・人形と少女
「へっくしゅ」
小さくくしゃみをして、まだ水気の残る髪をタウルで再び拭く。用意された服、黒いシャートとダークグレイのトラウザーズに着替え、サンドルズを履いている。心ばかりの抵抗を試みた俺の被害を受けた彼は、俺を廊下に追い出してシャウアを浴びており、その間なにをして良いのか分からずにいた。
しかしあれは、彼が悪い。
湯を溜めたあと、目を瞑らされた状態でしばらく頭からシャウアをかけられ、頭を洗われた。自分の頭をもわもわされているのに目を開けるなと言われ、つい気になって目を開けたところ、痛い目にあった。頭を洗う、とは言われたものの、彼はもっと具体的に、いちいち手順を教えてくれるべきだったのだ。
ふと、浴室を出る際、もう一度見た鏡に映った自分の姿を思い出す。これまで、はっきりと見たことがなかった顔。黒い鬱陶しそうな髪を垂らし、やけに青々とした眼が二つ浮かんでいた。
周りの連中は、いつもこの青い眼を見ていたのだと思うと、妙な気分になる。
「どうかしたの?」
正面の部屋の扉が開き、彼女が手になにかを持って現れた。
「あ……あいつはシャウアを……」彼のことを聞かれたわけでもないのに、口ごもりながら説明しようとする。
彼女は不思議そうに浴室の中へ入り、持っていたものを手前に置く。それは着替えだった。
「ラ・コスタ、着替え、置いておくわね」
「うん、ありがとう」水の音が止まり、カートンの向こうから彼が返事をする。「ああ、ついでにタウルも取ってもらえる?」
「ええ」
彼女は洗面台の下を開け、タウルを取り出し、彼がカートンを少し開けたので、直接手渡した。用が済んだらしい彼女は、廊下に戻ってきて扉を閉める。
「あなたは、一緒に来て」
彼女は俺の手を取って階段を下りていく。さっきの彼の手はひんやりとして小さかったが、彼女の手はほっそりとして温かかった。
階段を下りてすぐの部屋へ連れていかれ、ふかふかした長い椅子に座らされる。俺がきょろきょろしていたら、そのすぐ横に彼女も座った。
「手を出して……、爪を切ってあげるわ」
寄り添うように彼女は俺の手を取り、金属製の洗濯バサミみたいなもので爪を切り始める。ぱちぱちと音がするたびに怖くて顔を背けてしまったが、しばらくするとその音にも慣れた。
考えれば、女性にこれほど近付くのは初めての経験だ。あの場所にいたのは男ばかりだったし、スリの対象としていたのは主に金を持っていそうな中年男だった。だから、稀に通りを歩いたとき横を通り過ぎるくらいで、ましてや触れたことなどもなかった。彼女の肌は柔らかくて、良い匂いがする。女の人は、みんなこうなのだろうか。
「あいつと二人で住んでるの?」しばらくの沈黙のあと、恐る恐る尋ねてみる。
「ううん、三人よ。でも……あなたが来て四人ね。もう一人は放浪癖があって、今日はいないけれど、そのうちに帰ってくると思うわ」
二人で、と言われずにホッとした。この家は、俺がねぐらにしていた簡易的な空間よりも遥かに広い。そんな家に、少年と少女が二人で暮らしているなど、想像したくもなかったのだ。
あいつと彼女がどういう関係なのかも聞きたかったが、何となく聞けなかった。彼は兄弟だろうか? まさか親子ではあるまい。それにしも全く似てないし。もう一人が誰なのかで、さらに推測できると考えられる。
爪を切り終わると、彼女は丁寧にヤスリをかけてくれた。爪切りの使い方を教えてもらい、足の爪は自分で切る。
ちょうど切り終わったころに、本を両手に抱えた彼が入ってきた。本を俺が座っている前のテイブルに積み上げ、その中の一冊を広げて見せる。そこにはいろいろな絵が描かれていた。
「これは子ども向けの図鑑。字は明日からルニエが教えてくれるから、すぐに読めるようになるよ、……多分」希望的観測を込めてか、彼は最後におまけみたいな一言付け加える。
「絵と一緒だと早く覚えられるもの、ね?」
「あ……うん……」
彼女に返事を促され、ついしてしまった。どうやらルニエというのが彼女の名前らしい。いまさらになって思い出したが、どうやら俺は、もはやここに住むことが決定されているようだ。たまたま俺を見かけたからでもなく、冗談で何でもなくて、みんな(少なくとも二人、残りの一人は知らないけど)が納得したうえでのことらしい。
