実験I.先生との接触3
会話が途切れると先生も人形になるのか、と返事を返さずに観察していたら、彼は一所懸命スプーンでコフィをかき混ぜている。何だかそれが以前見たことがある、飼い主と棒の先に綿毛がついた玩具で遊んでもらってるネコの動きにそっくりだった。
しばらくしてようやくコフィを飲み始めた彼も、ぼんやりとした視線でやっぱり人形になる。でも、ルニエはそれにもかかわらずご機嫌だったし、そんな彼の横顔を飽きもせず、ずっと嬉しそうに眺めていた。
ラ・コスタのときとは違う。
彼女は、ラ・コスタが好きなんだと思ってた。でも、それは俺の勘違いだった。先生に対する彼女の態度はもっと顕著で、こういうのが好きということで、彼のことが好きでたまらないんだろう。
ふと横にある新品のノウトブックが目に入った。そうだ、
「あ……先生、これになにか書いて欲しいんだけど」ノウトブックの最初のペイジを開いて差し出す。
「え?」彼は驚いた顔で俺を見た。
彼だけではなく、ルニエもだ。なにか変なことを言っただろうか?
「いや……、構わないよ。何でも良いんだね?」
どこからともなくペンが取り出され、最初のペイジではなく表紙裏に青い字でくにょくにょしたのが並ぶ。書いている内容以前に、どのアルファベットであるかさえ判読できない。
「はい」
書き終わったそれを間近で眺め、念のために向きも変えてみるが、それでも無理だった。もしかして、これはdかな? それにしても、くるくるしすぎだ。
「サーフのこと?」
ルニエが少し笑って言う。彼女にはこれが読めるらしい。
「うん。即席キャッチフレイズ。どう?」どう? と聞かれても読めない俺。苦笑いするしかない。「あ、そうか。筆記体は教えてないのか。ごめんごめん。それはね、『青い眼のお人形』って書いてあるんだよ」
『青い眼のお人形』だって?
言われてみれば、そう書いてあるように見えないでもない。彼はラ・コスタと似ているけど、さすがに字は違っていた。
先生はわざわざ筆記体とやらを全部ノウトブックの最初のペイジに書いてくれる。それらは単体で見れば、まだ原型を留めていた。
「……左、先生は左利き?」気になって尋ねる。
さっき彼は左手で文字を書いていた。それに、俺が左利きだってすぐに気付いたのは、彼も同じだからかもしれない。
「別に左利きでもないけど、右よりは左が好きかな」彼が答えた。
何だそれは? 答えになっていない。
「つまり、いまの先生は機嫌が良いのよ、ね? サーフ」
ほう……なるほど。でも、納得できない。
それにしても、いちいち補足してくれる彼女の頑張りが可愛らしい。よっぽど彼の不思議な返事を誤解されたくないらしく、ときどき彼専属の解説者になる。その答えはときに明確で分かりやすい。俺ももっと勉強をすれば、訳してもらわずにそのまま理解することができるだろうか。
「そうだ、足し算を教えてあげよう」突然、先生が言った。
「あら先生、足し算と引き算は、今日わたしが教えたばかりよ?」
ルニエが補足すると、彼は一瞬残念そうな表情を浮かべる。「理解できた?」
計算するのに時間がかかるかどうかはさて置き、計算の仕方については理解したつもりなので頷いた。
「今日習ったばかりなのに? ……すごいな。じゃあ、解らなくても良いから、かけ算を教えてあげよう」台詞の終わりで彼は、微笑むように息継ぎをした。「ノウトブックを貸してくれる?」
慌ててノウトブックを彼に渡すと、彼はさっきの青いペンで縦横に線を引き、空白にしたマス目の角からそれぞれ右・下へと順に0から9までの数字で埋めていく。そしてそれが終わると、今度はメカペンを取り出して端から一つ内側のマス目に0を並べ、また一つ内側には1から9の数字を書き込んだ。
「さて、残りは君に解いてもらおうか。残りのマス目を埋めてごらん。表の見方は、端にある数字同士が合わさる部分が答え。こことここで2になって、こことここなら0になるし、ヒントは……」
「待って! まずは自分で考えてみたいから、ヒントは言わないで」表の見方が解ったところで、ヒントを教えてもらうのは我慢した。あとから聞くのでも遅くはない。
メカペンを受け取り、じっとかけ算とやらと睨めっこする。こういう類のゲイムは、いままでしたことなかったけど、どうすれば状況を切り抜けられるのか考えるのに似ている。オウルドメイドでは、結局ほとんどルニエに勝てなかったけど楽しめた。あれみたいに楽しくできるだろう。
