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無機物的オブジクト  作者: 三谷尾だま
【方法】
11/43

実験II.師匠現る!1

 昨日はなかなか眠れなかった。満月の光が眩しかったわけでも、二人が二人っきりだとどんな会話をしているのか気になったからでも、ラ・コスタが帰ってこなかったことが気がかりだったせいでも、どれでもないと思う。


 これまで、眠れなかったことなどなかった。すぐに眠りに誘われることは幸せなことだった、と改めて実感させられる。眠れない苦痛を紛らわせるかのように、恨めしく窓の外を眺め、覚えた単語や計算のことばかりを考えた。

 そうだ、あのカナリアの話の続きは、どこへ消えてしまったのだろう。


 ソウファに投げ出されているはずの本を思い出したついでに、歯磨きをし忘れたことも思い出し、それ以上余計なことを思い出すことを防ぐべく、のろのろとシートを押しのけながら起床。顔を洗うために浴室へ向かう。途中、通らなければいけないラ・コスタの部屋の扉は、いつもどおり、昨日と同じように開いていた。


 顔を洗う。手遅れだと思いつつも、歯を磨いた。

 用が済んだ浴室から出ると、ラ・コスタの部屋の扉が目に入る。

 隙間の空いた向こう側、ついつい興味に駆られて中を覗いてみた。部屋は薄暗く、前回と違った点は、机の上に眼鏡と腕時計があるのと先生が着ていた上着がハンガにかかっていることくらいだろうか。

 しかし、眼鏡といっても机の上にあったのは先生の眼鏡ではなく、ときどきラ・コスタがかけているやつだ。


 先生は見当たらない。もっと話してみたかったのに……。

 どっちにしろ、ここにはいなかった。あのラ・コスタサイズのベッドでは、邪魔になってる本をどかしたとしても大人には狭すぎるだろう。ルニエにでも聞いてみるべきかもしれない。

 まだ先生がいることを祈りつつ、少し躊躇して彼女の部屋の扉を開けた。彼女が眠っていたらどうしようか、と考えたからだったが、扉を開けて左手側にあるベッドを見て、その心配は全くなかったことを知る。


 ルニエは部屋にいなかったのだ。が、彼女のベッドには壁との間に挟まるようにしてラ・コスタが丸まっていた。なにもなかったことにして部屋から出ていこうとしたのに、運悪く寝ぼけまなこの彼と目が合ってしまう!


「……おはよう、ルニエなら台所にいると思うよ」眠そうに目を擦りながら彼は余計なことを言った。

「……う、あ……そう」


 どう返事をして良いものか、硬直したまま考える。いま思い付いた疑問なら山ほどあるが、はっきりいって聞きたくはない。一歩後 退(あとずさ)る。不意に棚の上に伏せられているフレイムと先生の眼鏡が目に入った。

 眼鏡があるということは、さすがにまだいるのかな、先生……。


 ラ・コスタが病人のようにふらふら身体を起こそうとし始めたので、慌ててそのまま後ろ向きに扉から出ていく。急いで自分の部屋に戻ってきてからも、まさか追いかけてきやしないかビクビクだった。……って、何で彼が追いかけてくるかどうかに怯えているのだ?

 着替えて台所に行くと、ルニエが朝食を作っていた。


「あら、おはよう。もうすぐ起こしに行こうと思っていたのよ」ポットに熱湯を注ぎながら彼女は言う。

「おはよう……、先生は?」

「まだ寝ているのではないかしら」

「でも、部屋にはいなかったけど」

「そうなの?」


 ルニエの頼りない返事を聞きながら、俺はちゃんと一人分量の朝食が並べられた自分の席に着く。今日の彼女はいつも通りで安心した。食事も普通にするみたいだ。

 紅茶がテイブルに運ばれ、朝食が始まった。ラ・コスタの席にはストローが刺さったグラースが置かれており、中身は色から判断するとオリンジジュースであろう。きっと、昨日買ってきたオリンジが使われたのだ。俺は自分の皿の上に載っているオリンジを見て考える。


