実験IV.同胞との出会い2
不意打ちというか、予想外というか、その気の良さそうな少年が発した言語は霧がかかったようにぼんやりとしか理解できず、辛うじて自己紹介をしているらしいことが判るだけだ。
「何て?」間抜けに聞き返す。
「彼は魔人のナソーで、仲良くしてくれってさ」ニヤニヤしながらラ・コスタが通訳してくれる。「魔人というのは半特殊系種の一つだよ。通常の形態はナソーをもっとごつくして黒髪にしたような感じで、体術に優れている」
「そらあ、ほかの魔人と比べたらいかんやないですろうか。何ぼ言うたち、わては突然変異ですきにね。髪の毛んところが部分アルビーノウになっちゅうがですよ」慌てたようにナソーが言った。
どうやら、こっちが言っていることは普通に通じているらしく、多分さっきのことについて補足してくれたっぽいが、専門用語のせいか訛りのせいか、なにを補足してくれたのか意味不明だ。
「半特殊系種って?」
「人間に近い外観で、固有な能力や形態を持つ種族。一部の精 霊 族や吸 血 鬼もそう」
精霊族に吸血鬼とな? またまた聞いたことのない名称だ。もっと身近な例で示してくれれば解りやすいのに……って、問題があるのは知らなさすぎる俺のほうか。きっとリヴァイアサンとかも含まれるんだろな。どっち道、見たこともないから意味がないけど。
「ナソーはフィーの契 約 守 護 者なの。えっと、契約守護者は……、ごくごく一部で行われているマイナな制度のことで……」きっと俺が知らないだろう、と判断したのか、彼女も説明しようとしてくれる。
「マイナねぇ。キュラソウじゃあ一般的だけど、言われてみればそうかも」
「でも、ラ・ペちゃんは契約してないでしょ」
「それはそうさ。彼と釣り合うためには、冷静沈着頭脳明晰さが必要じゃないか。そんな有能であんな奴に付き合い切れる貴重な存在がそうそう見付かるはずもないもの」彼が大げさに肩を竦めた。
二人の会話を聞いていたら、ラ・コスタの話し方に違和感があった。それはなにかというと、彼の話している内容だけを聞いていれば、悪口ばっかりでラ・ペシェが嫌いなんだろうと思える。しかし、悪口の言い方がどこか仕方なさそうな、叱りながらも許してしまう甘さ、喧嘩したあとの謝れない気恥ずかしさを足して割ったような雰囲気なのだ。口では悪く言っているけど、本当はそれほど嫌いではない奴なのかな、彼にとってラ・ペシェは。
「結局、契約守護者って?」
聞いたところ、運悪くラ・コスタじゃなくてナソーとバッチリ目が合った。
「わてが説明しますき、よお聞きよってよ。契約守護ゆうたら、お互いに足らん力、補おて協力しょう、ゆうパートナ制度のことよね。ほんじゃけんど、パートナゆうたち、契約主体が主導権握っちゅう場合が多いですきに、まあ、友好的な半主従関係になるがやろうですかにや」
しっかり彼は解説してくれたようだが、やっぱり訛っていて上手く聞き取れない。協力とかパートナとか聞こえてきたから、一方的に守護されるわけではないということなのだろうか。
「うん、そうだね。例えばフィーだと魔法は得意だけど体力がないから、ナソーみたいにタフなタイプが合っている。差し詰めサーフだとパートナは呪文が使えるタイプが望ましい」
不親切にもラ・コスタはナソーの説明に解説をくれず、そのまま補足する感じで引き継ぐ。……まあ、何となく判るから良いかとも思うけど。
ラ・コスタに契約守護者がいるとすれば、彼または彼女は、どんなタイプだろう? あらゆる可能性も考えても、ルニエがそうだとは思いたくない。
まず、ラ・コスタ本人は魔法が得意で頭も切れると思われる。体力……、これはなさそうだ。そもそも彼の場合、能力が云々のまえに、性格の合う合わないが重視されるべきではないのか? 確実に好き嫌いが多そうだし、ラ・ペシェみたいな(知らないけど)奴がパートナとしてピックアップされても対人関係で破綻しそうである。
するとやっぱり、ルニエが有力な候補として浮上してきてしまうから問題だ。