まず、全体を見回してなにか発見はないか? あ、0と0で0、1と1で1になっている。すると、2と2では2になるかもしれない。
「ここは……、2?」
「違うよ」
残念、そんなに単純じゃなかった。もっとしっかり仕組みを見付けなくては。あ、片方に0があれば、そこは全部0の数字が入っている。それに、片方に1があれば、そこはもう片方の数字が入っている。……そうか、例えば1と3でも、3と1でも結果が同じになってるんだ。どっちがさきでも、あとでも関係ないのか。
「サーフ、ヒントをあげましょうか?」
ルニエの申し出を断る。「要らないよ、もう解ったから。ここは4」
「正解。書き込んでごらん」
安堵の溜息を吐く。本当はちょっと自信がなかったから。でも、これが正解なら、あとは計算をすれば簡単に求められると思う。とりあえず2と2が合わさるマス目に4を書き込んだ。
「どんな風に考えたの?」先生は頬杖を突いて首を傾げた。
「2を二回足した」
0は何度足しても0だし、1は足した回数だけ数が増える。2なら、どんどん2を足す回数を増やしていけば良いだろう。俺は地道に計算をして空白を全部埋めた。
「すごいな! こういうのをかけ算と言ってね、ある数字をある回数足し合わせる、という考え方だよ。二桁のかけ算の場合だと、この表を応用してこんな感じで解く」
それから彼は例を挙げてかけ算を説明してくれた。ついで、といって割り算まで教えてくれたが、俺はいっぺんにいろいろ教えられたのに混乱することなく、すんなり理解することができた自分に驚く。先生もやたらと感心していたし、ルニエも驚いていた。
だから、勉強は楽しいと思った。
「算数はここまでにしようか。ほかになにか聞きたいことがある?」
「俺も、勉強すれば医者になれるか……な?」
「なれるよ。君が、そう望めば」彼は微笑んで言う。
それが本心からなのか気休めなのか、確信を持って判断できなかったけど、それでも、彼が就く医者という仕事に対してまえよりも興味を持ったのは確かだし、その彼の助手になるためなら、医者になる勉強をしてみるのも面白そうだった。もし、ラ・コスタの助手だったら、きっとそこまで興味を引かれなかっただろう。人柄って重要だ。
先生に聞きたいことをたくさん思い付いた。
例えば、本人から直接聞き出しにくそうなラ・コスタのこと。先生が普段はどこに住んでいるか。俺の青い眼のこと……。先生なら教えてくれるだろうか? 少なくともラ・コスタのように嘘は吐かないだろう。
ここにルニエがいなければ、聞いてみたいこともあった。どうして彼女のいないところでないと聞けないのか、理由は非常に曖昧だ。でもやっぱり本人には聞けないし、本人以外に聞こうとしている時点で、何となく罪悪感のようなものがあった。けれど彼女は先生の側からしばらく離れそうな様子もなく、運が良いのか悪いのか、聞く機会もなさそうだった。
だから、ほかに質問をするのなら差し障りのないやつを探さないと駄目だ。質問を思い付きさえすれば、すぐにでも尋ねるのに……。ああ、思い付けそうもない。肝心なときに役立たずな自分に、心の中で舌打ちする。
そのとき、ルニエがタイミング良くちょっと名残惜しそうに席を立った。心臓はチャーンスが来たと知らせるようにドキッとする。彼女が入口の向こうに消えるや否や、俺は、俺の口は勢いよく喋り出した。
「どうしてルニエと結婚したんだ?」
先生は一瞬だけ軽く噴出し、眼鏡を直してネコの毛みたいな髪を掻き上げる。
「そんなことが知りたかったの? へえ、サーフもそういうの興味があるんだね。ルニエには聞きにくかった? 彼女がいるときに聞いても気にしないと思うけどなぁ」語尾に合わせて彼はふわりと欠伸。「まあ、何故かって聞かれても困るんだけど、彼女が熱心に提案するし、僕も彼女と一緒にいるのが嫌じゃなかったからかな」
提案、というのは、結婚の、という意味だろうか。
「へえ、ルニエのほうが押しは強かったのか?」ちょっと意外だ。
「H型は時に思い切った行動を取るからね。それに彼女、面白いんだ。僕とラ・コスタが同じくらい好きだって言うんだよ」
ルニエは先生とラ・コスタが同じくらい好き?
