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あなたのため?――婚約破棄、ありがとうございます。ブラック王宮を円満退社したら魔王様に週3で雇われました~親友ヅラ聖女は残業代ゼロの王妃生活をどうぞ~

作者: 九条 綾乃
掲載日:2026/02/08


 終電のホームは、季節を問わず冷える。白い息が、蛍光灯の光に溶けて消えた。

 私はスマホの画面を見つめたまま、指が動かない。


『未対応:退職者手続き』

『未対応:労務トラブル』

『未対応:採用面談調整』


 人事部の“未対応”は、放置すると火種になり、燃え広がる。

 最後は人の人生に火がつく。

 だから、私は今日も終電だ。

 二十九歳、瑞希(みずき)。中堅企業の人事部。社畜、という言葉が一番しっくりくる。


「みずき、またこんな時間?」


 背後から、よく知った声がした。振り向けば、駅の柱にもたれるように立つ女がいる。髪は艶やかで、ネイルは細部まで整えられ、コートの襟元には小さなブランドロゴが光っていた。私の”親友”であり、同僚。結婚してから、彼女は一層「余裕」を身にまとった。


莉恵(りえ)。どうしたの。こんな時間に、こんなところで」


「夫の迎え待ち。私は定時終わりだよ。あなたこそ、平気? 倒れるよ」


 心配そうに眉を寄せる顔は、優しい。だから私は、いつも少し安心してしまう。幼馴染で、大学も同じ、就職しても同じ会社で働いて――気づけば、人生の節目にいつも彼女がいた。少し先を歩いて、振り返って、私に手を振る。そんな存在だと、私は思っていた。


「平気。繁忙期だから」


「繁忙期って、毎月じゃない?」


 くすっと笑って、莉恵は私の腕を取った。母親が子どもの袖を直すみたいな仕草。


「言いにくいんだけどさ。あなたのために言うね」


 そのフレーズが出た瞬間、胸の奥が小さく縮む。何度も聞いた。何度も、聞き入れてきた。

 莉恵は続ける。


「結婚って、ほんと人生変わるよ。仕事なんてほどほどでいいの。子どもできたらもっと。女はね、守ってくれる人がいたほうが幸せ」


 駅のアナウンスが流れても、私は言葉を返せない。反論するのは簡単だ。幸福の形は一つじゃない、と。仕事をほどほどにできる環境がそもそも整ってない、と。でも、私はいつも同じところで黙る。莉恵の笑顔が曇るのが怖い。友達の“善意”を否定する自分が悪者になるのが怖い。


