実験Ⅲ.女神と月と1
あれから師匠は一日置きにやって来て、ラニングやら素振りやら筋トレやらをやらされた。基本的にすることだけ指示して、彼は高みの見物だ。むしろ本を読んでいること(しかも不気味に笑いながら)や寝ていることが大半だし。監視役といったところか。
師匠には従っているけど、これが先生が望んでいた状況なのかは、よく判らない。
修行初日から魔法使用適性検査とやらをやって、めでたく俺には魔力が皆無すぎて魔法を習得する才能は全くない、と判明した。ラ・コスタが言うには、この青い眼を持った女性は特殊な力を有するが、男だと逆に魔法を使えない場合がほとんどらしい。師匠はもともと期待していなかったから落ち込むな、と慰めてくれた。しかし、慰めになってないことに本人が気付く気配は一向にないようだ。
当初は信じていなかった青い眼とリヴァイアサンの関係が、ここ最近は気になってきている。
それは、魔法だとかの知識を得るたびに、ここが空を見るのも狭すぎた路地裏ではなく、連れ出されてみれば、思いのほか広い世界だったのを改めて実感したからだ。魔法では空だって飛べるし、火や風を生み出すこともでき、傷を癒すことだってできるのだそうだから。
この青い眼がリヴァイアサンの影響である、というラ・コスタの話が本当か嘘か、まだ判断できてない。
眼の色の話になったところで、それとなく彼にそのことを問うと、一瞬だけ渋い表情を見せ、すぐさま巧みに話題を逸らされた。明らかに話題を逸らしたのを俺が認識してるので、この場合、『巧みに』を使うとおかしいかも。
彼はリヴァイアサンから解放する、と言って俺を連れてきたくせに、寄生された場合の詳しい症状、最終的な段階へ向けての経過、そして彼が採ろうとしている方法を説明してもらってない。そもそもリヴァイアサンについてさえも……。
普通の辞書を引いてみても、リヴァイアサンのことは海に棲む伝説の怪物、程度の情報しか載ってはいないし、どうしようもなく宙ぶらりんな状況である。まだ詳しく話せる段階ではないのか?
必要最低限ちゃんと教えるのが筋だと思う。
身体を喰い破られるって、遠回しに死ぬと言っているようなものだが、ラ・コスタは嘘吐きだという前提もある。
全部本当か全部嘘、と限られたわけでもなく、リヴァイアサンの部分は本当だけど、死ぬのは嘘なのかもしれないし、はぐらかすということは、いまのところ実害はないのか、知らないほうが良いのか。
もやもやするが、我慢強くもうちょっとだけ待ってみるべきか……。
何て、こんな風に考え事をするのは大抵ベッドに入ってから眠りに落ちるまでの時間だ。手持ち無沙汰になるこのとき、今後の傾向と対策をいろいろと練るのだが、そのうち寝てしまうので朝になって忘れてしまう。思い出しても、それが同じように考え事をしている最中だったりする。忘れてしまうくらいだから、大した思い付きではなかったのだろう。
いまもこうやって考え事をしているが、明日の朝になれば忘れてしまっているに違いない。どうせ忘れるにしても、たとえ忘れると決まっていても、ただただ、なにも考えずにぼんやりと天井を眺めているのは、きっと耐えられない。
意識することなく眠れる習慣を失ってしまったのだ。満足に食事が得られ、寝る場所にも困らないし、優しくしてくれる人がいる、そんな環境を得られた代償として。
ベッドに入ってから眠りに就くまでの間に生じる時間、こんなに寝たいのに眠れない苦痛。
忘れると判っていても、なにかを考えずにはいられなかった。
なにも考えていないと、この暗闇に押し潰されそうで、奇跡的に寝付けた夜を除いて毎夜、逃げ口を探して考えていた。取り留めもなく今日一日のことをひたすら思い出したり、覚えている単語を片っ端から唱えたりして、それでも眠れないときは、手近な疑問としてラ・コスタかルニエに関することをやっぱり考えてしまう。
