拝啓。わたくしが陥れた貴方様へ。
「奥様。お手紙が届いております」
昼下がり。
執務室で領地の報告書に目を通していたエリナリーゼは、侍女から差し出された一通の封筒を受け取った。
見覚えのある紋章だった。
アーヴェル侯爵家。
五年前に捨てた祖国――皇国の名門侯爵家の紋章である。
「差出人は?」
「キャサリー・アーヴェル様でございます」
その名前を聞いた瞬間。
エリナリーゼの指が止まった。
キャサリー。
六つ年下の侯爵令嬢。
幼い頃から自分を慕い、顔を合わせるたびに後ろをついてきた少女。
そして、
自分が皇国を追われるきっかけとなった一件に、恐らく深く関わっていた少女。
五年前。
エリナリーゼには皇太子ルワルドという婚約者がいた。
十二歳で婚約して以来、未来の皇太子妃として教育を受け、彼を支えてきた。
その婚約が、ある日突然崩れた。
エリナリーゼが隣国の王子と密会している。
皇太子という婚約者がありながら、他国の王族と逢瀬を重ねている。
やがて噂には尾ひれがつき、皇国の内情まで隣国へ流しているのではないかと囁かれ始めた。
もちろん事実ではない。
隣国は皇国を遥かに凌ぐ列強国。
悪化しつつあった関係を改善するため、エリナリーゼは秘密裏に動いていた。
だけど、それが裏目に出た。
独断で動いていた以上、エリナリーゼは自らの潔白を証明することができなかった。
皇太子ルワルドは彼女の言葉を信じず、婚約を破棄。
長年『皇国の宝』とまで呼ばれていた才女は、一夜にして皇太子を裏切った悪女となった。
そしてエリナリーゼが皇国を去った後。
新たな皇太子の婚約者として選ばれたのが――キャサリーだった。
あまりにも出来すぎた話。
だから疑っていた。
だけど、あの子も優秀だった。
確かな証拠は何一つ見付からなかった。
何よりエリナリーゼ自身が、最後まで信じ切れなかった。
あの子が、本当にそんなことをしたのだろうか、と。
それからずっと、答えは出なかった。
その答えが今、自分の手の中にあるのかもしれない。
エリナリーゼはしばらく封筒を見つめていた。
やがて静かに封を切る。
『エリナリーゼ様へ。
突然のお手紙をお許しください。
私からの手紙など、読みたくもないかもしれません。
ですが、一度だけ。
どうしてもあなたに伝えておきたいことがあり、こうして筆を取りました。
五年前のことです。
あなたが皇太子ルワルド殿下との婚約を破棄され、皇国を去ることとなった一件。
当時、あなたが隣国の王子殿下と密会しているという噂が流れました。
婚約者がありながら、他国の王族と逢瀬を重ねている。
さらには皇国の内情まで流している。
そんな噂でしたね。
もちろん。
私は真実を知っていました。
あなたが一人、隣国との関係改善のために動いていたことも。
王子殿下との面会が逢瀬などではなく、皇国の未来のための交渉だったことも。
すべて知っていました。
その上で、あの噂を流したのは、私です。
驚かれましたでしょうか?
それとも。
やはり、とお思いでしょうか。
聡明なあなたのことです。
もしかすると、とっくの昔に気づいていたのかもしれませんね。
私はあなたの行動を調べました。
王子殿下との面会の日時を調べ、あなたが交わした手紙についても調べました。
そして、その中から都合のいい事実だけを取り出しました。
嘘は、それほど多くありません。
あなたが王子殿下と何度も会っていたことは事実。
手紙を交わしていたことも事実。
人目を避けていたことも事実。
ただ、その理由だけを隠しました。
それだけで、人々は勝手に続きを作ってくれました。
あなたは殿下を、そして皇国を裏切った。
未来の皇太子妃に相応しくない。
噂は私が想像していた以上の速さで広まりました。
ルワルド殿下は激怒し、あなたの話をろくに聞くこともなく、婚約を破棄した。
貴族たちも次々とあなたを非難しました。
そしてあなたは、皇国を去った。
空席となった皇太子の婚約者に選ばれたのは私です。
随分と、分かりやすい話でしょう?
