうに目を細め、――いや、もしかしたら微笑んでいたのかも、小さくくしゃみをした。そのあと浴室に連れていかれ、使い方を教えてもらって顔を洗う。公園にある公衆トイリッツの洗面所では冷たい水しか出なかったのに、家庭用では湯も出るのだ。俺の知らない世界では、いろいろと便利になっていて感心してしまう。
「あら、おはよう」階段を上ってきた彼女は俺たちに気付き、途中で立ち止まって言った。
後ろにいた彼は元気よく彼女に駆け寄り、一つ上の段から彼女の首筋に顔を近付けて囁く。「おはようルニエ、今日も綺麗だね」
嬉しそうに彼女は微笑むと、向きを変えて階段を下りていった。どうやら呼びに来たらしい。彼女が見えなくなるとすぐ、彼に近寄って訪ねる。
「俺もやるのか? あれ……」彼女は綺麗、というより可愛かったが、それをわざわざ口に出すのは、どうも憚られた。
きょとんとした表情で彼は振り向き、いきなり噴出した。
「やらなくて良いよ……。でも、キスはしてあげれば喜ぶかも」彼はぴょんと飛び上がり、俺の頬に唇をぶつけて走り去る。
何だろう?
訳の解らないままあとを追い、ダイネットに入っていく。一足さきに自分の席に着いていた彼は、子どもみたいに足をバタバタさせていた。子どもみたいな、というのはおかしいか。教養があるせいで大人ぶってるように感じるが、実際に彼は子どもなのだし。子どもらしく足をバタバタさせていた、が正解だろう。
俺が指定の席に着くと、彼は足をバタバタさせるのを止め、ちゃんと席に着いた。既に彼の前には湯気の上がるカップが置かれているのに、ちっともそれを飲もうとする気配はない。
「お待たせ。飲み物はミルクで良かった?」
「何でも良い……」目の前に皿が三つも並ぶ。昨日は一つだったのに、今日は豪華だ。しかも飲み物までついている。
「ミルク飲むと背が伸びるんだよ。君ならすぐに僕の身長を追い越しちゃうかも」
変なことを言う。いまでも十分俺のほうが背は高い。
「ラ・コスタもミルク飲めば良かったのに」彼女はくすくす笑いながら、自分の朝食を持って席に着いた。
「だって僕、ミルク飲めないんだもん!」
拗ねたように頬を膨らませる彼は、見るからに好き嫌いが激しそうだ。顔色も悪いし、華奢すぎるし、自分の好きなものしか食べないなど、子どものくせに偉いご身分で羨ましい限りである。
朝食はトウストと野菜の細切れ、そして怪物の目玉みたいに見えるもの、――多分卵料理、だった。あまり料理名が分からない。あとでこっそり聞いてみよう。
フォークで赤くて丸い野菜を突っついている彼女を窺いながら、トウストをかじる。予想外にそれは甘くて、びっくりした。いままで食べたトウストはこれほど甘くはなかったのに、どうしてこんなに甘いんだ? キラキラした表面を舐めてみると甘かったので、どうやら甘さの原因はそれらしい。
「なにがついてるんだ? これ」
「蜂蜜だけれど、甘いのは駄目だった?」
「蜂蜜……? じゃあ、この赤いのは?」
「ケチャップ……、黄色いのはオムリットよ。もう一つは野菜サラド」
あとでこっそり聞くつもりが、結局、全部教えられてしまった。
「オムリットは卵からできているんだよ」
「それは判る」俺がそう答えると、彼はちょっぴり寂しそうな顔をする。
変な奴だ。
一人だけ飲み物しか飲まないみたいだし、もしかしたらチョクラットを食べて生きているのかもしれない。それとも朝食は食べない主義なのか? まあ、食べなくても死にはしないだろう。俺も昨日まで基本的に一日一食、もしくは最悪の場合……絶食だ。朝から食事をとったのは初めてだと思う。
食べられるのに食べないのと、食べられないのとは違う。
彼女の手料理は、いままで食べていたものと比べものにならないくらいおいしかった。トウストしたてだとか、誰かと一緒に食べるとか、話しかけられるとか、そんなことでいちいち、ずっとこのままいたいような気にさせられてしまいそうな自分がいる。
危険だ。このままだと、彼の思う壺だ。優しくしておいて、俺がその深みにはまったころを見て、全部嘘だと囁くんだろう?
