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無機物的オブジクト  作者: 三谷尾だま
【方法】
15/43

実験Ⅲ.女神と月と2

 昼食を終えて、のんびりイチゴジャム入り紅茶を飲んでいた。ルニエはジャムを食べながら紅茶を飲んでいたが、俺は砂糖の代わりに混ぜてしまっていた。


 舌の上に残ったイチゴの種が気になっていたら、廊下のほうから鈍い音が聞こえてくる。何だろうと二人で顔を見合わせていたところ、ラ・コスタがふらっと入ってきて、コフィメイカのスウィッチを入れてから机の前までやって来た。

「さっきの音、なあに?」

「……ぶつかった」

「まあ!」ルニエは立ち上がり、彼の前髪を掻き上げ、判るくらいに赤くなったその場所をそっと撫でる。「コフィは持ってきてあげるから、ラ・コスタは座っていて」


 まるで彼の母親であるかのように命じると、返事を確認するかのように彼の目を覗き込んだ。するとびっくりしたのだが、彼はいつものように目を逸らせる代わりに彼女にぎゅっと抱き付いたのだ。

「大丈夫、わたしはどこにも行かないわ」

 彼女は微笑み、彼を椅子に座らせると、コフィメイカが止まるまでの間、子どもをあやすように彼をなだめていた。


 彼女がコフィをカップに移してテイブルの上に置く。

「ありがとう……」

 そう言ったラ・コスタの表情に目を見張った。笑っているような、泣いているような。いままでにない、なにかこう、とても純粋なものを感じたのだ。普段よりも青白い顔色の、頬にだけ淡い赤みが差して見えて、弱々しげに俯いた彼こそ、霧がかかって見えなかった部分なのかもしれない。こんなに儚げだからこそ、いつもは分厚い殻で周りを囲うのだ。


 だが、何故今日に限って彼がその弱さを表面に出しているのか?

 まさか罠だとか?

 ただ単に体調が悪いせいなのか?

 それとも天気が良いせいなのか?

 もしかして眠いのかもしれない。


 俺がじっと見ていても気にならないみたいだし。ただ、ルニエのことは気になるらしく、コフィが冷めるのを待ちながら、ときどき彼女の様子を窺っていた。何となく誰も喋り出さず、カップとソーサの触れ合う音だけが微かに響く不思議な空間と化す。

 会話がないのでカップの中の液体が尽きるのも速い。ラ・コスタは、いつもどおりちょびちょび飲んではいるが、どうも朝もより動きが鈍いようだ。いかにも頭が働いてなさそうな、やっぱり眠いのか。


「ラ・コスタ、もう寝なさい、ね?」

 最初に沈黙を破ったのはルニエだった。大して生活を共にしていない俺でも、彼が眠そうだと感じたくらいだから、彼女ならすぐにピンと来たのだろう。肩を揺り動かしてそっと囁いた。

「嫌だ、まだ寝ない。ここにいる」駄々を捏ねるように彼は首を振る。

「眠いのでしょう? どうして寝ないの?」

 訝しげに彼女は聞き返したが、彼は黙って俯いた。

 彼は、不安なのだ、と思った。独りになりたくないのだ、と。ルニエと一緒にいたいのであれば、そうはっきり言えば良いのに。普段澄ましている分、つい本音を隠してしまうのか。

 いや、違う……。


 もしかして、俺がいるから、俺の前では強がりたいではないのか? そうだとすれば妙に意地っ張りだというか、微笑ましいというか、拗ねたように怒るラ・コスタを想像するだけでもつい、口元が緩んでしまう。

 貸しを一つ作るべく、彼の顔を立ててやることにした。


「さてと、そろそろ俺は部屋で勉強する」

 決してわざとらしく見えないように注意を払って、背伸びをしながら立ち上がる。

「ええ……」

 ルニエは困った顔のまま返事をしたが、ラ・コスタは変な味のものを食べたような変な表情の顔をゆっくり逸らせた。熱でもあるかのようにほんのりと赤い頬。カップの底に溶け残ったイチゴジャムの色だ。

 急いでいるとバレないように、慎重に確かめるように床を踏んで廊下に出る。ここでも、もたもたしていてはいけない。


 俺がいなくなったあと、二人はなにか会話するのかもしれない。しかし、それは覗いてはいけない箱の中身のように、聞いてはいけないものなのだ。言葉はナイフとなり、身体の一部を気付かないうちに削いでいくだろう。

 信じていた現実が呆気なく崩れていく瞬間ほど惨めなものはない。

 発信者に悪意があるなしにかかわらず、自分の信じていた、いや、思い込んでいたものが意図せず否定されたたとき感じる、足元をすくわれたような喪失、置いてけぼりにされたような孤独、信じていた自分に対する嘲笑、やるせなさ。


 そんなときはいつも、耳元で大きな音が聞こえる。何の音かは判らないけど、大きな、ごうごうと唸るような音だ。眠りに就く一瞬まえに見た映像のような曖昧さで、耳に絡みつくように聞こえ、いつの間にか止んでいる。

