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無機物的オブジクト  作者: 三谷尾だま
【材料】
3/43

・チョクラットと少年

 俺は、赤いレンガの上を歩いていた。天気はそれほど悪くもない。だが、それほど良くもない。雲がまばらに存在して、曇ったり晴れたりだ。人通りもちょうど都合の良いくらいに疎らであり、俺はポキットに両手を突っ込み、顔を僅かに伏せて、帽子のつばの下から注意深く周りの様子を窺いつつも、歩道の真ん中をぶらぶら歩く。真ん中だと道のどっちからターギットが現れても対応しやすい。


 歩道は誰が決めたともなく、片側を前進する流れになっている。彼らは、みんなこぞって道の縁側を歩きたがるので、真ん中は、俺の特等席であるかのごとく取り残されていた。どうして、それほど端を歩きたがるのか、俺には理解できない。だがおかげで、大好きな真ん中が独り占めできることには感謝していた。


 しばらく歩くと、前方から手を後ろに組み、ゆっくりと歩いてくる中年の男が目に入る。彼がかなり近付いてきたとき、ごく自然な行動に見えるよう、立ち止まって後ろを振り返った。そしてタイミングを見計らい、少し勢いをつけて再び前を向く。

 手がぶつかり、驚いてバランスを崩した彼は、尻餅をついてしまう。


「あ! ごめんなさい……」

 さも偶然に起きた事故に驚いているように装い、彼が立ち上がるのを手伝ってあげた。


「いやいや、気を付けるんだよ」彼は笑いながら去っていく。その背中に侮蔑の視線を投げ付けた。

 ここまで計画どおり。馬鹿な奴だな……。


 一瞬で抜き取った財布の重みをポキットに確認しながら、彼がられたことに気付くまえに、さっさとこの場を離れることにした。

 数歩進んだところで、今度は俺が後ろから軽い衝撃を受ける。「わ! ごめんなさ~い」ボールを持った背の低い男の子が、驚いた顔をして逃げていった。


 声をかける暇もなく、何だか取り残された気がして舌打ちをする。さっきの男もこんな気分だったのだろうか。収穫もあったことだし、彼に戻ってこられても困るし、のんびりしているわけにもいかない。俺は今度こそねぐらに帰ることにした。


 周りに工場が密集した中の狭い通路、そこが俺のねぐらで、空気は悪く薄暗く湿っぽく最悪な場所だ。

 この辺りをねぐらにしている奴は、ほかにもいるが、俺たちにも多少の縄張り意識のようなものがあるのか、情報交換をしつつも自然とお互いに干渉しすぎない距離を取るようにしている。


 ねぐらの様子は住人によって様々で、俺は以前の住人が集めてきて作ったらしい、ドラム缶と木でできた簡単な場所をそのまま利用させてもらっていた。拾ってきたヴァイナルシートを被せてはいるものの、普通に穴が開いているし、全部を覆えているわけでもないので、雨が降ったらどこかが濡れる。拾ってきて使っている服や毛布は、濡れるとなかな乾かないから、雨が降ったときは毛布や服をできるだけ濡らさないようにするのだ。


 濡らしたら厄介なのは靴もだ。あの例えようがない不快感だけでなく、毛布と同様に代えがない。随分とまえにゴミ捨て場から拾ってきて履いていた靴は、いまでは底が随分すり減ってしまっていた。抜けるのも時間の問題だろう。


 今日の収穫と相談して、思い切って店で買うのも良いかもしれない。自分に合ったサイズをただで手に入れるのは、かなり骨が折れる。それに加え、もしスリに気付かれて逃げるとき靴で失敗したら最悪だ。

 いつもの位置にたどり着くと、周りに誰もいないことを確かめ、ポキットの上に手を置いた。一瞬で目の前が真っ白になる。ポキットはぺしゃんこで、全部引っ張り出してみても、中からは小さなゴミや埃しか出てこない。いつも掏った財布を入れるポキットは同じにしていたが、念のために確認した反対のポキットも同じだった。


 必死でさっきまでの行動を振り返る。

 まさか! さっきは確かに入っていたはずだ。戻ってくる途中で落としたんだろうか? 上手くいったと安心して期待していただけに、身体中の力が一気に抜けて、へなへなと地面に座り込んだ。