全部、夢だったって、遊びだったって。彼なら言い出しそうだ。
――利用してやる。そう思いながらも、どこかで傷付きたくない自分に気付く。昨日の時点では、いきなり連れてこられたので多少混乱していただろう。でも、いまではもう駄目だ。
気付いてしまった。彼は嘘吐きだ。
喋り方、行動パタン、仕草。彼は、どれもどこかわざとらしい。俺を油断させるために子どもっぽく振舞っているみたいだ。考えれば考えるほど彼が信用できなくなる。何故か? 解らない。直感としか答えようがない。落ち着いて彼を観察すると、かなり胡散臭すぎる。
遊んでいるのだ。
だから、彼を彼の嘘を信用しては駄目だ。
同じように俺も、嘘を吐かなくては。彼の嘘に気付かない振りをして、昨日と同じように振舞えるよう。
「ねえ、おいしい?」
「え……? あ・ああ……、おいしい」我に返り、ぎこちなく返事をする。料理の感想を言うだけなのに何だか恥ずかしかった。
彼女は信じられる。
どうしてそう思ったのか、やっぱり解らないけど、優しくしてくれる誰かを一人くらい信じてみたかったのだろう。いや、彼女も騙されてるのかもしれない。やはり警戒するべきは彼。
トウストをかじりながら、彼をちらりと盗み見る。彼は両手でカップを抱え、口元に当てたまま人形になっていた。動かない。視線の先はどこでもなく、心がここにないみたいだ。
『人形』
俺が人形みたいだ、そう言った彼の言葉が強く印象に残っている。言い換えれば、その他の言葉はどうでも良い。その言葉だけが、印象に残っている。
「人形は……いつ、人形じゃなくなるんだ?」
人形が顔を上げた。彼は溜息を吐くように一瞬微笑み、またいつもの表情に戻る。
「靴が片方なくなっても、手足が捥げても、頸が取れても、どこまで壊れても人形は人形のままだよ」
「俺も、……ずっと人形のままか?」
彼女が驚いた顔をして俺を見た。彼は首を傾げただけだ。
「君の名前、何て言うの?」
「名無しだ」
「……あそこでは、何て呼ばれていたの?」
「ブルー」
きっと、俺がいなくなったあと、青い眼をした誰かが、またブルーと呼ばれるのだろう。
心配そうに彼女が、彼と俺を見比べている。無理もない。俺は変なことを聞いている。でも、知りたかった。彼が俺を人形だと言うのなら、人形以外になりたかったのだ。
「じゃあ、僕が君に名前をつけてあげる。人形が人形であるのは、君が人形を人形だと認識しているから。君が人形なのは、君が自分自身を人形だと認識しているから。そうだね、今日から君の名前はサーファーズ、サーファーズ・ブルー。人形ではなくて、君はサーファーズだ」
「サーファーズ?」
「そう、リキュアにある、真っ青な湖の名前」
きっと多分、湖の名前というのは嘘だろう。
「リキュアって?」
「隣の国の名前だよ。この国はジン」
何度も『サーファーズ』と頭の中で繰り返す。
この瞬間から、俺は彼が嫌いになった。俺は信用してないのに、彼は嘘吐きのくせに……、彼が少し嬉しいことを言うものだから、思わず俺は彼が嫌いになった。自分の中の矛盾した感情が相対し、結果として、彼を信じられないという気持ちが勝って増長したらしい。
でも、名前はありがたく受け取った。この瞬間から俺はサーファーズ・ブルーになる。
人形じゃなくて、サーファーズに。
「自分の誕生日や年齢も知らないの?」彼女が聞いたので頷く。「では、名前のついた今日が誕生日ね」
「だ、駄目だよ! 今日は、七 月二十九日じゃない! 縁起が悪すぎるから、君がやって来た昨日の二十八日がサーファーズの十五歳の誕生日ね!」
いきなり昨日が誕生日にされる。今日が駄目だという、その変な理屈に彼女は笑っていた。別にいままで誕生日がなくても、歳が分からなくても問題なかったのだし、いまさら勝手に作られた誕生日が今日になろうが明日になろうが重要ではない。
「縁起が悪いってなに?」