二人に先生と師匠も含めた四人の行動・生活パタンは現在分析中だが、いまのところラ・コスタは土日に行方不明(俺が知らないだけ)、ルニエは平日が仕事、師匠は曜日とは関係なく一日置きにやって来て、先生に至っては満月とその次の日に見たっきりだ。彼はよく家に帰ってくる、みたいなことを言っていたくせに何の音沙汰もない。
ルニエを取り合ってラ・コスタとよっぽど仲が悪いだとか、仕事上別居していて満月の日だけ帰ってくるとか、後ろめたさから直接口には出さないながらも、いろいろ想像してしまう俺。
ルニエは、ラ・コスタより先生が本当に好きなのだろうか? とか。俺が見る限り、全然態度が違うと思うけど、直接彼女に尋ねたわけではないし、やはり先生が言われたという、二人とも同じくらい好き、という発言が気になる。
先生とラ・コスタは別人で、似ているけど違うし、そんな二人を等しく好きになることに疑問を感じる俺は不自然だろうか? 違うものが同じ評価に至ることに対して納得できないというか、あり得るかもしれないけど、共感はできない。俺には理解できない考え方だ。
俺はチョクラットが好きだ。
チョクラットにもいろいろな種類があるらしく、二人とも好きだということは、俺がチョクラットであれば、どの種類でも好きである状態と同じ? うーん、自分で言っておいて判らなくなる。例えばワイトチョクラットとビターチョクラットは種類が違うけど、同じチョクラットであるのには変わりない。だから、それぞれ特徴はあれど、結果として両方とも好きということ? ……ってますます判らない。
食べ物だと違和感なくても、人間関係としてはどうだろう。
説明してみたところで、俺はルニエでもないし、彼女がどういう心境なのか知り得ない。それにしてもチョクラットの例えは酷かった自覚がある。絶対秘密にしておこう。
先生が聞いたときから時間は経っただろうし、リーセットして考えてみる。
もしルニエがどちらも好きであるが、その好きに順位が存在する場合だ。俺としては当然そうであって欲しい。彼女はラ・コスタも好きではあるが、先生が一番好きだということである。あの盲目っぷりを目撃してしまえばそうであると信じたい。でも彼女は、ラ・コスタに対してもあれほど露骨ではないにしろ、似たような態度を示す。
それが妙に引っかかる。
まさか二人で共有しているわけでもあるまいし。でも彼らの反応を見ていると、自分の気持ちはさて置き、彼女が自分を好きでいてくれることだけで満足しているように思えた。
まあ、人の性格とか感覚なんかは個人差がかなりあるだろう。俺なんかいつもお気に入りのものは独り占めしたいと思っているのに、大抵それは手に入らないんだ。
◆◇◆
八 月十九日のことである。朝っぱらから師匠に叩き起こされて走らされる夢を見たが、実際に朝っぱらから叩き起こされて走らされた。
いつもの師匠は、倒してもしつこく蘇ってきそうなふてぶてしさなのに、今日はどういう風の吹き回しなのか元気がなく、俺にラニングを言い付けておき、自分は勝手に台所から失敬してきた蜜をまるで病人が機械的に掻き込むような具合で食べながら見学していた。走り終わるといつの間にか師匠は帰ってったし。使った食器はご丁寧にも片付けておけとばかりに残して、だ。
いつもなら走り終わったあとにも、ほかのトレイニングやら愚痴やら文句やら有り難いお話やらが山のように待ち構えているところなのに、肩透かしを喰らった。蔑ろにされた地味な怒りが蓄積する一方、どこか具合が悪いんじゃないかと余計な心配もしてしまう。
カップとスプーンを回収して台所の流し台へ持っていき、シャウアを浴びてきた。すっきりしたところで軽く勉強。区切りの良いところでダイネットに下りていくとルニエがトウストを出してくれ、途中から気怠そうなラ・コスタも加わってコフィを飲み始める。
ルニエは花柄のキャジュアルドレスを着ていて、それがいままで見た服の中で一番裾が短く膝くらいで、さらに髪型も二つ分けにして編んでいたせいか、かなり彼女を幼く見せた。
