【結果】2
先生と二人きりになり、そういえば、医学学校へ行くようになって、満月と俺が帰ってくる日が合わなかったので、随分と久しぶりに先生に会うのだと気付く。
「ミラベルとは、仕事で知り合ったんですか?」
「違うよ。ベルは生まれたときから知っている」コフィを飲みながら彼は言った。
家が近所で、年下の幼馴染ということらしい。
「論文というのは?」
続けざまに質問をしてみる。先生はちゃんと答えてくれた。
「僕は 妖 精 の翅とかについて研究をしているんだけど、ルニエと一緒に暮らすようになってからは忙しくて、ずっと論文にまとめていなかったんだ。それをサーフも医師になってくれそうだから、そろそろまとめておこうかと思って」
何で俺が医師になりそうだから論文をまとめるのか? という疑問もあったが、先生が妖精とかの研究をしているとは知らなかった。妖精は癒しと浄化の能力を持っているということで、それを科学的に解明しようという動きがあるということは講義で聴いている。
「ミラベルが来ていたのもその関係で?」
「うーん、まあそうなんだけど、一番の目的は、近いうちにある実験をしたいと思っていて、相談がてらに君に会ってもらおうと思ったんだ」
「実験?」
実験と聞いて、ちょっと面白そうに思えた。
「簡単に言うと、妖精の翅が人工的に作れないか、というもので、これが実証されると論文としては価値が高い」
妖精については特別詳しくないので、想像で補いながら考える。ラ・コスタの机の上で見たことがあったトンボみたいな翅の絵は、妖精のものだった可能性が出てきた。
「翅って、妖精の背中から生えてきているものですよね。それを翅だけ作り出す、なんて可能なんでしょうか?」
「理論的には可能だね。ただ、翅が単独で形を維持できないだろうから、妖精個体の背中に生やすみたいな格好になってしまうと思うかな」
頭の中で妖精らしきものを想像して、背中に翅を生やしてみる。
「妖精は、最初から翅が生えていますよね。さらに生やす、ってことですか?」
「増やすのではないよ。サーフ、まえに図書館で借りた本は読んだ?」
図書館で借りた本、といえば『妖精の世界』とかいうアレだろう。読まなかったわけでもなかったが、まあ、見栄を張ってもしょうがないので正直に答えることにする。
「はあ、図が入っている部分を中心に……」
「あのころだと、ちょっと難しかったかな。簡単に説明すると、妖精は大きく四つに分類できる。 有 翅 妖 精 、 精 霊 、 精 霊 族 、その他。有翅妖精は名前どおり翅を持った妖精。精霊は明確な実態を持たない、ただし四大精霊は例外だ。精霊族は四大精霊の力を受け継いだ種族で、それぞれ固有の生体を持つ。水精霊族と風精霊族は翅を持つけど、これは擬似翅だから着脱可能というか、常に生えているわけではない。最後に、 無 翅 妖 精 を含めるその他の妖精」
言葉だけでは解りにくいだろうと思ってくれたのか、彼はノウトブックとペンを取り出して説明してくれた。相変わらず、向かい合っている相手(俺のことだが)がそのまま読めるように反対側から書くことが上手い。
「四大精霊って、火 精 王・水 精 王・風精王・地精王ですよね」
「そう、精霊魔法は彼らの力を借りて使う魔法だよ。さっきの話に戻ると、鳥は前肢が翼に変形したと言われていて、胴体と一体化しているけど、有翅妖精の場合、肩甲骨の間から翅が生じていて、その接触点は限りなく小さい」
だんだんと小難しい話になってくる。
「解りにくいかな?」くすっと笑って先生が言う。「稀に、翅を持たない有翅妖精がいるんだ。不思議なことに有翅妖精の死骸は、この翅をもたない個体しか見付かったことがない。翅を持つ個体の数が絶対的に多いはずなのに、ね。ここから、本体と翅とでは起源が違い、死亡する段階で何らかの現象が起こるのではないかと考えられていた」
「えっと、翅がある個体から翅がなくなった、とは考えられないんですか?」頭の中で何とか整理しながら質問してみた。
