あなたのため?――婚約破棄、ありがとうございます。ブラック王宮を円満退社したら魔王様に週3で雇われました~親友ヅラ聖女は残業代ゼロの王妃生活をどうぞ~
◆
終電のホームは、季節を問わず冷える。白い息が、蛍光灯の光に溶けて消えた。
私はスマホの画面を見つめたまま、指が動かない。
『未対応:退職者手続き』
『未対応:労務トラブル』
『未対応:採用面談調整』
人事部の“未対応”は、放置すると火種になり、燃え広がる。
最後は人の人生に火がつく。
だから、私は今日も終電だ。
二十九歳、瑞希。中堅企業の人事部。社畜、という言葉が一番しっくりくる。
「みずき、またこんな時間?」
背後から、よく知った声がした。振り向けば、駅の柱にもたれるように立つ女がいる。髪は艶やかで、ネイルは細部まで整えられ、コートの襟元には小さなブランドロゴが光っていた。私の”親友”であり、同僚。結婚してから、彼女は一層「余裕」を身にまとった。
「莉恵。どうしたの。こんな時間に、こんなところで」
「夫の迎え待ち。私は定時終わりだよ。あなたこそ、平気? 倒れるよ」
心配そうに眉を寄せる顔は、優しい。だから私は、いつも少し安心してしまう。幼馴染で、大学も同じ、就職しても同じ会社で働いて――気づけば、人生の節目にいつも彼女がいた。少し先を歩いて、振り返って、私に手を振る。そんな存在だと、私は思っていた。
「平気。繁忙期だから」
「繁忙期って、毎月じゃない?」
くすっと笑って、莉恵は私の腕を取った。母親が子どもの袖を直すみたいな仕草。
「言いにくいんだけどさ。あなたのために言うね」
そのフレーズが出た瞬間、胸の奥が小さく縮む。何度も聞いた。何度も、聞き入れてきた。
莉恵は続ける。
「結婚って、ほんと人生変わるよ。仕事なんてほどほどでいいの。子どもできたらもっと。女はね、守ってくれる人がいたほうが幸せ」
駅のアナウンスが流れても、私は言葉を返せない。反論するのは簡単だ。幸福の形は一つじゃない、と。仕事をほどほどにできる環境がそもそも整ってない、と。でも、私はいつも同じところで黙る。莉恵の笑顔が曇るのが怖い。友達の“善意”を否定する自分が悪者になるのが怖い。
「みずき、このままだとさ。気づいたら、誰にも選ばれないよ?」
軽く言われたその一言が、胸の奥に残る。選ばれる、選ばれない。採用の現場で散々聞いた言葉なのに、自分に向けられると妙に刺さる。
「……笑えるね。人事なのに」
「だから言ってるの。あなた、仕事に逃げてるでしょ? あなたのためだよ」
その夜、私は笑ってごまかした。「そうかもね」と。莉恵は安心したように頷き、また親切な提案をする。
「今度、夫の友達紹介してあげようか? 良い人だよ。ちょっと年上だけど安定してるし。ほら、年齢的にもそろそろでしょ?」
紹介された男は既婚者だった。私は途中で気づいて断った。すると莉恵は目を丸くし、悪びれずに言った。
「えっ、知らなかった! ごめんね! でもあなたのためにって思って……ほら、男の人って、ちょっとくらい事情あるほうが優しかったりするし」
“あなたのため”。便利な言葉だ。謝罪にも、免罪符にも、相手を押さえつける手袋にもなる。
会社でも、似たようなことがあった。
採用説明会の追加開催を上司から言い渡され、私は「人員が足りません」と口を開きかけた。その瞬間、隣の席の莉恵が、明るい声で割って入った。
「部長、瑞希なら大丈夫です。こういうの得意だし。私も手伝いますから」
上司は上機嫌で頷き、「頼んだぞ」と言って去った。
莉恵は私に向き直って、親切そうに言った。
「ごめんね、勝手に言っちゃって。でもあなたのためだよ。ここで断ったら評価落ちるじゃん?」
当日、莉恵は開始前の挨拶だけを手伝い、写真を撮り、上司に「サポートしました」と報告し、私の残業だけが残った。
それでも私は思い込んだ。悪意じゃない、と。彼女は世渡りが上手いだけ。私のことを助けたいだけ。――そう思わないと、長年の“親友”という看板が崩れる気がして怖かった。