 あれは……、風の音ではない。

 何だか懐かしいような、でも、思い出せない音だった。


 溜息を吐いて、部屋で勉強を始める。最近、勉強を現実から逃避して没頭するための手段としてしているような気がするが、純粋な探究心からでしかしてはいけない、などという決まりはないから安心だ。背後に差し迫ったものがあるほうが、何事も捗るのではないだろうか。

 とりあえず、俺には俺の立場がある。

 俺がいないときに成り立っていた関係性を破壊することだけは避けたかった。もやもやとした憤りを覚えることも多々あるが、最低限の主張だけはしっかりとして、無難にいくべきだろう。


 とか言いつつも、やっぱり気になったので、一時間くらい経ってからそっと様子を見にいってみる。ルニエはソウファでお菓子のレサピ本を読んでいた。ラ・コスタは見当たらない。

「ルニエ、あいつは……」

 ソウファに近付いていくと、彼女は振り返って人差し指を口に当てた。側まで行くと、彼女の太腿を枕にして眠っているラ・コスタがいた。彼は俺の気配に気付いたのか目を覚まし、眠そうに辺りを見回す。

 ルニエはネコを撫でるみたいにラ・コスタの髪を撫で、再び寝かしつけてしまった。彼の細い髪の毛が重力に従ってはらはらと目元へ流れる。


「ネコみたいね」彼女はそう言って、ネコにするみたいに彼の顎の辺りをくすぐって見せた。

「随分我侭なネコだな」

 呆れ顔で彼の寝顔を覗き込む。思ったとおり無表情で綺麗すぎる寝顔だ。ソウファで寝ていた師匠を人形と間違ったときのように、ただ見ただけでは生きていることさえ疑ってしまいそうな、温度を持たない表情。生まれつきのものであろう肌の、日に焼けていない白さが表情のなさに一層の拍車をかける。


「ネコは我侭なのよ」 

 可笑しそうに笑って、彼女はラ・コスタにそっくりな、昔隣に住んでいた飼いネコの話をしてくれた。そのネコは、飼い主が呼んでもなかなか寄ってこないくせに、飼い主が誰かとお喋りをしているとヤキモチを焼いて頻りに鳴いて擦り寄ってきたそうだ。

 確かにラ・コスタとそっくりである。普段は澄ましているくせに、妙なところでだけ寂しがり屋なのだ。でも、こうして眠っていたら、起きている間がどんな風であろうと現実味が薄い。

 今度、彼が眠っているときに近付いてヒゲでも描いてやろうかと思った。


「ねえサーフ、あとで買い物に行きましょう」

「良いけど」

 突然の誘いに対して大した考えもなく返答する。あと、っていつだ? と付け加えようとして、ラ・コスタが云々と理由を述べられるだろうかと思い、わざわざ聞くのを止めてしまった。

 部屋に戻りながら、いまさら考える。俺はもしかして、ルニエに距離を置いてしまっているのではないだろうか? と。


 尋ねてはいけない気がして、踏み込むことを断念した話題がいくつもある。本当は聞けば他愛もなく答えてくれる話題なのかもしれないのに、一方的な思い込みで闇に葬っているかもしれないのだ。

 ただ、ラ・コスタは別である。できるだけ率直に質問や意見を言うようにしている。先生にも割と普通に話せた。それは、同性の気安さなのか。


 問題はルニエ、彼女にはどうも……、聞きたいけれど直接聞けないことが多すぎる。

 何だろう、怖い……、聞くのが怖いとでもいうのか、尋ねることによってなにかが壊れてしまうのを恐れているような、不安感を掻き立てられるのだ。それは、俺の知らない彼女を知ることに対する不安なのだろうか? それとも、自分が相手にどのように認識されているのかを知ることに対する不安なのだろうか?

 いや、前者はともかく後者は既に明らかになっている。彼女にとって俺はあくまで子どもなのだ。ラ・コスタとは少し違う部類に位置する子ども。彼女は俺の親の役割を務めているにほかならない。


 ラ・コスタとは違う。それが、何となく悔しかった。

 と同時に可笑しくなる。これも立派なヤキモチだ。結局のところ、俺も含め誰もが誰かにヤキモチを焼いているに違いない。それに気付くかどうかを別にして。

 この心に抱く気持ちをラ・コスタには気付かれてなるものかと、そっとこの青い眼に誓った。


 机に向かいかけて思いとどまり、ベッドに仰向けに横たわる。左手をゆっくり真上に伸ばす。寝転んで見上げる青空が好きで、気が向いたときに野原で寝転んでいた。いま指と指の間に見えるのは青い空ではなく、白い天井だ。白、青い空の中で輝く雲の、一部分に見られるような陰りのない白い、白い天井。

 雲で覆い尽くされている空は嫌いだ。雲はそう、できるだけ少ないほうが良い。快晴、雲ひとつない空はとても高くて高くて、手を伸ばしてみるけど、絶対に届きそうになかった。握った手の中に掴めるのは、自分は無力だという現実。


