実験Ⅶ.神か、オオカミか?5
部屋に戻って数学の問題でも一問解こうとペンを取ったとこまでは良いが、運悪く途中で躓いてしまい、あれやこれやと試行錯誤しているうちにアヴァンの中にある物体のことなどすっかり忘れて、その問題が解き終わったあとも次々に問題を解くのに没頭してしまったのだ。そのパートを全て解き終わり、答え合わせをしているときだった。ようやくそれを思い出したのは。
あ、と思って立ち上がりかけて、どうせなら全部終わらせてから、と座り直して回答と照らし合わせを続ける。
そして、再び台所に行ってみると、既に中身は取り出されていたばかりか、アヴァンも冷え切っていた。ダイネットではラ・コスタが本を読んでいる。テイブルの上にはカゴに盛り付けられた、ぷっくりと膨らんだケイクとソウファから移動された花束が載せられていた。
何故ここまで状況が変化し得るのか? 答えは簡単である。
答え合わせをしているときに納得のいかない問題があって、気のすむまで類似問題を解いていた自分が悪いのだ。これでもう応用問題が出ても怖くないぞ! と納得できたら、こうなっていた。
いくらアヴァンの中を覗いても、膨らんでいく過程記録されているのでもないので、ここはさっさと潔く諦め、いまさらまた二階に上がっていくのも何だし、しばらく休憩でもすることにする。本を読んでいるラ・コスタの後ろを通ったときに何気なく彼の読んでいた本を肩越しに覗き込んだ。
彼は非常に驚いたようで、飛び上がりそうなくらい身を反らせ、反動で手からは本が落ちて肘を肋骨付近に当てられる。俺が眉をしかめると彼は気まずそうに姿勢を直し、落ち着かない様子でこちらの様子を窺っていた。
少なくとも俺は不審に思ったが、ちょっと痛かった腹を押さえて自分の席に何とかたどり着く。そこで、自分が背後に立ったから攻撃されたのか、と納得する。
「ケイクマフィンを食べにきたの? ルニエが帰ってくるまで食べちゃ駄目だからね」
「分かってるよ」特別分かっていたでもなかったがそう答えた。「それより、なにしてるんだお前」
「なにって、見てのとおり本を読んでいるじゃない」
ラ・コスタは不思議そうに答えたが、その答えには納得できない。もちろんそれは彼が本を読んでいるように見えなかったからで、一見そう見えたとしても実は彼が読んでいるのが本じゃなかったからだ。
さっき問題の本を覗いてみたとき、開かれていたペイジは明らかに印刷された文字など存在せず、その下からも字は透けても見えなかった。つまり、本ならぬノウトブックだとしか思えない内容で、罫線すら入ってないから自由帳が一番近い名称であるだろう。
白い画面を見て発想でも膨らましているのだろうか。絵のないジグソーパズルが好きな彼だから、あながち可能性がないわけでもない。
「ふーん、お前にしか読めない文字でも書かれてあるのか?」
「え?」冗談で言ったのに、ラ・コスタはただでさえ大きい目を僅かに見開いた。
「冗談だって」
どうしてこれくらいの冗談が通じないんだろう? と嫌になりかけるが、彼がなにも言い返さないのが本当に驚いているからだ、とようやく悟る。
「……少し驚いた」彼は肩を上下させて口笛を短く吹く。「サーフ、格好良い!」
なにがだ? と素早く突っ込みを入れたくなった。他人の理解を考慮に入れない中途半端な発言は、是非とも控えて欲しいもんだ。しかし、他人と距離を置くのが彼の望みかもしれないので、そういった面では成功しているかもしれない。
「はいはい、そりゃどうも。ついでに俺のどこが格好良いのか具体的に説明していただけるとありがたいんですけどね」
「え? サーフの良いところ?」話題に乗ってきたとみえて、少しだけ考え込むようにラ・コスタが首を傾げる。
「具体的にな」
いつも抽象的な表現が多い彼だから、前もって何本か釘を刺しておく。保険をかけて、さらにもう数本刺しておいたほうが良いだろうか、とすら考える。
「そうだねぇ、夜光虫みたいなところかな?」
「どういう意味だよそれ」