「だって、729は3の3乗かける3の3乗でしょ? 絶対駄目。僕は3が大嫌いなの」
『縁起が悪い』という言い回しが解らなかったので聞いたのだが、どうして彼が嫌なのか聞かされてしまった。彼の好みなんか興味はないけど、弱みなら握っておくに越したことはない。将来的に役に立つ……かは判らないが。
そのうち彼らは俺について話し始め、それを軽く聞き流す。部屋を使う当人の意見も聞かず、カートンの色を空色の単色か柄物で揉めるのはどうかと思うが、確かにカートンなどどうでも良かったし、どっちも空色なら同じじゃないかとも思う。
「絶対単色が合うって!」彼が口を尖らせた。
「……分かったわ。良いもの、わたしはこれからサーファーズと楽しいお買い物に行くのだから。ラ・コスタは家でお留守番ね」
「やったあ! ルニエ大好き。カートンは空色に決定だね」彼は両手を上にして、掌をひらひらさせる。「じゃあ、僕が後片付けしておいてあげる。残念、天気が良くなかったら僕も一緒に買い物に行けるんだけど」
「まあ、ありがとう。お願いね。サーファーズ行きましょう」
顔を出してくれた太陽に感謝の気持ちを捧げていると、席を立った彼女が俺の手を引っ張って二階に連れていく。行きさきは俺の部屋ではなく、彼女の部屋だった。そこは彼女と同じ良い匂いがする。
珍しいものだから辺りを見回していたら、彼女はハッとした表情で棚の上に置かれていた長四角いフレイムを伏せた。
「こっちよ」
何だったのか考える暇もなく鏡の前の丸椅子に座らされ、鏡には俺の姿が映り、その後ろには彼女の姿が映る。相変わらず俺の眼は青くて、そこだけ鏡の中から浮かび上がってきているようだ。
「この制服を見ると思い出すわ」
「なにを?」自分が着ている服を見る。
「ラ・コスタがその制服を着ていたときを、よ。彼には大きすぎてぶかぶかだったけれど、サーファーズはそうでもないのね」
彼女はぶかぶかだった彼の姿を思い出しているのか、くすくすと笑っていた。多分、彼は袖と裾の長さが余っていたのだろう。俺にはあつらえたみたいにピッタリだ。
「髪をとかしてあげる……」彼女の白い指先が髪に触れ、ぼさぼさの髪が綺麗にとかされていく。
これまでは、邪魔になったらハサミを持っている奴に借りて適当に切っていたくらいで、あとは放置。いま髪は肩くらい、彼女も同じくらいの長さがあった。とき終わった髪は彼女によってしばらく遊ばれた後、最終的にスクランチィというらしい輪状のもので一つに括られる。
「はい、できたわ。……ねえ、サーファーズ。いきなりこんなところへ連れてこられて、まだ戸惑っていると思うけれど、なにも心配は要らないのよ」鏡越しに彼女の心配そうな顔が見えた。「これから学ばなければいけないことがたくさんあるはず。でも、ここには、あなたを傷付けるような人は誰もいないし、わたしのこともマムだと思って甘えてね」
後ろからぎゅっと抱き締められる。微笑んでいる彼女が目に入り、母親がどんななのか知らないけど、それは俺を安心させる温もりだった。その安心をできるだけ長く留めるために、そっと目を閉じる。
「さあ、買い物に行きましょうか」
腕が解かれると急いで目を開けて、ぎこちなく立ち上がった。彼女は薄い上着を羽織り、帽子を被っている。俺も帽子を被るかと尋ねられたが、日光を遮るよりはむしろ浴びたかったし、わざわざ彼の帽子を借りてまで被るような代物でもない。スリをする際には顔を隠すために被ってはいたが……。
階段を下りて廊下を何気なく見ると、台所の方から彼が羨ましそうな顔を半分出して覗いているのに気付く。そこで彼女には見付からないように舌を出してやったら、彼はまず驚き、それから嬉しそうにブンブンこちらに手を振ってきた。驚くのは解るが何で嬉しがるのか、彼の思考回路は難しくて理解できない。
この容易に読めない思考と行動パタンが、彼に対する不信感を抱かせるのだ。はっきりしない曖昧な判断を強いられるのは、どうも苦手である。
