その憂いはひどく甘く
不安で眠れない、なんてことが最近多くなった。
そして大抵、そんな日は何をするにも不運だ。
例えば朝の電車で座れることはないし、バスはすし詰めのところに押し込まれるし、一限の授業では初っ端なから当てられる。購買にはいつも買うパンが置いていないし、そのせいで部活では貧血を起こすし、その現場を我が麗しき幼なじみに目撃される。ついでにおまけのように、帰りはそいつと電車に乗り合わせることになるはずだ。
とにかく不幸は重なる。というよりは連鎖する。そして案外、小さな不幸でも重なれば、ダメージは大きくなるものだ。
「で、何がそんなに不安なわけ?」
と、そんな話を乗り合わせた電車の中で訥々と語った私に、かの幼なじみは言った。心配そうというよりは、もはや怪訝な顔である。
「いや、ほら、あれよあれ」
「あれ?」
「ほら、世界情勢とか日本行政とか不景気とか環境破壊とか、そういった類のことよ」
「嘘だろ」
――付き合いの長さは時として鬱陶しい。
「じゃああれだ。男には分からない女の子の悩みだ」
「『じゃあ』の時点で作ってるよな」
――いちいちうるさい男だ。
「とにかくさ、不安なわけ」
「説明になってないけど」
「だから寝かせなさい」
「強引だな」
「肩貸して」
「どうぞご勝手に」
諦めたように、背もたれに深く腰掛けた彼は、腕を組んで私の頭の到着を待った。そして私は当然のように、遠慮なくその肩に頭を乗せる。長年馴染んだ感覚に、体温に、すっと眠りに誘われていく。
最近不安がとれない。
この温もりが、いつか遠くにいってしまうんじゃないかって不安。口が裂けても、こいつには言えない不安。
確かめるためにこうやってこいつの優しさを利用する自分は、ひどく浅ましいと思う。それでも、こんな風に不安を埋めないと、押し潰されてしまいそうで怖いのだ。
私はとても、弱い人間だから。
◇ ◇
きっかけは、とある告白シーンを見たことだった。それは、やり過ごせば、多分ありふれているであろう青春の1ページ。
部活に行こうと、体育館へ続くロータリーを歩いていると、囁くように小さな愛の告白が聞こえた。
私は失礼ながら、ぷっと一つ吹き出した。
まさかの体育館裏という王道。単純かつ明確な「好きです」の一言。これほどまでに少女マンガに体当たりした見本例を私は見たことがなかったが、それでも珍しくはないんだろうなと思った。恋に恋するお年頃とは、よく言ったものだなと。
後々思い返してみると、私はそこで止めておけばよかったのだ。有り余っている好奇心をあの時フル稼働しなければ、きっと今頃はこんな不安に駆られることもなく、のうのうと笑っていただろうに。
だけど、私はフル稼働した。木陰からひょいっと、青春真っ只中の2人の顔を覗いてみたのである。
女の子の方は、見たことがあるけど知らない子、だった。確か隣で部活をしている子だ。バレー部の、いっこ下。可愛らしい子だなって、見かけて思った記憶はあった。
そうかそうか、あんな可愛い子でも告白しちゃったりするのか、なんてほくそ笑みながら、私は、いらぬ老婆心で男を見定めてやろうとした。くだらない好奇心だった。今更ながらに後悔している。後悔先に立たず、だ。
男の方は、見定めるまでもなかったのだ。見定めるまでもなく、よく知りすぎている、我が麗しき幼なじみだったから。
ずがんと、よく分からない衝撃を受けた。
あり得ない、と苦笑を浮かべながら、自分がなぜかひどく焦っているのが、痛いほどよく分かった。何に対して? 誰に対して? そんなことは分かりきっていた。
確かにここ一年で、すっかり大人っぽくなった。いっこ下のくせに、正直私の同級生より大人っぽい。素っ気なくなったけど、昔より気が利くようになって、人懐っこい笑みはそのままに、少し釣り上がった眼はすっと切れ長になった。一般的に言えば、十分イケメンの部類に入るんじゃないかと、幼なじみの贔屓目なしにも思う。むしろ、幼なじみの厳しい眼で見てもこいつはいい男になった。――なりやがった。
