京洛御伽草子 或る朝、波の間より打ち上げられたる泡に行く手を塞がれたる武士ありて
「京洛御伽草子 或る夜、荒れたる寺に宿りし武士、鬼境を越ゆることありけり」の直後の話になります。
----膝の上に。
毛玉が上がって来て、そのまま丸くなった。恐る恐る背のあたりに触れて思わず目を瞠った。今まで触れたこともないような・・宮中の御猫さまも敵わない極上の毛並みであった。柔らかな手触りに、つい夢中で撫ぜていると、きゅっと丸い目が上向いて、クルルルルルゥと低く鳴いたのには、何とも心臓を掴まれる心地となった。
「・・何か食べるか? えーと、干し杏があるぞ?」
と、思わず言っていた。
キュキュと応じるような声に、皮袋から取り出して与えれば、キューと両手で受け止める仕草に、蕩けそうな気分で毛を撫ぜていた。
「あざとすぎる。」
いつの間にか戻ってきた少年が、結界を生じさせていた(らしい)宙を浮遊する扇を掴んで、懐に収めながら言った。
その背後に見知らぬ男がいる。能く体を使っていることが窺えるがっしりとした体躯で、どこか野性味を感じる。かといって武士ではなく、重い荷運びや太刀よりも重い道具を一日使うような仕事で作られた体だ。
少年が連れているのだから、鬼市の関係者かと推し量り、土地の協力者にしては旅装である。
「一矢と申します。」
声に聞き覚えがある気がして、しげしげと見返し、あ、と声を上げた。
その姿には見覚えはないが----口に出していいのだろうかとおろおろしている雰囲気に男は苦笑いして、
「今朝がたはあのような姿で失礼しました。」
と、言った。
「いや・・あの、・・助かった。」
つい見てしまった首筋は滑らかで、よく筋肉が張っていた。
「その・・火傷は大丈夫だったのだろうか?」
と、続ければ、吃驚したように目を見開き、笑った。
「殿上の尊き方に、奴のような身を案じていただけるとは、」
それから目を眇めて青年を見、少年と目を交わした。
「そういう性か、」
「性ゆえにそうなのか。」
そこで、きゅとねだってむささびが青年の指を甘噛みしたものだから、視線は何となく散って、会話も途切れてしまった。
「今日から3人・・いや、二人半があなたに付く。」
正式に、と少年は言った。
半と形容されたのが自分だと察して、むささびはむむむむ、と背中の毛を震わせて不満を表した。
まあまあと宥めるように撫でると、手にすり寄ってくる。可愛い、と頬を緩める青年に、少年は呆れたように息を吐いた。
「それは、ただの獣じゃなく、歴としたあやかしだぞ。親がなかなかよく年を経った大妖だったせいで、鄙みたいなもののくせに、人語もそこそこ解すし、妖力もある。」
----以前に、水無瀬の離宮で年取ったむささびが射落とされたことがあった・・と、浮き上がった記憶は、キュキュと鳴くむささびと少年の口論の前に沈んでいった。
「は? 鄙じゃないって? 長兄どのとまではいかなくても、なにか容が変えられるようになってから言えよ。」
「----化ける?」
内傷あり、だから、反射的に体が跳ねた。
「こいつの長兄は、いかにも人の良さげで裕福そうな受領になる。」
「・・そうなのか、」
女に化けたあやかしの、夜に光る縦長の目と濁った水の匂いがすぐ近くまで寄せて青年を息苦しくさせたのだが、ピシ、と手首にあてられた、ふさふさした尾の感触がそれを退けた。
つぶらな目に、思わず抱き上げていた。頬を寄せるのに、少年はため息をつき、飛首の男は苦笑いで、
「怖い思いをされたのですから仕方ございますまい。うちの子らも、よくございました。」
「・・はるもそうだな・・、」
ただし目の前にいるのは、細身ながら、太刀を帯びた二十代後半の武士である。
達観した半眼を経てから、
「舟を出すにしろ、聞き込みをするにしろ、とりあえず拠点を定めてから動きたい。」
少年は懐から、筑前長門周防豊前といった、近辺を描いた地図を取り出した。