風船から空気が抜けるような溜息を故意に吐きながら、悲しい気持ちになってくるのを必死で押しとどめた。彼はどうやら糠らしい。いくら釘を打ったところで効果がないようだ。
「夜光虫って単細胞ながらに光るでしょ? 全体的に大したところがなくても、なにか光るものを持っていることは素敵なことだよね」
全体的に大したことがない、と明言している辺りで既に褒めてないうえに、単細胞は貶しているに違いない、と思いはしたが、本人にその自覚がないのも明らかに思えたので、仕方なく少し角度を変えてみる。
「俺の光ってるものって何だ?」
「眼……かな」
「……それって、褒めてるのか?」
どう考えても眼が青いしか取り得がない、としか解釈できない。
「褒めているでしょ」
「でも、眼が青ければ俺じゃなくても、誰でも良いってことだろ?」
褒めてないのではないかと因縁をつけられたのが不服そうだったラ・コスタだが、さすがにこれには考え込んでしまう。
「そっか……、そういうことになるよね。でもサーフは実際に蒼い眼で、しかもその中から僕が選んだのだし、厳密には誰でも良かったわけでもないけど」
自分の多重人格云々のときには、まさに彼じゃないと駄目とか言っていたくせに、俺のことになるといい加減な扱いにされている。誰でも自分が一番可愛いのは当然か? と、一般的な認識を採用してみるが、逆に虚しくなってくるばかりだ。
確かに、ラ・コスタが言うように偶然とはいえ現に俺が選ばれてしまったわけであるし、過ぎてしまったことを悔やむように、起こらなかったことをいくら想像してみても無駄だろう。同様に、彼の変わった考え方を一般的な方向に修正しようとしてもズレが多すぎて、こちらが許容するほうが遥かに効率的だ。
「じゃあ、ルニエも青い眼じゃなかったら一緒に住んでいなかったかもしれないってこと?」
「ルニエは……」彼は首を十五度くらい傾ける。「別に……、眼が青いから一緒にいるんじゃないよ」
「俺とは……、青い眼じゃなかったら一緒に住んでいなかったかもしれないんだろ? ふーん、ルニエはそれとは関係なしにねえ、ふーん」
いくら彼がこういう奴だと解っていたところで、やっぱり不公平ではないかと思わずにはいられない。それとも、ただ単にここでも一番になりたいだけなのか?
「仕方ないよ、僕にとってルニエの側が居心地良いんだから。サーフも無条件に安心する場所があるでしょ?」
「まあね」
溜息交じりの返事を返し、例えば俺にとって良い香りのする木の下とか、一面に広がるトゥリフォリウムの草むらとか、真っ青な空の見える場所とかと半ば混同されているルニエに同情した。同情したところで彼女はなにも変わらないんだろうけど。むしろ、同情されていることにすら疑問を抱くかもしれない。
俺から見るとかなりおかしいのに、当事者たちが納得しているのだから、本来なら王道の意見が邪道な扱いとされてしまう可能性も多々ある。
理不尽だ。かなり理不尽だ、けど、これを許容してしまうしかないのだろうな、と自分自身に魔法をかけよう。
「あ、ルニエが帰ってきた」持ち上げかけたカップを置いて彼が言った。
そんな気配などしなかったので言ってみただけかとも思ったのだが、しばらくすると本当に玄関で音がする。主人が帰ってくる気配を嗅ぎ付けるイヌのごとく、鋭い感覚を発揮するものだ。誰でも人を待っているときはこれほど敏感になるものなのか。
満足したようにゆっくりとコフィを口元に運び、彼はいつものように飲んでいるのか飲んでいないのか判断がつきかねるような動きをしていた。ルニエは直接ダイネットにはやって来ないで、一度自分の部屋に行ってしまったようだ。
落とし穴に誰か引っかからないか待ち切れない悪戯っ子のように、ラ・コスタは両手でカップを維持したまま脚を落ち着かない様子でぶらぶらさせていた。ときおりその足先が俺の膝に当たる。これは宣戦布告をしているとしか思えない。とはいえ、仕方なく脚の位置をずらす。
「いま帰ったわ」
長いボトルがはみ出している買い物袋を抱えて入ってきたルニエは、真っ先に目ざとく机の上の花束に気が付いた。彼女の口元が嬉しそうに綻ぶ。