彼が笑いながら言ったので、一瞬言っている意味が解らなかった。俺は黙って考える。二人を同じくらい好きだということは、俺が感じたルニエのラ・コスタに対する態度も、あながち間違いじゃなかったということで、何で先生は笑えるのだろう? いまでは彼女が先生にメロメロだからか? いや、それでもまだ彼女は……
「先生は嫌じゃないのか? その、ルニエがラ・コスタも好きなんて……」
「そんなことはないよ」彼はチラッと腕時計を見る。「だって、ルニエは……」
そのとき、タイミング悪くルニエが戻ってきた。彼女は入ってきた途端、自分の名前を呼ばれたので不思議そうに再び席へ着き、続きを話すことを促すかのように上目遣いで彼を見る。
「なにを話していたの?」そして催促するように付け加えた。
「君が僕にした結婚申込みの話」
「まあ、酷い! まだあの冗談をからかわれるの?」
顔を真っ赤にしてルニエは先生の肩をぽかぽか叩く。彼が悪戯っ子を相手にしているように笑いながら、彼女の右手の指をきゅっと握ると、彼女は急に大人しくなった。そこに大人しくなるスウィッチがあるのかもしれない。
「まだ二回目の件しか話してないよ。それにしても、最初のあれは衝撃的だったなぁ……」先生がそっちも話そうとしていることに彼女も気付いたが、もう遅かった。彼は上目遣い(さっきまでのルニエの真似らしい)で、「わたし……先生のことが嫌いではありませんし、きっと好きになれると……ええ、断言できますわ」と、声色を真似る念の入れようで再現してくれる。
しかも、ルニエには悪いが、かなり似ていたので思わず笑ってしまう。再び彼女は顔を真っ赤にして、先生をぽかぽかやり始めた。今度は彼も自ら播いた種なので、仕方がないな風に笑っているだけだ。
個人的にルニエの結婚申込みの酷さに愕然とした。一度目は冗談だったとしても、二度目は二人ともを好き、だし……。彼女が魅力的なのは否定しないものの、先生自身は特別夢中だったようでもない。本当に何で結婚したんだろう。どの時点から、ルニエがいまのようになったのかも気になる。
どうも明確な理由のない、俺には理解できない世界らしい。まあ、そんなことは余計なお世話というか、俺が首を突っ込むべきことでもないが。
彼ら二人、いやラ・コスタも入れて三人が、これまで築いてきた時間をぽっと出の俺が簡単に理解できるでもない。
割り切りつつも、どこか寂しいと思ったのも事実だった。
「良いわ、わたしも先生が意外とヤキモチ焼きであることを、教えてしてしまいますからね」彼女がやっと叩くのを止め、代わりに頬を膨らませて言った。
「相手によるんだけど」先生は困ったように付け加える。
俺がルニエと仲良くしていても、ヤキモチを焼くのかな……? ちょっと見てみたい気もする。
「ラ・ペシェが遊びに来たときは、ずっと不機嫌で……可愛いわ」
「あ……あれは、彼が……」
「……嘘吐き」彼女は彼が理由を述べるまえに否定した。
「ルニエ、僕は嘘吐きだけど、ときどきは本当のことも言うんだけどな」彼は口を尖らせる。
くすくす笑っている彼女。信じてない……? 信じたのかな?