何故、俺が選ばれ、ここへ連れてこられたのか解らなかったが、『あそこ』から逃げ出したかった俺だ。『あそこ』ではない『どこか』へ。それは『ここ』でも良いはずだ。
そうやって納得してみようとする。
ならば、『あそこ』よりも恵まれているだろう『ここ』で、過ごしてたとしても問題ない。逃げ出したい、と思っていただけで、なにも具体的な標などなかった。あの生活に未練すらない。
もし夢から目が覚めたら、そのときはまた、あの現実に戻れば良いだけの話だから。
そう考えると気が楽になる。
部屋の説明を受け、台所で冷蔵庫や食器を見せてもらった。冷蔵庫は食べ物などが入っているところと、怪しげな瓶がいっぱい入っているところがあって、何の瓶かと聞くと彼は薬品などだと答える。食器類はそれほどなくて、三人暮らしらしく全部三枚ずつあった。
「さて、いい加減食事にしようか。良い? 食事のまえは必ず手を洗うこと」
何だかんだで空腹を忘れており、――チョクラットのおかげだろうか? 食事をさせてもらえるなら、手ぐらい何度でも洗えそうだ。
トイリットの洗面台で手を洗うと指定された席に着く。食事をするテイブルに椅子は四つあって、座る席は彼が俺の正面、その隣に彼女、という風に決まっているらしい。とすると俺の隣の席に、いまいない誰かが座っているのだろう。
「熱いから気を付けてね」
両端に耳がついたみたいな底の深い皿が置かれる。中にはどろどろして少し灰色がかったものが入っていた。まだ湯気の出ている熱々の食事をとるのは初めての経験で、熱いものをそのまま口に入れたらどうなるのか試してみたいような衝動にも駆られる。
「なにこれ」
「ポリッジ。独りで食べられる?」笑いながら彼女が言った。
「食べ方が分からないんじゃないの? スプーンはこうやって持つんだよ」
彼は自分のカップにスプーンがなかったので、隣の彼女のスプーンを奪って持ち方を見せてくれる。ついでにすくい方も見せてくれたが、すくい上げられた茶色の液体は、小さなスプーンからカップへと、さきを争って逃げるように零れ落ちていった。
「こう?」
「そうそう」
ただ指の腹で押さえているだけのようなのに、スプーンを持つのは意外と難しくて、力が入らず、何度も落としそうになる。食べた感想は、何ともいえない不思議な味、というのが本音で、慣れない温度で舌が痺れてそう感じたのかも。ただ、俺が食べている様を物珍しそうに眺めるのは止めて欲しかった。彼は俺をじっと見ているくせに、俺と目が合いそうになるとすまし顔をして、さっきの茶色い液体をあたかもずっと飲んでいたかのような振りをする。興味津々のくせして、無関心な振りを装っているのに腹が立つ。かといって、ときおりそのすまし顔すら、ふと消えてしまう。
気が付くと、逆に俺のほうが負けじと彼を観察してしまっていた。大きな薄茶色の眼、どことなく金属に似た灰色っぽい髪、身体付きは華奢、むしろ不健康そうな色白の肌、調子に乗って話しかけてきているときの極端な無邪気さと、黙っているときのギャップが大きい。俺の様子を窺っているときは別として、考え事をしているのか、意識がどこかへ向いているらしく、表情が抜けて空っぽの抜け殻だけがあるみたいだ。
「お人形みたい……」
「え?」突然の声に驚き、声の主である彼女を見る。
「いま、ラ・コスタのことを見て、そう思ったのでしょう?」
彼が人形みたい?
……人形って何だろう。想像ができずに首を捻る。でも、彼が人形みたいなら、人形は彼みたいなもので、彼みたいなものが人形だろうか。
「えー? またそんなことを言う。僕は男だし! それをいうなら、彼もじゃないの? 無表情だからピッタリ! ほら、まるで青い眼のお人形みたい」彼が心外だ、とばかりに反論。
せっかく彼が人形みたい、で納得しかけていたのに、俺も人形みたいだ、と言われて混乱する。俺が人形みたいなら、人形は俺みたいなもので、俺みたいなものが人形だろうか。突き詰めると、彼と俺が似ているということに……ならないか?