そのとき、思考を断ち切るようにフォウンが電子音を立てた。一度で切れ、再び鳴り出すとラ・コスタが面倒臭そうに立ち上がり、受話器を持ち上げる。フォウンが何なのか、という説明は随分とまえに聞いてはいたが、実際にかかってきて使われている現場に遭遇するのは初めてである。
「もしもし、うん僕。……ああいるよ。フィー! 話があるから帰ってこいってさ。うん、ベルも今度会いにおいでよ、じゃあ」
興味津々で眺めていると、彼は早々にフォウンを切ってしまい、帰ってこいと伝えられたフィーヌが立ち上がる。
「やっとありかが割れたのね。よ~し、頑張るぞぉ! それじゃまたね」
「ほんなら……」
二人とも嵐のように帰ってしまい、頭を掻きながらラ・コスタは自分の席に着く。さっきの彼の言葉がどこか引っかかったが、大して深く考えもせずにとっとと諦めた。
彼がちらりと腕時計を見る。彼は文字盤を外側に填めていたので、手首を戻したとき俺にもその文字盤が見えた。でもそれは、どうやら動いていない。
「その腕時計、壊れてるんだな」
「ああ、そうなんだ。でも、僕に時計は必要ないからね」
要するに格好をつけるために腕時計をしているのか。なら、別に時間が判らなくても問題なかろう。
あたかも一日中そうしていたかのように椅子に座ったまま動かなくなっていた彼だが、いきなり顔を上げて呟く。「おまん、フィーヌに惚れたらいかんぜよ」
反射的に噴出し、それから改めて彼の無表情さとナソーの口真似がちぐはぐで笑ってしまう。俺が笑うと彼はニヤリと笑い返した。
「そんなに笑っちゃ駄目だよ。ナソーは良い子だから仲良くしてあげてね」
自分で笑わせておいて無責任なことを言う。いや、さっきまで大人しくしていたのは、密かにこれを狙っていたせいなのかもしれない。
ふっ、と笑うのを止め、気持ちを正すために咳払いをする。急に自分のするべきことを立ち眩みのように思い出したのだ。フィーヌが帰ってラ・コスタと二人っきりになったところで場は整った。
「なにか言いたそうだね。君が言いたいのは、リヴァイアサンのこと?」
「そうだ。いい加減、話してくれても良いだろ」
またはぐらかされるんじゃないかと思って、念のために睨みを利かせながら言った。ところが彼はにっこりと微笑んで、前髪を掻き上げる。
「そうだね。話をするまえに会っておいてもらいたかった人にも会ってもらったことだし……」ここで彼はコフィを一口飲む。「今日、フィーヌを初めて見た君は、一体どう思った? 彼女も同じだと、君と同じ仲間だと思ったでしょ?」
大きな目にはいつものような子どもっぽさの欠片もなく、悲しさを哀れむような寂しげな色が映っていた。息が詰まりそうで、なかなか返事を返すことができずに、何度も飲み込んだ言葉をようやく口にできたときも、彼の表情は変わっていなかった。
「彼女も……、リヴァイアサンに寄生されているのか?」
確かめるように震える声を押し殺して呻く。彼女を一目見た瞬間から心に確信を持っていたものの、こうして確かめることは怖かった。
「月に喰われたんだよ」
囁かれた答えは、耳の奥に響いて両腕を駆け抜けていく。痺れたような感覚が頭の芯にしばらく残っていた。
「リヴァイアサンは海に住む怪物だ。目も醒めるような青い鱗、海を泳ぐ美しい姿は人の心を奪うとまで言われている。彼らは生物体に卵を産み、宿主は虹彩、――つまり眼の色が真っ蒼になる。卵は十五年余りで孵化し、満月の夜に宿主を喰い破って出てくる」
喰い破る……
重く圧しかかってくるだろう俺の現実を、いとも簡単にラ・コスタは口にした。喰い破ることは死なのに……。思えば、最初の日に全く信じる気にもなれなかったこの話、どうしていまはこれほど深く刺さり込み、傷付いているんだろう。
「でも、助かるんだろ?」
「多分ね。本来ならかなり難しいけど、いまならできると思う。ルニエで実証済みだし」
「ルニエ……?」
まさか? ざわざわと頭の後ろでなにかが騒ぎ始める。
まさか! 彼女の眼が仄かに色付いているのはリヴァイアサンに寄生されていた名残だとでもいうのか?
