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掘り続け、走り続け、焼き続ける世界 ――誰にも知られず、世界を回す者たちの夜明け――

掲載日:2026/05/10

十年間、彼の世界は「幅六尺、深さ七尺」の穴の中にしかなかった。


都の墓地。


彼の仕事は、死体を埋めるための穴を掘ること、ただそれだけだった。

荘厳な聖堂の陰で、彼は「穢れた者」として蔑まれ、死人の匂いと湿った土にまみれて生きてきた。


ある夜、何かがプツリと切れた。


彼は十年使い込んだスコップを放り投げ、安酒を煽った勢いのまま城門を抜けた。

わずかな路銀と、くたびれ果てた体を引きずって。


少し歩いた先で見たのは、都の灰色の空の下では決して見られなかった、暴力的なまでの色彩だった。


青い天蓋と、銀色に揺れる野花。


(俺はこんなに狭い世界で死を埋めていたのか)


彼は初めて見るありふれた風景に、心を打たれた。


歩き続けた彼の前に、分かれ道が現れた。


足元に落ちていた小枝を拾い上げ、放り投げる。


枝の指した先は、険しい山道だった。


ため息を一つ。


だが、墓の下のような湿地へ戻るよりはマシだった。


彼は杖を突き、上へ、空に近い方へと足を進めた。


◆◆◆


伝令の仕事は、ただただ過酷だ。


日が昇る前に出発し、宿場では固い黒パンを水で流し込む。

のんびりしている暇はない。


野犬や盗賊、泥濘を避け、ただ封書を守って馬を駆る。


馬で駆けることに楽しさなどない。

景色はもはや日常の壁紙と化していた。


家に帰るのは、日がとっぷりと暮れた頃。


(どうせ駆けるなら、誰も知らない遠くへ行ってしまいたい)


そんな思いを抱えながら、伝令は今日も馬を進める。


雨続きのせいで、湿地は厄介だった。


彼は逡巡の末、馬の首を険しい山道へと向けた。


太陽は、水平線の向こうへ沈みかけていた。


◆◆◆


パン屋の朝は深夜に始まる。


空気は凍てつき、粉が舞う中で咳き込む。


こねて、伸ばして、折りたたむ。

手の感覚がなくなっても、やめることはできない。


新しいパンを考える余裕などない。

ただ失敗しないよう、決まった黒パンを焼き続けることに心血を注ぐ。


かまどの熱が肌を焼こうとも、火からは目を離せない。


開店と同時に押し寄せる人波。

その中に、いつもの伝令の男がいた。


黒パンを齧り、彼はまたどこかの町へ向かっていく。


(いいな、どこかへ行ける人は。私は、このかまどの前からどこにも行けないのに)


パン屋の思いも知らず、伝令は去っていった。


接客と調理に追われ、足の裏の感覚が消える頃に一日が終わる。


今日もまた、何も考えられないまま眠りに就く。


◆◆◆


月明かりの中、山道を進んでいた伝令の馬が不意に足を止めた。


土砂崩れだ。道が完全に塞がっている。


引き返せば大幅な遅延になる。


伝令が絶望に立ち尽くしたその時、前方から「ザク、ザク」と土を削る音が響いた。


そこにいたのは、墓掘りだった。


反対側から山道を進んでいた彼もまた、土砂崩れに遭遇していたのだ。


逃げ出したはずの墓掘りは、いつもの習慣でスコップを携帯していた。

そして無意識のうちに、目の前の土砂をかき分け、道を作っていた。


呆然と見つめる伝令に気づき、墓掘りはわずかに驚いた顔をしたあと、黙って横に避け、道を譲った。


礼を言い、馬を急がせる伝令。

その背中を、墓掘りは座り込んだままいつまでも見送っていた。


しばらくして、墓掘りは立ち上がり、歩を進めた。


やがて朝日が昇り、町がにぎわい始めたころ、一軒のパン屋を見かける。


歩き通しで腹が減っていたため、店に入り黒パンを買った。


なんの変哲もない黒パン。

だが疲れ果てた体には、それがこの上なくありがたかった。


腹を満たした墓掘りは、来た道を引き返し始めた。


家に着いたとき、体はいつも以上に疲れ切っていた。

だがその胸には、十年間一度も感じたことのない、温かく静かな充足感があった。


彼が掘ったのは、もう死者を埋めるための穴ではない。


彼が食べたのも、ただの黒パンではなかった。


◆◆◆


伝令が街に着くと、受取人は驚きを隠せなかった。


この雨で山道は崩れ、湿地は通れないと聞いていたからだ。


受取人は伝令を称賛した。


それは、伝令が仕事を始めたころ、初めて任務を終えたとき以来のことだった。


伝令は家に帰ると寝床に倒れ込んだ。


身体は疲れ切っていたが、なかなか眠れなかった。


胸の奥には、仕事を始めたころの感覚が静かによみがえっていた。


◆◆◆


パン屋の朝は早い。


いつものように仕込みを終え、パンを並べ、店を開ける。


教会の鐘とともに、客が押し寄せる。


その中に、見慣れない男の姿があった。


疲れ果て薄汚れたその男を、少し不快に思いながらもパンを渡す。


ふと気になって様子を見ていると、男は自分の焼いた黒パンを、実にうまそうに食べていた。


何の工夫もない、いつもの黒パン。


それをあんなにも美味そうに食べる人間がいる。


見渡せば、同じように幸せそうに食べている者は他にもいた。


その日の仕事を終えたパン屋は、寝床でいつもとは違うことを考えていた。


遠くへ行くことでも、新しいパンを作ることでもない。


ただ、早くパンが作りたかった。

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