「ルニエ、誕生日おめでとう」
側にやって来たルニエの頬に、そっとラ・コスタはキスをした。
「まあ、ありがとう。パパヴェルは高かったでしょう? 嬉しいわ」
ラ・コスタは、今日がルニエの誕生日のような発言をした。
ひょっとするとやっぱり、今日がルニエの誕生日なのだろうか? そうすると今日が特別な日というのは、今日が彼女の誕生日であるからで、だから彼はわざわざ外出して花束も買ったし、ケイクも焼いたことになる。
つまり、誕生日はその人が生まれた日(俺の誕生日は別定義だが)なわけで、それを毎年祝う習慣があるということになるのだろうか。祭りに大騒ぎをするのは知っているが、それとはまた違った内輪的な祝い事をする決まりがあるのであれば、まえにスーに誕生日を聞かれたのも特別な意味があったに違いない。もしかすると、俺もそのとき彼女の誕生日を聞き返さなければいけなかったのだろうか。そうだとすれば、誕生日を聞いてきたあとに彼女の機嫌が悪かったことも説明がつく。まさか、誕生日に歳が一つ増える区切り目以外の役割があるとは思いもしなかった。
するとすると……、俺もルニエになにかあげるべきだったのでは? 花は言われたから選んだけど、事前にこの辺りを知っていたら花束代にいくらか出したのに。
かなり困り気味で考え込んでいると、ラ・コスタが一瞥してある提案を投げかけた。
「サーフも今日くらいはルニエにキスしてあげれば?」
「あら、そうね」
瞬時で提案は採用され、腕に抱えて眺めていた花束を持ったままルニエはテイブルを回り込み、僅かに身体を屈めてゆっくりと顔を近付ける。間近に彼女の金色の髪と青に茶色のフィルタをかけたような左眼があった。
少し、躊躇してそれから、いつもラ・コスタがしているようにそっと彼女の首筋に唇を当てる。唇には彼女の肌と髪の毛の感触。
顔を上げたらルニエは驚いた顔をしていた。
これがキスではなかったのか、と後悔に似た焦りが沸き起こる。どうすれば良いのか、引き攣ったと思われる表情で口を動かそうと努力する。できれば彼女からさきに、なにかを言い出して欲しかった。
ところが、さきに動きを見せたのはラ・コスタだった。しかも、しばらく笑いをこらえていたのか噴出したのだ。
「ち、違うって、キスは頬にしなくちゃ」
「え? でも、普段お前はこうするだろ?」
言い返せばルニエもくすくす笑い出す。なにがそんなに可笑しいのか、分からない。
「あれは、僕じゃないと意味がないの。こういう場合のキスは頬にするんだよ。僕もさっきは頬にしたでしょ? 手は敬意、頬は好意、瞼は憧憬、額は祝福そして、唇は僕の場合、挨拶の意味を含むのかな」
結局、ラ・コスタがいつもしているキスは、どんな意味を含むのかまでは説明されていないのを指摘すべきか少し悩む。
「唇のキスって挨拶なのか。このまえスーに別れ際にされたんだけど、さよならの意味だったんだな」
「え?」
何気なく言った独り言にラ・コスタとルニエが同時に驚きの声を上げる。突然だったのでもちろん驚いた。彼女は困ったような表情で彼の様子を窺う。彼は大げさに肩を竦めた。
「ねえサーフ、多分それは挨拶の意味ではないと思うの」
「何で? 口は挨拶の意味だ、ってさっき言っただろ」
言いにくそうにまた彼女はラ・コスタを見る。
「それは……まあ、僕の場合はね。挨拶のときもあるけれど、愛情表現の一つとしてのキスも唇にするから……。一般的には多分そっち」
愛情表現? 挨拶と愛情表現とじゃ全然違うぞ。それはどうやって見分けされるものなのか? なにを基準に? 場所? 相手? 納得がいかなくて首を傾げる。ルニエはどう説明したら良いのか判らないらしく、やっぱり困った顔をして少しだけ頬を染めていた。
「文化の違いだよ」勿体ぶっていたラ・コスタが、ようやく重い腰を上げて説明を始める。ルニエはホッとしたように表情を緩めた。「国や種族によって文化は異なっている。僕らの地域ではキスが愛情表現の一種というよりも、食物摂取に由来する行為という認識が強い。親鳥が雛に餌を与えるような、お互いになにかを共有しようという自然なもので、そう握手みたいなものかな? 特別な愛情を示すときは相手の左瞼にする。唇へのキスが愛情を意味するのはその左瞼にキスした相手に対してくらいだろうね」
