実験V.ライヴァル襲撃?1
昨日は雨だった。
俺はレインコウトを着て雨の中を走ったが、師匠は塀の上に寝転んで楽しそうに雨に打たれていた。一体なにが楽しいのか知れない。こっちはトラウザーズを膝まで捲り上げたうえに、トレイナーズが汚れるのが嫌なのでサンドルズで走っていることよりも、雨による攻撃のおかげで精神的にいっぱいいっぱいなのに。
師匠の行動は、普通に考えたところでラ・コスタ以上に読めないどころか、まさかこうするまいと嫌な予感がしたときだけ、呆れるくらい予想を裏切らないでいてくれる。よって、詳しい人となりなんて理解したくもないが、おおよそのパタン、扱い方は掴めてきた。つまり、ラ・コスタが言っていたように気難しくて短気で口煩くて……、だから、煽てて適当にあしらっておけば良いのだ。
雨こそ降ってはいないが曇り空の下、剣術を教えてもらうはずなのに走ってばっかりだ、とか考えながらやっぱり走っていた。基礎体力は必要だろうが、密かに教えるのが面倒なだけでは、と思う。
「おはよう」
シャウアを浴びてダイネットに行くと、珍しくラ・コスタがさきに席に着いてコフィを飲んでいた。台所を見るとルニエが泣きそうな顔をしてフライパンでなにかを焼いている。椅子に腰かけながら向かいにいる彼の様子を窺えば、可笑しそうにこっそり笑っていた。
「ごめんね。寝坊しちゃったの。トウストしようと思っていたら、ブレッドを買い忘れていて……」
申し訳なさそうに彼女はパンケイクを差し出す。パンケイクは、間に野菜とかが挟まれたものと、バターが載っているだけのものがあった。
彼女は、バターが載ったほうににたっぷり蜜をかけると、しっかりフォークとナイフを使って野菜入りから食べ始める。俺なんて面倒だからフォークしか使わないのに。
と思ったが、いつもはディザートとして出てくるパンケイクに、今日はブレッドの代わりということで野菜やらハムやら卵焼きやら入っていたので切りにくく、途中からナイフを参戦させた。
「ルニエ、大変そうだね。僕が食べさせてあげようか?」
急ぎつつもゆっくり食べようと必死になっている彼女をからかって、ラ・コスタがわざと真面目な顔をして言った。
「いまは駄目」
「残念、いまだけのサーヴィスなのに」
そのとき見せたルニエの表情は、まえにも増して泣きそうで可哀相なくらいだ。
「ルニエ、急いでるんだろ。ったく、ラ・コスタも悪趣味なことするなよ」
「はーい」
俺が口を挿むことが必然であったかのように、ラ・コスタは口を尖らせ、ルニエは食事に戻り、なにかを達成したような満足感だけが俺に残った。
「そうだ、今日はほど良く曇っているし、図書館にでも行こうかな」
カップを大事そうに両手で抱え、窓の外をぼんやり見ながらラ・コスタが言ったので、つられて俺も外を見る。本当に晴れていないのに薄明るくて中途半端な天気に思えた。
「それなら、わたしの借りていた本も返してきてもらえる?」
「良いよ」彼は薄い唇をきゅっと広げ、俺の部屋にある時計の長針のようにかくんと首を傾ける。
コフィを飲んでいるラ・コスタが大人しいのは、エナジィを補給している最中だからだ。電池で動く時計、アルカホルで光るラムプ、コフィで動くラ・コスタ。コフィさえ飲んでいればエナジィが補えるなら、他に食事をする必要がないのも解る。
熱で形を失いつつあるバターの雫が、パンケイクの縁を滑って皿に落ちた。それ以上バターが落ちないように全面に塗り広げ、蜜を塗ろうかどうかと考える。甘いのは良いのだが、今日のテイブルに出ている蜜は、甘い匂いがどうにも合わない。クラクラするというか……、それって危険なんじゃないかと思ってしまう。ルニエは大丈夫なのかな?