「いや、翅があった痕跡すらないんだ。有翅妖精に翅ができる仕組みは、いまではほとんど解明されている。その研究を応用して、翅がない彼女たちに翅を生やすことができれば、面白そうだと思わない? 翅がないと飛べないし、特に 小 妖 精 で死亡率が跳ね上がる。何だか……可哀相だよね」
まるで、先生が翅を持たない有翅妖精に(奇形ということだろうか?)同情しているかのような、それいでいて皮肉っているかのような言い方をした。
「そんなこと、できるんですか?」言いながら、この質問はさっきもしたことに気付く。
「多分……ね。もし興味があるようだったら、論文をいくつかあげようか?」
「はい」
妖精というよりも、先生が研究していることに興味があったので、もうちょっと知りたいと思い、このチャーンスに飛び付く。寮に帰るのは明日だ。今日、論文を受け取ったとして、今日・明日中には読み切れるのではないだろうか。
パスタを食べ終わり、タムブラの中の液体をも飲み干すと、それらを持って立ち上がる。すると先生もカップを置いて立ち上がった。
「部屋に行く? 論文を捜して、持っていくから待っていて」
きっと、ラ・コスタの部屋のどこかに埋まっているのだろう、と考えると可笑しくて、つい笑い顔になる。食器を流し台に置き、先生の後ろをついて廊下を抜け、階段を上がる。
「先生って、身長はどのくらいですか?」
「多分……、百七十を切るくらいかな?」彼は答えるときだけ振り返って言った。
いまの俺が百六十センタミータくらいだったので、今後の伸びがどうなるか判らなかったけど、彼の身長に近付くかもしれない。ミラベルは女性にしたら結構高かったし、師匠は先生よりもっと高いだろう。
「僕は、あまり背が高くないよ。子どものころ低かったし、後半で何とかいまくらいまで伸びたけど」そう彼は付け加える。
運動をしなかったから背が伸びにくかったのではないか、と想像する。運動をしない、というのも既に想像だが。どちらかというと、先生は部屋で本を読んでいそうだからだ。
「まあ、医師の背が高くても、特に有利にもなりませんからね」
「風の抵抗を受けて、飛ばされやすくなるくらいか……」くすくす笑いながら先生は言ったが、何の冗談なのか判らなかった。
先生はラ・コスタの部屋へと入っていき、俺は自分の部屋に入る。いまごろ発掘作業が開始されているころだろう、とにんまりしていると、比較的すぐに彼は論文とやらをもって来た。
論文なだけに、机の引き出しにでもしまっておいたのだろう、という結論に落ち着け、早速それを見てみる。それは、いくつかの論文が年代順にファイルされており、最初のものなど結構古い。ホーキングなる人物が単独、後半の三つほどがオルデスローエなる人物との連名になっていた。
オルデスローエと聞いて、絵画や人形の作者を思い出さずにはいられなかったが、あの人物とはファーストネイムのイニシャルが違っているのだった。
リポートも終わっていることだし、先生がせっかく貸してくれたことなので、論文をパラパラと捲ってみる。本格的な論文など読んだことがなく、独特の言い回しが慣れない感じだったのであるが、この論文ではとにかく専門用語が分からなくて、材料および方法の部分など、なにを指しているのか意味不明に等しい。
全体的な内容としては、普 通 妖 精と小妖精の翅脈の違いとか、精霊族の髪や眼の色について、有翅妖精の翅と精霊族の擬似翅の形態特徴についてなど。サファイアブルーという単語も出てきた。どうやら、精霊族にもサファイアブルーの眼を持つものの一つがいるらしい。こういう論文を読んでいたから、俺の眼の色についても知っていたのだろう。
図として出てきた有翅妖精の翅脈はとても綺麗で、後半の論文では実際の写真も出ていた。薄く緑がかった半透明のプラスティックフィルムのような、トンボの翅に似たものだ。
小妖精の写真もあり、綺麗な薄紫の髪と眼をして尖った耳を持つ少女がきょとんと写っていた。有翅妖精は留まると翅を閉じるが、擬似翅を持つ精霊族では常に開いている、という内容も興味深い。
まだまだ理解できなかったことがたくさんながらも、一通り読んでしまうと結構な時間が過ぎていた。あとでなにか先生に質問してみようと思いつつ、浴室に行くことにした。浴室から出ると、買い物袋を手に提げたルニエが帰ってきたところだった。彼女は荷物を片手に持ったままシッティングルームへ入っていく。俺もそのあとを追い、階段を下りる。