俺は俺でまた知らない人名が出できたんで、追及するのは最初から諦め、勝手にそいつがどんな奴なのか想像することにした。外見、髪の色は明るめ、煙草を口に咥え、背が高く、スートなんか着て、口ひげを生やしているイミッジ。先生が嫉妬するくらいだから、性格はやっぱり馴れ馴れしくてキザに違いない。
他愛もない雑談が始まったのに便乗し、今後の参考のために、次はいつ会えるのかも定かではない先生を観察しておくことにした。参考になるかどうかは、予想外の新事実が発見できるかどうかにかかっている。
まず、髪の色は黒、俺よりも黒く、炭みたいな黒。逆に肌の色は、病的なラ・コスタほどではなく普通に色白。髪の黒さのせいで余計にそういう印象を受けるのかもしれない。眼は薄茶色。ルニエの場合も茶色い眼だが、彼女はもう少し不思議な茶色だ、特にその左眼は。
表情は温和。かけている眼鏡も、ラ・コスタがしている縁なしとは違い黒縁が知的な印象を受ける。ストライプスのタイもシャットも、よく似合っていた。左手には腕時計。
話すときの仕草はラ・コスタとほぼ共通。ルニエの言ったとおりだ。兄弟だから? 話し方は、勉強を教えるときモウドのラ・コスタみたいに語尾が無闇やたらと強調されず、好感が持てる。って、いつの間にかラ・コスタとの比較になってるぞ、これ。
「……のよ。サーフもそう思うでしょう?」
「え? ごめん、聞いてなかった」
ルニエが頬を膨らます。
「だから、それはね、一種の自己主張なんだよ。悪戯をすることによって自分を印象付けて、自分の存在を認めてもらうんだ。決して悪戯自体を目的としているわけではないんだよ? 悪戯が成功し発覚したときに、『あいつめ! 覚えておけよ!』となるよう、後々のためのプロウセスであって……」
「あら? 信じられません。悪戯好きの誰かさんは、悪戯された相手がそのことに気付いたときの驚きを想像して楽しんでいるのだわ」
「確かに、世の中にはそんな人もいるかもしれない」
「まあ、惚けることがお上手ですこと」
悪戯好きの誰かさんとは、言うまでもなくラ・コスタのことであろう。ある程度は笑って許せる、……かもしれない些細なものから始まり、後々に影響を与えるものまである。因みに見ると思い出すので、ナスはあまり好きになれなかった。彼の幅広い悪戯によって被害を受けていた。ここに来て一週間しか経ってないのに、だ。信じられない!
いまの話しぶりからすると、ルニエも相当な被害にあったみたいだ。俺より彼と過ごした時間が長いのだから仕方ない。でも、彼女は女性だし、どんな悪戯を仕掛けるんだろう。スカートを捲る(ただの変態だ……)。砂糖と塩の中身を入れ替える。駄目だ、砂糖は四角だからバレバレか)。なら! う~ん、これ以上想像するのは無理だ。
「ねえ、ルニエはどんな悪戯をされた?」
「悪戯は、なにかされたかしら? 嘘を吐かれたことがもっと多いわ。昔は素っ気なくて、優しさの度合いも低くて、むしろ先生は他人に興味がなかったのでしょう? 悪戯なんて、入り込む余地はなかったわ」
あれ? ラ・コスタの話じゃなかったのか?