家を出ると迷子にならないように手を繋がれた。確かにこの辺りの地理には不案内だけど、小さな子どもでもないのに手を繋いでいる状況は、人と擦れ違うたび無性に恥ずかしく思う。
店に入り、彼女にどんな服が欲しいか聞かれたが、そこには信じられないくらいたくさん服があるのだ。全部見るだけでも気が遠くなりそうで、そう簡単に決められるはずもない。それが遠慮しているように見えたらしく、彼女は頻りにこれがどうかといろいろな服を薦めてくれた。
「ねえ、サーファーズ、このジーンズは?」
「……うん、丈夫だし。でも、もっと濃い色が良い」
「こんな色?」
「うん」
「サイズはこれくらいかしら……、穿いてみて」そのジーンズを渡される。
買ってないのに穿いても大丈夫だろうか、と心配しつつも、促されるまま小さな部屋の中でそれを穿いて彼女に見てもらった。
「きつくはない? そう、これを買いましょう」
せっかく買ってもらうのに、もしすぐ入らなくなったら悪いと思ったので、お願いして一つ上のサイズにしてもらう。それは少しぶかぶかだったが、彼女は可笑しそうに笑っていた。きっと思い出し笑いだろう。
そんな感じで、昼食を挟んでいろんな店を巡り、帰ってきたのは夕方だ。時間配分としては、店から店への移動時間と俺が迷っている時間がほとんどを占めている。買うまえから買うものが決まっていない買い物は難しい。なにを買って良いのか判らないからだ。
散々いままで使わなかった頭を悩ませたことで、家にたどり着くとどっと疲れが押し寄せる。荷物を抱え直し、疲れているのにまた彼が飛んできて話し出すのだろう、と予想して深い溜息を吐いた。しかし、その予想に反して家の中はしんとしている。彼女は特にそのことを気にしてない様子で、買ってきた食材を持って台所へ行ってしまった。
俺はとにかく持っていた荷物を置きたくて、シッティングルームへ行き、昨日から本が置かれっ放しになっているテイブルの上に置いた。テイブルの上は荷物が載せられたせいで、もういっぱいいっぱいだ。
買ってもらって履いてきたトレイナーズをサンドルズに履き替える。サンドルズはもちろん捨てた靴の代わりに貰ったものだ。
ここに彼はいない。
外から帰ってきたら手を洗え、と言われていたので、トイリットへ行く途中で通ったダイネットにも彼はいなかったから、自分の部屋にいるのだろう。
水に濡れたイヌみたいに首を振る。あいつがどうしていようが、関係ないじゃないか。
彼女は夕食の準備を始めるようだ。俺は暇なので買ってきた服を全部袋から出し、一つ一つ値段を思い出して、払われた金額とおつりを思い出したけど、今日どれだけの出費があったのかは判らなかった。現実の重みと共に服を重ねて、そのまま自分の部屋に持っていく。
肘を使ってノブを回し、足で扉を押し広げ中に入ると、せっかくちゃんと畳まれていた服を落としてしまった。
カートンが、空色とレイスのカートンが窓の前にかかっている。ベッド以外に机とか棚が置かれている。ハッと我に返り、絨毯の上の服を掻き集めてベッドの上に載せた。
青い花の鉢植えはなくなり、代わりにご丁寧にも小さい木がちょこんちょこんと二つ置かれている。机の引き出しを開けると、一つには紙とかペンとかがたくさん詰め込まれていて、ほかは空っぽだった。
そこまで確認すると階段を下りていく。さすがに彼の部屋を覗いてみる気にはなれない。台所に行くとなにかを刻む音がしてきた。
「あ……、あのさ」
「なあに? 食事はもうすぐできるから、待っていてね。そうそう、買った服は一度洗濯をするから、明日必要なものだけを取っておいて」
「お、俺の部屋、机とかカートンが……」服を全部、二階に持っていってしまったことなど忘れていた。
「ああ、ラ・コスタがしてくれたのね」
あんな貧弱なのに、机とか独りで運べるものなのか?