「あなたが一人でいても攫われたり襲われたりせず、あなたを攫おうと襲ってくるモノあれば防げる場所だ。」
我がことながら難易度が高い気がする。そもそも京ではそんな心配をすることなく暮らしていたわけだから、京の結界の優秀はいかほどのものかと戦慄さえする。そして、月からの使者を前に、かぐや姫を家に籠める算段をするように彼らが論じるのが気恥ずかしい。
「心当たりは?」
「一応。守に幾つか紹介されている。」
ちらと青年を見て、
「人を恃むか、異に縋るか。」
「直感ですな。」
「わりと命懸けのな?」
少年と一矢は軽く息を吐いてから、青年とむささびに出立を告げた。
深く、吸い込まれそうな玄い青であった。
青年が今まで出会ってきた、熊野の鮮やかで明るい碧や瀬戸内の翡翠色とは違う。心に迫ってくるような、強い風と波を受けながら、この海の向こうには見知らぬ異国があるのだと、思いを馳せれば、遠いところにいる、という実感がしみじみと込み上げる。そんな、海のいろだ。
しみじみとして、先を行く少年の背から目を離したのは一瞬のはずだ。なのに、どういう訳か海から白い靄があふれ出して、足元の小道を覆いつくしていた。
肩の上におさまっていたむささびが威嚇するように鳴いた。
靄と思ったが、泡のようだった。一抱えもあるようなあぶくが、波間からころころと転がりだし、青年の足元を埋め尽くす。
このあたりでは、このような自然現象が起きるのか、と一瞬考えたが、波の音の後ろ側から歌が聞こえ始めて、これも怪異だと悟った。
水沫は立ちぬよ 煮え返る
煮えたるや否やと 食して見よ
むしゃむしゃ食せど まだ煮えぬ
夜更けて煮えにし 鍋の中
今様だ。
女の声のようでも男の声のようでもある。奇妙な響きで、繰り返すごと沫は嵩を増して、本当に鍋の中のあぶくのように、結んでは弾ける。
これよりいづくへ参られる
京へと参るなり
それははるばるご苦労な 旅の糧はお持ちかな
何をもって行こうぞや
飯ならまもなく炊き上がる 椎の葉くるんでおもちなさい
供はだれを伴うか
あいにくわが身一つにて
それは危うきことなれば お声があれば今ここに
青年のほぼ正面に、複数の泡が身を寄せ合うようにして、一つの大きな塊が出来上がっていた。
泡は膨らみ、弾け。
かたちを変えて----あるいは構成していく。
雲を見上げて、人はそのかたちを何かになぞらえるように、その泡を見ているうちに。何かに見立てたくなるのは、だから人の性である。
全体は犬のようだが二回りほど大きく、脚は絵巻の中の虎のように逞しく、頭部は平たくてまるで猿、尾は細いがそれ自体が別の生き物のようにくねるさまは蛇か。
いつしか煮えにし 鍋の中
灯り消したる暗がりに
トントン叩くは誰なるぞ
トントン叩くは誰なるや
トントントン 柿の実投げたりて
トントントン 腹の鼓を打ち鳴らす
トントントン 深き森の下草を踏んで
トントントン 舵に絡んで空回り
トントントン いかなる音か知りたけれ
空間を揺るがすような音声が、圧し包むように降り注いだ。
トントントン いかなる音か答えよかし
繰り返され、圧を増すそれに、どう対応していいか分からない。目を泳がせるが、少年も飛首の男の影もなく、ただ首元に寄りそうむささびの小さな心臓の音だけが、青年を此岸につないでいた。
答えを求められ、----答えるのはよくない・・気がする。かといって。
トントン叩くは誰なるぞ。
誰なるぞ。
問いの音は、もう心の臓を直接震わせるほどで、ほとんど物理的に突き刺さるような圧だ。息苦しい。音に締め上げられて、身の危険を覚えるほどだ。
「---顔は・・猿。」
検討をつけている、その生き物。
「脚は虎、」
言の葉にした途端、問いの音量は薄れた。
やはりそうか、と慎重に言葉をつづけた。
「身は狸。」
青年の言葉に従って、泡のかたちは定まっていく。
「尾は蛇、」
けれど、その質量はあくまで泡である。