「……いまの僕が、他人に興味があるみたいに聞こえるけど」
「あら、ありませんか?」
「ごく限られた対象、だけにならね」
それを聞いたルニエは、自分のことだとでも言いた気に瞬きをして紅茶を飲んだ。素っ気ないとは、自分の世界に入り込んだラ・コスタみたいな感じの状態なのかな? よく分からないけど、彼女が自分の心を開いてくれたから、先生はとんでもない申込みでも結婚を決意したのかもしれない。
「そう……、一度、わたしの寝顔をずっとご覧になっていたときありましたね」
「あれは、君が僕との約束を忘れて眠っていたからだよ」
「……あのとき、鍵が開いていたと仰ったけれど、本当はご自分で鍵を開けて入られたのでしたよね?」
彼女が口を尖らすと、先生は肩を竦める。俺は混乱して眉を寄せた。
鍵が開けられるのは泥棒? 出会いは、以前、忍び込んだときに運悪くルニエに見付かって、黙っておくから言うことを聞けと脅されたとか? あ! そうか、二人が会う約束をしていたのに、ルニエは約束を忘れたまま部屋鍵をかけて寝てしまう。やって来て鍵がかかっているのを知り、困った先生は鍵を借りて中に入り、最初から鍵はかかっていなかったと嘘を吐いた、でどうだ! そうすることでなにか意味があるのか判らないが、多分なにかあるのだろう。
その後も微笑ましい口喧嘩が壮大に繰り広げられたが、互いが主張する相手への不満は、どれも論点がズレていた。まるで捻くれた自己紹介ならぬ交差型非自己紹介(意味不明)を聞いているみたいだ。
それは先生が腕時計を見て「食事にしようか」と言うまで続けられ、俺も退屈せずにさり気なく二人のことを知れたし、ルニエもにこにこしていたし、あっという間の時間だった。
「せっかくエビフライを買ってきたからね」
別に夕食はなくても良かったが、押し切られる。
「あんまり要らないぞ」念のために釘を刺す。
「大丈夫、大丈夫。適当だから」
違う意味で恐ろしいことを口にしながら、先生は台所に行ってしまう。ルニエは視線で彼を追いかけていた。彼女が席を立つ気配はなく、彼が単独でエビフライをどうにかするらしい。買ってきてあるのだから、量以外は多分……問題ではなかろう。どんな風に適当にするのか見たいけど、潔く諦めて、手を洗いに行ってきた。
まだ充分、どうにかする瞬間を目撃できると踏んで急いで戻ってきたが、既にレティスやらキュウリやらと一緒にサンドウィッジにされて、テイブルの上に乗せられていた。は……早業すぎる……。不可能を軽々と可能にしてみせる男だ。大穴を考えて、買ってきた状態からそうなっていたのかもしれない。先生は何事もなかったかのように無関心を装いながら、イヌを餌付けしようとする子どもみたいに俺が食べるのをいまかいまかと待ち侘びている。
朝とメニューが被っていることを謝られたが、ブレッドの種類も違うし、中の具材も違うし、全く気にならなかった。
「エビフライは、なにからできているか知っている?」食べていると突然聞かれた。
もしや引っかけ問題かと深読みしかける。
「エビ……」
「……だと思うよね。でも実際、エビフライはエビよりブレッド粉の割合が多いんだよ。小さいエビでいかに大きく見せるか、これが熟練技で……」彼の話は続く。
確かにエビよりブレッド粉が大部分を占めていたが、エビフライのメインはやはりエビなのであって、ブレッド粉が多かろうが少なかろうが、エビはエビなのである。彼がなにを言おうとしているのか、よく解らなかった。エビのブレッド粉包みフライと名称を改めるべきだと、まさか話が発展していくのでもあるまい。
サクサクとした歯触りを楽しみながら、彼がさらにフライにかかっているソースについて話すのを聞いていた。そのうち自然とタマネギの話となり、俺がエビの尻尾を食べていたら、キャルシアムとか骨の話になった。