「夕食に食べたいものある?」

「……フリッターズ」ちょっと考えて言った。

「なにを揚げる?」

「ジャガイモとエンドウマメと、……ナス以外なら何でも」


 ルニエは俺がナスは嫌だというのを聞いて、しょうがないという顔をする。嫌いになった理由が理由なだけに、食べろと言えないのだろう。彼女自身が菜食主義だから、人に押し付けるようなことを言えない。


「ふわぁ~、眠いよぉ……」

 大きな欠伸をしながらラ・コスタがダイネットに入ってきた。大きな目を眠そうにしょぼしょぼさせている。彼はパジャーマズのままで髪には寝癖つきだ。やっと餌にありつけるイヌが飛びかるように席に着く。


「夜更かしするからだろ」夜遅くまでどこかをほっつき歩いていたんだ、と思ったからそう言った。

「やだな、僕は夜行性だから……夜寝て朝に起きるのが……苦手なんだよぉ。頑張ってるのに褒めてくれないの~?」ところどころに欠伸を挿みながら彼は答える。


「何だよそれ、まるで……」昼に寝て、夜は寝ないみたいじゃないか……!


 言いかけて口をつぐむ。その、冗談で口にしようとした仮説が正しいと証明するかのように、思い当たることがたくさん浮かび上がってきたのだ。まず、彼は朝、機嫌が良い。次に、彼は昼寝をする。続いて、昼寝のあとは機嫌が悪い。さらに、彼が寝ている場面をちゃんと確認したことはない。よって、いつ寝ているか正確に知らない。など。

 夜の間は起きていて、俺の昼食を作ったあとから寝ていた、と考えれば自然だった。


「夜行性と言うと、ネズミとか台所の黒いアレみたい」

 台所のアレは、隠語だろうか? 話の前後から、夜行性の生物だと思われる。

「ちょっとルニエ、いくら同じ夜行性だからって酷いよ~」


「そうかしら? そう、暗闇で目を光らせ、昼間はごろごろしているネコみたいね」改めて彼女は、それが初めての意見であるかのように付け加えた。


 ラ・コスタはネズミと同じ扱いを受けて、心外だとばかりにブスっとしていたが、ネコと言われていくらか機嫌を直したようである。彼の機嫌の行方はさて置き、今度いつ寝ているのか、……というより、夜は寝ていないのか確かめる必要があると分かった。


「今日は、昼過ぎに帰ってこられると思うよ。長引かなかったらの話だけどね」彼はコフィとは違って、機械的にオリンジジュースを飲みながら言う。

「プルーネルが来るのは、きっとお昼まえくらいでしょうから、ぎりぎり間に合うかしら?」

「そっか! プルーネルが来るんだ。忘れていたよ……」彼は眉をひそめた。


「どこか行くのか?」

 話に割り込んでみた。

「え? ああ、今日は仕事の予定だったから……」

「仕事って何の仕事?」

 ラ・コスタは興味を持ったのが嬉しかったのか、ちょっと満足げに微笑んで、オリンジジュースを飲み干す。

「僕、医師だって言わなかったっけ?」

「知らない」

 彼が空になったグラースを無駄にストローでかき回し、俺を見て笑った。

「往診があるんだ」


 えっと、これは冗談だよな。あ、先生の真似? もしかして、さっき笑うところだった? いやいや、俺が追究するのを狙っている罠かもしれない。突拍子もないことを言って相手を悩ませ、反応を楽しむ新手の悪戯なのかも。やっぱり適当に相槌を打っておくべきだろう。


「ふ~ん」

「じゃ、準備して出かけなきゃ」

「気を付けてね……」名残惜しそうにルニエが言った。


 椅子から立ち上がったラ・コスタは、彼とそれほど変わらない視線にある彼女の横髪をくしゃりと握り締め、そのままとかすように指を引き抜く。髪ははらはらと指の間を抜けて、彼女の頬へ降りかかった。