そして私は、壊れた。
年度末の深夜、会議室で退職者の手続きをまとめている最中に視界が白くなり、床に膝をついた。声を出そうとしても喉が鳴らない。呼吸が浅い。蛍光灯が遠ざかる。
倒れる直前、スマホのロック画面に通知が出た。
『莉恵:大丈夫? 無理しないでね。あなたのために心配してる』
その文字が、妙に鮮明だった。
◆
目を覚ますと、天蓋付きのベッドに寝かされていた。絹のカーテンが揺れ、窓から見えるのは見知らぬヨーロッパ風の城下町。香りは甘く、空気は澄んでいる。――ここは、病院ではない。
「お嬢さま、目が覚めましたか!」
侍女が駆け寄り、涙ぐんだ。
その瞬間、頭の中に別の記憶が雪崩れ込んだ。
名前。家系。作法。政治。婚約。王宮。
私はミゼル・フォン・アルバート、公爵家の令嬢。王子の婚約者だった。
そして同時に、前世の記憶がくっきりと残っている。
ーー瑞希、二十九歳、人事部。終電。倒れた夜。
転生だ。異世界だ。
しかも「悪役令嬢」と呼ばれそうな立場。婚約者付き。逃げにくい配属先、最悪。
王宮での仕事は、想像の三倍きつかった。
日の出前に起床、謁見の準備、貴族の調整、式典の根拠、地方視察の段取り、慈善事業の名目での物資配分、夜会での接待。どれも「王族の義務」として扱われ、対価という概念がない。
王子は、笑顔で言う。
「国のためだ。婚約者として支えるのは名誉だろう?」
名誉。前世なら「やりがい」。やりがいは給与明細に載らない。福利厚生にもならない。代わりに、体力と心が削れる。
私は表面上は微笑み、内心で業務棚卸しを始めた。辞表(婚約破棄)をいつ提出するか。退職金(慰謝料)の根拠条項はどこか。証人は誰が適任か。王宮は“伝統”という名の例外だらけだが、例外には必ず抜け道がある。
そして私は、抜け道を一つだけ先に見つけていた。
半年ほど前、国境地帯で小競り合いが起き、魔族領との「停戦交渉」という名の面倒事が王宮に転がり込んだ。王子は武勇伝の舞台にしようとして、火に油を注ぐタイプだった。
私は婚約者として同行を命じられ、会議室の片隅で議事録係を装いながら、相手側の要求とこちらの譲歩案を整理していた。条件が曖昧なまま合意すると後から揉める。――前世の労務トラブル対応と同じだ。
交渉の席に現れた魔族の使者は、黒衣の男だった。角は目立たぬよう隠し、言葉は淡々、視線は冷たいほど静か。感情で威圧するのではなく、数字と条文で切ってくるタイプ。
王子が「名誉のために譲れぬ」と吠え、貴族たちが拍手をしそうな空気を作り始めたとき、私は一歩前へ出た。
「名誉は尊いですが、戦費は誰が払い、負傷兵の補償は誰が担いますか。――停戦条項と賠償条項を先に確定させましょう」
場が凍った。王子は顔をしかめたが、使者の男だけがわずかに目を細めた。
結局、私はその場で“現実的に終わる合意書”を作り、双方の署名を取りつけた。王子は不満げだったが、戦が回避されれば「俺の手柄」にできるので黙った。
会議の後、黒衣の使者が私に近づいた。
「……お前は、面倒なことを面倒なまま放置しない」
褒め言葉は少なかったが、評価の目は正確だった。
「もし、ここが嫌になったら」
男は黒曜石の小さな印章を差し出した。掌に乗る程度の重さ。刻まれた紋章は、刃のように整っている。
「国境の検問でそれを見せろ。通す。仕事も用意する。……言い値で払う」
冗談かと思った。だが男の声には、取引の温度しかなかった。
私はその印章を受け取り、引き出しの奥にしまった。転職サイトのブックマークみたいに。使う日が来ないことを祈る保険として。
その男は、魔王の側近なのか、外交官なのか。私は当時、確かめなかった。確かめる余裕がないほど、王宮がブラックだったからだ。
そんなある日、王宮がざわついた。
聖女召喚。異世界から選ばれし乙女が来る。国を救う奇跡の存在。
私は思った。ブラックはいつだって、奇跡をタダで欲しがる。
◆
