新鮮な味覚
第五回目のテーマは『みたらし団子』です。
「ねえ、今お茶を用意するから、ちょっと座って待っていて」
いつものように勝手に彼女の部屋に上がり込むと、彼女……沙耶は振り返りもしないでそう言った。
ソファーに座り、俺はキッチンに向かう彼女の背中を見つめた。
黒髪をひとつに纏め、纏められたその髪が、沙耶が身動きするたびにゆらゆらと揺れる。
彼女は、そんな髪の一房さえも綺麗で……
俺はつい見惚れてしまった。
沙耶は、本当に美人だ。
そう、美人という言葉が本当によく似合う。
滑らかな白い肌。切れ長の瞳。鼻筋が通っていて、唇はふっくらとしている。ひとつひとつのパーツの美しさだけではなく、その配置は完璧で。
沙耶を連れていると誰もが振り返った。
そしてどんな美人も、その美人を連れている男も、気まずそうに目をそらす。
その度に、心から俺は誇らしい気持ちになるんだ。
そしてそんな誰もが美人だと認識する沙耶が、俺だけに甘え、俺だけが好きにすることができる。それはとてつもない優越感。
「沙耶、今度飲み会に来てくれって、みんな言ってたぞ」
背中を向けてなにかを作っている沙耶に話しかける。
背中の黒髪が大きく揺れ、沙耶が振り返る。その顔には、困ったような苦笑い。
「ご、ごめんなさい。私、お酒飲めないし、その、そういう場はちょっと苦手で……」
「お前、いっつもそう言って来ないよな。そんなに俺らと酒飲むのがイヤなのかよ」
「そんなんじゃないの。でも、その、本当に苦手で…… ごめんなさい」
沙耶の顔からは、既に苦笑いも消え、しゅんと悲しそうに俯いている。今にも涙をこぼしそうな勢いだ。
……別に、本気で沙耶を責めようと思ってあんなことを言ったわけじゃない。
ただ、彼女の口から「じゃあ、一回くらい行ってみようかな」なんて言葉を期待したんだ。
断られるのはなんとなくわかっていたし、断られたからといって、別に責める気もない。俺の友達が沙耶と一緒に飲みたいと思っているのは、沙耶が『美人』だからだ。
そして俺は、その『美人』の彼氏として、優越感に浸りたいだけで。
「ね、ねえ。怒っているの? ご、ごめんなさい……」
黙っていた俺を怒っていると思ったのか、沙耶は声を震わせ、必死な視線を送ってきている。その瞳には…… マジで涙が浮かんでいるよ。
勘弁してくれ。
「別に、怒ってないよ。たまには来たらいいのに、って思いはしたけどね」
「うん。でも…… 私、面白いことも何も言えないし、きっとみんなつまらないと思うの」
沙耶はエプロンをもじもじと握りしめつつ、そんなことを口にした。
そうか、自分でも分かってんだな、自分のことを。
まさに沙耶の言うとおりだ。沙耶は確かに美人だけれど、つまらない女だ。
面白みのあることひとつ言えないし、地味で控え目。今時の流行りのファッションに身を包むこともない。大口を開けて笑うこともない。わがままを言ってものをねだることも、街中で人の目を気にせずにキスするようなことも……
俺の脳裏に確実に誰かの姿が過って消えた。
俺はその姿を、慌てて頭の中から追い出した。
とにかく…… 沙耶が美人でなかったなら、俺はまずこいつとは一緒にいないだろう。
まだ俯いてエプロンの端っこを握りしめている沙耶に、俺は「もう別にいいよ」と言った。
もう少し優しい口調で言ってやってもよかったのかもしれないけれど、つい、ぶっきらぼうになってしまう。
でもそれだって、俺だけが悪いわけじゃない。
せっかくの休日にこうして会っているのに、ちょっとしたことでどんよりとしたオーラを出す方だって悪いだろう。もっとこう、明るく笑い飛ばしたりできないものなんだろうか。
……まあ、無理だろうな。
沙耶がそんなキャラクターだったら、俺なんかとはきっと付き合っていない。高嶺の花で、遠くから見ているだけの存在だったかもしれない。
ということは、沙耶はこれでいいんだな、きっと。
そんなことを思いつつ、俺は再びキッチンに向かう沙耶の背中を見た。
さっきから必死に何か手を動かしている。
そして聞きなれない、何かを掻き混ぜているような音…… シャカシャカと。
気になって、なにをしているのか覗きに行こうかと思った時、沙耶が振り返った。手にお盆を持っている。そのお盆を手に、沙耶は俺の前に来ると、座り込んでテーブルの上にお盆のものを乗せていく。
「これ、どうぞ」
そう勧められたものを、俺はまじまじと見た。
綺麗な紅葉をかたどった小皿の上には、みたらし団子。手作りだろうか、串は刺さっていない。代わりに袋に入った、洒落た楊枝が添えられている。
そして、もうひとつ。湯呑を潰したような形の器に入った、緑色の液体…… これはお茶、なのか?
