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聖女が消えたその後は――

作者: 冬月子

「偽物の聖女に国の未来を託すわけにはいかない。オフェリア、お前との婚約を破棄して、真の聖女であるクローディアを妃とする!」

 

王宮に響き渡る、鋭い声。

それは、まるで刃のようにオフェリアの心を切り裂いた。


かつて、心を通わせた人。

その人に裏切られた絶望感と、濡れ衣を着せられた悲しみが、彼女の全身を激しく震わせた。


「殿下、どうか信じてください。わたしは、ずっと、この国の、民のために……」


絞り出すような声は、虚しく空気を震わせる。彼女の懇願は、アムレートの冷酷な言葉によって無情に断ち切られた。


「国を欺き、私を愚弄した罪は重い! その女を、直ちに投獄せよ!」


その言葉が下された瞬間、床が抜け落ちたかのような錯覚に陥った。

衛兵が近づく足音が、死の足音に聞こえた。


「やめて……お願い、信じて……アムレート様……っ」


必死に伸ばした指先は、虚空をつかむばかり。まるで彼との絆が、初めから存在しなかったかのように。

否応なく引き裂かれた腕、倒れ込む身体、砕けた心。


その一部始終を、クローディアは紅い唇に微笑を浮かべながら見下ろしていた。


オフェリアの目からは、もはや涙さえ零れなかった。

涙すら、凍りついた心の奥に閉じ込められて。


誰か、お願い。

この悪夢から目覚めさせて。

さもなければ、いっそ――わたしを、消して。


+++


聖女――オフェリアにその称号が与えられたのは、たった5歳のときだった。


村の収穫祭の最中、突如として彼女の右手の甲にそれは現れた。“神光”――神に選ばれし者の証とされる刻印。

それはまるで天より落ちた一雫の星のように、静かに、けれど圧倒的な輝きを放ち、彼女の小さな手に焼きついた。


その光を見て、村人たちは息を呑み、次いで歓声を上げた。歓喜、崇拝、そして恐れ。オフェリアは何も理解できなかった。ただ、母親の震える背中と、いつもは優しい父親の強張った顔が、彼女の幼い胸に不安の影を落とした。


その日を境に、オフェリアの日常は一変した。

両親は、教会から差し出された報奨金を受け取ると、まるで厄介払いをするかのように、幼い娘を神官たちの手に委ねた。温もりを知っていた小さな手は、冷たい石の床を引きずられ、見慣れない祭壇の前に連れて行かれた。


まだ幼いその足は、あまりに細く、あまりに頼りなかった。

だが誰も、その足が立ち止まることを許さなかった。


教会での生活は、孤独と抑圧に満ちていた。教会の一室に設けられた聖女の部屋は、質素を通り越して、ほとんど独房のようだった。木製の小さな机と椅子、寝具も薄い毛布が一枚。窓も高く、小さな明かりしか差し込まない。