しばらく考えて、誰かに手伝ってもらったのだろう、という結論になる。すぐにこの発想を思い付けなかった俺も、そういった面で貧弱なのだ。よくは知らないが、買った店の人がサーヴィスで運んでくれるのかもしれない。
もうすぐ食事ができるらしいので、靴を二階に持っていき、手を洗ってきた。
台所からは、フライパンを混ぜている音が聞こえてくる。手元まで確認できないが、遠目で彼女が料理をしているのを見ていた。
「はい、簡単なものだけれど、食べましょうか」食事ができあがると、彼女も席に着く。彼がいないと、俺たち二人が喧嘩していて、できるだけ離れるように座っているみたいだ。
コメと赤とか黄色とか緑とかの欠片が混ざったものが、こんもりと形良く盛り付られたものをスプーンで崩す。黄色は卵だろう。卵以外で黄色いものを思い付けない。……バナーナが黄色だったか?
「あいつは食べないの?」
「ラ・コスタは食べられないの。でも、これからはサーファーズが食べてくれるから、作り甲斐があるわ」彼女は嬉しそうに言った。
食べられない、とはどういうことだ? 彼女の作った料理が食べられない? この料理が食べられない? それとも、……どういう意味だ?
「おはよう、買い物は楽しかった?」音もなく彼が現れ、元気のない溜息のような声で言った。
眼鏡はかけていない、髪が湿っている。シャウアを浴びてきたらしい。おはよう、と言っていたから、いままで寝ていたのだろうか。酔っ払い一歩手前みたいにひょろひょろ歩いて彼女の横に来ると、背伸びをして朝と同じように顔を近付け、振り向いた彼女の首筋に唇を当てていた。今朝はよく見えなかっただけで、もしかして、これがキス?
「コフィ淹れてあるわよ」
「本当? ありがと」
横目で見ていたら、彼はカップを持って危なっかしそうに戻ってきて椅子に座る。そのままスプーンを持ってじっと見ていたら、彼はカップを両手に持って顔を上げた。
「僕、低血圧だから……」
低血圧? いきなり何だ?
スプーンからご飯が落ちる。そういえば、食べている途中だった。
「ごめん、寝起きの僕は機嫌が悪いけど、気にしないで」
「あ……、ああ」
低血圧って、機嫌が悪いってことなのか。彼は機嫌が悪くなるとふらふらして元気が出せなくなる(演技ができなくなる?)らしい。にしても、何で一日二回も寝てるんだろこいつ。あ、そうか昼寝なのか。
「サーファーズの部屋に家具、入れてくれたそうね」と彼女。
「うん、プルーネルに手伝ってもらった。こんなことで呼ぶな、ってかなり怒っていたから、今度来るとき大変かも」彼も怒っているため低い声でぼそぼそ喋っている。
「プルーネルって誰?」
「今度紹介するから、どんな人物かは会えば分かるよ」
会えば分かる? 単純に言ってくれるが、俺は昨日から彼と過ごしているのに全く解らない。それなのに会えば分かるわけがない。だからきっと、そのプルーネルと会っても全然分からないだろう。
「顔に似合わず彼、寂しがり屋なのよね」
「あはは、気難しくて、短気で口煩いくせにね。……でも、ルニエは気に入られているじゃない?」
「そうかしら」
「以前、ルニエに褒められたって、嬉しそうに自慢されたもん」
「わたしに……? いつのこと?」
「えっと、そのあと結婚するなら絶対ルニエにしろとか言われたから、多分あれは君が……」彼は眼球を軽く漂わせ、じっと見ていた俺に気が付いた。「あ、ごめんね、サーファーズ。こんな話つまらないでしょ」
返事に困る。ちょっと真剣に聴いていたなんて言えないし。情報収集の一環だ。
「ラ・コスタは機嫌が悪いとき、お喋りになるわよね」
「僕は相手がルニエだから、機嫌が悪くても喋るんだよ……?」
上目遣いで彼が言うと、彼女は少し頬を染め、少し俯いて、またすぐ顔を上げた。よくよく彼の台詞を考えたが、彼女が頬を染める要素があったとは思えない。
「ねえ、もう一度言って……」
「駄目」
いまにも二人で違う世界へ入っていきそうだったので、本来の目的である食べかけの食事を平らげることにする。それにしても、どうも二人の間にある雰囲気は、なにか特殊なものを感じる。