どう考えても今日の彼女の外見年齢は、俺とそう変わらないと思う。だから、彼女を大人っぽく見せたり幼く見せたりしている原因が服装や髪型であるのは明白だ。赤い口紅を塗っただけであれほど大人っぽく見えるし。
一方で、ラ・コスタは全然変化がない。結構暑いのにいつも長袖トラウザーズで、ときどき帽子や眼鏡のおまけがつく。このまえ、明け方に目が覚め、浴室へ行くついでに彼の部屋を覗いてみたら、机に向かって座っている彼の背中が見えた。どうやら本当に睡眠時間は、あのお昼寝だけのようだ。子どものうちから変な習慣がついているものである。
そう、彼の変わった習慣とか癖といえば、ほかにもいろいろ気付いた。ルニエにおはようのキスをするとか、俺の前で食事をしないとか、後ろから近付かれることをやたらと嫌がるとか、さり気なく先生に関する話題を持ち出さないとか、目が合ったら必ず逸らせるとかだ。
「今日、プルーネルが来ていたのね」キュウリをフォークで突っつきながら、ルニエが意外そうに言った。
「うん、すぐに帰ったけど……。それが?」
「ふ~ん。律儀に来るなんて意外とマメなんだ……、彼。弟子ができたのが嬉しかったのかなぁ」ラ・コスタが肩を竦める。
感心されるということは、二人が今日は師匠が来る日であるにもかかわらず、彼が来ないであろうと予測していたということだ。
「今日は新月なの。新月のプルーネルは、体調の悪さに比例するように機嫌も悪くて、大抵一日中寝ているか湖に行くかしているみたいよ」
湖? その単語と師匠とがどうしても結び付けられなかった。師匠が湖に行って、一体なにをするというのだ。魚釣り? いや、そんな柄じゃないか。せいぜい周りに落ちている石をことごとく八つ当たり気味に水中に投げ込んでいるのがお似合いだ。
「何で新月だと体調が悪いのさ?」
「一日を周期とするサーキャディアンリズムのような、月の満ち欠けを周期とするルーナリズムというのがあってね。例えば、体調や魔力がサインとかコウサインウェイヴのような変動を示す」
「……意味が解らない」
説明にけちをつけると彼も渋々紙とペンを引っ張り出して、説明のために図を書き始めた。まず平行な三本の線が横に引かれる。
「月も数学も話し始めると長くなるから端折って説明するよ? この真ん中の線がズィロウで、上がプラス、下がマイナスね」さらに上の線と下の線を同じパタンで行き来するような曲線が加わる。「ここの最低なのが新月の日。新月から次の新月までが一周期だとして、まず最悪の状態からスタートし、次第に回復上昇のうえ、満月に最高状態に達し、さらに減少悪化して最低ラインに戻る。これの繰り返し」
体調が良くなったり悪くなったり代わり番こに繰り返されるというのは解ったけど、結局のところ、新月だと何故体調が悪くなるか? の質問には答えてないし、月が満ちたり欠けたりする原理が理解できない。あれは俺がずっと見ていたから消えそうになった、のではないということはさすがに解った今だが。
唸りながら考えていたらいつの間にかラ・コスタはいなくなって、ルニエは食器を洗っていた。慌てて残っていたサラドとトウストを詰め込み、食器を持っていく。
「ありがとう。それで解ったの?」黙って首を横に振る。口の中がいっぱいだったのだ。喋ったらきっと怒られるだろう。「そう、あとでもう少し説明してあげるわ」今度は首を縦に振る。
彼女が可愛らしく微笑むのを確認すると自分の部屋に戻った。
主に自由時間は勉強に充てていて、勉強には買ってもらったテクストブックを使用、出だしの分からない部分などは理数系をラ・コスタ、文法や一般教養をルニエに助言してもらう。大体のことはテクストブックを読んで判るようになっているから、しつこく尋ねるのはそもそもの考え方が理解できないときや、文章の意味が理解できないとき。まだまだ絶対的な名詞の不足により、文字を読む効率がかなり悪いから、意味の分からない単語を辞書で引くと必ずチェックし、せめて再び同じ単語が引かれることのないよう、その場その場で頭に叩き込むようにした。