キャサリー・アーヴェルはルワルド殿下を手に入れるため、邪魔なエリナリーゼを陥れた。
当時の社交界でも、そのように囁かれていました。
私は否定しませんでした。
否定する必要もありませんでしたから。
私は昔から、お二人をよく見ていました。
十二歳で皇太子殿下の婚約者となったあなた。
その隣には、いつもルワルド殿下がいました。
夜会でも。
お茶会でも。
皇宮の庭でも。
あなたと殿下が並んでいる姿を見るたび。
いずれ二人が夫婦になるのだと思うたび。
私は、嫌で仕方がありませんでした。
あなたは覚えていらっしゃるでしょうか。
私が九歳の頃、初めて皇宮のお茶会へ招かれた日のことを。
あの日の私は緊張して、誰とも話すことができませんでした。
侯爵令嬢なのだから堂々としていなさいと母には言われていましたが、そんなことができるはずもなく。
庭の隅で、一人泣いていました。
そんな私を見つけたのが、あなたでした。
「一緒に行きましょう、キャサリー」
そう言って、あなたは私に手を差し出してくださいましたね。
きっと覚えていないでしょう。
あなたにとっては、それくらい何でもないことだったのでしょうから。
けれど、私は覚えています。
あれから、ずっと。
十歳で三か国語を話し。
十二歳で大人たちに混じって国政について意見を述べ。
十四歳の頃には南部の治水事業にまで関わっていた。
誰にでも優しく。
それでいて、必要なときには誰よりも毅然としている。
大人たちはあなたを『皇国の宝』と呼びました。
私も、そう思っていました。
私もいつか、あなたのようになりたい。
そう思って、必死に勉強しました。
あなたに褒めていただけることが、
あたなに妹のように可愛がっていただけることが、何より嬉しかったから。
だけど、そんなあなたの隣には。
いつもルワルド殿下がいました。
殿下が失敗すれば、あなたが頭を下げる。
殿下が間違えれば、あなたが陰で正す。
殿下が思いつきで口にした政策を、あなたが夜遅くまでかけて形にする。
それでも周囲の大人たちは口を揃えて言いました。
エリナリーゼ様なら、きっと素晴らしい皇太子妃になる。
エリナリーゼ様がいれば、皇国の未来は安泰だ。
お似合いのお二人だ、と。
本当に。
馬鹿馬鹿しい。
この腐敗しきった国にも。
愚かなルワルド殿下にも。
あなたは、あまりにも相応しくありません。
私くらいが、ずっとお似合いです。
だから私は、あなたを皇国から追い出しました。
あなたが皇国を去った日のことは、今でも覚えています。
最後に一度だけ、目が合いましたね。
あなたは怒ってはいませんでした。
ただ、とても悲しそうでした。
私はあなたに憎まれるつもりでした。
だから、少し困りました。
あの顔だけは、今でも夢に見ます。
あれからしばらくして、あなたが隣国のアルベルト伯爵と結婚したと聞きました。
恋愛結婚だったそうですね。
驚きました。
あなたにも、そんなことができたのですね。
失礼。
少しだけ笑ってしまいました。
お子様にも恵まれたとか。
領民から慕われ、旦那様との仲も睦まじく、あなたが手掛けた灌漑事業によって、領地の収穫量も大きく増えたと聞いております。
こちらまで噂が届いていますよ。
さすが、エリナリーゼ様です。
その話を聞くたび、私は思います。
ああ。
これでよかったのだ、と。
さて。
昔話は、このくらいにいたしましょう。
聡明なあなたのことですから。
我が国の現状については、すでに把握していることと思います。
皇国は今、かつてないほど窮しています。
国庫は底をつきかけ、商人たちは次々と国外へ拠点を移し始めています。
南部では不作が続き、
北部の諸侯は中央への納税を拒んでいます。
先月には、とうとう隣国との国境も封鎖されました。
皇帝陛下は病床に伏しておられます。
もう長いこと、公の場には姿を見せていません。
そして。
現在、皇国を事実上動かしているのはルワルド殿下です。
その隣には、もちろん私がいます。
笑ってくださって構いません。
あなたを追い出した女が。
あなたの座を奪った女が。
今では毎日のように、あの方の失敗の後始末をしています。
最近になって、ようやく分かりました。
あなたが昔、どうしてあれほど眠そうだったのか。
ルワルド殿下は。
私が思っていた以上でした。
ですが、どうか勘違いなさらないでください。
この手紙は、あなたに助けを求めるために書いたものではありません。
むしろ、その逆です。
エリナリーゼ様。
どうか帰ってこないでください。
この国がどれほど傾こうとも。
皇帝陛下から手紙が届いても。
かつてあなたを罵った貴族たちが頭を下げても。
民があなたを求めても。
そして。
もしルワルド殿下が、あなたの名を呼んだとしても。
決して、皇国へ帰ってこないでください。
あの時、国はあなたを捨てました。
あなたがどれほど皇国のために尽くしてきたのかも知らず。
あなたの言葉に耳を傾けることもせず。
あなたを裏切り者と罵り。
追い出した。
ならば、今さらあなたの才だけを惜しんで、戻ってきてほしいなどと、
そんな虫のいい話が許されるはずがないでしょう?