大広間の魔法陣が光り、白い眩しさが消えたあと。そこに立っていたのは、小柄で可憐で、泣きそうな目をした少女だった。
「こ、ここは……?」
震える声。その震え方が、懐かしいほど“計算”に似ている。私は心臓が跳ねるのを感じた。
少女が顔を上げ、視線が私に刺さった。一瞬、ほんの一瞬だけ目が細まる。「見つけた」と言うような目。
――莉恵。
私は確信した。外見は若く、髪色も違う。だが、目の使い方、声の揺らし方、間の取り方。前世で何度も見た“自分が主役になる瞬間”の作り方だ。
その日の夜、私は人の少ない回廊で彼女を呼び止めた。壁の燭台が揺れ、陰影が顔を分ける。
「聖女様。少し、お話を」
少女は儚げに微笑む。
「リエルです。聖女リエル。よろしくお願いします、公爵令嬢ミゼル様」
丁寧すぎる。距離を取る丁寧さ。わざとだ。こちらから“前世の関係”に触れさせて、反応を見ている。
私は一歩近づいて、小さな賭けに出た。
「……労働基準法」
リエルの瞳が一瞬だけ揺れ、次いで、口元が笑った。
「それ、ここで言う? ミゼル。相変わらず真面目」
“真面目”。その言い方。間違いない。
胸の奥に、安堵が生まれる。異世界で知り合いがいる。しかも幼馴染。――味方であってほしい。私はまだ、その期待を捨て切れない。
「あなたも……転生者?」
「正確には召喚らしいけどね」
リエルは肩をすくめる。上手に可愛く見える角度で。
「でも、よかった。ミゼルがいて。私、こういう世界、何もわからないし。貴族の作法とか、派閥とか、言葉遣いとか。あなた得意でしょ?」
得意。褒めて、断りにくくする。前世と同じ手口。それでも私は頷いてしまう。
「教えるよ。……私だって、味方がほしい」
そう言った私に、リエルはにっこり笑った。
「だよね。私たち、親友だもん」
その言葉が、胸のどこかを温めた。まだ信じたい。まだ、親友でいてほしい。
◆
最初の数週間は、穏やかだった。少なくとも、私はそう“受け取った”。
リエルは私の部屋に通い、紅茶を飲みながら貴族の作法を覚えた。私はメモを取り、派閥関係を図にして渡し、王宮の式典を「業務フロー」として書き起こした。
「すごい。ミゼルって、やっぱり頼れる」
「人事の癖。仕組みにしないと回らない」
「その癖、ほんと好き。昔から変わらないよね」
昔。そう言われると嬉しくなる。私は心のどこかで、前世で失敗した“友情”を、今度こそ成功させたいと思っていたのかもしれない。
リエルは、よく泣くようになった。夜、怖い夢を見たと言って私の部屋で丸くなり、私は毛布をかけてやった。前世に「夜道が怖い」と腕を掴んできた莉恵と重なり、胸が締めつけられた。
「ミゼルがいてよかった。私、ひとりだと無理だった」
その言葉に、私は満たされる。必要とされることに慣れすぎている。人事部は、いつも誰かの穴を埋める部署だ。穴を埋めることで、存在価値を感じてしまう。
だが、甘い時期は長く続かない。
茶会で、リエルは笑顔で私の“欠点”を先に差し出した。
「ミゼルってね、真面目すぎて堅いの。だから皆、近寄りづらいって言うのよ。私が間に入ってあげないと」
貴族たちは「まあ」と囁き、同情と見下しの混ざった目を私に向ける。リエルは“面倒見のいい聖女”として拍手をもらう。
前世でも見た光景だ。会社の飲み会で「瑞希は不器用だから私がフォローしてあげてる」と笑われたときの、あの空気。
私は笑って受け流した。親友だから。悪意じゃない。そう言い聞かせる。
会議でも同じだった。私は業務の無駄を減らすため、式典準備の担当範囲を明文化し、手順書を作り、夜会準備の人員を再配分する案を出した。いわば残業削減(=サービス残業の禁止)だ。
リエルは、涙ぐむような目で首を振った。
「ミゼル、それって冷たい。皆、心で動いてるのに。規則で縛るなんて可哀想」
可哀想。たった一言で、私の提案は“愛がない”とされる。王子が頷き、「王宮は伝統と心だ」と言って締めた。
会議後、リエルは私の腕を取って囁いた。