「じゃあ、フィーヌは……?」恐る恐る聞いた。
「彼女はもう、手遅れなんだよ。寄生年齢が早かったのに加え、侵食も速かったし、僕の力不足で間に合わなかった……」
彼は悲しそうにぽつりと呟く。冷たいものが背中を走った。俺と同じ彼女の青い眼、そして青く色付き始めた髪、おそらくあの髪の色が眼と同様の色合いになったころ彼女の命は……。
ごくりと唾を呑んだ。
「力不足って、失敗したのか?」
「いや、死なないための方法を研究するのにも時間はかかったけど、手遅れになった直接の原因は、治療を嫌がるフィーヌを説得できなかったからなんだ」
「どうして嫌がるのさ」
「副作用で子どもが産めなくなる」
「副作用?」いまいちピンと来ない。子どもが産めなくなるより、死なないほうがよっぽど重要な事柄ではないのか? 単に俺が男だから、女でないからそう思うだけなんだろうか。
え?
ようやく俺はあることに気付いた。つまり、ルニエは子どもを産めないということだ。彼女に子どものように扱われるのはこの反動なのかもしれない、と納得した一方で、先生が彼女と結婚した理由はもしかしたら……、と嫌な風に考えてしまう。先生は子どもを産めなくなった彼女に責任を感じて、結婚したんじゃないかって……。
「俺は治るのか?」複雑な心境で尋ねる。
「治るよ。ただし、治してあげる条件があるけどね」彼は指を一本立て、俺は唾を飲み込んだ。「第一種医師免許準一級試験に受かること」
思わず咳き込みそうになった。
「な……、それって間に合うのか?」と言いつつ、彼が指定した試験の難しさなどは全く把握できない。
「あはは、大丈夫。サーフはさ、特定の期間以前の記憶がないでしょ? 寄生されたのはそのときだから時間はあるし、二年分くらい飛び級して最後の年に合格すれば二十歳までに一応取れるよ」
飛び級って……、何となく飛び級を前提とした話のように聞こえるんだが。他人事だと思って簡単に言ってくれる。
「もし免許取るまえに手遅れになったら、どうするんだよ」
「大丈夫だって。僕でも三年分くらい飛び級できたから、サーフにもできるよ。それに、運悪く男に寄生してしまったリヴァイアサンは著しく成長が阻害されるから、孵化までにかかる年月が縮まることはないない」
ラ・コスタはさり気なく、――もし冗談でなければ、とんでもないことを白状した。何と彼は、既に医師免許を持っているというのだ。まえに往診に行くとか行かないとか言っていたけど、あれはひょっとしてひょっとすると本当のことだったのだろうか? こんな子どもでも医者として働けるんだ……というか、一体何歳のときに免許取ったんだよ。しかも三年分飛び級してるとか言ってたし、もしや天才少年か? よく解らないので、もっと別な意味で複雑な気分になる。
「本当に大丈夫なんだな……?」
「大丈夫、僕を信じて」にっこりと彼は微笑んで言ったが、どうにも怪しい笑顔だった。「免許が取れたらもっと詳しく説明するし、君をリヴァイアサンの呪いから解放すると約束する」
しかし、ここまで言い切るのであればさすがに大丈夫なのだろう、と渋々ながら自分を納得させる。条件があり、そのために必要な医師免許かもしれない。それに、よっぽど危険な事態になってくれば、ルニエが黙っちゃいないだろう。
「一つ聞いて良いか? フィーヌは、あとどれくらい生きられるんだ?」
一瞬だけ彼は微笑み、それが憂いなのか悲しみなのか諦めなのか判断がつけられないうちに凛とした声で囁く。
「もちろん、死ぬまでさ」