こちらのことは、私がやります。
どこまでできるかは分かりません。
あなたほど優秀ではありませんから。
それでも。
やれるだけのことは、やってみるつもりです。
私が望んで座った場所です。
最後まで座っているくらいの責任は取ります。
それでも駄目なら。
そのときは、そのときです。
だから、あなたはそこで幸せになってください。
愛する旦那様と、お子様と。
あなたを大切にしてくださる方々と。
もうあなたは、皇太子妃ではありません。
皇国の宝でもありません。
ただのエリナリーゼとして。
どうか、幸せに生きてください。
それでは、お元気で。
あなたの幸せを、遠い祖国より願っております。
キャサリー・アーヴェル』
最後の一文字を読み終えても、エリナリーゼは、しばらく動かなかった。
開け放たれた窓から、暖かな風が入ってくる。
庭から子供の笑い声が聞こえた。
三歳になる娘が、夫と遊んでいる。
その向こうには、広大な麦畑。
五年前には荒れた土地だった場所が、今では黄金色に染まっている。
ここへ来て、幸せだった。
本当に幸せだった。
皇太子妃になるためではなく。
国のためでもなく。
誰かから期待された役割を果たすためでもない。
夫を愛し。
娘を愛し。
領民たちと笑う。
ただ一人の人間として生きることが、こんなにも穏やかなものだとは知らなかった。
ぽたり。
便箋に雫が落ちた。
エリナリーゼは、それを見つめる。
「……馬鹿ね」
もう一滴、雫が落ちた。
「本当に、昔から……馬鹿な子」
エリナリーゼは知っていた。
キャサリーは優秀だ。
侯爵家の令嬢として最高の教育を受け、幼い頃から何をやらせても人並み以上にこなした。
負けず嫌いで。
努力家で。
一度決めたことは、何があってもやり遂げようとする。
だからこそ、分かってしまった。
『こちらのことは、私がやります』
『やれるだけのことは、やってみるつもりです』
『それでも駄目なら、そのときは、そのときです』
あの子は、どこまでやるつもりなのだろう。
「帰ってくるな、ですって?」
エリナリーゼは涙を拭った。
「ええ。帰りませんとも」
皇国へ戻るつもりはない。
自分を捨てた国を救うために、もう一度人生を差し出すつもりもない。
ルワルドを助ける義理など、なおさらない。
けれど。
それとこれとは、別の話。
エリナリーゼは新しい便箋を取り出した。
ペンを手に取り、インクへ浸す。
少し考えて──
最初の一文を書いた。
『親愛なるキャサリーへ。
五年ぶりに届いた妹からの手紙。
とても楽しく読ませていただきました。
まず、一つだけ訂正しておきましょう。
私はあなたのことを、妹のように可愛がっていたのではありません。
今でも、妹だと思っています。
ですから。
姉より先に死ぬことは、絶対に許しません。』
そこまで書いて。
エリナリーゼは、ふっと笑った。
祖国を救うつもりはない。
皇太子を救うつもりもない。
ただ、昔から少々無茶をしすぎる妹を助けるくらいなら。
姉として。
少しくらい知恵を貸してやってもいいのではないだろうか。