 失敗したと分かったら、急に腹の虫が暴れ出す。靴を買うどころではない。


「はー、腹減った~」不満をぶつけるように要らなくなった帽子を脱ぎ捨て、壁にもたれて目を閉じて、せめて手脚をできるだけ広げた。

 不要なものを貰うか、必要なものを奪うか。それでしか、俺はものを得られない。

 貰えず、奪えもしなければ、死んでいくしかないのだ。


 もう一度、出かける必要があると思ったが、いまはその気力がなかった。

 ――そのときだ。


「チョクラットをあげようか?」

 いきなり耳元から子どもの声が聞こえたので、ぎょっとして飛び上がる。そこには、大きな目に卵のような丸い眼鏡をかけた男の子がしゃがみ込んでいた。彼は帽子を被って、さらに上着のフッドを被っている。


「お前……」姿には僅かだが見覚えが、声には確かに聞き覚えがあった。ボールを持ってぶつかってきた子どもだ。

 彼はポキットから四角い包みをいくつか取り出し、反対の袖口の上に、包みを並べて差し出した。一体なにかと思ったら、彼の上着の袖は手よりも長い。ちょうどその位置が、本来なら掌の上なんだろう。


「スリで生活しているの? 生きていくために必要かもしれないけど、やっぱり人のものを盗むのは良くないよ」彼が言った。

「な……なにを……」


 そこで初めて、さっき俺がった財布を彼が掏り返し、あの男に戻したのではないか、という一見あり得なさそうな疑いを持ち始めた。腹の虫がまた鳴る。

「要らない? これ」残念そうに彼が聞いた。


 どうやらチョクラットとは食べ物らしいので、空腹に耐え切れず、恐る恐る受け取って、その中から一つ包みを開く。出てきた茶色い物体を摘み上げ、念のために臭いを嗅いでしまう。それは、甘い匂いがした。俺は匂いに釣られ、思い切ってそれを口の中に放り込んだ。


 びっくりした。

 世の中にこんな甘いものがあるとは知らなかった。口の中の温度でゆっくりゆっくり融けていく。勿体なくて、とても噛んでしまうことができない。


「僕はラ・コスタ・キュラソウ」少年の声で、はっと我に返る。「もっとチョクラットをあげるから、僕んちの子にならない?」にこにこしながら彼は言った。


「は?」

「僕んちの子にならない?」やっぱり、にこにこしながら少年は答えた。


 もう一度『は?』と聞き返してみたが、同じ答えしか返ってこないらしい。かといって、このまま一生この繰り返しを続けるなど馬鹿みたいだ。


 彼の言っている意味は、彼の家に来い、ということだろう。しかし、その言葉の意図が全く理解できないでいた。なにしろ、その提案の仕方がまるで、以前見たことがある、少女が仔犬を拾う場面を思い出させ、似たような感覚で言っているようにしか聞こえないのだ。実際、ペットのお誘いなのかもしれない。

 俺を連れていくことで、彼になにか有利なことが発生するとは思えなかった。


「犬小屋で飼うのか?」もしかして、売られるか捕まえるための罠なのかもしれない、と逃げられるように体勢を整える。

「こういう小屋みたいなのに住みたいの?」彼は辺りを見回し、首を傾げた。「庭はないから無理だと思う。どうしても、って言うのなら、ポーチに置くことを検討してみるけど……」


 予想外に彼は真面目に答える。

「なにが目的だ……」ゆっくりと立ち上がった。

「そろそろ欲しいんだよね。僕の……あ!」


 隙を見て、不気味な少年から逃れるために走り出す。彼は、俺が逃げたので想像以上の可愛い叫び声を上げたが、想像以上の素早さで追い付いてきて、いきなり膝の裏側を足で蹴り付けられたかと思うと、続いて当て身までも喰らわされた。バランスを崩したところを狙われたので、小柄な彼のへなちょこ当て身でも呆気なく倒れてしまう。本能的に両手を突いて、何とか顔面直撃だけは避けられた。


「ね? 僕んちの子になりなよ」

 意味が解らなかった。

「ふざけるな! なに言ってんだよ、お前」

「えー?」


 睨み付けると彼は、困った顔で俺の背中に腰をかける。それほど重いわけでもないだろうに、何故か動けなかった。

「どけ……」

「嫌だ。君が僕んちの子になる、って言うまで退かない」


「どけ!」

 さっきより強く睨み付け、強く叫んだ。彼は困った顔のまま、また首を傾げ、脚を組んで俺の頬を引っ張った。あまり痛くない。


「仕方ないな。君にとっても悪い話ではないんだよ。そう、君の眼は、とても綺麗な蒼だよね」急に少し諭すような喋り方をする彼。俺が色好い返事をしないため、違う作戦に出るようだ。