「大丈夫だよ。僕を一体いくつだと思っているの?」


「でも、事故や怪我は年齢を考慮に入れて起こってはくれないもの。気を付けるに超したことはないわ」

 不満げに眉を寄せる彼女。

「分かったよ。気を付けるから、ね」


 可愛がっているイヌを撫でるみたいに、わしゃわしゃルニエの頭を撫でると、彼はご機嫌でダイネットを出ていく。心配しすぎる彼女も彼女だが、彼も最初っから余計なことは言わずに、分かった気を付ける! とだけ返事をしておけば良いのに、と思った。


 それとも、毎回これを繰り返しているのか? わざと軽く答えて、彼女がどれくらい自分のことを心配しているかを確かめたいのだろうか? 母親と手をつないで歩きながら、『マムは僕のことが好き?』と何度も尋ねる子どもを見たことあるが、それに似たような純粋な自己満足を彼は手に入れたいのかもしれない。


 ルニエはラ・コスタが出ていった扉を見つめ、溜息を吐くと姿勢を正面に戻し、じっと見ている俺に気付いて頬をぱっと染めた。正直、この反応が一番困るのだ。


「あ……」彼女の頬は益々紅く染まる。

「良いよ、別に……隠さなくても。ルニエがラ・コスタのこと、好きなのは見ていて判るし。ただ、俺は……」

 俺はただ、先生が可哀相だと思う。それだけのことだ。


「か……、隠しているわけではないのよ? でも、はっきり言うのは、恥ずかしいわ」もじもじしながら彼女は答える。


 確かに、隠してはいないかもしれない。なにしろ、結婚するまえに宣言したというのだから。先生はそのことを納得したうえで結婚したのだ。これは彼らの問題で、俺が口出しすべきではない。

 解っていても、気になるものは気になる。


「ご馳走様……」

 唐突に席を立つと、ルニエは驚いて顔を上げた。

「さ、サーフ、わたしはサーフのことも好きよ?」


 慌てて付け加えた彼女は、どうやらなにか勘違いしているようだ。俺はそういうことを気にしているのではないのに。もしかして、とんでもない表情が顔に出ていたのではないだろうか。


「母親として?」

「え……?」

 単にその『好き』は、ラ・コスタに対するものと違うのだろう、と揶揄するつもりだったのだが、彼女にそれは通じなかった。

 失敗だ。瞬時に作戦を切り替える。


「ルニエ、俺……甘いものが食べたいな」


 不意打ちで彼女がぽかんとしているうちに、ダイネットの入口を通り抜け、自分の部屋へ直行した。

 しばらく机に向かって本をパラパラと捲っていたのだが、急にトイリットに行きたくなって浴室へと向かう。いつもは開けっ放しになっている扉が閉まっていたので、何故だろうと首を傾げつつもノブに手をかける。そのノブは触れられるのを拒むかのように、扉がいきなり開いた。


「わっ!」

「あぁ、サーフか……」

 扉の向こう側から現れたのは先生だった。髪が湿っている。シャウアを浴びていたのだ。青っぽいシャットと黒いスラックスを身に着けている。眼鏡をかけていない。眼鏡は、そう、ルニエの部屋にあったな。


「もう出かけたと思ってた」

「まだ。あとは荷物を取ってくるだけだ」彼は浴室から出て、横目で遠慮がちに俺を見た。「僕のときは別に構わないんだけどね、ここの扉が閉まっているということは、誰かが浴室を使っているはずだから、その……、着替え中のルニエと鉢合わせになる可能性をなくしたいのであれば、開けないほうが良いと思うけど」


 言われて思い返してみると、自分もシャウアを浴びるときは扉を閉めて浴室で着替える。何で気付かなかったんだろう。彼の言ったとおり、彼女が入浴中に来ることがなかったのはラッキィだ。