「ごめんね。でもあなたのためだよ。ここで空気読めないって思われたら、あなたの立場が危ない」
あなたのため。――その言葉の裏側に、いつも同じ景色がある。私が一歩下がり、彼女が一歩上がる景色。
それでも私は、まだ線を引けなかった。転生先で、たったひとり前世を知る存在。彼女まで敵にしたら、私は孤独になる。そう思った。
◆
王子が、私に冷たくなり始めたのは、リエルが王子の隣に立つようになってからだ。
「聖女は国の宝だ。守るのが当然だろう」
王子はそう言い、リエルを庇い、称え、私は“婚約者として当然の仕事”を増やされた。式典の穴埋め、貴族の不満処理、他国への贈答品の選定――雑務の泥を私が被る。王子とリエルは表舞台で光を浴びる。
私は王子に恋をしていない。だが婚約者としての権限が削られるのは業務上の損失だ。何より、これ以上ここに居続けるのは危険だと判断した。王宮はブラックで、しかも「辞めさせない」タイプのブラックだ。
そんな私に、リエルはやけに優しかった。
「ミゼル、大丈夫? つらいよね。でも、あなたのために言うけど……ここは一歩引いたほうがいい。殿下、いま大変だから」
一歩引けば、彼女が前に出る。私はそれを理解しているのに、まだ「親友の助言」として受け取ってしまう。
矛盾。人は自分の信じたい物語を守るために、矛盾を抱える。
その矛盾が、砕けたのは、夜の回廊だった。
私は書類を抱えて廊下を歩き、曲がり角で足を止めた。控室の扉が半分開いていて、中から声が漏れていた。リエルの声だ。
「ミゼルってね、真面目すぎるの。言えば言うほど頑張るから。放っておけば勝手に疲れるし、勝手に引くの」
侍女の笑い声。
「聖女様、すごい……」
「だって皆、私のこと“優しい”って言ってくれるもの。可哀想な子を助ける私、って構図、最高じゃない?」
胸が冷えた。血の気が引く。耳の奥が熱い。
前世の駅。会議室。紹介。説明会。全部、同じ構図だった。私はずっと舞台装置だった。彼女が“いい人”に見えるための影。
ーーその瞬間、私はようやく、認めた。
リエルは親友じゃない。
親友の顔をした敵だ。
気づいた途端、息が吸えた。悲しみはある。だが同時に、罪悪感が剥がれ落ちる。「私が悪いのかな」という癖が、ほどける。敵に遠慮は不要だ。
私は静かに踵を返し、自室へ戻った。
机の引き出しから、準備していた書類束を取り出す。婚約契約書の写し。破棄条項。王子の職務放棄の記録。夜会の場での宣言を“合意解約”にするための手順。慰謝料(退職金)請求書。署名欄。証人候補の名簿。
そして、その一番下にある黒曜石の印章を指先でなぞる。――保険が、保険でなくなる日が来た。
前世の私が積み上げた技能は、こういう時に効く。
いい子でいるのは、終わりだ。
私は私の人事権を取り戻す。
◆
夜会の広間は、甘い香と金の光で満ちていた。磨き上げられた床がシャンデリアを映し、楽団の弦が空気を撫でる。笑い声。乾杯。祝福。――そして、視線。
すべてが私に向けられていた。「断罪」を期待する視線だ。
舞台の中心に立つのは、王子とリエル。彼女は泣きそうな目を作り、慈愛の声を乗せた。
「皆さま、聞いてくださいませ。……ミゼル、あなたのためを思って、私は言わなくてはなりません」
その言葉で、周囲の空気が整う。彼女が善人で、私が悪役。観客が欲しい役割が、瞬時に配役される。
「王子殿下は真実の愛を見つけられました。私が……私が、殿下をお支えしたいのです」
拍手が湧く。王子がよく通る声で宣言する。
「ミゼル。君との婚約は破棄する。君のように冷たい人間は、王妃に相応しくない」
冷たい。私は扇子で口元を隠し、肩を震わせた。泣き崩れる演技。周囲がざわめき、憐れみと嘲笑の視線が刺さる。
けれど内心は、静かにガッツポーズしていた。やった。向こうから辞表(婚約破棄)が出た。これで“会社都合退職”になる。
リエルが私に近づき、そっと手を取る。優しいふりの圧が指先から伝わる。
「ミゼル、可哀想に。でも安心して。私が殿下の支えになるから。あなたは田舎でゆっくりしてね」