「これ、抹茶だよ」
俺が何を考えているのか分かったのか、沙耶はくすりとそう言って笑った。
抹茶…… か。テレビとかで見たことはああるけれど、こうして実物を目の前に出されたのは初めてだ。妙にどろりと濃い緑色をしているんだな。
そんなことを思いながら、俺は目の前に出されたものを、妙に不思議な気持ちで眺めた。どう考えても、どちらも自分から進んで口にしてみようだなんて思わない代物だ。
そう、お茶も和菓子も正直苦手だ。
和菓子は甘ったるく嫌いだし、抹茶は飲んだことはないけれど、見た目からもうパスだ。お茶でさえあまり飲まないっていうのに、お茶を凝縮したようなその液体は、全く魅力を感じない。
「どうぞ、食べてみて」
なのに彼女は、それらを俺に勧めるのだ。
にっこりと笑いながら。
よりにもよってこんなものを勧めてくるとは、俺のことを全く分かっていない。いつも俺がコーヒーを好んで飲んでいるのも、甘いものを食べないのも、沙耶は全然気がついていなかったんだろうか?
それとも……
「嫌がらせか?」
そんな言葉が口を衝いて出た。
「嫌がらせ? どうして? 私に何か嫌がらせをされるようなことがあったの?」
沙耶は不思議そうに首をかしげる。……俺は、ぐっと息を飲んだ。
「や、そう言うことじゃないけど。俺、いつもはコーヒーだし、甘いもの苦手だし」
視線が泳ぎだす。沙耶を真っ直ぐに見ることができなくて。
「ああ、そうね。あなたはいつもコーヒーだし、甘いものは食べないものね。でも、たまに食べてみると美味しいかもしれないわ」
にこり、と沙耶が笑って、抹茶の入った茶器と、みたらし団子の乗った皿を俺の方に滑らせる。
綺麗な顔でにこりと笑っているはずなのに、その目が笑っているように見えないのは、俺が後ろめたいせいだけだろうか?
「いや、でも、本当に苦手で……」
「でも、せっかく作ったんだから、一口でいいから口にしてみて? あ、抹茶は御作法とかそういうの、気にしなくていいわ。そんなのは気にしないで」
ね?
と、彼女は尚も俺に抹茶とみたらし団子を勧める。
いつもならばこんなには食い下がらないのに、珍しい。
このみたらし団子は俺のために作ったのだろうし、さっきのシャカシャカという音は、多分この抹茶を掻き混ぜていた音に違いない。……掻き混ぜてって言い方が正しいかどうかは分からないけれど、俺に茶道の知識なんてないからよく分からない。
確かに、ただ断るのは申し訳ないような気がしてきた。
一口だけでも口にすれば、きっと沙耶も喜んでくれるだろう。
「じゃあ、ひと口だけ」
そう言って俺は、みたらし団子をひとつ口の中に放り込み、御作法だか何だかも関係なく、抹茶を一口すすった。
「あれ?」
「どう?」
「うん。悪くないもんだね」
驚いた。甘ったるそうな団子は、抹茶の苦みに誤魔化され。抹茶の口の中に残りそうな苦味は、団子の甘さに中和されている。
ああ、これが食べ合わせの妙ってやつなのか、と実感する。
「そうでしょう? 意外といけるでしょう。きっと甘味と苦味だからいいのよ。それにね、いつも同じものばかりじゃなくて、違ったものを食べるとすごく新鮮に感じるものだわ」
沙耶の言ったとおりだ。
たまに違った味覚を体験するのは、本当に新鮮で……
一度そのその新鮮さを味わってしまうと、またその新鮮な感じを味わいたくなるんだ。
そう、沙耶とのマンネリの関係が、他の女との新鮮な関係で誤魔化され、他の女との新鮮な関係は、沙耶とのマンネリの関係が罪悪感さえ中和してくれる。
さっき頭の中から追い出した女の顔が、瞼の裏をちらついた。
新鮮な味覚が。
沙耶とでは味わえない、刺激的な味覚が。
「あの女も新鮮だったでしょう」
ずっと抹茶を再びすすったところで聞こえた沙耶の言葉。すぐには意味を理解できなくて。
「あの女よ。たまには別のものが食べたくなったんだよね?」
くすり、笑っている沙耶に血の気が引いた。
そして沙耶は笑いながら尚も続けるのだ。
「仕方ないのかなって思ったわ。よく聞く話じゃない。カレーを食べ続けると、お茶漬けが欲しくなるって。だからそういうものだと思ったわ」
知られていた、知られていたのだ。浮気していたことが。
言い訳をしようと思うのに、口が動かない。
「でもねえ、一度や二度じゃないじゃない。何度も何度も。それなのにあなたは何事もなかったみたいに。その上、私といる時よりも楽しかったんでしょう?」
どん、と肩が小突かれる。
沙耶の、女のそれほど強くない力のはずなのに、俺はずるりとソファーからずり落ちていた。
動かないのは口だけじゃない。足も、腕も……!!
「とっくに飽きていたんでしょう? 私に感情がないとでも思っていた? ただのお飾りじゃないのよ」
床に不自然な姿勢で転がりながらも動けない俺を、沙耶は微笑みなが見下ろしている。
初めて見る沙耶の表情。
「ねえ、あまぁいお団子の中に入っていたお薬の苦み、抹茶で上手に隠されていたでしょう?」
口を月形に持ち上げ、冷たく、でもどこまでも凄艶に微笑む彼女に、俺は心を支配され。
ああ、これこそが俺の求めていたものなのだと悟った瞬間、意識は闇に溶けていった。