「みずき、このままだとさ。気づいたら、誰にも選ばれないよ?」


 軽く言われたその一言が、胸の奥に残る。選ばれる、選ばれない。採用の現場で散々聞いた言葉なのに、自分に向けられると妙に刺さる。


「……笑えるね。人事なのに」


「だから言ってるの。あなた、仕事に逃げてるでしょ? あなたのためだよ」


 その夜、私は笑ってごまかした。「そうかもね」と。莉恵は安心したように頷き、また親切な提案をする。


「今度、夫の友達紹介してあげようか? 良い人だよ。ちょっと年上だけど安定してるし。ほら、年齢的にもそろそろでしょ?」


 紹介された男は既婚者だった。私は途中で気づいて断った。すると莉恵は目を丸くし、悪びれずに言った。


「えっ、知らなかった! ごめんね! でもあなたのためにって思って……ほら、男の人って、ちょっとくらい事情あるほうが優しかったりするし」


 “あなたのため”。便利な言葉だ。謝罪にも、免罪符にも、相手を押さえつける手袋にもなる。


 会社でも、似たようなことがあった。

 採用説明会の追加開催を上司から言い渡され、私は「人員が足りません」と口を開きかけた。その瞬間、隣の席の莉恵が、明るい声で割って入った。


「部長、瑞希なら大丈夫です。こういうの得意だし。私も手伝いますから」


 上司は上機嫌で頷き、「頼んだぞ」と言って去った。

 莉恵は私に向き直って、親切そうに言った。


「ごめんね、勝手に言っちゃって。でもあなたのためだよ。ここで断ったら評価落ちるじゃん?」


 当日、莉恵は開始前の挨拶だけを手伝い、写真を撮り、上司に「サポートしました」と報告し、私の残業だけが残った。

 それでも私は思い込んだ。悪意じゃない、と。彼女は世渡りが上手いだけ。私のことを助けたいだけ。――そう思わないと、長年の“親友”という看板が崩れる気がして怖かった。


 そして私は、壊れた。

 年度末の深夜、会議室で退職者の手続きをまとめている最中に視界が白くなり、床に膝をついた。声を出そうとしても喉が鳴らない。呼吸が浅い。蛍光灯が遠ざかる。

 倒れる直前、スマホのロック画面に通知が出た。


『莉恵:大丈夫? 無理しないでね。あなたのために心配してる』


 その文字が、妙に鮮明だった。



 目を覚ますと、天蓋付きのベッドに寝かされていた。絹のカーテンが揺れ、窓から見えるのは見知らぬヨーロッパ風の城下町。香りは甘く、空気は澄んでいる。――ここは、病院ではない。


「お嬢さま、目が覚めましたか!」


 侍女が駆け寄り、涙ぐんだ。


 その瞬間、頭の中に別の記憶が雪崩れ込んだ。

 名前。家系。作法。政治。婚約。王宮。

 私はミゼル・フォン・アルバート、公爵家の令嬢。王子の婚約者だった。

 そして同時に、前世の記憶がくっきりと残っている。

ーー瑞希、二十九歳、人事部。終電。倒れた夜。


 転生だ。異世界だ。

 しかも「悪役令嬢」と呼ばれそうな立場。婚約者付き。逃げにくい配属先、最悪。


 王宮での仕事は、想像の三倍きつかった。

 日の出前に起床、謁見の準備、貴族の調整、式典の根拠、地方視察の段取り、慈善事業の名目での物資配分、夜会での接待。どれも「王族の義務」として扱われ、対価という概念がない。


 王子は、笑顔で言う。


「国のためだ。婚約者として支えるのは名誉だろう?」


 名誉。前世なら「やりがい」。やりがいは給与明細に載らない。福利厚生にもならない。代わりに、体力と心が削れる。

 私は表面上は微笑み、内心で業務棚卸しを始めた。辞表(婚約破棄)をいつ提出するか。退職金(慰謝料)の根拠条項はどこか。証人は誰が適任か。王宮は“伝統”という名の例外だらけだが、例外には必ず抜け道がある。


 そして私は、抜け道を一つだけ先に見つけていた。

 

 半年ほど前、国境地帯で小競り合いが起き、魔族領との「停戦交渉」という名の面倒事が王宮に転がり込んだ。王子は武勇伝の舞台にしようとして、火に油を注ぐタイプだった。

 私は婚約者として同行を命じられ、会議室の片隅で議事録係を装いながら、相手側の要求とこちらの譲歩案を整理していた。条件が曖昧なまま合意すると後から揉める。――前世の労務トラブル対応と同じだ。