ソウファで先生が眠っているのが彼女越しに見えた。彼女はくすりと微笑むと、荷物をテイブルの上に置き、ソウファの隣へ座った。
俺も中に入ると先生を見る。彼は完全に眠っており、膝の上で読みかけになっていたタイトル不明の本は、パラパラと閉じてしまい、どこまで読んでいたのか判らなくなってしまう。
ルニエは先生の眼鏡を外してテイブルに置いた。彼の寝顔は無表情ながらも、どこか寂しげだ。彼女は愛しそうにそっと髪を撫で、ソウファの上にあったクッシャンを端に寄せ、彼の上半身を抱き抱えた。どうやら寝かせてあげるつもりらしい。
無抵抗な男性を、上半身と言えど移動させるとすれば、かなり重いに違いないのだが、ルニエの動作からは重そうな雰囲気は読み取れなかった。
「重くないですか?」
「いいえ、さすがにこうするくらいが限度だけれど、先生の体重、軽いもの。とても痩せているの、……ほら」
彼女は抱えたまま眠っている先生のシャットをズルズルと引き出して、背中の辺りをわざわざ見せてくれる。すごく痩せているのに筋肉質な造りで、贅肉など一切見当たらない。
ちょっと触らせてもらおうと思い、近付くと彼は目を覚ました。半分眠ったままなのか目を眠そうに瞬きながら、現在の自分の状況を理解できないでいるらしかった。
「僕は、なにをされようとしているの……?」
最もな、お言葉であった。なにしろ、ルニエに抱き抱えられて服を脱がされかけているのだ。彼はよろよろと体勢を立て直し、シャットを再びトラウザーズの中に収めた。
「先生がいかに中年肥りから程遠いかを見せていたの」
「ふーん、こういうことは本人の許可を取ってからにして欲しいなぁ」悪戯っぽく彼が笑う。「サーフは一度、見たことがなかったっけ?」
「そうでしたか?」記憶になかった。
「そうだわ! アイスクリームを買ってきていたの」
ルニエは買い物袋の中から、ごそごそとアイスクリームのカップを二つ取り出す。そして台所へ買い物袋を持っていったついでに、スプーンを二つ持ってくる。アイスクリームとスプーンを一つずつ俺に渡すと、先生をソウファの隅へと追い詰めるように押しやり、そこへ座れとばかりにどうにかスペイスが開けられた。
半ば義務化されたかのごとく、ルニエの隣に座り、アイスクリームのカップを開けた。
「今日、プルーネルかベルが来ていたでしょう?」
「ええ、ミラベルが来ていました」何故、判ったのだろう?
これまで何度もアイスクリームを食べる機会はあったが、ルニエはいつもアイスクリームを二つしか買ってこない。彼女の分と、俺の分だ。先生が来ているときであることが多かったが、いつも先生の分は買ってこないのである。
「あら、ベルに会ったのね」
「どうして判ったんですか?」
俺が貰ったアイスクリームは柑橘類のソースがマーブル状に入っていた。甘酸っぱい感じで、なかなかおいしい。先生は俺たちがアイスクリームを食べるのを嬉しそうに、――というか、微笑ましそうに? 眺めている。
「匂いよ。甘い匂いがするの」
「ああ、あの蜜の匂いですね」
そういえば、師匠もよくあの蜜を薄めたものを飲んでいる。だからか、なるほど。二人ともあれが好きなのだろう。
コフィの匂いから自分を連想してもらえるようになりたいものだ、と密かに期待したが無理だろうな。アイスクリームを食べながらあれこれ考える。カップの縁に近い部分は、徐々に融け始めてきていた。
「はい、先生」ルニエがスプーンですくった一口分を先生に食べさせる。
この、なにかの儀式みたいなものも恒例で、先生はこの一口の味見で終わりらしい。大量のアイスクリーム摂取は医師に止められているのだろうか? って医師は彼自身であった。
「ありがとう」
彼はにっこりと微笑み、そしてこの次にうたた寝を始める、というのも恒例である。アイスクリームを食べると眠たくなる体質かもしれない。両腕を胸元で組み、少し俯き加減で、まるで考え事をしているかのようなポウズで動かなくなった。ルニエは、そんな先生にはお構いなしでアイスクリームを食べている。
