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無機物的オブジクト  作者: 三谷尾だま
【方法】
13/43

実験II.師匠現る!3

 深い水の底から浮かび上がるように、ハッと我に返って目を開けると、心配そうに覗き込む視線に囲まれていた。酷く狼狽しているルニエ。目が合った途端にわざとらしく顔を伏せてくしゃみをするラ・コスタ。この状況がいかにも気に喰わないと主張しているかのような顔と態度の師匠。俺はそこでやっとソウファに横たわっていることを知り、何故か立っていた膝を伸ばしながらのろのろと身体を起こす。


「サーファーズ……!」


 涙声のルニエに抱き締められ、ようやく自分がなにかしでかしたことに気が付いた。苦しいほどに抱き締められて困っていると、ラ・コスタが優しく彼女に手を放すように促す。


「良い子だ、ルニエ。さてサーフ、昨日はなにを食べたか覚えている?」

「……サンドウィッジとタマネギとブレッドとエビフライ」


 記憶を読み上げるように機械的に答えたら、彼に両手で首の根元を包み込むように挟まれ、さらに目尻を軽く引っ張られた。


「貧血かもしれない」そう言って彼はなにかを指示するように顎をしゃくると、ルニエは台所へ走っていく。「ところで、君は倒れたんだけど、そのことは覚えてる? すごい音がしたんだから、ルニエなんて二階から飛んできたよ」


 ソウファに座っていたわけだから、前方のテイブルにでもぶつけたのかもしれない。ただ、どこも痛くはなかった。

「……そうなんだ」

 上の空で答え、彼に触れられて手形のように体温を奪われた頬付近の部分のことを考える。『あそこ』で背中越しに感じた壁の冷たさに似ていた。俺から体温を奪っていくくせに、凍えそうなときは、何故か温かく感じてしまう。


「気分はどう? 眩暈めまいや吐き気はあるかな?」

 ラ・コスタのゆっくりとした声が、不安な心にじんわりと染み込んでくる。


「だい……じょうぶ」

「そう。急に動くと、またなる可能性があるから、しばらくは安静にしていると良いよ」


 戻ってきたルニエにホットミルクを渡された。ミルクの甘い匂いが湯気に乗って立ち上ってくる。頬で失った熱を取り戻すかのように、両手は熱を吸収する。泣き出してしまったルニエをラ・コスタがしきりに宥めているのを夢を見ているような、他人事のような感覚で眺めていた。


 彼女は何故泣いているのだ? その理由が判らない。ぼそぼそ呟かれている言葉に耳を澄ませてみれば、俺が倒れたのは彼女の食事が悪かったせいだ、と主張していた。

 そうじゃない、そうじゃないんだ。でも、大声で否定したかったのに、頭も口も回らなくって、ラ・コスタが説得力の欠片かけらもなく「君のせいじゃない」と繰り返すのを、このときばかりは感謝した。


 ミルクを少しずつ口に含むたびに、だんだんと落ち着きが腹に溜まっていくようだ。ある程度、気力が回復したら、師匠の視線にやっと気付く余裕ができた。彼はソウファに肘を突き、いじめっ子のようにニヤニヤしている。


「おい、上手くやったな。まさかお主が恐怖のあまり失神したとは思われておらんようだぞ」

「は……?」


 心当たりのない師匠のニヤニヤ笑いにうんざりしつつ、彼の言っている意味が全く理解できなかったので溜息を吐くような返事をすると、彼はますますニヤニヤと笑いながら声を落として続ける。


「隠すな。あまりにも巧みに話を読まずにはおれなんだ、わしにも非があるしのう」


 あまりにも予想外で的外れな師匠の解釈に言葉を失いつつも、わざわざそれを訂正する気にもなれず、勝手に勘違いさせておけば良い、と半ば自棄になり、どうとでも取れるような返事をする。もちろん彼は自分の意見を覆そうとするはずもなく、俺がそれを認めたと受け取ったようだった。


「わしは帰るぞ。いまから寝て、今夜の月光浴に備えねばならんからな」


 唐突に帰ると言い出した彼を形ばかりでも引き止めておくべきか、咄嗟にラ・コスタの方を見たところ、ダイネットへ行ったようで判断の役に立たない。すぐさま顔の角度を元に戻すと、そこに師匠はいなかった。忽然と消え去っている。姿を消す魔法? を使ったのだろうか。そんな魔法があるのか知らないけど。恐ろしいことだ。