「え?」

 彼から青い眼、と言われて驚く。


 俺が青い眼? まさか……。

 ブルーは間違いなく青い眼だった。だが、跡を継いでブルーと呼ばれている俺も同様に青い眼、という認識などありもしなかった。


「リヴァイアサン……って知っている? 海に住む怪物の(たぐい)なんだけど。そいつは人間に卵を産み付けてね、卵は十五年くらいするとかえり、満月の夜に宿主を喰い破る。寄生の有無を見分けるのはとても簡単で、眼の色が蒼くなるんだよ。君のような……、サファイアブルーに」彼は自分のした説明が満足そうに微笑む。


 どう反応して良いのか分からず、口元が引き攣りそうになった。

 俺を連れていきたいらしい彼が、どんな風に説得してくるのかと思えば、いきなり怪物だと来たか。宿主を喰い破る? そんなもの見たこともないし、聞いたこともないし、存在すら信じられない。


 もしかして、怖がらせておけば、彼の思いどおりになると思われたのだろうか。ちゃんとした教育を受けていれば、彼の都合良く反応していたのかもしれないが、生憎と俺には、冗談を並べているようにしか聞こえなかった。

 ついでに、自分の眼が青い、という認識がなかったのも大きい。俺は、水面などに映る自分の顔くらいは見たことあったが、どんな眼の色なのかまで判らなかったのだ。


「……俺、俺の眼、青いのか?」

「うん、青いよ。見たことないの? えーとね、深い海の蒼かな……」

 海というものが解らなかったものの、深い……青、という表現にどきりとする。だが、必死にそれを追い払った。


「信じられるか」

 ブルーの眼をちらちらと思い出す。

 きっと、子どもの妄想だ。

 ブルーは俺より年上で、どこかへ行ったまま、帰ってこなかった。


「可愛くないなぁ~。僕んちの子になれば、チョクラットもあげるし、僕が(いまし)めを解いてあげるよ」


 ――ブルーは、どこへ行ったのだろう?

 両脚を上げた反動で彼が俺の上から飛び退き、いまだとばかりに起き上がる。

「付き合ってられるか」俺よりも背の低い彼を見下ろす。


「怖がらないで……」彼はスッと手を差し出して言った。「心が、安心と不安を両極端とした範囲を常に行き来しているとすれば、最大の安心である必要はない。ただ、不安にならないで欲しい」

 何と言い返せば良いのか、判らなかった。意味が解らなかったから。


「でも、付き合ってもらうよ」腕を取られ、彼が続ける。

 思えば、さっきの台詞は、俺の気を逸らせるつもりだったのだ。


 いつの間にかがっしり腕に抱き付かれ、彼は理解できない言葉を唱えた。風が周りを包み込むように吹き、砂埃は波紋が広がるみたいに外側へ一掃される。ねぐらにかけていたシートが飛んでいってしまいそうになっている。身体が浮き上がるかのような錯覚。いや、気のせいじゃない。地面の着いていたはずの足が、どんどん宙に浮き上がっていた。


 顔面から血が抜けていくような悪寒が走る。そのままぐんぐん浮き上がり、やがて並んだ工場の屋根が見下ろせるようになった。

 上から見下ろせば、何とちっぽけな場所なのだろう。


「ちゃんと掴まっていてね、……飛 空 翔(ウィンドウィング)!」


 彼の言葉に従うのは気に入らなかったが、上手く飲み込めない現状を乗り越えるためには、とにかく振り落とされないようにしがみ付くしかなく、このまま絞め殺してやろうかと思うくらい恐ろしい体験をする。


 耳はゴーっと唸る風の音しか受け付けず、目に飛び込んでくるものは瞬く間に過ぎ去り、そこから少しでも逃れるために目を閉じた。耳も塞ぎたかったが、墜落しては元も子もないので我慢するしかない。また、大きな声で悲鳴を上げて楽になりたかった。しかし、どうしても口が開こうとしてくれなかったのだ。


 僅かに開いた唇の隙間からは風が吹き込み、口の中を乾かす。

 悪夢のような時間が終わり、やっと再び地面の上に立つことができたとき、俺はもう逃げ出す気力をも失っていた。いままでのなにかが覆されたような、気持ち悪さを押さえるのに精一杯で、ただあの恐怖から解放されさえすれば何でも良いような気分である。