貴族出身の聖職者たちは、平民の出である彼女を露骨に見下し、掃除や洗濯といった雑務を平然と押し付けた。

「神に選ばれた身なのだから、耐え忍びなさい」という言葉は、幼いオフェリアには重すぎた。


「貴方は聖女なのです。お国の為に身を粉にして尽くすのが務めなのですよ」


豪奢な装飾品を身につけた年配の聖職者は、そう言ってはオフェリアに過酷な祈りを強いた。

夜明け前、鐘が鳴るよりも早く、冷たい石畳の上に跪き、意味も分からない古語の祈りの言葉を繰り返す。幼い背中は痛み、喉は渇き、心は寂しさで凍り付いた。


それでも、彼女のもとには、絶え間なく願いが押し寄せる。

国民は、ただ「聖女がいるから」と信じた。雨が降らなければ、聖女に祈らせればいい。作物が実らなければ、聖女の祈りが足りないのだと囁かれた。

戦では加護を、病床では奇跡を。


オフェリアの祈りは、いつしか「聖なる力」ではなく、「果たすべき当然の役目」として求められるようになっていた。


人々の願いは祈願文となって教会に積まれ、彼女は、国と民の祈りを受け止める器として扱われた。

その裏で教会は、聖女の名を掲げながら、民の信仰を金と権威に変え、私腹を肥やしていた。


朝から晩まで働かされる日々。それでもオフェリアは、かすかな希望を胸に耐え忍んだ。

彼女にとって、神への祈りは、もはや義務ではなく、心の支えだった。誰にも理解されない孤独の中で、ただ一人、見えない存在に祈り続けた。

いつかは、この苦しみから解放される日が来ると信じて。


+++


数年の歳月が過ぎ、オフェリアは少女へと成長した。

ただその姿は、年齢に見合うものではなかった。教会での日々は、飢えと寒さ、労役と祈りの繰り返し。必要最低限の食事と断片的な眠りだけが許される生活は、少女の成長を著しく妨げた。太陽の下で遊ぶ子供たちと比べるとあまりにも小さかった。

彼女の手足は細く、まるで折れてしまいそうなほどに頼りないその姿は、まるで命の灯火をぎりぎりに保っているようだった。


そんなオフェリアに、ある日、運命の転機が訪れた

聖女は王族と結婚するという古くからの決まりに従い、彼女は第一王子アムレートと引き合わされた。


初めて会った日のアムレートは、優しく、聡明な少年だった。

王家という高貴な血を引きながら、どこか人懐こい穏やかさを湛えていた。彼の瞳には、オフェリアに対する好奇心が宿っていたが、そこには蔑みも、傲慢さもなかった。むしろ、年相応のあどけなさが、かすかに滲んでいた。


「……君が、聖女のオフェリアなんだね?話してみたかったんだ」


屈託のない言葉。飾り気のない声。

アムレートは、彼女に尋ね、笑い、驚き、時に黙って耳を傾けた。それは、彼女の人生で初めての経験だった。


誰かと目を合わせ、言葉を交わし、笑い合うこと。それが、こんなにも幸せで、温かいものだったと、彼女はその日まで知らなかった。


孤独の中で生きてきたオフェリアにとって、彼の温かい眼差しと、屈託のない笑顔は、干からびた心に染み渡る雨のようだった。


そして、彼女のなかで何かがゆっくりと芽吹き始めた。


「殿下は……いつも、どんなお勉強をなさっているのですか?」


「うん。色々だよ。剣術、歴史とか。法律、外交……あとは、民の暮らしを知るために、農業や水利についても今後習っていくよ。君は?」


「聖女として祈ること、それがわたしの務めです。国の人々に恵みがもたされるよう、いつもお祈りしてます」


「そうなんだ。素晴らしいことだね。僕が王として、国を導いていくとき……君の祈りや想いが、きっと必要になる。その時は、支えてくれるかい?」


「わたしに……そんなことができるでしょうか?」


「できるよ。これから、どんな困難があっても、互いに支え合っていこう。君とぼくで、この国の未来を作ろうね」


二人は言葉を交わし、時を過ごすうちに、二人は少しずつ惹かれ合っていった。アムレートは、聖女という重責を背負いながらも、無垢な心を失わないオフェリアに惹かれ、彼女は、初めて自分を一人の人間として見てくれるアムレートに、心の底から安らぎを感じた。


婚約が決まった日、オフェリアは、生まれて初めて心の底から笑った。

この先には、孤独ではない、温かい日々が待っているのだと信じていた。


しかし、その幸福な時間は長くは続かなかった。


アムレートは王位継承者として多忙な日々を送るようになり、次第にオフェリアを顧みなくなっていった。

宮廷の華やかな世界に身を置くうちに、彼は周囲の貴族たちの甘言に耳を傾けるようになり、オフェリアを“聖女”という名の、国の安寧のための道具としてしか見られなくなっていった。