「サーフ、蜜は片付けて良いの?」
「うん」口が勝手に動く。
つまり、要らないってこと。
そういえば師匠が好きだよな、この蜜。好きすぎて匂いまで移ってしまったみたいに、彼からは甘い匂いがする。よく風に香りを乗せて髪を揺らせながら、面倒臭そうに踏ん反り返っているのだ。
そうそう、匂いついでにルニエからも良い匂いがするのだが、それはアロウマセラピィでつく匂いらしい。とても近くに行かないと判らないほど微かに、まとわり付くように。
「食べないの?」
パンケイクの欠片を刺したフォークを持ってきたまま、口を半開きにして考え事モウドに突入してしまったものだから、心配そうにラ・コスタに尋ねられる。自分のパンケイクを食べ終えて片付けてしまったルニエは、月曜日に休みを取る代わりに、本日土曜日に仕事に出かける準備をしに行っていたし、要するに彼と二人っきりだったわけで、作業の手を休めていたのを見付かったときみたいに、残念な気分でパンケイクを口の中に放り込んだ。染み込んだバターのおかげでふやけて、もうほとんど熱を失いかけていた欠片だったが、それでもラ・コスタが飲んでいるコフィよりは温かそうだった。
「僕もパンケイク作るの得意だよ。作ってあげようか?」
自慢げに、というかむしろ作りたそうに彼が言ったが、パンケイクを焼くのにに得意も苦手もあるものか。でも、もしや隠されたコツが必要なのかもしれない。いずれにしても液体(白かったからミルクが入っているのだろう)を流し入れて焼く、ことくらいしか知らないのだから。
「お前……、自分で食べないのに、よく料理なんてできるな」
「何で? 作り方は料理の本に書いてあるじゃない。その通りに作れば良いだけでしょ?」いとも簡単に彼は言った。
「けど、味見ができないんなら、上手くできたかどうか判らないだろ」
「僕の料理、まずかった? おいしくなくても僕が食べるんじゃないから特に問題はないと思うけど」
……いやいや、別に彼の料理はまずくはないが、彼の認識はまずい。
「自分で食べるなら多少失敗しても構わないけど、誰かに食べてもらうんなら、おいしいかまずいか判らないのに出すのは、俺なら心配だけどな」
「じゃあサーフが作ってみてよ」
「嫌だ」
駄目だ。話がズレてきている。溜息を吐いて、ついに空になった皿を流し台に置き、これ幸いとばかりに自分の部屋に逃げた。
もう一度、より弱い溜息を吐いてカートンを開ける。雲の端が明るいのは、もうすぐ太陽が顔を出す印だろうか。それとも、雲によって押し潰されようとしているのか。しばらく眺めていたら明るい部分はゆっくりと揺れ動き、ときおりカートンのように切れ間から光を撒きながら変動していた。全体的に曇っているというのに所々光ったり影が差したりして、まるで心のようだ。
心……そう、俺の心のようだ。
「サーフ」扉が急に開いてラ・コスタが顔を覗かせる。「準備はできた?」
キャップに加えてパーカのフッドまで被り、眼鏡着用でしかも袖の端を折った完全防備の彼は、扉の一部に張り付くようにピッタリ頬を寄せていた。
「何の準備?」
「なにって、図書館に行くんだよぉ」
扉に触れていないほうの頬がぷうっと膨れ、思わず突付きたくなる。どうやら朝食のときに言っていたのは独り言などではなく、俺に対して言った提案だったらしい。
「……必要なものはあるか?」
「いや別に」
頬が凹み、急に真面目な表情で帽子のつばを下げ、歩き始めるラ・コスタを慌てて追い駆けた。左腕に料理の本を二冊抱え、リズミカルに階段を下りて玄関を出ていく。俺が遅れるのもお構いなしにスタスタ行ってしまう彼だが、歩幅が狭いので大したことはない。
俺が追い付いたとき、初めて彼はやっと来たかとばかりに俺を一瞥した。思えば、ルニエと二人で買い物に行くことはあっても、ラ・コスタと二人で出かけるのは初めてだ。しかも、ルニエとなら彼女の背が高いけど、ラ・コスタとなら俺の背が高いので妙な感じになる。傍目には兄弟に見えるだろうか。もちろん俺のほうが兄で。
「帽子って、日差しを遮るために被るんだろ。曇ってる日に被っても意味ないんじゃないのか?」
「僕にはある。曇っていても紫外線はあるしね」
「紫外線?」
「目に見えない短い波長の光。有害で……、肌が紫外線を浴びるとメラニンを形成して防御しようとするけど、僕はアルビーノウが入っているからメラニンがほとんど形成されなくて危険なんだ」
アルビーノウ?