 仕方なく慎重に立ち上がり、ミルクのカップを持ったままダイネットへ行き、テイブルのやっと取り戻した感のある自分の席に着く。正面にラ・コスタ、斜め前にルニエ。やっぱり、この配置が一番しっくりくるようだ。俺が椅子に座ると、ラ・コスタはそれまで握っていた彼女の手を離し、かなり接近していた椅子を離した。


「サーフ、もう大丈夫なの?」心配そうに彼女が聞いてくる。

「……うん、大丈夫。寝不足かな。ちょっと気分が悪くなっただけだから」


 夕闇のことを考えていたら気分が悪くなった、などと言えるはずもなく、寝不足のせいにする。

 なによりも、彼女のせいではないことを伝えたかった。

 温かい食事と部屋を用意してもらえているだけで、充分に良くしてもらっている。それを上手く伝えられない俺が悪いだけで、彼女が気に病むようなことではないのだ。

 少しくらいは伝えられることができたのか、彼女はだいぶ穏やかな表情になる。


「あ、そうだわ、アヴァンの中に……」

「なにかあるの?」尋ねてすぐに彼は、餌の匂いを嗅ぎつけたネコみたいにのそりと立ち上がる。「ああ、チョクラットね。僕が取ってきてあげるよ。ルニエも食べるんでしょ?」


 アヴァンの中のチョクラットを取りにいったラ・コスタを視線で追いかけて、そのチョクラットというのが聞き間違いであることを祈った。チョクラットをアヴァンで加熱したらきっと融ける。チョクラットは塊が口の中で融けるのが良いのに、最初っから融けてるなんて残念だ。


「はい」

 しばらくして、問題のチョクラットの載った皿が出される。


 目の前にあるカットされたそれを上から見て、とりあえず横からも覗き込んでみる。彼は手を洗いに行かなくても良いように、気を利かせて手拭きタウルを用意してくれていた。手を拭き、表面に載っている白い粉を指先につけて舐めてみる。甘かったので砂糖だろう。全体としての色はチョクラット色だが、どう見てもチョクラットを焼いたら融けてこうなったはずがない。


「これってケイクじゃないのか?」

「そうよ?」

「でもさっき、チョクラットって……」

 椅子に座ろうとしているラ・コスタを恨めしく見る。

「チョクラットの匂いがするな、と思って言っただけだよぉ」拗ねたように彼が言う。

「それはそうよ……、チョクラットケイクだもの」


 ……ようやく納得する。どうも、チョクラットと言われるとまず、あのラ・コスタに貰った四角いチョクラットが連想されるので困ったもんだ。材料の一つとして含まれるだなんて、思い付きもしなかった。想像力が貧弱な俺である。


「大丈夫? 無理しなくても良いのよ? 食べられそう?」

 気分が悪くなった、と言った手前、心配そうに尋ねてきたルニエに頷き返した。一口食べ、実際に大丈夫であることを確認する。


 チョクラットケイクは、チョクラットよりも見た目はずっしりとしていて、硬そうなのに口に含むと軟らかい。チョクラットの香りだけでなく、もう少し複雑な香りがする。ほかに入っている材料のものだろうと思うが、なにが入っているのかよく分からなかった。


 一度に口に入れる塊が甘い砂糖の部分を必ず少しは含むように慎重に慎重を重ねて食べている間、ラ・コスタはルニエに最初の一口だけわざわざ食べさせてあげ、席を立つとコフィを持って帰ってきた。彼女はそのあと何事もなかったかのように自分で食べている。意味不明だが、そんな約束をしているのかもしれない。


「おいしい? サーフが甘いものが食べたい、って言っていたから焼いたのよ」

 え? そんなこと言ったかな俺。駄目だ、記憶がない。


「うん、おいしいよ。ありがと……」まだ頭がぼんやりとしているのか、自分の発言も思い出せないという。それでも、わざわざ俺のために甘いものを用意してくれた彼女の心遣いは嬉しかった。


「まだ二切れ残っているよ」頬杖を突いて俺を見ていたラ・コスタが言う。

「いや、もう要らない」


 甘いチョクラット。

 どうして、どうしてこんなに腹がいっぱいなんだろう。二人に心配されて嬉しかったから? ホットミルクのせい? それとも……


「そっか、お昼ごはん食べたばっかりだもんね」


 チョクラットは甘くて、満たされて、ほんの少しだけ苦くて、危うく涙が出そうになった。

2012.9/8 表記変更

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