「先生はね、いきなり背後に立つと面白いのよ。絶対にすぐ振り向くのだから」
「眠っているときもですか?」
「彼が眠っているときに、半径二ミータくらいに近付くと、目を覚ますみたいね」
ラ・コスタも背後に立たれるのを嫌がるし、寝ているときに近付くとジェイが出てくるので似たようなものだ。以前、先生が眠っているときにいきなり部屋の扉を開けたとき、彼が飛び起きたことを思い出す。でもあれは、俺が叫んだからかもしれない。
「さっき、ルニエが近付いたときは眠ったままでしたよね」
「わたしだと、目を覚まさないの。もちろん、昔はそうではなかったけれど……」食べ終わったアイスクリームのカップをテイブルに置き、少し嬉しそうに、彼女は横で眠っている(らしき)先生の前髪を払うように撫でる。
まあ、確かにいちいち目が覚めるのであれば、一緒に寝てなどいられまい。さっき先生が目を覚ましたのは、俺が近付いたからだったのか。なるほどなるほどと、納得する。
「いまは私が側にいますけど、先生、眠っているんでしょうか?」
こちらも食べ終わったアイスクリームのカップをスプーンと一緒にテイブルに置く。カップの角には、融けたアイスクリームの液が溜まっていた。
「眠るまえに認識しておけば、途中で目を覚まさないみたいね。本人が言うには、いまはうとうとしているのですって。それにほら、体温が上昇しているから、手が冷たくないのよ」
ルニエに差し出された先生の手に触れると、いつもならひんやりしているはずの手が、彼女の手くらいの温度だった。眠たくなるときは、体温が上昇するというもんな。そういうことなのだろうか。
「へえ……、面白いですね」
彼女は微笑みながら、まるで彼の母親でもあるかのように彼を抱き寄せて額を撫でる。眠っている先生は、無表情ではあったが、どこか安心しているかのようにも見えた。
そろそろ自分の部屋にでも戻ろうと席を立つ。また、夕食まえにでも下りてくれば良いだろう。階段を軽く踏み締めながら考える。先生やルニエ、ラ・コスタらのことで一つのリポートでも書けそうだ、と。考えてみると、それも面白いかもしれない。
俺がこの家に来てからのことを、主に俺に影響を与えたであろう出来事を中心にまとめる。彼らとの出会いが俺に与えた影響は大きい。自分を分析する上でも役に立つだろう。
扉を開け、椅子に座り、机の上にリポート用紙を広げた。タイトルは……?
思い付かなかったので、ひとまず飛ばす。さっき読んだ論文を思い出しながら、まずは【目的】と書いた。このリポートにおける目的とは何だろう? 目的を見付けることか?
まあ、多分俺は純粋に、あそこじゃないどこかへ行きたかっただけなのだろう。だから、反発しながらも扉を開いた。
【目的】を簡単に終わらせる。【材料】ここでラ・コスタとルニエが登場して、俺は変わり始めるのだ。あの日の出来事をついさっきのことのように思い出しつつペンを走らせる。物事を知らなさすぎた過去の自分を思い出すと、つい苦笑せずにはいられない。
医学学校に入ってから、俺は一般的な基準よりも記憶力が良いことを知った。教科書なんて、二度くらい読めば丸々記憶できるのは普通で、声に出して読めば一発だった。これは勉強しているうちにできるようになったことだったため、誰でもできるのだろうと思っていた。
ラ・コスタに『0式ゲイム』の感想を尋ねられたとき、具体的にペイジ数を挙げて答えたのだが、彼もそれで分かってくれたようだったし、特に気にもしなかった。スーにも同様の感想を述べたのだが、そういえばそのとき彼女は小説を捲りながら聞いていたかもしれない。
また、特に映像と音が結びついた記憶は強く、ラ・コスタと初めて会ったときからの記憶も強く焼き付いている。自覚していなかった記憶の樽をかき回すと、記憶と一緒にそのときの自分の思考や感情が滓のように浮かび上がってきた。
医学学校に行くまで文字の練習もかねてつけていた日記もあることだし、それを参考に不必要な部分を省略して書き綴ってみる。当時は知らなかった情報をどうするか考え、やっぱりそのときの俺の率直な感想をそのまま記すことにした。シャウアの使い方とか、隠滅してしまいたい間抜けな出来事も存在するのではあるが、あえて手を加えないように努めることにする。