もはや彼の目に、ひとりの少女としてのオフェリアは映っていなかった。


オフェリアは、変わっていくアムレートの態度に、言いようのない不安を感じていた。以前は優しかった彼の瞳は、時折、冷たく曇り、彼女の言葉に耳を傾けることも少なくなっていた。それでもオフェリアは、婚約者として、彼といたいと願い、懸命に笑顔を向け続けた。


しかし、彼女の願いは、残酷なまでに打ち砕かれた。

宮廷に美しい令嬢が現れた時から、二人の運命は、音を立てて崩れ始めたのだ。


彼女の名は、クローディア。


クローディアは、誰もが振り返るほどの美貌を備えていた。その顔立ちは、まるで神が造り上げた彫像のように整っており、高く通った鼻筋とふっくらとした唇が、彼女に気品と艶を添えていた。


侯爵家の令嬢であるクローディアは、生まれながらにして高貴な血を引き、教養と礼儀作法を叩き込まれて育った。

洗練された話術と華やかな立ち振る舞いは、人々の心を自然と惹きつけ、老若男女を問わず貴族たちは彼女に夢中になった。


そのなかにはアムレートの姿もあった。彼の心は、いつしかクローディア一人のものになった。それまで傍にいたオフェリアは、徐々にその記憶から薄れていった。


クローディアは、表立って聖女を貶めることはしなかったものの、その優雅な振る舞いの一つ一つが、聖女であるオフェリアの存在を、色褪せた飾り物のように際立たせていた。


気づけば誰もが、聖女ではなくクローディアの名を讃えるようになっていた。


そして、運命の夜会――


煌びやかな王宮の広間には、燭台の光が揺らめき、優美な旋律と貴族たちの囁きが溶け合っていた。色とりどりのドレスが舞い、きらびやかな笑顔が交差するなか、オフェリアはその喧騒の片隅にひっそりと佇んでいた。


前までは隣にいたアムレートの姿は、今や遠く、美しいクローディアと楽しげに言葉を交わしている。笑い合い、時折そっと視線を絡めるその様子は、まるで二人だけの世界を築いているかのようだった。

アムレートの目には、彼女しか映っていない。


オフェリアの胸には、鈍い痛みが広がっていく。それは、かつて分かち合った温かい記憶が、冷たい現実に塗り替えられていく痛みだった。


たとえ、彼の視線が一瞬だけこちらを向いたとしても、そこには、もう優しさは残っていなかった。

まるで――ただの他人を見るような、冷ややかなまなざしだった。


そのときだった。


「皆様、聞いてください!」


澄んだ声が、広間に響き渡る。

クローディアが一歩、中央へと進み出た。


「昨夜、神の声が聞こえたのです。『汝、選ばれし者である』と――!」


ざわめきが、場を揺らした。

オフェリアは、クローディアの言葉に息を呑んだ。神の声。それは、彼女だけが心の奥底で感じてきた、特別な繋がりを意味する言葉だった。


「そして今朝、わたくしの手にも、聖女様と同じような紋様が浮かび上がっていたのです」


クローディアはそう言って、手の甲を見せつけた。そこには、確かにオフェリアと同じ紋様があった。

オフェリアは、言葉を失った。まさか、この世に二人目の神の刻印を持つ者が現れるなんて。そんなことは、これまで一度も聞いたことがなかった。


「……実は、わたくし、以前よりある疑念を抱いていましたの」


クローディアは伏し目がちに語り始めた。その声音には、同情と正義の色が巧妙に混じっていた。


「わたくしが幼い頃、耳にした噂があります。貧しい平民の中には、金銭と引き換えに、娘の身体に偽りの聖痕を彫り、教会へ差し出す者がいるという――そんな、まことしやかな話ですわ」


ざわめきが、いっそう大きくなる。オフェリアは、その言葉が何を意味するのか、すぐに理解した。


「そして先日、わたくしは偶然にも、オフェリア様の故郷の村を訪れる機会を得ましたの。そこで、信じられない話を聞いたのです。オフェリア様の両親は、貧しさから抜け出すために、娘に入れ墨を施し、聖女として教会に差し出したというのです!」