「要するに、お前は違うけど、世間一般じゃ口へのキスは相手が好きだってことか?」
「うん」にっこりと彼は微笑んだ。
そうか、スーは俺のことが好きだったのか? いや、そもそも付き合って欲しいと言われた時点で好きだったのか? いやいや、でもあのときはまだ会ったばっかりだったし。いや……まあ、深く考えないでおこう。うん。
「それにしてもスーは積極的なのね」スーを直接知らないらしいルニエが感心したように言う。
「彼女は極めて、自分のやりたいことがはっきりしているタイプだね。嫌なことは嫌だってはっきり言うし、やりたいことは無理にでも押し通す」
スーに対する分析はまさにその通りだと思ったが、どこでそんなにも彼女について知り得たのか謎だ。有名だと言っていたから風の噂が届くのだろうか。それとも図書館で観察済みなのかもしれない。
「あら、ラ・コスタだって遭っていきなりキスをしたでしょう?」
「あぁ、そうそう。僕は別にルニエが好きだからキスをしたわけでもなかったんだけど、ルニエにとってキスは好きな人とするものだったから、ここで困ったことが起こっちゃって。だからサーフも不用意にキスはしないようにね」
どういう困ったことが起きたのか、言われなくとも何となく想像できる気がするのは不思議だ。確かにそれは、困ったことに違いない。でも、その困った状況の延長線上にいまがあるのだ。
前例を参考にしつつ、スーを怒らさない程度に頑張っていこう。
ルニエは花束を持ったまま台所へと移動した。どうやらコフィを淹れるつもりらしく、俺の分も淹れてくれることを期待する。別にスーの影響でもないが、熱いコフィはお気に入りの飲み物だ。自分では淹れないので、ルニエがラ・コスタのではないコフィ、――つまり薄くないを淹れたときやスーの家に行ったときくらいしか飲む機会がない。だがその分、希少価値が上がって良いだろうか?
「今日は特別にワインを買ってしまったの」
「え……?」何だか嫌そうな表情をラ・コスタがした。
その表情にルニエは気付かなかったのか、単に俺だけが分かってしまったのか、彼女は嬉しそうに小ぶりの赤いボトルを見せる。その彼女とは裏腹に彼は少し憂鬱そうな仕草をした。
この後、実際にここでのラ・コスタの反応が意味するところを知るのは、それから何時間か経過してのことだった。俺の期待どおりにルニエの淹れてくれたコフィにありつけたことで僅かな疑問感も消去されたため、そこで思い出すまで忘れていたほどだ。
「ケイクマフィンも食べて良いよ」
「あら、ラ・コスタが焼いたの?」
自分は興味がなさそうに勧める彼はお座なりに頷く。ルニエは問題のケイクを一つ手に取ったので、彼女が食べるのを確認して俺も手に取る。それはスライスアーマンド入りで、甘い香りがした。普通においしいレヴァルだ。適当に作ってこれなら、大したものだろう。
「これ、なにが入ってるんだ」
「アーマンドとメイプルシラップでしょう? ね、ラ・コスタ」
彼の代わりにルニエが答え、彼も十秒後くらいに思い出したように返事をした。もしかしなくても寝てないから眠いのではなかろうか。そう思いつつ観察を続けていると、ルニエがケイクを一つ食べ終わるや否や、テイブルの上に空っぽのコフィカップを残したままふらふらとダイネットを出ていってしまった。
ちょっと可愛らしいところもある。
「なあ、今日はルニエの誕生日なんだろ? じゃあ、ラ・コスタの誕生日はいつなんだ?」
「さあ? 知らないわ、教えてくれないもの……」スプーンでカップをかき回しながら彼女は首を右側に傾げた。
彼女が彼の誕生日を知らないという事実を意外に思いつつも、教えてくれないという状況をいかにもそれらしいと納得してしまう。よーし、今度俺が先生から聞き出してやろう! ラ・コスタのことだから、日にちが気に喰わないとかそんな理由からに違いない。 三 月 三日とか 九 月 九日とか、そこらが有力だ。