「大丈夫? 気分が悪かったら遠慮なく言ってね」

 いまさらだ。だが、過ぎたからといって、遠慮などしない。


「大丈夫なわけないだろ、気分が悪い。むしろ最悪だ。何だよあれは!」掠れた声で、できるだけ一息でまくし立てた。


「魔法だよ、精 霊 魔 法(エラメントルマジック)の移動呪文。この国は城の半径五キラミータ以外なら、空飛んだりしても特にうるさく言われないから」


 小馬鹿にしたように彼は、俺の頭を撫でる。もしかして、気分が悪いと言ったからだろうか? 気分の悪さが頭を撫でただけで改善されるはずもない。なのに、楽になった気が少しでもするのが嫌だ。

 魔法や呪文という単語を耳にするのは初めてだったが、いまの段階でそれらに抱いたイミッジは、完全に『恐ろしいもの』である。今後これらが見直されることは難しいかもしれない。最初が肝心だろう。


「ここが僕の家」


 引っ張られるままに、彼の家とやらに連れ込まれる。なるほど、ポーチはあるが庭はなかった。玄関から入ると微かに甘い匂いがし、ふわっとした奇妙な感覚を味わう。きょろきょろと見回すと階段や、壁にかけられた絵が目に入った。その絵の下にある棚の上に置かれた鳥籠は、俺に見えないものが入っているのでない限り、空っぽだった。


「可愛いでしょ? 貰いものなんだ」

 可愛い、の同意を求められて、やっぱり中になにか入っているのかとじっと目を凝らして見てみるが、やっぱりなにも見えない。


「……中に何かいるのか?」鳥籠を指差す。

「え……いや、鳥籠が可愛いと思わない……?」彼は明らかに笑いをこらえているみたいだった。


 自分のした勘違いに顔が真っ赤になる。鳥籠だから中に鳥が入っている、と思い込んでいた俺が間抜けなのだ。話に聞くところによると、金持ちは皿に料理を載せないで部屋に飾るらしいし、中には、コインを使わないで飾ってる奇人もいるらしい。本来の用途に使わないとは、何のために持っているのだろうか。


 玄関扉が閉まる。……気が付けば退路を断たれていた。

 向こうから近付いてくる足音に顔を上げると、小走りにやって来る人物がいた。肩ほどの真っ直ぐな金髪で茶色の眼をした少女だ。俺より少し年上だろうか。彼女は白いレイスのついた前かけをしている。


「お帰りなさい。良かった。ちゃん来てもらえたのね」

「うん。ちょっと性格が捻くれているみたいだけど彼、喜んでうちの子になりたいって」


 何だかんだで攫ってきたくせに、思わず殴ってやろうかと思った。しかし、気分が悪いのを思い出して早々に断念。

 彼女は俺をジッと見ると考え込むような表情になる。そして、そのまま黙って上の方を指差した。彼女が指差したのは、階段の上の方だ。


「入浴しろってさ。浴室は二階だよ」彼はそう言って俺を浴室とやらに引っ張っていく。

 階段を上り、正面にあったのが浴室だった。扉が全部閉まってなくて、向こう側がちょっと見えた。


「使い方分かる? 脱いだ服は、そこにあるカゴに入れておいてくれたら良いから」念を押すように、上目遣いで彼が付け加える。――俺のほうが背は高いから。

「はあ……」とりあえず、気のない返事をした。


「ねえ……ラ・コスタ! 着替えはどうしようかしら」あとをついて上がって来た少女が困ったように口にする。

「えっとね、多分サイズが合うやつは……」


 彼らは俺を残したまま、隣にあった部屋に入っていってしまう。どうして良いか判らずに、とりあえず目の前の扉を開けてみた。小さな部屋で、洗面台とトイリットがまず目に入る。洗面台には黒髪で貧相な少年の姿があった。それは、どう見ても俺自身だ。そこに映った俺の眼は、彼が言うとおり青く、ブルーと同じ色だった。


 そのことは思いのほかショックで、しばらくその色に見入ってしまう。しばらく見ても揺るぎなく、俺の眼は青かった。

 漠然とした感情が沸き起こり、それを不安だと認めてしまうまえに 鏡から目を逸らし、視線を移動させた。洗面台の横には、おそらく彼が言ったであろうカゴがあった。


 そして、カートンレイルで区切られた小さな空間。膝くらいの高さで窪みがある変なものがあった。縁にはマットがかけられている。意味もなく、開いていたカートンを閉めて、また開けてみた。