初めは、一方的に教えられるばかりだった時間も変化し、ラ・コスタは、俺がテクストブックに沿って勉強して理解したことを彼に説明することを求め、間違って理解しているとそこを指摘した。
ルニエは俺に文章を書かせた。ある構文を使って短い文を作れとか、一つのお題に基づいて時間内に文を書かされるのだ。自分の考えを書かされるときは、それが彼女にも読まれるわけだから恥ずかしくて、場合によっては嘘を吐いてしまった。
彼女はマイペイスだからそうでもないが、ラ・コスタは俺が理解していると分かると、すぐさまレヴァルに合った進行に変える。勉強をするという行為に慣れてきた現在では、まるで討論会のよう。かなりハイスピードで進む。そのスピードに乗り遅れてなるものかと、俺も一種の対抗意識を燃やすので、テクストブックはどんどん進んでいく。
とはいっても、まだまだ年齢に対する知識量の少なさは明らかであり、しばらく基礎でもがくしかないのだ。
それと、勉強にはあまり関係がないのだが、以前ルニエが途中まで読んでくれて放置されていた童話を自分で読み始めた。カナリアのジャックが登場する童話。
これはテクストブックと違って形式ばった文体ではないものの、独特の表現や言い回しがあったりして、辞書を引きながら思うように読み進められず少しイライラする。まあ、仕方がない。
読んでみて童話や、それ以外にも師匠が読んでくれた小説とかが、おおよそどんなものなのか、やっと分かった。創り物のお話なのだ。
ジャックという名前のカナリアが出てきたから、つい現実と混同してしまったが、ジャックは物語の中に出てくる登場人物の一羽だった。もしかすると、あのカナリアは、このカナリアから名前を取っているのかもしれない。夕日の話に出てきた『私』も、俺とは何の関係もない。
ノウトブックを持って再びダイネットへ下りていくと、洗い物を終えて天体の本を机の上に広げたルニエがラ・コスタの席に座って待っていた。彼女は図を示して見せ、地球と月の位置を確認させ、プラスティックの球にライトを当てて観測地とそこから見える月の形の関連性について述べ始める。月の満ち欠け云々よりも、俺たちが立って、暮らしているのが地球という惑星で、しかも丸いという前提に愕然とした。
これまでは、あの路地裏での生活が世界のほとんどを占めていたといっても過言ではなく、小さな箱の中で空を見上げているように、真上の部分しか見えていなかった。そこから離れた現在でさえも、世界は広がったのに、相変わらず進歩のない自分が悔しくなる。さらなる勉強の必要を痛感せずにはいられない。
「ラ・コスタの体調は、月の光って見える面積と同調して変化するようなの」彼女は立ち上がるとフォウンの側にあった砂時計をテイブルに載せた。「この砂が体調で、グラース部の上側をプラス、下側をマイナスとすれば、今日の彼の体調が全部の砂が落ちている状態、つまり最低ということね。そして明日からこうなって……」砂時計が引っくり返され、砂は位置が変わって今度は上側になったマイナスから、下側になったプラスへと流れていく。「砂が全部プラスへ落ちた日が満月よ」
体調の移り変わりの部分を再確認する。しかし、ラ・コスタが何で月に影響されなければならないのか、やはり不明のままなので聞いてみたら、彼女は詳しく知らないらしい。
彼の体調変化よりも、俺には地球が丸いことのほうが重大な情報だった。
かなり面喰う事実を知ったものの、これ幸いとばかりに、ほかの天体の話も彼女にせがんでしてもらう。
太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星。一週間はこれらの天体に因んで名付けられたことに気付き、褒めてもらった。頭の中はたちまち太陽の周りをぐるぐる回る惑星でいっぱいになり、そのうち自分も回り出してしまいそうな勢いだった。
*補足 ズィロウ:ゼロ、フォウン:電話、キャジュアル:カジュアル
2012.8/27;9/7;9/8;9/10;11/26 表記変更