 交渉の席に現れた魔族の使者は、黒衣の男だった。角は目立たぬよう隠し、言葉は淡々、視線は冷たいほど静か。感情で威圧するのではなく、数字と条文で切ってくるタイプ。

 王子が「名誉のために譲れぬ」と吠え、貴族たちが拍手をしそうな空気を作り始めたとき、私は一歩前へ出た。


「名誉は尊いですが、戦費は誰が払い、負傷兵の補償は誰が担いますか。――停戦条項と賠償条項を先に確定させましょう」


 場が凍った。王子は顔をしかめたが、使者の男だけがわずかに目を細めた。

 結局、私はその場で“現実的に終わる合意書”を作り、双方の署名を取りつけた。王子は不満げだったが、戦が回避されれば「俺の手柄」にできるので黙った。


 会議の後、黒衣の使者が私に近づいた。


「……お前は、面倒なことを面倒なまま放置しない」


 褒め言葉は少なかったが、評価の目は正確だった。


「もし、ここが嫌になったら」


 男は黒曜石の小さな印章を差し出した。掌に乗る程度の重さ。刻まれた紋章は、刃のように整っている。


「国境の検問でそれを見せろ。通す。仕事も用意する。……言い値で払う」


 冗談かと思った。だが男の声には、取引の温度しかなかった。

 私はその印章を受け取り、引き出しの奥にしまった。転職サイトのブックマークみたいに。使う日が来ないことを祈る保険として。


 その男は、魔王の側近なのか、外交官なのか。私は当時、確かめなかった。確かめる余裕がないほど、王宮がブラックだったからだ。


 そんなある日、王宮がざわついた。

 聖女召喚。異世界から選ばれし乙女が来る。国を救う奇跡の存在。


 私は思った。ブラックはいつだって、奇跡をタダで欲しがる。



 大広間の魔法陣が光り、白い眩しさが消えたあと。そこに立っていたのは、小柄で可憐で、泣きそうな目をした少女だった。


「こ、ここは……?」


 震える声。その震え方が、懐かしいほど“計算”に似ている。私は心臓が跳ねるのを感じた。

 少女が顔を上げ、視線が私に刺さった。一瞬、ほんの一瞬だけ目が細まる。「見つけた」と言うような目。


 ――莉恵(りえ)


 私は確信した。外見は若く、髪色も違う。だが、目の使い方、声の揺らし方、間の取り方。前世で何度も見た“自分が主役になる瞬間”の作り方だ。


 その日の夜、私は人の少ない回廊で彼女を呼び止めた。壁の燭台が揺れ、陰影が顔を分ける。


「聖女様。少し、お話を」


 少女は儚げに微笑む。


「リエルです。聖女リエル。よろしくお願いします、公爵令嬢ミゼル様」


 丁寧すぎる。距離を取る丁寧さ。わざとだ。こちらから“前世の関係”に触れさせて、反応を見ている。


 私は一歩近づいて、小さな賭けに出た。


「……労働基準法」


 リエルの瞳が一瞬だけ揺れ、次いで、口元が笑った。


「それ、ここで言う? ミゼル。相変わらず真面目」


 “真面目”。その言い方。間違いない。


 胸の奥に、安堵が生まれる。異世界で知り合いがいる。しかも幼馴染。――味方であってほしい。私はまだ、その期待を捨て切れない。


「あなたも……転生者?」


「正確には召喚らしいけどね」


 リエルは肩をすくめる。上手に可愛く見える角度で。


「でも、よかった。ミゼルがいて。私、こういう世界、何もわからないし。貴族の作法とか、派閥とか、言葉遣いとか。あなた得意でしょ?」


 得意。褒めて、断りにくくする。前世と同じ手口。それでも私は頷いてしまう。


「教えるよ。……私だって、味方がほしい」


 そう言った私に、リエルはにっこり笑った。


「だよね。私たち、親友だもん」


 その言葉が、胸のどこかを温めた。まだ信じたい。まだ、親友でいてほしい。



 最初の数週間は、穏やかだった。少なくとも、私はそう“受け取った”。


 リエルは私の部屋に通い、紅茶を飲みながら貴族の作法を覚えた。私はメモを取り、派閥関係を図にして渡し、王宮の式典を「業務フロー」として書き起こした。


「すごい。ミゼルって、やっぱり頼れる」


「人事の癖。仕組みにしないと回らない」


「その癖、ほんと好き。昔から変わらないよね」


 昔。そう言われると嬉しくなる。私は心のどこかで、前世で失敗した“友情”を、今度こそ成功させたいと思っていたのかもしれない。


 リエルは、よく泣くようになった。夜、怖い夢を見たと言って私の部屋で丸くなり、私は毛布をかけてやった。前世に「夜道が怖い」と腕を掴んできた莉恵と重なり、胸が締めつけられた。