ルニエは今日の誕生日で一体いくつになったのだろう? と疑問に思ったが、女性に年齢を聞いてはいけないらしいので、それとは関係ない差し障りのない会話をしながらケイクを二つばかり消費して、夕食までの数時間は勉強をすることにする。
自分の部屋に戻るまえに、ラ・コスタの部屋にある扉の隙間から彼がベッドで寝ているのを確かめた後、ルニエが夕食だと呼びに来るまでの間、買い物に行った穴埋めでもするかのように机にかじりついていた。一旦、物事に熱中してしまうとなかなか切り替えができないので、集中できるときにまとめてしておくほうが無難なのだ。
正直、あと一問で区切りが良いのにと後ろ髪を引かれる思いをしながら、呼ばれたので夕食の席に向かう。
テイブルには必要以上に作るのが面倒臭そうな、細々とした作品が並べられている。彼女自身の誕生日なので、いつも以上に手間をかけてみたのだろうか。彼女の作る料理はどれもおいしいけど、身も蓋もない言い方をしてしまえば食べてしまえばどれも同じ。結局どれもおいしいのだから、手間をかけるだけ損をしていると思われる。普段はそれほどおいしくないものが手間をかけることによって改善されるのであればどんどん手間をかけて欲しいが、もともとおいしいのなら、わざわざ手間をかける必要なんてどこにもない。
それでも、ルニエにとっては意味のあることなのだろう。
買ってきたばかりのボトルから注いだ赤い液体を飲みながら、にこやかに食事をする彼女は幸せそうに見えた。俺みたいに、料理に費やす労力についてなど考えることにすら至らなさそうな様子に、自分の卑小さを思い知らされた気がして、少しだが悲しくなる。
彼女から感じる優しさは、なにかを許して受け入れるのではなく、初めから受け入れられていて、それが認められるだけであるかのように思われるものだ。母親ってきっと、こんな感じなんだろうなと思う。
優しくて暖かくて……
俺のことを想ってくれる人。
実際に知らないから、憧れる部分もあって、現実は違うのかもしれないけど、自分の母親に特別会いたいとも思わないけど、やっぱり……こんな風だったら良いな。
酒を飲んでいるルニエの口元をぼんやり眺めながら、そんなことを考えていたら彼女に指摘されてしまった。
「なあに? わたしの顔になにかあるの?」
「え……いや、別に」
笑って誤魔化して、突然ルニエがボトルを買ってきたときに見せたラ・コスタの表情のことを思い出す。現在、彼女はその問題のボトルを飲んでいるわけだが、彼が嫌がる理由として実はかなり高い酒だった、とかの理由くらいしか思い付けない。
大体……、飲まない(というか法律的に飲めない)酒の値段がいくらくらいするものなのか知らないし、こんなボトル一本の値段なんてたかが知れてるんじゃないのか、とそのボトルを見た。
「え……?」
一瞬目を疑ったが、紛れもなくそれに違いなかった。
「どうしたの?」タムブラに液体を注ぎながら彼女が不思議な顔をする。「サーフもワイン、飲んでみる?」
答えるよりさきに、ルニエは既に三分の一くらいにまで減ったボトルの中の液体を俺のタムブラに注いだ。赤い液体は、タンブラに入っていた水で薄まった色水となる。タムブラに継ぎ足されたこともそれなりにショックだったけど、食事を始めて半ばごろというのに、アルカホルの消費速度が速いのに予想外の衝撃を受ける。
「……酒が飲めるのは二十歳からだよな?」
一応、ジンの法律を確認してみた。
「ええ。でも、アルカホル濃度が二パセント以下であれば十五歳から飲めるわ。アップルサイダなどがポピュラね」
このワインは、水で薄められて二パセント以下になったから飲める、とばかりの発言に、思わず返す言葉がない。
彼女がコフィとか紅茶を飲むときは大抵、一杯くらいしか飲まないのに、これほどの短期間にこれほどのアルカホルが消費されたなんて、おかしいんじゃないか? と改めて、まじまじとアルカホル希釈液を眺めた。