誰なるぞ。
誰なるぞ。
先を促す、囁きのような、打って変わった優しい声音。
言わせたい、確定する言葉----即ち、名づけること。
仁平の頃。
応保の頃。
二度にわたって京を騒がせた、もの。
唾を飲み込んだ。
正直、好奇心はある。あのように後世の人々の記憶に残るような歌を残せるのなら、その先が非業と言われる敗死でも、人生に悔いはないのではないかと、武士らしくなく思ったものだ。
----術中にもういたのかも知れない。
上皇の下命も兄の言葉も、もうすっぽりと抜けていた。
「・・ぬ・・」
正確には、ぬ、の半分を言いかけた時、飛んできたのかとばかりの唐突さで、体を丸めた少年が懐に飛び込んできた。結構な勢いであったから、受け止めきれず、もろともにもんどりうって、地面に転がり込む次第となった。
あわや下敷きになりかけたむささびが、きゅきゅと抗議の声を上げた。
「被害者面してんじゃねーよ! 呑気に襟巻しているときか!?」
しかりつけられたむささびは、きゅー!!と目を吊り上げて、次いできゅきゅきゅと矢継ぎ早の声を出した。
「はあ!? 撒かれた俺たちが悪い? ああ、それは悪かったよ!?」
「きゅっきゅ!! きゅ~きゅ!!」
「守様方ならこんな下手は打たなかった? ----はぁ?」
自尊心を傷つけられた、むっとした顔は年相応で、現実的で、青年は何故か安心したのだ。
「だったら、お前の長兄や次兄、いやすぐ上の兄貴でも、ずっとうまく振舞っていたってことだよな!?」
「きゅきゅきゅ!! きゅ!!」
「なんだよ、同じだろ? いじめているとか、はあ?」
「----すごいな、鬼市というところは。」
人と獣が意思疎通している。
「いや、さすがにただの獣とは、」
「----きゅきゅ!!」
ただの獣ではないぞ、という抗議だとこれは青年も理解した。
まるできょうだいのような似た表情をしていることに、青年と一矢はどちらともなく目を合わせて、やれやれと微苦笑を浮かべた。
少年はバツが悪そうに息を調えて、むささびに言った。
「くっついてろよ。」
「きゅ!」
首にすり寄ってきたむささびに、
「兄上は偉そうにするものだ。」
と、弟の立場から慰めたのだが、
「きゅぅ!」
心外そうな声が返った。
「ただの年齢なら、経たあやかしであるそれは、我らの誰より上ですよ。」
と、一矢が補足した。
こんなに可愛いのに、としげしげとみれば、また愛らしく首を傾げるから、いいかと頬を緩めた。
その脇狂言をよそに、少年は泡のかたちに目をやっている。彼らの登場に、声は退いていって今はぶくぶくという泡立つ音が繰り返されるだけだ。
「こいつも水かよ・・、」
と嫌そうに独り言ちた。
「場所柄そうかとは思ってたけど、こうも立て続くと、やっぱり俺じゃないと思うんだけれど、----身内以外はあてられない、か。」
炎の扇を掲げたが、ふと何かを思いついたようで、一度下ろした。
「なあ?」
少年は青年を振り向いた。
「呼んでみてくれ。」
「は?」
「早瀬、それは。」
「片端からあやかしを惹きつける。鬼に攫われる。依頼を進めるにあたって、どこまで影響があって、何が生じるのか見極めておかないと、対応が遅れる可能性がある。」
「物は試し、と?」
「うん。」
飛首の男は、半眼である。ただの興味では、と見透かしている。
「と、いうことで、呼んでくれ。」
「なにを?」
「さっき呼ぼうとしていただろ?」
「・・危ないだろう?」
名づけたら、かたちが成立する。
「何とかする。」
実力はある、と思うけれど。
「ほととぎす名をも雲井にあけるかな・・だろ? 見てみたいじゃないか。」
さら、と引用する教養は、庶人のものではない。
「弓はり月のいるに任せて・・か。」
好奇心を後押しするように笑う少年の手の中で、扇が弓に変じた。もう何が常識なのか分からない、と嘆息しながら、青年は泡の塊を見据えた。
「・・・ぬえ。」