「ミゼルがいてよかった。私、ひとりだと無理だった」


 その言葉に、私は満たされる。必要とされることに慣れすぎている。人事部は、いつも誰かの穴を埋める部署だ。穴を埋めることで、存在価値を感じてしまう。


 だが、甘い時期は長く続かない。


 茶会で、リエルは笑顔で私の“欠点”を先に差し出した。


「ミゼルってね、真面目すぎて堅いの。だから皆、近寄りづらいって言うのよ。私が間に入ってあげないと」


 貴族たちは「まあ」と囁き、同情と見下しの混ざった目を私に向ける。リエルは“面倒見のいい聖女”として拍手をもらう。

 前世でも見た光景だ。会社の飲み会で「瑞希は不器用だから私がフォローしてあげてる」と笑われたときの、あの空気。


 私は笑って受け流した。親友だから。悪意じゃない。そう言い聞かせる。


 会議でも同じだった。私は業務の無駄を減らすため、式典準備の担当範囲を明文化し、手順書を作り、夜会準備の人員を再配分する案を出した。いわば残業削減(=サービス残業の禁止)だ。


 リエルは、涙ぐむような目で首を振った。


「ミゼル、それって冷たい。皆、心で動いてるのに。規則で縛るなんて可哀想」


 可哀想。たった一言で、私の提案は“愛がない”とされる。王子が頷き、「王宮は伝統と心だ」と言って締めた。


 会議後、リエルは私の腕を取って囁いた。


「ごめんね。でもあなたのためだよ。ここで空気読めないって思われたら、あなたの立場が危ない」


 あなたのため。――その言葉の裏側に、いつも同じ景色がある。私が一歩下がり、彼女が一歩上がる景色。


 それでも私は、まだ線を引けなかった。転生先で、たったひとり前世を知る存在。彼女まで敵にしたら、私は孤独になる。そう思った。



 王子が、私に冷たくなり始めたのは、リエルが王子の隣に立つようになってからだ。


「聖女は国の宝だ。守るのが当然だろう」


 王子はそう言い、リエルを庇い、称え、私は“婚約者として当然の仕事”を増やされた。式典の穴埋め、貴族の不満処理、他国への贈答品の選定――雑務の泥を私が被る。王子とリエルは表舞台で光を浴びる。


 私は王子に恋をしていない。だが婚約者としての権限が削られるのは業務上の損失だ。何より、これ以上ここに居続けるのは危険だと判断した。王宮はブラックで、しかも「辞めさせない」タイプのブラックだ。