「そんな……!」


オフェリアはかすれた声で叫んだが、誰にも届かない。

貴族たちの目が、一斉にオフェリアへと注がれた。そこには、好奇と猜疑と――蔑みの色があった。


「さらに、です」


クローディアの声は、今や会場を掌握していた。


「オフェリア様は聖女の立場を利用し、王妃の座を狙っていたのです。真の聖女が現れないのをよいことに、真実を隠し通すおつもりだったのでしょう」


アムレートは、信じられないという表情でオフェリアを見た。驚きと疑念に満ちた瞳が、オフェリアを射抜いた。


「オフェリア、これは本当なのか?」


その声には、あの頃の優しさは、もうなかった。冷えきった刃のように、彼女の心を突き刺す。


「違います……殿下、どうか信じてください。わたしは、ずっと、この国の、民のために――」


必死の訴えは、クローディアの次の言葉にかき消された。


「皆様、どうかよくご覧になって。オフェリア様の手にある聖痕は、どこか不自然ではありませんか?まるで、後から付けられたかのように……」


クローディアの言葉に煽られ、数人の貴族がオフェリアに近づき、その手を見ようとした。彼女は、恐怖で身をすくませた。


アムレートもまた、無表情に数歩近づき、オフェリアに告げる。


「もしクローディアの言葉が真実ならば……君は、国を欺き、私をも欺いたということになる」


その瞬間、オフェリアの胸が、砕けた音を立てる。

かつて心を通わせたアムレート。信じていた人に裏切られた絶望感と、濡れ衣を着せられた悲しみで、彼女の全身は震えた。


「やっぱり平民が聖女なんて、可笑しかったのよ」


「見てごらんなさい。女神のように美しいクローディア様と、やせ細った哀れな娘。どちらが聖女に相応しいかなんて、火を見るより明らかだわ」


冷笑が、嘲りが、無数の針となってオフェリアを刺す。

そして――


「ここに宣言する。クローディアこそ真の聖女だ!」


アムレートが堂々と前へと進み出た。広間を睨み渡すようにして高らかに宣言した。


「偽物の聖女に国の未来を託すわけにはいかない。オフェリア、お前との婚約を破棄して、真の聖女であるクローディアを妃とする!」


広間は水を打ったように静まり返った。

アムレートの宣言が、空気を切り裂くように響いた後――


クローディアがゆっくりと一礼する。まるで、すでに王妃としての戴冠を受けたかのように優雅に、美しく。その姿は勝者のそれだった。


「やめて……お願い、信じて……アムレート様……っ」


オフェリアは今にも崩れ落ちそうなほど膝を震わせ、か細い声で訴えた。救いを求めるように腕を伸ばすも、その懇願は聞き入れられず――


その日のうちに、オフェリアは聖女詐称の疑いで捕らえられ、冷たい地下牢へと連行された。


+++


冷たい湿気が骨まで染み渡る。鉄格子の隙間から忍び込む微かな光だけが、わずかな光源。石造りの地下牢は、音を吸い込むように静かで、時折聞こえるのは、どこからか滴り落ちる水の音だけだった。


粗末な藁の敷かれた床に横たわったオフェリアの体は、鎖に繋がれ、自由を奪われていた。

手足は重く、鎖の冷たさが、自由を奪われた現実を容赦なく告げる。


食事は一日に一度、乾いたパンと濁った水が与えられるだけだった。

喉は焼け付くように渇き、神に祈りをささげていた唇からは乾いた息だけが漏れる。天井を見つめる虚ろな瞳には、光はなく、ただ深い絶望の色が沈殿しているだけだった。


あれから、どれだけの日日が経ったのだろうか。牢の中では、時間の感覚さえおぼろげだ。日も夜も、始まりも終わりもなく、ただ延々と続く暗闇のなかで、彼女の意識はゆっくりと溶けていった。