「自分だって無表情のくせに」彼女が笑いながら言う。
さらに情報が追加。どうやら人形は無表情なものらしい。俺や彼に似ていて無表情となると、少なくとも顔があるんだよな? 彼の表情がときどき消えることは同意しても良いが、そもそも、自分が無表情だという自覚はなかった。感情があまり顔に出ていないとしても、よく判らない。
「僕のどこが無表情なのさー」彼がぷっくりと頬を膨らませる。
「あら、違うかしら?」
「こんなにも表情豊かなのに?」さらに彼が眉をひそめて唇を尖らせる。
それでも認めようとはせず、笑っている彼女に彼は不満そうだ。
二人が喧嘩もしくは馴れ合いを始めてしまったので、置いてけぼりを喰らう。今日逢ったばかりだから、彼らの会話に加われるはずもない。いや、そもそも俺は彼らの話に加わりたいのか?
ちょっとショックだった。
「ねぇ、本当に君も僕が人形みたいって思う?」まだ不満そうな表情のまま彼が言う。
俺はまだショックを引きずったままスプーンを皿の上に載せ、ぎこちなく視線を逸らす。彼女はまだ笑っているままだった。
「人形ってなに?」
気持ちをリーセットするべく、想像するのは止めにして、人形とはなにかを尋ねてみる。正確なところを知らなければ答えられないというよりも、少なからず俺に似ていると言われた人形を知りたいとも思う。
「うーんと、人の形を模して作ったおもちゃで、小さい女の子がよく遊びに使う。だから、女の子の人形が多いかな。ね、ルニエ。うちには人形なかったかなぁ?」
「ないわ。縫いぐるみならあるけれど……」
どうやら彼は人形を俺に見せてくれようとしたらしいが、この家にはなかったようだ。小さい女の子がいない、ということだろう。
彼が残念そうに肩を竦め、再び話し始める「人形のような、って女の子に使うと、大体が綺麗とか可愛いの意味かな。子どもっぽい、っていう意味も含まれていたりもするし、どこかこう、表情がない、愛想がない様子だとか、酷く受動的な場合にも使う。人形は僕らにとても似せられて、より綺麗もしくは可愛らしく作られてはいるけど、自分の意思では動けないし、喋れないし、不思議な存在だなぁ」
彼の言葉から、頭の中で人形のイミッジが組み上がっていく。そして、それは似ている、と言われた俺自身とも重なる。
「女の子は、ごっこ遊びが大好きなの。わたしも昔したわ。人形にそれぞれ役割を当てはめて、自分で動かして話しながら遊ぶのよ。でも、男の子に言っても解らないかもしれないわね」彼女がくすっと笑った。
「最近では遊び目的の人形でなく、鑑賞用として精巧に作られた人形があるんだよ。ルニエが僕に似てるって言ってるのは、それのこと。……だよね?」
観賞用の人形? 自分の意思では動けない人形を見る? それはつまり、俺に人形としての存在を暗に求めている、ということ?
思考が混乱し、動けなくなる。
動けない……、俺は人形なのか?
「そうそう、展覧会の小冊子があったから、あとで見せてあげるね」
なにか応えようとしたが、言葉が出なかった。
喋れない……、俺は人形なのか?
「いろいろあって疲れたでしょう? 少し早いけれど、今日はもう休む?」
気が付くと、目の前で彼女が笑っていた。
もしかすると、彼が俺に求めてるのは人形なのかもしれない。
「あ、君の部屋は用意してあるにはあるけど、まだ全部片付いてなくて……、ごめんね」
これが人形遊びの一種で、彼は俺という新しい登場人物が欲しかったのだろう。だから、優しくしてくれるのだ。
「あら、あの花以外は片付けてあるわ」
だが、そう考えるとしっくりときた。彼に俺を連れていきたい理由を尋ねたとき、欲しいのだ、と答えていた。最後まで聞きはしなかったけど、きっとあれは、『人形が欲しい』だったのだろう。
関係ない。俺はただ、『あそこ』じゃない『どこか』へ行きたかっただけだ。
「本当? それじゃあ案内してあげるから、来て」
人形の話題が出た正確なところを知らないまま、頭の中で想像がどんどん膨らんでいく。人形みたいだと言われたことで、どんどん自分が人形に近付いていく気がした。人形は青い眼をしていて、心を閉ざし、目を閉ざし、耳を閉ざし、それでもどこかで温かい光を欲している存在なのだろう。俺があの場所を抜け出したかったように。
彼は椅子から立ち上がり、空になった皿にスプーンを置いた俺の腕をさっそく引っ張って二階へ上がる。すぐに折れて突き当りにある部屋へ連れていかれた。