 そんな私に、リエルはやけに優しかった。


「ミゼル、大丈夫? つらいよね。でも、あなたのために言うけど……ここは一歩引いたほうがいい。殿下、いま大変だから」


 一歩引けば、彼女が前に出る。私はそれを理解しているのに、まだ「親友の助言」として受け取ってしまう。

 矛盾。人は自分の信じたい物語を守るために、矛盾を抱える。


 その矛盾が、砕けたのは、夜の回廊だった。


 私は書類を抱えて廊下を歩き、曲がり角で足を止めた。控室の扉が半分開いていて、中から声が漏れていた。リエルの声だ。


「ミゼルってね、真面目すぎるの。言えば言うほど頑張るから。放っておけば勝手に疲れるし、勝手に引くの」


 侍女の笑い声。


「聖女様、すごい……」


「だって皆、私のこと“優しい”って言ってくれるもの。可哀想な子を助ける私、って構図、最高じゃない?」


 胸が冷えた。血の気が引く。耳の奥が熱い。

 前世の駅。会議室。紹介。説明会。全部、同じ構図だった。私はずっと舞台装置だった。彼女が“いい人”に見えるための影。


ーーその瞬間、私はようやく、認めた。


 リエルは親友じゃない。

 親友の顔をした敵だ。


 気づいた途端、息が吸えた。悲しみはある。だが同時に、罪悪感が剥がれ落ちる。「私が悪いのかな」という癖が、ほどける。敵に遠慮は不要だ。


 私は静かに踵を返し、自室へ戻った。

 机の引き出しから、準備していた書類束を取り出す。婚約契約書の写し。破棄条項。王子の職務放棄の記録。夜会の場での宣言を“合意解約”にするための手順。慰謝料(退職金)請求書。署名欄。証人候補の名簿。