聞いたことがある。たしか、ナソーが自分の真っ白な髪を指して言っていた言葉だ。ラ・コスタの肌は白く、眼の色も淡い。しかしそれが、単に太陽が気に喰わないとか、面倒臭いとかで外出しないからではなく、病気のようなものだったとは意外だ。
「ナソーもそんなこと言ってなかったっけ?」
「あぁ、彼のは白ウサギの毛と同じ。色素はないけど健康的な被害はない。僕みたいな症状が酷くなると……そうだ、一人見たことがある。彼女は産毛のような髪の毛に薄桃色の眼をしていた」
「ふーん」あまりよく解らないが、適当に返事をする。彼が好きで部屋に籠もっているわけでもないことが判明しただけでも、かなりの収穫だろう。
河川沿いの歩道を歩く。のり面から河川にかけてトゥリフォリウムが一面に広がり、小首を傾げるように小さく三つの葉を揺らしていた。晴れた日に寝転がって空を見たら気持ち良さそうで、明日からはここを走ることを考えてみようか。気が向いたら、珍しいと聞いた四つ葉のトゥリフォリウムを探してみるのも面白いかも。
隣のラ・コスタはというと、トゥリフォリウムなどに興味すら沸いてこないようで、脇目も振らずせっせと歩いている。ときおり鼻歌が聞こえてきた。風のように途切れ途切れ、思い出したかのように聞こえたかと思えば、いつの間にか掻き消えている。呟くように、囁くように、ラ・コスタが歌っていた。少し寂しい曲。
「あ……」突然彼が鼻歌を止めて立ち止まる。
「なに?」
「ごめん。まだ図書館が開く時間じゃないや」
腕時計をチラッと見て、あまりにもラ・コスタがしれっとした顔で言うもんだから、斜面を突き落としてやろうと決心し、頃合いを見計らってぶつかろうと飛び出してはみたが、難なく避けられてしまったばかりか、逆に足払いを喰らわされてしまう。
「あれ? サーフ、なにしているの?」
トゥリフォリウムの絨毯の上を滑り落ちる俺に、素っ気ない言葉が投げかけられた。
舌打ち。上半身を起こしてトゥリフォリウムを振り払う。服の色が濃かったので全く目立ちはしないものの、袖や胸の部分からは草の匂いが漂ってくる。さらに横に来てしゃがみ込んだラ・コスタが、ちぎったトゥリフォリウムを頭の上から楽しそうにかけてくる。
「止めろ!」
「トゥリフォリウムの雨も嫌いだった?」袖口からトゥリフォリウムを零し、つまらなさそうに彼は口を尖らす。「三十分くらい休んでいこうか」
そのまま膝と本を抱えて斜面に座り込んでしまい、半ばズルをした屈伸運動をするように膝にもたれて俺の顔を覗き込んだ。なにか屈辱的な気がする体勢だったので、急いで起き上がって仰向けにtの字になって寝転がった。雲がブレッドの白い部分を敷き詰めたみたいに浮かんでいる。雲の隙間から覗く空が青い。いまはその青さが堪らなく愛おしかった。
ゆっくりと吹く風がトゥリフォリウムを、俺の髪を、ラ・コスタの帽子からはみ出した髪を揺らしている。緑の匂いがする、柔らかい風。
「風が出てきたね。雲が飛ばされて晴れるかもしれない」
寂しそうな呟きが聞こえる。少し同情はするが、俺としては晴れてくれるほうが嬉しいのだ。
さっとトゥリフォリウムの絨毯を風が撫でるように走る。さっきちぎられた葉が顔の上に降りかかってきた。雲間から降り注ぐ光がゆっくりと通りすぎ、眩しくてしばらく目を閉じる。
「そうだ、四つ葉」