こうして文章に起こしてみると、俺がどんなに変わってきているかというのが改めて認識させられる。本で見た海に流れ着いたグラースの破片のように、波に揉まれているうちに角が取れて綺麗な石になるのだ。
集中して書いていたため、扉を開けて誰かが入ってきたことに、不覚ながら話しかけられるまで気付かなかった。
「ねぇ、サーフ」
飛び跳ねるように驚き、慌ててリポート用紙を閉じる。振り返るとラ・コスタが俺の驚きぶりに驚いたような顔をしていた。多分、書いていた内容は見られていないと思う。
「な……なに?」そこに彼がいる、という事実に少し驚いていた。
「ごめん、びっくりした? あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
彼の髪はしっとりと湿っており、どうやらシャウアを浴びてきたところらしかった。
「ああ……」リポート用紙を押しやり前髪を掻き上げると、指先にちくりと痛みを感じる。
「サーフって、ラ・コスタの写真を持っていたでしょ? もしかして、あれと同じペイジに挟まっていた写真も持ってるの?」
彼がどうして自分のことを今回に限って『ラ・コスタ』と呼んだのか、不審に思わなくもなかったが、それよりも一緒に挟まっていたもう一枚の写真というのが気になった。正直なところ、はみ出していたあの写真一枚を引き抜いたのだから、一緒に入っていた写真なんて知らなかった。
『ラ・コスタ』というのが彼自身のことではなくて、先生のことかもしれないとの考えは、あの写真を先生に見せたときに自分ではない、と言っていたことから否定できるだろう。
先生には、写真が借りた本に挟まっていたと答えははずだ。借りていた本に挟まっていたのなら、そのペイジを開いたということになる。それならば、一緒に挟まれていたらしいその写真も一緒に見付けているべきだ。
嘘がバレる……!
「い……いえ、持っていませんよ」
顔の前で両手を左右に振る。誰の写真? なんて、聞きたくても聞けない。
「そう、確かめてなかったから、あとで確認してみるよ。あ……」彼の視線が俺の手に注がれる。
「え? 何ですか?」
彼は俺の左手首を掴む。ちょうど肘を曲げたときの掌の位置は、彼の顔の前くらいにやってくる。人差し指の先が少し切れていて、小さな血球がぷっくりと溜まっていた。
「血だ……」
「ああ、さっき紙で切れたんですね」写真から話がそれたのでホッとする。
が、ここでラ・コスタは思いも寄らぬことに、その指の血をペロリと舐めた。思わず腕の筋肉が硬直し、彼が放した手をサッと彼から遠ざける。恐々と指をあらためると、血は止まっていた。
「サーフはB型かぁ……」そんな彼が呟く。
ドキッとした。確かに、実験で血液検査をしたところによると、B型だった。だが何故、このタイミングで言うのだろう? さも、血を舐めたことによって血液型が判明したかのようではないか。
「ラ・コスタは何型ですか?」
先生と呼ばなかったため、彼は不満そうに口を尖らせる。
「僕は嘘吐きなF型」
嘘吐き……?
頭の中ではグルグルと血を舐めたという行為が回り、またしてもあの恐ろしい仮説が呼び覚まされる。
ルニエにするキスが食事ではないか、というアレだ。いまなら尋ねられそうな気がした。急に緊張してきて、手がじっとりと汗ばみ、喉が干上がってくる。第一声は掠れ、声にならない。
「せ……先生の食事って、ルニエですか?」
わざとらしく、先生と呼んでおく。彼は口元を片方だけちょっと上げ、くるりと 踵 を返した。そして半分くらい振り返り、言った。
「うーん、半分くらい正解。完全回答を期待しているよ」彼は部屋から出ていく。
本当に、本当にあれが食事だった可能性が高まった。半分、なにが当たって、なにが外れたのだろう。具体的なものを指摘しろ、というのだろうか?
机の端に置いてあった鉛筆が転がって落ちる。そして、削ったばかりだった芯はポッキリ折れて、どこかへ飛んでいってしまった。俺の中のなにかと一緒に、どこかへ。
2013.3/2 ルビ修正