食べ終えると立ち上がった。
「あら、部屋に行くの?」
「寝る」まだ薄明るいが、暗くなったら寝るのは合理的な行動だ。
「そう、シャウア浴びて、パジャーマズに着替えてね」
「え? 毎日入るのか?」
髪を洗って身体を洗ってと、いろいろ面倒だった昨日を思い出す。あれを毎日するものだとは全く予測できなかった。食事回数と同じで、単にいままでの生活環境の違いから生じてくるズレなのかものかもしれないが。
「毎日というよりも、汗をかいたときね。お出かけしたから、汗をかいているでしょう? 体調が悪いときは無理しなくても良いし、わたしはゆっくりお湯に浸かりたいから寝るまえにゆっくり入るけれど、ラ・コスタは起きたあとシャウアを浴びるだけだわ。そうね、今日はわたしがサーファーズと一緒に入ろうかしら」
名案を思い付いたと言わんばかりに、彼女がぽんと手を打つ。俺もギョッとしたのだが、それ以上に彼が過敏に反応を見せた。
「だ、駄目だよ! 情操教育上良くないし……」
「ラ・コスタは一緒に入ったのでしょう? ずるいわ」彼女は頬を膨らませる。
「僕は服を着たまま浴室に入ったの! 狭いし、それに、ルニエは女の子なんだから……」
何だか子どもが母親を取られると思って慌てているみたいだった。
「ヤキモチ? 可愛い……。ラ・コスタも一緒に入る?」からかうように笑いながら彼女は言う。
「えー、嫌だよ。一時間も浴槽の中にいたら、僕なら倒れちゃう」
一時間? 驚いて彼女を見る。「あら、いつも長湯でもないのよ」と残念そうに呟いていたから、本当に一時間も入ることがあるらしい。思い出してみるが、一時間もすることがあっただろうか。少なくとも俺であれば、髪を一本一本洗ってみるとか、シャウアの水にしばらく打たれてみるとかでもしない限り、それほどの時間を潰すことは無理だ。
「僕はシャウア派なの。お湯に漬かるとすぐに逆上せて駄目なんだ」
「大丈夫よ。だから、あまり熱くないお湯を半分くらい溜めて半身浴をするの」
「え~? やっぱり体温調節機構が狂っちゃうって」
話が分からないので溜息を吐いてそこを離れ、自分の部屋へ向かっていると後ろから彼がくっ付いてきた。彼も自分の部屋に用があるのかと思っていたら、俺の部屋の中までずっと入ってくる。
「な、なに?」
「いや、家具の使い方を一応説明しておこうかな、と思って。すぐに終わるよ」彼は入ってすぐのところにあった引き戸を開けた。「ここはウォードロウブ。上には服をかけて、下には靴とか帽子とか置いて、引き出しには下着とか小物を入れると良いよ」
反対側の引き戸を開けてみると同じだった。ただ、棚の高さが違う。彼は扉を開けてすぐの、ウォードロウブの側面にあるでっぱりを指した。
「ここにもかけるところがある。着ていた上着をしまうときは、少しかけておいてからしまったほうが良いよ」
「どうして?」
「着たあとは服が水分を持つから、少し乾かしてからにしたほうが良い。濡れたり汚れたりした服は、しまわずに洗濯に出してね。浴室のカゴか、洗濯室のカゴに入れてくれれば良いから」
彼が引き戸を閉め、視線を一度俺に向け、そして机の前まで移動する。
「本棚は本以外を入れても良いし、シッティングルームにある本もここに入れておいて良いよ。机は分かるよね? 使いそうな筆記用具は用意してあるけど、ほかにあれば言って。それと、本を読んだりするときは、この机用のラムプを点けるように」
引き出しを開けたり、指を差したりしながら、彼は適当に説明を加え、最後にラムプのスウィッチをぱちっと点けてみせた。ぱっと辺りが明るくなり、その光に俺はびびってしまう。
そうか、ここはあそこと違って、夜になっても月や星以外の光があるのか。
「なにか質問は?」なにか質問をして欲しげに彼が尋ねる。
「お前は何歳なんだ?」