そうしている間にもルニエは、やっぱりボトルの中身を消費しているので、恐る恐る俺もタムブラを手に取って顔に近付ける。薄まってはいるといえども、液体からは微かにブドウの皮ような匂いとアルカホルの臭いがした。ゆっくりとタムブラを傾け、一口含んでみるが、当然薄いのはさて置き、とにかくおいしいと思えるような代物ではなかった。どうしてこんなものを飲めるのか疑問に思えるほど、アルカホル臭い水、それ以外の感想が持てない。
ルニエはその原液をゴクゴクと飲んでしまっているし、消毒用エサノルと同じ匂いに思わず酔いそうになりながら、もうこれ以上飲むものかと決断してタムブラを少し離れた位置に押しやった。
どうやらラ・コスタが嫌がっていた理由が、彼女が実は酒飲みだったかららしい、ということで決着をつけられそうだ。普段は飲まないけど飲み出したら止まらなさそうである。もしもボトルが一本だけでなかったら、放っておくとそれらを全部飲み干してしまうのかもしれない。
よっぽどのことがない限り、彼女には酒なんて勧めないようにしようと心に刻んでみた。
にしても……、全く酔っ払った様子がないのはかえって恐ろしいことだ。
半ば逃げるように急いで食事を済ませ、勉強の続きをするんだと無理やり自分自身を納得させて、こともあろうか今日が誕生日だというルニエを独り残して部屋に逃げ込んでしまう。
フォウンの側に飾られていたプレゼントの花束の映像が、妙に鮮やかに脳裏に焼き付いていた。
でも、ダイネットを見るまえに、ルニエを振り返らなくて本当に良かった。もし振り返っていたら、鮮明に脳裏に焼き付いていたのはきっと、その表情だっただろうから。
もう残っているはずないアルカホルの味が、舌の奥をじわじわと侵食しているような気がした。それはまえに食べたブドウの皮の苦味に、少し似てもいたし似てなくもある。どちらにしても、コフィのもたらすあの後味とは違って、マイナス方向にしか俺の感覚を引っ張らない。
どうしても消毒液のイミッジが抜けないからなのか、滅多に怪我なんてするわけでもないのに、マイナスイミッジしか喚起されないのだろう。
アルカホル類は一般に嗜好品として楽しまれているが、さっきの味見を参考にする限り俺の嗜好とは合わない。俺だけがズレているのか、ルニエが変わっているのか、好みだから人それぞれで良い……けど、前者である可能性が濃厚だ。
辛うじて今回のワインだけが合わないのだとしても、少なくともここしばらくは他のやつを試してみる勇気はない。未成年ということで、この恐るべき飲み物を原液で飲む必要性に迫られることもないだろう。
勉強する理由にかこつけて部屋に戻ったものの、机に向かってもあまり勉強する気にはなれなかった。
最後の一問を何とかこなし、ふらふらと誘われるようにベッドに倒れ込み、天井を見上げ、なにもない空間を見ていたら無性にやるせない衝動に駆られ、珍しく横に丸まった体勢を取る。思い出したようにそろそろとサンドルズを抜いて床に落とす。パタン、パタンと二つの乾いた音が鳴った。
俺の耳の奥ではその二つの音がしつこく何度も繰り返され、本が閉じては開くように、冷蔵庫を開けて閉めるように、扉が開いては閉じるように、揺れては戻る振り子のような連鎖反応、いつの間にか始まりの音と終わりの音が判断できなくなって、それは時計の秒針の音になっていた。
時計屋で見た大きな柱時計、あの秒針の音。小さな時計よりも少し無遠慮な感じのするあの秒針の音。
コツ、コツ、コツ
その秒針の音もこんどは足音に変わる。乾いた音だ。冷たい廊下を硬い靴で歩く音。機械的で、同じ歩調。
カツ、カツ、カツ
カツ、カツ、カツ……
響く、響く、耳の奥。
眠りという暗示をかけるためにヒツジを数えるように、乾いた音は俺の中に累積していく。どんどん、どんどん。そして……、閾値を超えるとストッパが外れ、俺を眠りの淵からまさに眠りへと落とし込んだのだった。
*補足 アルカホル:アルコール、エサノル:エタノール
2013.2/2 サブタイトル微変更
2013.2/8;2/11 表記変更