「き、気を付ける」

「是非そうするべきだよ。ところで、使うんじゃなかったの?」


 彼の目に薄っすらと映り込む間抜けな俺を見つめる。これ以上、その間抜けづらをじっくり観察する必要はない。軽く肩を上下させ、「忘れた」と答えた。

 ラ・コスタみたいに首を傾け、先生は俺の横を通りすぎ、ルニエの部屋へ入ると眼鏡、ベルトとタイやらを装備し、ラ・コスタの部屋に入っていった。


 眼鏡をかけてない彼は、ラ・コスタに似すぎていた。夜の闇のような黒髪と、多少濃い眼と、頬の痣のようなものがないことを除けば、そのままラ・コスタの数年後を当てはめることができそうだ。初めから似てるとは思ってたけど、これほどまで似てると衝撃に近いものを感じる。ルニエが同じ、だと言っていたのも嘘ではない。


 是非、先生の少年時代の写真を見てみたい。白版と黒版で面白そうだ。

「なに、にやにやしているの?」

 気が付くと、白い上着を着て鞄を持った先生が扉を片手で閉めながら立っていた。彼はゆっくりとした足取りで歩いてくる。


「先生、今度はいつ帰ってくる?」


 満月は特別な日。先生は満月に帰ってくるのだ。けれど、次の満月はいつなのか知らない。

「どうして? 今日もちゃんと帰ってくるよ」

 横を通りすぎながら、一瞬だけ彼は振り返って言った。空き缶に落ちる雨音のように軽いリズムを刻んで階段を下り、白い上着の裾を揺らし、玄関扉の向こうに消えてしまう。


 今日はきっと、満月じゃない。

 しばらくして、思い出したように辺りを見回して人気ひとけがないことを確認すると、そっとルニエの部屋の扉を開けた。


 心のどこかに引っかかっていたもの、それを確かめるべく、急いで棚の上に視線を走らせる。そこに伏せられたままになっている四角いフレイム。いまならそれが何なのか、はっきり判る。それは、写真立てだ。


 裏側には『ベルより』とハートマークつきでサインが入っていた。恐る恐る、写真立てを表向ける。ルニエがこれを俺に見られないように伏せた理由がどうしても知りたかったのだ。誰の写真なのだろう。

「え?」

 写真には、予想外の人が写っていた。


 真っ白なドレスを着たルニエが、先生に抱き付いている。二人とも笑顔だった。結婚したときの写真に違いない。写真の先生を穴が開くくらいじっくりと見つめてみたが、どうしても彼が先生以外の人物である可能性はありそうもなかった。


 どうして、ルニエは嘘を吐いたのだろう。先生の写真はないなんて嘘を。

 どうして、この写真は俺に見られてはいけなかったのだろう。


 息が止まってしまったみたいに苦しかった。急いで写真立てを元の位置に伏せると彼女の部屋を出る。無性に手が洗いたくなった。無意識のうちになにかを洗い流そうとしているのかもしれない。

 ラ・コスタの部屋は先生が閉めたはずなのに、いまも隙間が開いている。八つ当たりのごとく扉を閉めて、飛び込んだ浴室の洗面台で俺は気が済むまで手を洗った。


 もしかして、気が狂ってるのかもしれない。

 自分で思い付いてみて、呆れるほど可笑しかった。まだ水気の残る手で景気付けに頬を叩き、ラ・コスタの部屋の前を通り過ぎようとして足が動かなくなる。扉が少し開いていた。確実にさっき閉めたはずだ! 背筋が寒くなり、急いで安全な自分の部屋へ駆け込んだ。


 無意識のうちに鍵をかけ、迷わず机に向かって辞書を適当なペイジで開いた。『虹』という単語が目に入る。少しだけ落ち着いた。深呼吸を繰り返し、今度は本とノウトブックを開いて勉強することにする。余計なことを考えるよりも、勉強するほうがよっぽどマシだ。閉めたはずの扉が開いていたことは頭の隅に追いやってしまい、俺は単語を覚えることに没頭した。

2012.8/18 改行を増やしました。

2012.9/10 表記変更

2012.12/16 表記修正

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