 もしかして、ここが俺の部屋だろうか。すると、この変なやつはベッドだろう。俺の部屋じゃなければ、着替えをする部屋かもしれない。いや、服を脱ぐだけにこの広さは無駄だ。


 いまさら帰るわけにもいかず、服を着替えるのは間違いないだろう、ということで、とりあえず上半身だけ裸になった。脱いだ服をカゴに入れる。彼は、使い方がどうとか何とか言ってもいた。公園にもあるトイリットや洗面台の使い方ぐらいは解ったが、カートンの向こう側をどう使えば良いか判るはずもない。


 少し考えてみる。

 もしベッドだと仮定した場合、このマットは底に敷くのだろう。縁にかけられていたマットを底に敷いてみる。大体ぴったりだった。このアイディアを採用する。


 せっかく敷いたので、そこに入ってみた。入ってから、そういえば普通ベッドに入るときは靴を脱ぐ、と聞いたことがあるような気がしてくる。そのときは、靴を履いていなかったら、咄嗟の状況ですぐに逃げられないから不便だ、と思ったものだが、ちゃんとした家で生活していれば、逃げる必要もないのだ。

 今回は、もう入ってしまったので、指摘されたら脱ぐことにしよう。勘違いの可能性だってあるし。


 マットの上にしゃがんでみる。ここで寝たら腰を痛めそうだった。単に慣れていないからか? それとも、もっと特殊な態勢をとるとか? 辺りを見回すと壁には変なバタンがたくさんついているのに気付く。その下に蛇口のようなものがあったが、捻るところはなかった。何気なく赤いバタンを押してみた。高い音が短く鳴り、斜め上から熱い液体が俺に降り注ぐ。


 気が付いたときは叫んでいた。まさに頭はパニック状態で、いま自分が晒されている状況が理解できなかった。必死に手は、雨のように降り注ぐその液体を排除しようと動いている。だが、物理的に不可能だった。

 血相を変えた彼が飛び込んできて、今度は彼が悲鳴を上げる。


「わぁ! 服は脱いでないし、浴室マットをどうして浴槽に敷いてるのさぁ! しかも土足じゃないの! 使い方を知らないなら聞いてくれれば良いのに……」

 泣きそうな声で彼はしきりに愚痴っていたが、俺はそれどころではなかった。上からひたすら降ってくる、おかしな液体は止まってくれない。既に全身はずぶ濡れである。


「な……なにこれ」

「ただの水でしょ」

「水じゃないぞ。水みたいに冷たくない」


 俺が上から降ってくる液体は水ではないと真剣に主張していたら、彼は呆気に取られていた。

「もしかして、シャウアを浴びたことないの……? もしかして、自然に降る夕立でしか?」


 なにをそんなに驚いているのか解らないが、馬鹿にされているような気がしたので顔をしかめる。

「悪いかよ」


「ごめん……僕が悪かった。君は本当になにも知らないんだね」彼は溜息をくように微笑み、四角いバタンを押す。短い音が鳴って液体が止まる。「使い方を説明してあげるから、解らなかったり知らなかったりすることは、ちゃんと質問するようにね」


 彼は入り口をぴったり閉めると、新しいマットを洗面台の下から取り出し、カートンの下辺りに敷く。

「浴室マットは、浴槽の中じゃなくてここ。床が濡れないようにね。じゃあ、靴とトラウザーズを脱いで」


「あ、ああ……」

 言われたとおり肌にぴったりと張り付いたトラウザーズを脱ぎかけ、さきに靴を脱ぐことにした。彼は手早く上着を脱いでかけ、靴と靴下を脱いで遠ざけておき、袖を捲り上げた。よく見ると帽子と眼鏡はいつの間にか見当たらなくなっている。

 顔を流れてくる雫が目に入って痛い。へばり付いている髪を掻き揚げる。


「これは、どうしたら良いんだ?」

 脱いだ靴の扱いに困って尋ねた。


「えっと、とりあえず乾かして……」靴を手に取った彼の動きが止まる。「この靴は、もう駄目だね。新しいの買ってあげるから、もう捨てるよ。当面は……、たしかまだ使ってないサンドルズがあったかな。それで良い?」


 新しい靴に換えたいと思っていたのは俺も同じだったので、文句なく頷く。彼は靴を洗面台に置き、そして側にあったゴミ箱へ放り込んだ。


「さあ、トラウザーズも抜いて」


 促されるままにトラウザーズを脱ぎ、彼に手渡す。彼はそれをカゴに放り込み、俺を浴槽から出るように促した。下着姿で、浴室マットの上に立ち、身体から伝わり落ちる雫が吸収されるのを見て、彼が説明した位置と役割に感心する。