お告げを聞いて起き上がり、とりあえず身近な場所を調べてみた。濃い緑に白く模様がついた小さな葉は、どれも三つしかついてない。それでもこれほどたくさんあるのだから、一つくらいはどこかにあるはずだ。
「ねぇ、サーフ。小葉は四枚じゃないと駄目?」
からかうようにラ・コスタが袖口からトゥリフォリウムを突き出す。覗き込んで数えてみたら何と! 四つ葉ならぬ六つ葉ではないか。
「すごいでしょ」嬉しそうに彼が微笑む。
ん……? 待てよ。こういうときは怪しいのだ。彼が必要以上ににこにこしているのは裏がある証拠。まえにもこれで痛い目に遭った。
「ちょっと貸してみろ」
「駄目、あげないよ」
「それって本当に六つ葉なのか? ほら、手を離してみろ」
「あぁ!」
無理やり開いたラ・コスタの掌から零れ落ちたのは、二つのトゥリフォリウムだった。タネがばれると彼は残念そうに手を引っ込める。
「そんなに四つ葉が欲しいの?」
「偽ものじゃなくて、正真正銘の四つ葉がな」
「ふぅん」彼は普通のトゥリフォリウムを持った手を俺の目の前に突き出す。「なら、これあげる」
押し付けられたけど、俺が欲しいといっているのは四つ葉だというのに、迷惑な話だ。わざわざ貰わずとも、三つ葉ならたくさんある。押し付け返してやろうとよくよく見たら、さっきと小さな葉の数が違う。一、二、三……四? あれ……?
「な、なにをしたんだ?」ほかの葉がくっ付けられていないか念入りにチェックしながら尋ねる。
「問題! 一番、三つ葉と四つ葉を入れ替えた。二番、初めから四つ葉だった。三番、三つ葉を四つ葉に変えた。さてどれでしょう?」楽しそうに手に持っていた他のトゥリフォリウムをちぎりながら、彼は答えてくれた。
入れ替えた? なるほど、そういう手もあるのかと感心する。二番だと単なる俺の見間違いというか見抜かりだし、三番の変える、つまり魔法で葉を増やすってことだろうから理不尽だ。
「一番の入れ替えた」
「ぶ、ぶぅー! 二番が正解。サーフに見せたとき、小葉の一枚を指で挟んでいたのでした」
騙された。夢も希望もない。ときに現実とは厳しいものなのだ、と自分自身を慰める。わざわざ目の前に突き出して見せたのは、全体的に観察させない意図があったのか。せっかく四つ葉を手に入れたのに嬉しくない。ラ・コスタはいつも一言余計というか、悪戯をして楽しむためにわざと彼の株を下げるようなことをするので純粋に喜べないのだ。そこまで手の込んだことをしなくても……。
「し……、仕方ないからありがたく貰っといてやるよっ!」半ばやけくそ気味に言う。
「良かった。僕、トゥリフォリウムって嫌いなんだよね。だから、こんなところに来ると必ず三つ葉以外の葉を探しちゃって」
そっか、3が嫌いだとか言っていたもんな。トゥリフォリウムにも適用されるとは……。惜し気もなく葉をむしりまくってた理由もつまり、そういうことか。
よっぽど俺がトゥリフォリウムを受け取ったことが嬉しかったのか、照れ臭そうに帽子のつばを押さえて立ち上がる彼。
「さて、そろそろ図書館へ向かおうか」
トラウザーズを叩いてのり面をさっさと登っていく彼を余分なトゥリフォリウムを叩いて追いかける。道の上から見下ろすと、俺が滑ったり寝転んだりしたところだけ絨毯がくっきりと凹んでいる。所々きらきら光っている水面を横目に、しっかりとトゥリフォリウムを握り締めて歩いていった。
*補足 アルカホル:アルコール