このことでも判るように、先生はお喋りな男だ。考えてみればほとんどずっと喋っていて、喋っていないときはコフィを飲んでいたときくらいか? 彼がゆっくりと喋るから、喋っている時間が長く感じるのではないだろうし。情報を得られる分、ラ・コスタよりは害がないのは明白だ。
でも、捕らえどころのない妙な感覚がするのは何故だろう。
ルニエがまるでラ・コスタが帰ってこないことなど忘れてしまっているからか? 所詮、先生と比べれば……、ということなのかな。少し、可哀相だ。
「あら、どこへ行くの?」
食べ終わったあと、俺が腰を浮かせたのに目ざとく気付いたルニエが言った。その言葉で一瞬、席を立つのを止めようかとも思ったが、予定通り席を立つことにする。
「自分の部屋」
先生は困ったような顔になって、「気を付けてね」と言った。どうして困ったような顔をしたんだ? 気を付ける対象はなに? 考えたのは少しの間。聞き返せばせっかくした決心が無駄になる。彼から目を逸らすように、急に音を響かせ始めた鼓動を隠してダイネットの入口から飛び出た。軽い目眩。二・三歩歩いて壁に寄りかかる。
何故か縛り付けられたように動けなかった。
「無理しては駄目よ」聞こえてきた彼女の声。俺にかけられた言葉かと思ってギクっとなる。「今日、一週間分お喋りされたから、明日から一週間はお喋りをしない、とか仰らないでね」
どうやら、先生に言った言葉だったらしい。
「疲れたけど、サーフが先生と呼んでくれるなんて夢にも思わなかったから、つい嬉しくなってね。なにか心境の変化があったのかな、彼」
「わたしも、サーフはあなたのことが嫌いだと思っていたわ。でも、本当に無理をなさらないでね。お話をすることだけが、大切なことではないのですもの」
しばし沈黙。
「それ、昔の君に伝えてあげられる?」
続く彼女の笑い声を残して、俺は一生懸命そこから遠ざかろうとする。別に立ち聞きをしたかったわけじゃない。ただ、本当に眩暈が。
それにしても、あれはどういう意味だ? 先生がわざとお喋りな振りをしていたことは分かったが、何で二人とも俺が先生のことを嫌いだと思い込んでいたんだろう。今日初めて会ったのに。もしかすると、ラ・コスタに対して態度が悪かったからだろうか。
階段をようやく上り切り、部屋でパジャーマズを掴み、浴室でシャウアを浴びた。
もうちょっと丁寧に髪を拭くべきだったか、と後悔しながら浴室を出ると、ラ・コスタの部屋から先生が出てきた。
「ああ、良かったら君もお月見しない?」ルニエの部屋の扉を開けながら彼が言う。
「しない。ルニエ、先生が帰ってくるのを楽しみにしてたのに、俺がずっと邪魔してたら可哀相だろ」
これは本心だ。
「どうして? 満月の日しか逢えないわけでもないのに、大げさだね」
彼は何て無邪気に聞き返すんだろう。さっきも二人っきりにしてあげようと思って、頑張って抜け出してきたのに。まるで無駄だ。
「どうしても。それに俺! いま、ものすごく眠たいし」
これは嘘。
「そうか、お休みサーフ」
廊下を駆け、勢いよく扉を閉めかけて直前で気が変わり、音がしないようにそっと閉じた。窓からヴァランダを覗いてみる。
まだ薄明るい空。ルニエが姿を現し、急かすように空を指したまま後ろを振り返り、なにか言っていた。指で示された方向には、丸い月が浮かんでいた。
俺はカートンを引いて窓から離れる。このまま見ているなど悪趣味だ。
ベッドに飛び込む。全然眠くなどない。髪から落ちた雫がシートを濡らす。
なにがしたいんだろう俺は。
やっぱり、二人っきりだと先生もキスをしてあげるのかな?
*補足 レティス:レタス、キャルシアム:カルシウム
2012.8/15 ルビ修正
2012.9/7;9/9 表記変更
2013.2/8 表記変更
2013.2/20 一部修正