「朝日は眩しく、朝露は蜜のように甘い。空は青く、雲ひとつない。それでも、私の心は絶望に満ちていた……」思わず呟く。

「あら、それは誰の詩?」指の隙間からルニエの姿が見える。このまま掌を閉じれば、彼女をあたかも掴めそうだった。


「知らない。読んでいる本に書いてあった。でも、ラ・コスタの字だと思う」

 彼女がそこにいることに動揺しつつも起き上がり、寂しそうに瞬きをする彼女を見上げる。それ以上、彼女はなにも言わなかった。ラ・コスタがその詩を書いたことを彼女が確信したからだ、とそう受け取って良いのだろうか。だが、彼が絶望する心当たりが彼女にあるとは思えなかった。


「……買い物に行く準備は良いの?」

 話題を逸らした彼女は、既に出かける準備を整えていた。花柄のキャジュアルドレスに良く合った白いレイスのカーディガンは手編みなのかもしれない。細かい柄を飽きずに編み続けられる根気には感心する。俺なんかだと紐をほどけないように結ぶとかが関の山だ。


「良いよ」

 返事をして立ち上がった。別にめかし込んだり、荷物を持っていったりする必要もない。トラウザーズからポキットが出ていないかくらいを確かめれば十分だ。

 部屋を出ていきながらラ・コスタはどうしたんだろうとか考えていると、当の本人に出くわす。


「どこへ行くの?」心配そうに彼が尋ねた。

「サーフとお買い物に行くの」

「僕も行く……」

 彼がルニエの服を引っ張る。上目遣いで確かめるように首を傾げる仕草は、まさにお願いのポウズだ。しかし彼女がそれを制するように首を振って彼の頭を撫ぜた。

「駄目、ラ・コスタはお留守番していて……ね?」

 彼はお預けを喰らわされたイヌみたいに目をしばたかせ、名残惜しそうに俺たちが玄関を出ていくのを眺めていた。その仕草が口元を緩めてしまうほど可愛い。


「今日のラ・コスタって、いつもより可愛げがあるよな……」

 扉が完全に閉まるや否やルニエに尋ねた。可愛げがある、の具体的な内訳は、普段みたいな余裕がなくて子どもっぽいところ(彼は歳相応に見えないから、どちらかというと単純な反応のほうがしっくりくる)、動作がイヌやネコっぽいところ、やたらとルニエに執着しているところだろうか(通常と立場が逆だ)。


 ところが彼女は、ゆっくりと眉をしかめる。

「サーフ、余所見をしていると危ないわ」

 思いがけない反応に動揺する俺の左手をルニエが握った。いつも通り彼女の手は温かかった。動揺さえしていなければ、彼女は手を握っていないと俺が迷子になる、と本気で思っているのだと解釈しただろう。ただ……いまは、なにかを誤魔化すために、作為的に話題を変えようとしたとしか思えない。


 はっきり言って、かなり焦った。

 俺は……、俺はここでどう行動を続ければ良いのだ?

「ところで、どこへ買い物に行くんだ?」

「さあ……? サーフの好きなところへ行きましょう」


「へ? 買いたいものがあるんじゃないのか? 俺の好きなところって、別に買いたいものがあったわけじゃないし……」彼女は立ち止まって顔を上げる。その顔が寂しげに微笑んでいたので、やはり彼女に率直な発言は避けるべきだったかと後悔させられた。「あ・そ……その、俺……アイスクリームとか食べたいなあ……」言いながら俯いてその台詞のわざとらしさを呪う。


 俺なんかでは上手くやれないのだ。彼女を笑顔にすらさせられない。軽く舌打ちをして恐る恐る顔を上げた。

 次の瞬間、ルニエに抱き締められる。石に躓くような不意打ちで。彼女はどんな表情をしているのかな? もしかして泣いているのかも。

「ありがとう、サーフ。良い子ね、わたしに気を使うなんて」

 囁きが聞こえる。頭の端っこが痺れてきた。今日の彼女は蜜と同じような匂いがする。甘い……匂い。人形の匂いだ。


「……ルニエ、苦しい」

「ごめんなさい。今日はラ・コスタの様子が、変だったでしょう? 新月の日は情緒不安定になるみたいだから、わたし、彼を独りにしてあげようと思ったの」

 ああ、やはりこの人の中は彼ばかり。

「でもさ、……そういうときは、側にいてあげたほうが……」

 そう言ったらルニエはゆっくりと腕をほどき、俺の目を見つめた。間近にある彼女の左眼は薄っすらと青い。


「駄目よ、より快適な方向へ流されすぎてしまうと、もう元に戻れないもの」

 悲しそうに呟く彼女の真剣な眼差しにドキっとする。それは俺にも当てはまるんじゃないか? いまの生活から以前の生活に戻れないのと同じように。

「あ……」言葉にならない。

 ルニエは俺の手を引いて再び歩き始めた。

2012.9/7 表記修正

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