田舎で。ゆっくり。――つまり、消えろ。
私は泣き顔のまま、懐から紙束を取り出した。
「承知いたしました、殿下。では、こちらにご署名を」
場が凍った。夜会で書類を出す婚約者。品がない、と囁く声が聞こえる。だが私は止めない。品の良さで搾取されるより、書類で守る方がましだ。
「婚約は契約です。破棄は解約です。清算が必要です。王家の名誉のためにも、証人の前で手続きを完了させましょう」
宰相が咳払いをし、司祭が目を丸くした。王子は渋々紙を受け取る。
リエルが囁く。
「ミゼル、そんな……今は感情を……あなたのために……」
私は扇子の向こうで目を細めた。
「感情で契約は終われません。あなたのため、という言葉で、私はもう動きません」
リエルの微笑みが一瞬だけ崩れる。驚きと苛立ち。仮面の端がめくれる。
王子が署名した。宰相が署名し、司祭が署名する。証人が揃い、合意解約が成立する。
私は深く礼をした。
「手続き完了です。では、失礼いたします」
踵を返した私の背に、王子の声が飛んだ。
「ミゼル! お前、よくもそんな態度を!後悔するぞ!」
後悔?私は後悔している。前世からずっと、自分の人生を他人の台本に預けてきたことを。だから、二度と後悔しない。
廊下へ出ると、リエルの声が追いかけてくる。
「ミゼル、待って! あなたのために言ってるの、私は――」
私はもう、振り返らなかった。もう、十分だ。
◆
夜明け前、私は王都を出た。馬車の窓から見える街は眠っている。眠ったまま働かせる国。名誉という麻酔を打って、痛みをごまかしながら。
向かう先は隣国――魔王領。私にとっては“逃亡先”ではなく、“転職先”だ。
荷造りは最小限にした。貴族の衣装より、書類のほうが価値がある。
そして黒曜石の印章を胸元に忍ばせる。これがあれば、国境は開く、はず。仕事も、少なくとも交渉の席は用意される。私は衝動ではなく、準備して辞めたのだ。
国境の検問で、角のある兵が私を見た。訝しげに、しかし丁寧に。
「目的は」
私は印章を見せた。兵の瞳が一瞬で変わる。確認のために上官が呼ばれ、上官は深く礼をした。
「大変失礼いたしました。お通しいたします。馬車の護衛もおつけいたしましょう」
まず手続き。良い。私は内心で頷いた。
城は暗い。外観も不気味だ。だが中は清潔だった。廊下に書類が積んでいない。人が走っていない。怒鳴り声がない。働く者の目が死んでいない。
案内された執務室で、黒いマントの男が立っていた。
魔王。
冷たいほど静かな目。感情で人を揺さぶらない視線。――半年前の黒衣の使者と同じ温度だ。私は理解した。あのときの男は、側近でも外交官でもない。本人だったのだ。
「ミゼル・フォン・アルバート」
魔王が私の名を呼ぶ。すでに情報を握っている。採用面談前の事前調査ができている組織は強い。
「王宮を離れたそうだな」
「”退職”しました。書類上は円満です」
「退職か。書類上、というのが気に入った」
魔王は机の上に一枚の紙を置いた。
「雇用契約案だ。共同統治者、そして妻として迎える」
「妻?」
私は紙を手に取り、目を走らせる。労働時間、休日、報酬、評価、裁量、紛争解決。必要なものが必要なだけ書いてある。曖昧な精神論が一行もない。
「……週三勤務?」
「足りないか」
「王宮が週七勤務だったので、感覚が麻痺していました」
「王宮は愚かだ。疲弊はミスを生む。ミスは損失だ」
淡々とした声。だが内容は、驚くほど“人を人として扱う”思想だ。
「妻、でよろしいのですね?」
「そうだ。お前を一目見た時から、決めていた。条件を言え」
私は息を吸った。
「契約結婚として扱います。感情は条項に入れません。ですが、配偶者としての役割を私に求めるなら、業務範囲を明文化してください。『なんとなく支える』は禁止です」
「生理休暇を制度化してください。体調不良は正当な休暇理由です」
「育児は個人の責任にしない。託児所と育休制度を整備してください」