 そして、その一番下にある黒曜石の印章を指先でなぞる。――保険が、保険でなくなる日が来た。


 前世の私が積み上げた技能は、こういう時に効く。

 いい子でいるのは、終わりだ。

 私は私の人事権を取り戻す。



 夜会の広間は、甘い香と金の光で満ちていた。磨き上げられた床がシャンデリアを映し、楽団の弦が空気を撫でる。笑い声。乾杯。祝福。――そして、視線。

 すべてが私に向けられていた。「断罪」を期待する視線だ。


 舞台の中心に立つのは、王子とリエル。彼女は泣きそうな目を作り、慈愛の声を乗せた。


「皆さま、聞いてくださいませ。……ミゼル、あなたのためを思って、私は言わなくてはなりません」


 その言葉で、周囲の空気が整う。彼女が善人で、私が悪役。観客が欲しい役割が、瞬時に配役される。


「王子殿下は真実の愛を見つけられました。私が……私が、殿下をお支えしたいのです」


 拍手が湧く。王子がよく通る声で宣言する。


「ミゼル。君との婚約は破棄する。君のように冷たい人間は、王妃に相応しくない」


 冷たい。私は扇子で口元を隠し、肩を震わせた。泣き崩れる演技。周囲がざわめき、憐れみと嘲笑の視線が刺さる。

 けれど内心は、静かにガッツポーズしていた。やった。向こうから辞表(婚約破棄)が出た。これで“会社都合退職”になる。


 リエルが私に近づき、そっと手を取る。優しいふりの圧が指先から伝わる。


「ミゼル、可哀想に。でも安心して。私が殿下の支えになるから。あなたは田舎でゆっくりしてね」


 田舎で。ゆっくり。――つまり、消えろ。


 私は泣き顔のまま、懐から紙束を取り出した。


「承知いたしました、殿下。では、こちらにご署名を」


 場が凍った。夜会で書類を出す婚約者。品がない、と囁く声が聞こえる。だが私は止めない。品の良さで搾取されるより、書類で守る方がましだ。


「婚約は契約です。破棄は解約です。清算が必要です。王家の名誉のためにも、証人の前で手続きを完了させましょう」


 宰相が咳払いをし、司祭が目を丸くした。王子は渋々紙を受け取る。

 リエルが囁く。


「ミゼル、そんな……今は感情を……あなたのために……」


 私は扇子の向こうで目を細めた。


「感情で契約は終われません。あなたのため、という言葉で、私はもう動きません」


 リエルの微笑みが一瞬だけ崩れる。驚きと苛立ち。仮面の端がめくれる。


 王子が署名した。宰相が署名し、司祭が署名する。証人が揃い、合意解約が成立する。

 私は深く礼をした。


「手続き完了です。では、失礼いたします」


 踵を返した私の背に、王子の声が飛んだ。


「ミゼル! お前、よくもそんな態度を!後悔するぞ!」


 後悔?私は後悔している。前世からずっと、自分の人生を他人の台本に預けてきたことを。だから、二度と後悔しない。


 廊下へ出ると、リエルの声が追いかけてくる。


「ミゼル、待って! あなたのために言ってるの、私は――」


 私はもう、振り返らなかった。もう、十分だ。



 夜明け前、私は王都を出た。馬車の窓から見える街は眠っている。眠ったまま働かせる国。名誉という麻酔を打って、痛みをごまかしながら。

 向かう先は隣国――魔王領。私にとっては“逃亡先”ではなく、“転職先”だ。


 荷造りは最小限にした。貴族の衣装より、書類のほうが価値がある。

 そして黒曜石の印章を胸元に忍ばせる。これがあれば、国境は開く、はず。仕事も、少なくとも交渉の席は用意される。私は衝動ではなく、準備して辞めたのだ。


 国境の検問で、角のある兵が私を見た。訝しげに、しかし丁寧に。


「目的は」


 私は印章を見せた。兵の瞳が一瞬で変わる。確認のために上官が呼ばれ、上官は深く礼をした。


「大変失礼いたしました。お通しいたします。馬車の護衛もおつけいたしましょう」


 まず手続き。良い。私は内心で頷いた。


 城は暗い。外観も不気味だ。だが中は清潔だった。廊下に書類が積んでいない。人が走っていない。怒鳴り声がない。働く者の目が死んでいない。

 案内された執務室で、黒いマントの男が立っていた。


 魔王。


 冷たいほど静かな目。感情で人を揺さぶらない視線。――半年前の黒衣の使者と同じ温度だ。私は理解した。あのときの男は、側近でも外交官でもない。本人だったのだ。


「ミゼル・フォン・アルバート」


 魔王が私の名を呼ぶ。すでに情報を握っている。採用面談前の事前調査ができている組織は強い。


「王宮を離れたそうだな」


「”退職”しました。書類上は円満です」


「退職か。書類上、というのが気に入った」


 魔王は机の上に一枚の紙を置いた。


「雇用契約案だ。共同統治者、そして妻として迎える」


「妻?」


 私は紙を手に取り、目を走らせる。労働時間、休日、報酬、評価、裁量、紛争解決。必要なものが必要なだけ書いてある。曖昧な精神論が一行もない。


「……週三勤務?」


「足りないか」


「王宮が週七勤務だったので、感覚が麻痺していました」


「王宮は愚かだ。疲弊はミスを生む。ミスは損失だ」


 淡々とした声。だが内容は、驚くほど“人を人として扱う”思想だ。


「妻、でよろしいのですね?」


「そうだ。お前を一目見た時から、決めていた。条件を言え」


 私は息を吸った。


「契約結婚として扱います。感情は条項に入れません。ですが、配偶者としての役割を私に求めるなら、業務範囲を明文化してください。『なんとなく支える』は禁止です」

「生理休暇を制度化してください。体調不良は正当な休暇理由です」

「育児は個人の責任にしない。託児所と育休制度を整備してください」

「残業代は必ず支払う。サービス残業(=王族の義務)の概念はここでは禁止です」

「そして、ハラスメントの定義と相談窓口を。口先の“優しさ”で揉み消さない仕組みを」


 要求しすぎたのかもしれない。

 魔王は一つも笑わず、しかし否定もしなかった。


 短く頷く。


「承認する」


「……早い」


「お前の提案が合理的だからだ」


 魔王がペンを差し出す。


「署名しろ」


 私は署名した。ペン先が紙を滑る音が、やけに清々しい。契約は、私を縛る鎖ではなく、私を守る柵だ。


「歓迎する、ミゼル」


 魔王が言う。


「君がここで働く限り、君の時間と権利は守られる」


 胸の奥に温かいものが生まれる。恋ではない。信頼だ。私が価値として扱われる感覚。

 そして、その感覚は、私の皮を一枚剥いた。自分を疑う癖が、少しずつ溶ける。



 魔王領での日々は忙しいのに、終わりがある。

 午前は会議。午後は現場。夕方には終業。終業の鐘が鳴ると、皆が本当に帰る。帰っていい空気が“制度”として存在する。

 魔法で家事が自動化されているのも大きい。床は勝手に掃け、洗濯物は勝手に乾く。時間が増える。時間が増えると、人は他人に優しくできる。


 私は制度を整えた。評価基準の透明化。部署間の責任範囲の明文化。休暇取得の義務化。会議の時間制限。必要のない夜会(=接待)を削減し、実務の打ち合わせは昼に回す。成果は報酬に反映する。