「十三歳」一瞬、合った目を彼は逸らせて言った。即答された答えは直感的に嘘だと思ってしまったので、すぐにそこのところを指摘してやる。「じゅう……、十五歳だよ、もう! 別に良いでしょ? みんな歳相応に見えないって言うんだから。どうせ妹よりも背が低かったよ」
表情を変えるのまで面倒になったのか、頬を膨らませるなどで怒っていることを主張せず、むくれたような声で彼はちらっと俺を見た。さっき、妹よりも背が低いと言っていたから、もしかして彼女のことかとも考えるが、少なくても彼女は年上に見えたし、いやそもそも勝手に妹だと受け取ったけど、本当は『姉より背が低い』なのかもしれない。
「彼女は何歳なんだ?」聞くと、今度は微妙な動きがあって、彼の首と口元が斜めになる。
「女性に歳を聞いたら駄目なんだよ」
「何で?」
「女性は十代を過ぎたら、自分の歳を結婚相手にしか教えちゃいけない決まりがあるからね。歳を聞くってことは、遠回しに結婚して欲しいという意味になるんだ」
「ふーん」
なら、彼女は十代ではないのか。もっと若いと思っていた。俺の知らない変な決まりが、世の中にはまだまだたくさんあるらしい、気を付けなくては。
「協力しても妥協するな。信用しても依存するな。常に他者より優位に立ちたいと思うのなら、たとえ火の中に入れられても、中心だけは冷却しろ」突然、彼がなにかを呟く。
「なに、それ?」
「別に。ちょっと、言ってみただけ。また分からないことがあれば聞いてね」彼はやたらとにこにこしながら出ていった。
扉が閉まるとベッドの上を占拠している服をパジャーマズを一着残して全部ウォードロウブの中に押し込みかけ、洗濯をするんだったことを思い出し、明日着る分の服を取り出した。新しく買ってもらったトレイナーズは二足あり、とりあえずそれはウォードロウブへしまう。家の中では、気軽に履けるサンドルズが楽だった。
本棚や机は木でできて木の色をしていたが、カートン以外でもラムプや絨毯、目につく小物類は全部、青系の色に統一されており、これで壁紙まで青にされていたら、空の中にいる気分が味わえただろう。
窓から外を見ると、端のほうに赤く染まった雲が固まって見える。急がないと、いまにも消えてしまいそうで、そのあとに闇がやって来るのを考えれば、さっさとシャウアを浴びて眠れる体制を整えたほうが良さそうだ。暗くなってからあまり動きたくない。
パジャーマズを掴み浴室へ行って、また服を洗濯に出すんだったのを思い出して取りにいき、今度こそカゴの中に突っ込む。
昨日、教えられたとおり、浴室マットを敷き、カートンを浴槽の中に入れて、薄暗い浴室でシャウアを浴びた。裸でいても寒くはなかったが、押し迫る闇の冷たさを温かいシャウアの水が打ち消してくれる。予定どおりさっさと身体を洗って切り上げることにした。
初めて袖を通したパジャーマズは、少しだぼっとしており変な感じがする。タウルで髪を拭きながら覗いた鏡に映った眼は、やはり青かった。何度見ても青かった。
鏡の下を見て、髪を括ってもらっていたスクランチィを彼女に返さなければいけないことに気付く。おそらくダイネットにいるだろう、ということでスクランチィを手に取った。
薄暗い階段を降り、明かりが零れているシッティングルームの入り口から覗いてみると、そこにはソウファに座っている彼女の後ろ姿が見えた。安心し、近付こうとしてようやく、そのすぐ隣の背もたれ部分から彼の後ろ頭がはみ出しているのに気付く。ソウファと彼の髪の色が割りと似ていたから気付くのが遅れたのだ。二人は一緒に本を読んでいるようで、それにしても気付いて良かった。
どうせ声をかけるのなら、彼女が一人のときにしたい。
手の中のスクランチィを握り締め、部屋に戻ることにする。さっきまで忘れていたのに、疲れが不意に圧しかかってきた。ふらふらとベッドにたどり着き、注意されたようにサンドルズを抜いて倒れ込むと、あとは眠りの世界へ引きずり込まれるかのように意識が飛ぶ。
そういえば、歯ブラッシも買ってもらったのだった。
*補足 コフィ:コーヒー、ウォードロウブ:クローゼット
2012.7/30 修正
2012.9/8;9/10 表記変更