「残業代は必ず支払う。サービス残業(=王族の義務)の概念はここでは禁止です」
「そして、ハラスメントの定義と相談窓口を。口先の“優しさ”で揉み消さない仕組みを」
要求しすぎたのかもしれない。
魔王は一つも笑わず、しかし否定もしなかった。
短く頷く。
「承認する」
「……早い」
「お前の提案が合理的だからだ」
魔王がペンを差し出す。
「署名しろ」
私は署名した。ペン先が紙を滑る音が、やけに清々しい。契約は、私を縛る鎖ではなく、私を守る柵だ。
「歓迎する、ミゼル」
魔王が言う。
「君がここで働く限り、君の時間と権利は守られる」
胸の奥に温かいものが生まれる。恋ではない。信頼だ。私が価値として扱われる感覚。
そして、その感覚は、私の皮を一枚剥いた。自分を疑う癖が、少しずつ溶ける。
◆
魔王領での日々は忙しいのに、終わりがある。
午前は会議。午後は現場。夕方には終業。終業の鐘が鳴ると、皆が本当に帰る。帰っていい空気が“制度”として存在する。
魔法で家事が自動化されているのも大きい。床は勝手に掃け、洗濯物は勝手に乾く。時間が増える。時間が増えると、人は他人に優しくできる。
私は制度を整えた。評価基準の透明化。部署間の責任範囲の明文化。休暇取得の義務化。会議の時間制限。必要のない夜会(=接待)を削減し、実務の打ち合わせは昼に回す。成果は報酬に反映する。
魔族たちは最初、警戒していた。人間が来て、何を変えるのか、と。私は正直に言った。
「皆さんが長く働ける仕組みを作りたいだけです。長く働けるのは、休めるからです」
休むことは怠けではない。休むことは、次の成果を出すための業務だ。前世の私はそれを頭で理解していて、体で実行できなかった。ここでは実行できる。制度が背中を押すから。
魔王は不器用なほどに約束を守った。私が残業しそうになると、執務室の扉が静かに開く。
「帰れ」
「あと少しで終わります」
「終わらないなら、それは明日の業務だ。帰れ」
反論の余地がない。私は笑って帰る。湯に浸かり、寝る。朝、冴えた頭で続きを片づける。効率が上がる。成果が出る。評価が返ってくる。
私は少しずつ、“自分らしさ”を恥じなくなった。クールで合理的で線引きができる自分を、好きになれた。
そうして心が落ち着くと、逆に見えてくるものがある。
リエルのやり方は、優しさではない。支配だ。しかも、善意を装う支配は最も厄介だ。拒否すればこちらが悪者になるから。
私はもう、悪者でいい。自分を守れない善人より、自分を守れる悪者の方が、よほど健全だ。
◆
王宮の噂は、交易商の口を通して入ってくる。
聖女リエルは王妃候補として華やかに迎えられた。だが実態は地獄だ。
朝四時から祈り(=コストゼロの労働力)。そのまま執務、式典、慰問、揉め事の仲裁。予算不足で衣装は借り物。王子の浮気相手の管理。国民の不満の矢面。王子は言う。
「聖女なんだから祈りで何とかしろ。国への奉仕は名誉だろ?」
名誉(=残業代ゼロ)の呪文が、彼女の首に鎖を巻く。
けれどリエルは助けを求められない。ずっと人前で「私は余裕」「私は幸せ」を演じてきたから。弱音を吐いた瞬間、舞台が崩れるのが怖い。
だから鏡に向かって笑う。
「私、忙しいけど幸せ。国民に愛されてるから」
自分に言い聞かせるために。
そして魔法の鏡には、私の姿も映る。魔王領で、余裕のある顔で笑う私。働いているのに擦り切れていない顔。
それが、リエルの心を削っていく。自分が選んだ“王妃=セレブ”の台本が、実はブラックな脚本だったと認めたくないから。
◆
国際会議が開かれた。人間界と魔王領の和平と交易を議題にした晩餐会。私は魔王の隣で、共同統治者として席に着いた。
入ってきた王子とリエルを見た瞬間、私は理解した。彼女は限界に近い。肌の艶がない。笑顔が硬い。目の下に影がある。人事の目は、過労を見逃さない。
「あら、ミゼル」
リエルが近づき、震える声で微笑む。周囲に聞こえる音量で。