今まではそんなことなんて認識せずに逃げて来れたのに、あの告白を見てから否応なく思い知らされるようになった。幼なじみっていう束縛だけじゃ、ずっと傍にいることなんて出来ない。この安定した、安心感の塊を壊さないと、私はいつかこいつを失うことになるんだと。
だから不安で眠れない。この温もりを失うのが怖くて、目覚めたらもう私のものじゃなくなってるんじゃないかと怖くて、上手く呼吸が出来ないまま、汚濁したような時間がドロドロと流れていく。
そしていつも、気付いたら朝だ。地平線の縁に太陽が這い出していて、空は白んでいる。結露に覆われた窓に「スキ」と書く。なんて乙女な自分。感傷なんて似合わないのに。
要は最近の私はずっと、大切で大好きな人と一緒にいたいと思う、この醜い感情を持て余しているってことだ。
◇ ◇
浅い眠りのうちに、電車のアナウンスがわたし達の目的地を告げた。次の駅まで大体3分。私が何の不安に駆られることもなくこいつと一緒に過ごせるのは、あと3分。
私はそこで、俯いていたのをいいことに少しだけ吹き出した。あの有名な特撮ものを思い出したからだ。 ヒーローは地球に3分しか留まれない。だから3分間で思う存分暴れる。なら私は?
そうして動作は、何の前触れもなく起こした。私達の間に、壁を作るように置いていた自分の左手で、同じように投げ出された幼なじみの右手を掴み、指を絡めた。ごくごく弱い力で、寝惚けていますと言外に示すように。
どうするんだろうと思った。まるで何事もなかったかのように手を離されて終わるんじゃないかという、これまた独りよがりな不安にも駆られた。
だから、驚いた。
まずは耳元を、軽いため息がくすぐった。鼻から吐き出された、苦笑のようなため息だった。やっぱり呆れてる、と涙が出そうになる。けれど私はそれを、必死に堪えた。鼻を一度だけすすった。もう諦めようと思った。その時だった。
指を絡めたその手を、きつく握り返された。離さないというように、きつく、きつく。痛いほどに握られた。
真意は分からなかった。そんな動作ひとつでこいつの気持ちを計れるほど、私は私に自信があるわけじゃない。でも、寝惚けているのではない幼なじみの動作に思ったのは、まだ私はこいつの傍にいてもいいってことだった。まだ傍にいるのを赦されているということ。まだ、こいつの優しさを貪っていてもいいってこと。
さっきとは違う、涙が出た。
再び私達の目的地をアナウンスが告げたとき、私の涙は綺麗に頬に筋をつくっていた。それを自覚しながらも私は顔をあげ、ふっと横にいる幼なじみの顔を見た。彼は微笑んで、私の頬の涙を長い指で拭った。
「怖い夢でも見た?」
「そんなとこ」
苦笑してみせると、同じように苦笑された。
「よっぽど不安だったんだな」
「そうよ」
「俺の手握り締めたりして」
「………」
無言でいると、俯いた顔を不思議そうに覗き込まれた。
「どうした?」
「なんでもない。離して」
「自分から握ってきたくせに」
「寝てたから覚えてないし」
「可愛くねぇな」
「どうせ」
そして2人して笑った。 手を握り合ったまま、電車のドアの前に立つ。
「私達って、なにに見えんのかな」
「なににって?」
「ただの幼なじみに見えてんのかな」
「さあ?」
「さあって…」
電車はその速度を緩めながら、駅へ入っていく。私達はもう、何も言わなかった。何も言わないままホームに降り立ち、そのまま階段を降り、改札を抜けた。 夕暮れの空が広がっていた。オレンジと紫の交じり合った、不思議な色。
人も疎らなその空の下、そして私達はどちらからともなく手を離した。
シリーズものにしようかなーと書いた作品です。
今後更新するかしないかよく分からないので、とりあえず短編掲載にしました。