 魔族たちは最初、警戒していた。人間が来て、何を変えるのか、と。私は正直に言った。


「皆さんが長く働ける仕組みを作りたいだけです。長く働けるのは、休めるからです」


 休むことは怠けではない。休むことは、次の成果を出すための業務だ。前世の私はそれを頭で理解していて、体で実行できなかった。ここでは実行できる。制度が背中を押すから。


 魔王は不器用なほどに約束を守った。私が残業しそうになると、執務室の扉が静かに開く。


「帰れ」


「あと少しで終わります」


「終わらないなら、それは明日の業務だ。帰れ」


 反論の余地がない。私は笑って帰る。湯に浸かり、寝る。朝、冴えた頭で続きを片づける。効率が上がる。成果が出る。評価が返ってくる。

 私は少しずつ、“自分らしさ”を恥じなくなった。クールで合理的で線引きができる自分を、好きになれた。


 そうして心が落ち着くと、逆に見えてくるものがある。

 リエルのやり方は、優しさではない。支配だ。しかも、善意を装う支配は最も厄介だ。拒否すればこちらが悪者になるから。


 私はもう、悪者でいい。自分を守れない善人より、自分を守れる悪者の方が、よほど健全だ。



 王宮の噂は、交易商の口を通して入ってくる。

 聖女リエルは王妃候補として華やかに迎えられた。だが実態は地獄だ。

 朝四時から祈り(=コストゼロの労働力)。そのまま執務、式典、慰問、揉め事の仲裁。予算不足で衣装は借り物。王子の浮気相手の管理。国民の不満の矢面。王子は言う。


「聖女なんだから祈りで何とかしろ。国への奉仕は名誉だろ?」


 名誉(=残業代ゼロ)の呪文が、彼女の首に鎖を巻く。

 けれどリエルは助けを求められない。ずっと人前で「私は余裕」「私は幸せ」を演じてきたから。弱音を吐いた瞬間、舞台が崩れるのが怖い。

 だから鏡に向かって笑う。


「私、忙しいけど幸せ。国民に愛されてるから」


 自分に言い聞かせるために。


 そして魔法の鏡には、私の姿も映る。魔王領で、余裕のある顔で笑う私。働いているのに擦り切れていない顔。

 それが、リエルの心を削っていく。自分が選んだ“王妃=セレブ”の台本が、実はブラックな脚本だったと認めたくないから。



 国際会議が開かれた。人間界と魔王領の和平と交易を議題にした晩餐会。私は魔王の隣で、共同統治者として席に着いた。

 入ってきた王子とリエルを見た瞬間、私は理解した。彼女は限界に近い。肌の艶がない。笑顔が硬い。目の下に影がある。人事の目は、過労を見逃さない。


「あら、ミゼル」


 リエルが近づき、震える声で微笑む。周囲に聞こえる音量で。


「魔族なんて野蛮な人たちと暮らして、怖くないの? 可哀想……あなた、不器用だから、騙されてない?」


 “心配”の形をした攻撃。昔の私なら、ここで自分を疑った。私、大丈夫なのかな、と。彼女の言葉に寄りかかった。

 でも今の私は、境界線を引ける。


「怖いかどうかは、制度と実態次第です」


 私は穏やかに言う。


「魔王領では労働時間が厳守されています。休暇も取りやすい。残業代も出る。託児所もあります。――王宮はいかがですか?」


 リエルの笑顔が一瞬固まる。


「忙しいわ。王妃は国母だもの。国民のために忙しいのは当然よ」


 当然。自分を縛る言葉。私は静かに聞いた。


「朝は何時から?」


「……え?」


「公務開始です。四時? 五時? 睡眠は?」


 彼女の唇が震える。周囲の貴族が聞き耳を立てる。彼女は必死に笑う。


「普通よ。皆そうしてるもの」


「普通かどうかではなく、適正かどうかです」


 そのとき、魔王が低い声で言った。


「義務に対価がないのは搾取だ」