泡は膨れ上がったと思うと、濡れた犬が身震いするような仕草で、泡は弾き飛ばされた。
残ったのは、「猿の顔、狸の胴体、虎の手足、蛇の尾」を持った不可思議なけもの。ヒョー、と低い不気味な声で鳴く。
こちらに飛びかかろうと前足を曲げようとするところに、ひょうと空間を鳴らして鏑矢(に似た何か?)が放たれた。けものは、射すくめられたように動きを止めた。
「俺に続けて言ってくれ。」
少年は、一度に四本の矢を束ねてつがえていた。いつ、どこから矢が? と思ったが、たぶん弓と同じ原理に違いない。常識的にはあり得ない型だが、そも何もかも普通の装備ではないのだ。
「東は青龍、性は木。芽吹く春。」
「南は朱雀、性は火。燃え盛る夏。」
「西は白虎、性は金。満ちる秋。
「北は玄武、性は水。堅固なる冬」
少年はけものにではなく、天に向かって弓を引いた。四本の矢は唱えの言葉を載せて、四方に分かれた。更に青年の復唱で、その速度と輝きを増しながら地面に突き刺さる。
「四色に拠り中央に麒麟を招きて、浄めたまえ。」
少年が弦を鳴らせば、呼応するように矢から各色の炎が螺旋を描くように立ち上り絡み合い、まるで鳥かごのようにけものを閉じ込めた。
けもの----「鵺」はけたたましい声を発しながら、金色の炎に包まれて燃え尽きていった。
絶叫が小さくなるにつれて、霧は晴れて、涼やかな風と潮騒の轟きが戻ってきた。
「いろいろ万能だな!」
跡を確認し、灰を扇いで海へと飛ばしたのち少年は振り向いて、つくづく感心したように言った。
「宮仕えなんか辞めて、鬼市に来ないか?」
自分が何を為したのか、ピンと来ていない青年はきょとんとしている。
「攫われたり喰われたりする心配をしなくていい。鬼市はあなたを珠のように守るだろう。」
「----わたしには、わたしにどんなちからがあるのかよく分からないが。」
青年は静かに首を振った。
「あの鬼がわたしにしようとしたことと、それはどう違うのだろうか?」
先ほど「鵺」を入れた籠が脳裏にちらついていた。
「鬼市は一方的にあなたを利用したりはしない。」
「----わたしの希いは、」
喰う獲物を入れる籠。
喰われないように入れる籠。
「院の御望みを叶えて差し上げるために、この奇妙な我が身が役立つこと。」
「・・あなたには、あなたを案じ無事に戻ってくるように、俺たちを手配するようなご家族がいらっしゃったのだった。帰る場所があるというのに無神経なことを言った。」
浮かれていた自分を恥じるように目を伏せて、謝罪した。
「あなたが無事に戻れるように力を尽くす。」
「ああ・・ありがとう。」
「でも?」
「うん?」
「この先もあなたが、臨機応変に協力してくれるのなら、もっと上手くいけると思うんだが?」
ちゃっかりとした申し出は、不快ではなかった。
「武士として守られているばかりというのは情けないと思っていたところだ。」
あえて重々しく応じると、
「よし!」
と、少年は力強く頷いた。飛首の男は笑みを口の端にかけ、きゅいきゅいとむささびは鳴く。
「じゃあ、俺たち4人で華々しく壇ノ浦に乗り込むとするか!」
「編者不詳・成立不明『鎌倉異聞』」
今は昔。
海辺の路を歩むに、真昼なれどあたり俄かに暗うなりて、波の間より、泡の次々に打ち上げられ、路をすなはち埋み尽くす。
さながら煮炊きするがごとくに、泡のぶつぶつと音したる、いと怪しと見るほどに、ある泡の集まりて大きなる塊となりぬ。
うづくまりたる熊の姿のかたちに似たれば、「熊にこそあなれ」と言いたるほどに、瞬く間に、まことの熊となりて躍りかかり、その人を食いてけり。
されば、言の葉には霊の宿ることもあれば、悪しきことはゆめゆめ口にすべからず。心すべきことなり。
壇ノ浦にたどり着けないまま、一話追加となりました。
一度はみなが歌った「あぶく立った煮え立った」の鎌倉バージョンです(笑)。この時代にあったかどうかは分かりません。