 彼は浴槽の中の浴室マットをくるくると巻き上げ、しばらく置いてから取り出す。そのしばらくの溜めが一体何の意味があるのか解らない。何となく、温かい風が吹いたような気がした。

 マットもカゴに放り込んだ彼は、浴槽の底に栓をする。


「じゃあ、使い方を説明するよ。浴槽に入るときは、は・だ・か。解った? ちょっと君、いつ入浴したのか怪しいから、今日はお湯を溜めるよ……。お湯を溜めるときは、栓をしてから、このスウィッチを下に切り替える」彼が言いながらそれぞれを実行し、最後に俺がさっき押してしまった赤いバタンを押すと蛇口から水が出た。「じゃあ説明するよ。そのまえに、下着も全部脱いでから、浴槽の中でしゃがんでくれる?」


 いくら男同士だといっても、何だか恥ずかしい気がして躊躇したが、嫌だと言ったところで速く脱げ、と言い返されるだけのような気もして、結局下着を脱いで自らカゴに放り込み、浴槽の中に座り込んだ。手を伸ばし、蛇口から出てくる水に触れる。吐き出され、刻々と溜まっていく水は、冷たくはなく、人の体温のような生ぬるさだった。


「ここの青いバタンで冷たい水、赤いバタンで熱い水が出る。この切り替えスウィッチを上にすると、蛇口じゃなく、シャウアノズルから水が出る」言いながら彼は、スウィッチを切り替える。

 その言葉のとおり、蛇口からの水が止まり、上から水が降ってきた。最初は少し冷たかった水は、すぐにぬるくなった。スウィッチを上にすると上から、下にすると蛇口から……、うん、解りやすい。


 彼はスウィッチを戻す。「水量は調節できない。赤いバタンの水温は、初期設定がこの温度。出したあと、ここで調節できるけど、最高温度付近は、火傷防止のためにシャウアノズルからは出ない。温度を変えてみるから、お湯を触っていてくれる?」


 ぬるい水に手を当てていると、彼がバタンを押した。音がして少しして、温かい水に変わる。もう一度彼がバタンを押した。また音がしてまた少しして、熱い水に変わる。


「どう? この温度はシャウアノズルで一応出るけど、直接浴びるには熱いと思うよ。次は……、お湯から手を離して。うん、まだ触っちゃ駄目だからね?」彼がさらにバタンを押した。今度は二度音がした。「これが最高温度。蛇口からしか出ない。こういう風に、触ってみて」彼が手に水を一瞬だけ当てるように素早く動かして見せた。


 そんな面倒なことをしなくても、さっきと同じように触れば良いのに、と思いつつも、彼の言葉に従う。

 そして、その意味が解った。

 熱い。これをそのまま浴びたら酷いことになりそうな熱さだ。


「なあ、こんなに熱い水は必要なのか?」

 触れないほど熱いのなら、必要ないように思った。

 彼は微笑む。「全力疾走したあとって……、身体が熱いよね」

 一瞬、きょとんとなる。


「は?」

 意味不明だが、まあ、彼の言っていることに同意できるとは思った。全力疾走で逃げたあとは木陰が気持ち良い。


「でも、しばらくすると冷めてくる。水も同じ。最初は熱くても、だんだんと温度が下がってくる。だから、より温度が低い水を温かくしようとするのなら、同じ温度のものを加えても駄目なんだよ。だからこれは、浴槽に溜めていた湯がぬるくなってきたときに足す用」


 どうしてそうなるのか? という小難しいことはさて置き、体感的には理解できる。彼が言うとおり、浸かっていた水の温度は高くなっているようだった。

「ふーん。じゃあ、これより熱くはできない、ってことか?」


「そうだね、この設備では無理。低い温度に足す時点で、確実に温度は下がるから、下げたくないのであれば、水を抜いて入れ直したほうが無難かな」彼が栓を指して言う。「もっとも、魔法を応用すればできるよ」


 にっこりと笑った彼。魔法、という言葉でここへ連れてこられたときのことを思い出し、彼の笑顔を見なかったことにした。

*補足 イミッジ:イメージ、カートン:カーテン、バタン:ボタン


2012.8/24 ルビ修正

2012.9/8、2013.2/11 表記変更

2013.2/25 表現変更

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