そんなこと分かり切ってるのに、彼の言葉はずんと重かった。夢を見ている、現実を逃避している、そんなことは重要じゃなくて、ただ彼女が、いまこのときを生きていることだけ考えてる。それがとてつもなく切ない。ああ、彼はこんな気持ちを集積して、こんなにも壊れそうになってしまったのだ。そして壊れないための防御機構として形成されたのが、悪戯好きで子どもっぽい彼なのかもしれない。だから俺は違和感を受け、不信感を募らせた。
……どうしよう。混乱してきた。彼を嫌いだとしてきた根本が崩れてしまったのだ。逆に親近感のような思いさえ抱く。
今度は急に可笑しくなってきた。親近感だって? 自分の弱さが浮き彫りにされたようで、情けなさを通り越して可笑しい。要するに、彼の弱さを知って自分と同じだと安心したのだ。弱さを見付けないと安心できないなんて、道端に落ちている石ころよりも弱すぎる。
「三十日まえにサーフが倒れたときのことなんだけど、覚えてる?」
分かりやすいと思ったのだろうか、彼は具体的に数字を挙げてくれたが、どうせ挙げるなら日付を挙げてくれと思いつつ、憂鬱な思考の縁から腰を浮かす。
「ああ、師匠が……」下手くそな朗読をしてくれたときの、と続けようとして慌てて口を噤んだ。
「そう、プルーネルが来ていた日。僕は倒れた原因は貧血かもしれない、と言った。そうではない確信があったにもかかわらず、本人の手前……ね」
勿体ぶった言い方にこめかみがぴりぴりする。脳裏に赤い夕日がよぎった。早送りのように流れていく雲。響いてくるような耳鳴り。
「なにが言いたい」
いまごろ 穿 り返してどうするんだ、と内心かなり不機嫌になりながらも、挑発するように言った。それでも彼は全く動じず、むしろ初めから頼まれなくても言うつもりだったとばかりに話し始める。
「つまり、あえて本人の前では言わないようにしたけど、プルーネルの朗読が酷すぎて目眩を起こしたんじゃないかってこと。彼が歌うと超音波が発生して耳が痛いくらいだし」
やっぱり傍から聞いていてもあの朗読は酷かったのか、と師匠の朗読下手さを共通に認識できていたことを知れて良かった。
「確かに、確かに師匠の朗読は酷かったけど、俺がああなったのは、別に朗読が酷かったせいだけじゃないと思う」
ぼそぼそと曖昧に喋り終わって、ちゃんと説明するかどうか悩んだ。夕日や暗闇が怖いとか言っても笑われるだけかもしれない。しかも、恐怖で倒れてしまったのだ。某生物は飛びかってくるからとか、皮膚の表面が気持ち悪いとか、具体的な理由を挙げることができるが、夕日なんて赤っぽいこと以外を除けて、色彩も散乱の仕方も配置も不定である。そんな漠然とした現象をどういう枠組みで囲めば良いのかも判らない。
「じゃあ、本当に朗読内容が怖かったの? あんな読み方だと怖いものも怖くないでしょ」
予想外に正直すぎる意見をバシバシ言うラ・コスタ。本人のいないところで言うのが優しさなのが卑怯さなのか。まあ、本人に言ったところで機嫌を損ねてしばらく口を利いてもらえなさそうだし、言わないほうが利巧か。
師匠なら、夕日が怖いなどと言えば笑い飛ばすだろうが、ラ・コスタならどういう反応をするか気になった。しばらく迷い、恐る恐る言ってみる。
「夕日が出てきたから……」
彼はどんな反応を示すだろう。やっぱり笑うのかな。
「夕日? どういうこと?」
彼は笑わなかった。いや、その表現はおかしい。なにしろ、そもそも表情の変化がなかったからだ。
「夕日が怖いんだ」
耳に心臓の音が聞こえてくる。どうして鼓動が耳にまで届くんだろう。炎が駆け抜けたように身体が熱い。夕日が怖い。そのあとに続くだろう闇はもっと怖い。寒く無機質的な冷たさが恐ろしい。嵐のように熱が過ぎ去ったあとには、ぞくぞくとした戦慄だけが残った。