二階にあるのは、どうやら浴室以外は三部屋であるらしい。彼が扉を開ける。
「今日からここが君の部屋」
そこに踏み込んだ瞬間、なにか不思議な感覚を味わう。それは、最初この家に入ったときに感じたものより少し強く、ふわりとどこか別の世界に足を踏み入れたような、不意に眠気に襲われるのに似たような感じだった。
「浴室の横が僕の部屋、君の隣がルニエの部屋」
俺に着せる服を捜しにいった部屋と、彼女が出てきた部屋を思い出し、どちらがどちらか理解する。
扉を抜けてより明るい方を向いた。日が傾いている。見せられた部屋は広くて驚いた。窓が二つ。一つは少し張り出していて、そのスペイスには青い蕾をつけた鉢植えがたくさん置かれ、その前にベッド。もう一つからはヴァランダが見えたが、窓枠を乗り越えていかない限り、ここからは出られないようだった。
呆然と立ち尽くす。話したいことが口のこんな近くまで出てきているのに、どうしてか口が動かない。これは俺が人形だと気付いたからだ。
彼の声だけが頭の中に響いてくる。
気が付いたら俺は、独りで部屋の扉近くに立っていた。手には彼が言ってた小冊子らしきものを持っていたが、いつ受け取ったのか覚えていない。辺りは静か。この静けさはまるで、なにかに似ていた。
無性に笑いたくなった。部屋の扉を閉め、まず、ベッドが動かせるようだったから、渾身の力を込めてできるだけ真ん中へ移動させる。隅は嫌いだ。俺はそこに仰向けになって寝転ぶ。なにもない天井から、ひょっとするとなにか落ちてきそうな気がした。
そのまま眠ってしまいそうなベッドの軟らかさに誘惑されながらも、頭の中を整理する。主にあの二人のこと、自分がここに連れてこられた理由、これからどうするかについての考え事をする。部屋までも用意されているということは、質の悪い冗談でもない限り、本気で俺を受け入れてくれるつもりらしい。
リヴァイアサンとか云々、に関してはあまり信じていなかった。彼が青い眼の人形を欲しがっており、そこへ青い眼の俺の存在が浮上するが、俺がこの話に興味を示さなかったということで、なにかそれらしい理由をでっち上げたつもりだったのだろう。
そのうち薄暗くなってきたので、絵が見えなくなるまえに小冊子を見ておくことにした。ベッドに寝転んだまま、今度はうつ伏せになって真っ青な表紙を捲った。文字は数字を少ししか読めない。絵のないペイジはさっさと飛ばし、ようやく人形と思われる写真があるペイジにたどり着いた。
本当にそれは生きているかのようであり、かなりの衝撃を受ける。
表紙と同じ真っ青な髪の色をした女性の人形だった。しかし、彼女には脚がなく、魚みたいな尻尾が生えている。人を模しているといっても、上半身だけだということか。人形は脚がないらしい。これだと、人形が生きていたとしても当然のこと、歩けないだろう。
人形は俺に姿形が似ているわけではない。俺には当然ながら尻尾は生えているはずもない。彼は無表情なところが俺に似ている、と言ったが、笑っているのでもなく、憂えているのでもなく、不思議な表情をした人形の持つ雰囲気とは似ていない。
彼が人形みたいだ、というのは、写真を見て納得した。それらはまるで生きているかのように見えるけれど、生きてはいない。反対に生きているものには持ち得ないような美を持っている。まさに彼は、生きながらにしてその美に似たようなものを持ち、表情が消えるあの瞬間は、心を失ってしまったかのようだ。
一方で、自分自身と人形との共通点・類似点を何度も探したが、どこも似ているようにさえ思えなかった。俺は人形だと頭の中で認識してしまったのに、どうして人形なのか解らないなんておかしすぎる。しばらく考え、そのうちどうでも良くなった。
俺は彼にとってだけ、人形なんだろう。たとえ彼の玩具として迎え入れられたのだとしても、逆にチャーンスだと、むしろ利用してやるくらいに思えば良いのだ。
辺りはもう暗くなってきた。ふと窓のほうを見ると、鉢植えの花がいつの間にか咲いている。月明かりに照らされて、青っぽい色が見えた。
身体が動かない。辛うじて口を開き、大きく息を吸い込んだ。ああ、身体が重い。瞼が重い。沈んでいく。
強烈な、甘い匂い。
2012.7/28 文字修正
2012.7/30 修正
2012.9/8;11/26 表記変更