 場の空気が冷える。真実が置かれたときの冷えだ。


 王子が笑いながら割って入る。


「愛と名誉があれば、不眠不休も――」


「愛と名誉で腹は満たせない」


 魔王が言い切る。王子の笑顔が引きつる。


 そして王子は、予想通りの行動に出た。私に近づき、甘い声でささやく。


「ミゼル。君は有能だ。戻ってこないか? 君なら王宮を立て直せる。……リエルも、君がいれば助かる」


 前世で何度見たか。辞める人材への“君が必要だ”は、賃上げのない引き止め文句だ。


「無理です」


 私は即答した。鞄から一枚の紙を出す。魔王領の契約書の写し。条項に赤線を引いてある。


「私は雇用契約(婚姻契約)下にあります。第三者による引き抜き・妨害は契約違反です。違約金が発生します」


 王子の顔色が変わる。金額を想像して喉が鳴った。


 魔王が淡々と言った。


「外交問題にするか?」


 王子は黙った。権力者は“負け”を理解すると黙る。


 リエルが震える笑顔で言う。


「ミゼル……あなた、変わったのね。昔はもっと優しかった」


 出た。優しかった。都合が良かった、の言い換え。私は少しだけ息を吐き、静かに言った。


「変わりました。あなたが味方じゃないって、やっとわかったから」


 リエルの目が揺れる。怒りと嫉妬と、言えない羨望。


 私は続けた。声は小さく、しかしはっきりと。


「あなたの『あなたのため』を、私はずっと信じてました。親友の言葉だと思ってた。でも違った。

 あれは、私の足を止めるための言葉だった。

 あなたは人前で私を下げて、あなたを高く見せる。

『助ける私』を輝かせるために、私を“可哀想”にする。

 

 もう、その役は降ります。

 私は私の人生を、私が採用します」


 リエルの唇が震える。言い返せない。事実は嘘より重い。


 魔王が私に腕を差し出す。私はその腕を取る。守られるためではない。権利として示すためだ。私はここにいる。私が選んだ場所に。



 晩餐会のあと、城のバルコニーで夜風を吸った。星が澄んでいる。魔王が隣で言う。


「敵を見抜いたか」


「はい。遅すぎましたけど」


「遅くない。気づかなければ、永遠に縛られる」


 その通りだ。私はずっと、優しい言葉に縛られていた。親友だと思い込むことで、自分の違和感を殺していた。


「痛かったです。でも、気づいた瞬間に楽になりました。罪悪感が消えました。私が私の味方になれたから」


 魔王は短く頷く。


「なら、これからもそうしろ。制度も、約束も、守る。君の時間と権利は」


 私は小さく笑った。


「はい。私も守ります。私自身を」


 遠くの国では、リエルがまだ“国母”という鎖に絡め取られているだろう。彼女は今日も言うはずだ。「あなたのため」と。そうしないと、自分の価値が保てないから。

 でも私は、もう違う。誰かの拍手のために生きない。誰かの善意の仮面に従わない。


 ちゃんと休んで、ちゃんと働いて、ちゃんと笑って生きる。

 自分の人生を、自分で選ぶ。

 それが私の転生の意味だった。


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― 新着の感想 ―
「あなたのためを思って言ってる」って言葉を吐いた時点で信用できないんだよ
聖女は因果応報な貧乏くじですが、浮気性の王子や聖女頼りの国もある日突然ブチキレた聖女に道連れにされるかも。マウント取れるサンドバッグ(〓ミゼル)を失ったリエルはあんまり我慢強くなさそうだし。
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