「魔族なんて野蛮な人たちと暮らして、怖くないの? 可哀想……あなた、不器用だから、騙されてない?」
“心配”の形をした攻撃。昔の私なら、ここで自分を疑った。私、大丈夫なのかな、と。彼女の言葉に寄りかかった。
でも今の私は、境界線を引ける。
「怖いかどうかは、制度と実態次第です」
私は穏やかに言う。
「魔王領では労働時間が厳守されています。休暇も取りやすい。残業代も出る。託児所もあります。――王宮はいかがですか?」
リエルの笑顔が一瞬固まる。
「忙しいわ。王妃は国母だもの。国民のために忙しいのは当然よ」
当然。自分を縛る言葉。私は静かに聞いた。
「朝は何時から?」
「……え?」
「公務開始です。四時? 五時? 睡眠は?」
彼女の唇が震える。周囲の貴族が聞き耳を立てる。彼女は必死に笑う。
「普通よ。皆そうしてるもの」
「普通かどうかではなく、適正かどうかです」
そのとき、魔王が低い声で言った。
「義務に対価がないのは搾取だ」
場の空気が冷える。真実が置かれたときの冷えだ。
王子が笑いながら割って入る。
「愛と名誉があれば、不眠不休も――」
「愛と名誉で腹は満たせない」
魔王が言い切る。王子の笑顔が引きつる。
そして王子は、予想通りの行動に出た。私に近づき、甘い声でささやく。
「ミゼル。君は有能だ。戻ってこないか? 君なら王宮を立て直せる。……リエルも、君がいれば助かる」
前世で何度見たか。辞める人材への“君が必要だ”は、賃上げのない引き止め文句だ。
「無理です」
私は即答した。鞄から一枚の紙を出す。魔王領の契約書の写し。条項に赤線を引いてある。
「私は雇用契約(婚姻契約)下にあります。第三者による引き抜き・妨害は契約違反です。違約金が発生します」
王子の顔色が変わる。金額を想像して喉が鳴った。
魔王が淡々と言った。
「外交問題にするか?」
王子は黙った。権力者は“負け”を理解すると黙る。
リエルが震える笑顔で言う。
「ミゼル……あなた、変わったのね。昔はもっと優しかった」
出た。優しかった。都合が良かった、の言い換え。私は少しだけ息を吐き、静かに言った。
「変わりました。あなたが味方じゃないって、やっとわかったから」
リエルの目が揺れる。怒りと嫉妬と、言えない羨望。
私は続けた。声は小さく、しかしはっきりと。
「あなたの『あなたのため』を、私はずっと信じてました。親友の言葉だと思ってた。でも違った。
あれは、私の足を止めるための言葉だった。
あなたは人前で私を下げて、あなたを高く見せる。
『助ける私』を輝かせるために、私を“可哀想”にする。
もう、その役は降ります。
私は私の人生を、私が採用します」
リエルの唇が震える。言い返せない。事実は嘘より重い。
魔王が私に腕を差し出す。私はその腕を取る。守られるためではない。権利として示すためだ。私はここにいる。私が選んだ場所に。
◆
晩餐会のあと、城のバルコニーで夜風を吸った。星が澄んでいる。魔王が隣で言う。
「敵を見抜いたか」
「はい。遅すぎましたけど」
「遅くない。気づかなければ、永遠に縛られる」
その通りだ。私はずっと、優しい言葉に縛られていた。親友だと思い込むことで、自分の違和感を殺していた。
「痛かったです。でも、気づいた瞬間に楽になりました。罪悪感が消えました。私が私の味方になれたから」
魔王は短く頷く。
「なら、これからもそうしろ。制度も、約束も、守る。君の時間と権利は」
私は小さく笑った。
「はい。私も守ります。私自身を」
遠くの国では、リエルがまだ“国母”という鎖に絡め取られているだろう。彼女は今日も言うはずだ。「あなたのため」と。そうしないと、自分の価値が保てないから。
でも私は、もう違う。誰かの拍手のために生きない。誰かの善意の仮面に従わない。
ちゃんと休んで、ちゃんと働いて、ちゃんと笑って生きる。
自分の人生を、自分で選ぶ。
それが私の転生の意味だった。
◆
評価、感想をいただけると励みになります。
お読みいただき、ありがとうございました。