「もっと具体的に、どんな夕日でも駄目? 朝日は?」返ってきたのが単なる好奇心や嘲笑ではなく、真面目な質問だったことに驚く。
「いや、全部ってわけじゃないけど、空一面が真っ赤になっているようなの……かな? あのあと真っ暗な闇が押し寄せてくるかと思うと、何故か堪らなく怖いんだ。朝日は、考えたことなかった。多分、そのあと夜にならないから大丈夫だと思う」膿を吐き出すように続けた。「初めて見た真っ赤な夕日は、印象的で空が赤から黒になるのをただただ眺めた。それが頭に残ってて、夕日を見ると思い出した。いまは違う。真っ赤な夕日のことを考えるだけで、そのあとから暗闇が不気味に沸き起こってくる。まえは何ともなかったのに、俺、おかしいのかな……」
言い終わり、吐き出せたすっきり感と少しの後悔が入り交じる。
「つまり、いま一番怖いのは闇で、夕日は闇を引き出すキーだから怖い、ということ?」
「そうだと思う」思ったよりも、彼の反応は普通だった。
「トローマ……かな。以前の生活は、君にとってかなりのストレスになっていたのかもしれないね。本当の恐怖の中にいるときは、その恐怖の大きさに気付かず、あとになってから認識される、と言えば解りやすいかな? いまの君はそのストレスから解放され、再びストレス状況に陥ることを恐れている、と考えることもできる。心の傷は複雑だからね。克服しようと思って、できるものでもない。大丈夫、マイナスに考えないで、自分で現状を認識しておくことも大切だよ」
彼の言ったことはかなりまともで、しかも、俺を否定しないで受け入れてくれるようなものだった。嬉しくなかった、と言えば嘘になる。
「認識ねえ……」
だが、それをわざわざ口に出せる俺でもない。
「例えば、僕も暗闇が怖い。明るいところで暗いのは構わないけど、夜の暗闇の中で眠るのが怖いな」
え? 思わずまじまじと彼の顔を見つめた。彼はゆっくりと溜息を吐いて、どこか遠くを見つめている。
「眠るのが?」
睡眠は、暗闇から逃れるための手段ではなく?
「うん。夜の真っ暗な中で眠るとさ、次に目が覚めたとき僕が僕じゃないかもしれないでしょ?」
ラ・コスタがラ・コスタでなくなる? 何じゃそりゃ。初めて聞いた表現だ。ラ・コスタがラ・コスタでなくなるのなら、一体誰になるんだろう。
「お前じゃなくなったら、誰になるんだ?」
「それは、ラ・コスタだよ」
……? 昨日と違う自分になる、とかそういう系?
「意味がよく解らない」
「そうだね。真っ暗な中でシーツに潜り込み、天井を眺めている。意識はカップから溢れそうな水のごとく、いまにも眠りに落ちてしまいそうだ。けど、残る思考回路の端で考えるのは、このまま眠ってしまえば、二度と目覚めないのではないかという不安。眠ることは意識を失うこと。最も無防備な状態に自己を晒しながらも、それでいて避けることのできない欲求だ」
まるで物語の一場面を読んでいるかのように彼は呟く。
その声はとても落ち着いていて、内容とは無関係に説得力があり、表情さえ見ていなければ思わず納得させられそうな魔力を持っていた。
危うい。
そう、グラースのような繊細さ。つい壊れないようにと手を出させてしまう力をときおり彼は発揮する。そして俺もそのたびに手を出しかけてハッと我に返るのだ。放ってはおけないと思いながらも、しっかり行動に移してしまえばそこで負けてしまうような気がした。
*補足 トローマ:トラウマ
2012.9/14 ルビ調整
2013.2/11 表記変更