アムレートの冷たい眼差しが、何度も何度も瞼の裏に蘇る。それは剣より鋭く、氷よりも痛烈な拒絶の眼差しだった。あの日、彼は言った。「クローディアこそ真の聖女だ」と。


かつてアムレートが与えてくれた微笑み。傷ついた手を握りしめてくれたぬくもり。未来を語った日々。共に国を作っていこうと誓った言葉――


それらはすべて幻だったのか。

信じていた温もりも、共に過ごした優しい時間も、全て偽りだったのか。


崩れゆく記憶が、音を立てて瓦解していく。


神の声も、もう聞こえなかった。前までは、心の奥底で感じていた温かい繋がりは、完全に途絶えてしまったかのように、沈黙を守っていた。まるで、神さえも彼女を見捨ててしまったのだと、オフェリアは感じた。


次第に、彼女の心は蝕まれていった。オフェリアの内側には黒い感情が芽吹き始めた。

それは、怒りではない。復讐心でもない。

ただ、ひたすらに深く、暗く、安らぎを求める本能のような祈りだった。


つらい、苦しい。

信じていた。わたしが孤独な祈りの中で、何度も心を支えていたのは、貴方だった。

どんなに辛くても、貴方が居る未来を思い描いて……耐えられたのに。


神も、世界も、そして……あの人も、わたしを捨てた。


もう、終わらせたい。

この冷たい闇に沈んだまま、目を閉じてしまいたい。

愛された記憶ごと、苦しみごと、全部消えてしまえばいい。


「生きているほど、傷つくのなら――

いっそ、心臓が止まってしまえばいいのに」


その思いは、日増しに強くなっていった。この苦しみから、この孤独から、この絶望から、全てから逃れたい。


ある夜、オフェリアは、乾ききった唇を震わせ、かすかな声で呟いた。それは、かつて神に捧げていた祈りの言葉とは全く異なる、内なる願いの吐露だった。


「どうか…終わらせてください…

この苦しみを…」


誰か、お願い。

この悪夢から目覚めさせて。

さもなければ、いっそ――わたしを、消して。


その瞬間、彼女の胸の奥で、微かな光が灯ったような気がした。

それは、これまで感じてきた神聖な光とは異なり、もっと内面的で、静かで、そして、どこか寂しげな光だった。


その光は、徐々に強さを増していった。

光の中心にいるオフェリアは、静かに目を閉じた。その表情は、苦痛から解放された安堵感に満ちていた。


光は、さらに強さを増し、牢獄全体を包み込んだ。それは、目に焼き付くような強烈な光でありながら、どこか優しく、温かい光でもあった。


そして、その光が頂点に達した瞬間――


オフェリアの体は、まるで朝露が陽光に蒸発するように、静かに、そして完全に消え去った。


後に残ったのは、まばゆい光が消え去った後の、静寂だけだった。牢獄の中には、鎖だけが虚しく床に落ち、そこに、かつて一人の少女が生きていた痕跡は、何も残っていなかった。


彼女は――聖女としての力を行使した。だがそれは、もはや世界を救うための祈りではない。

自らの命を、静かに終わらせるための、最後の祈りだった。


神は、この終焉を見守っていたのだろうか。もしそうなら、その時、神は何を思ったのだろう。

ただ一つ確かなことは、この時、神は沈黙していたということだった。その沈黙は、後に残された世界に、深く、重い影を落とすことになる。


+++


オフェリアが偽聖女として断罪された直後、

クローディアが「真の聖女」として国に発表された。


高位聖職者が神の啓示を語り、彼女こそが「真なる聖女」であると宣言する。オフェリアをの祈りは「偽り」とされ、過去の功績も全て否定された。


やがて、王太子アムレートとの婚姻が決まり、二人は盛大な凱旋式とともに王都に迎えられた。


白馬の馬車、降り注ぐ花弁、人々の歓声。誰もが口々に新たな聖女を称え、その美貌と慈愛に満ちた眼差しを讃えた。

クローディアは聖女として王妃となり、アムレートと共に新王と新王妃として戴冠された。

王都は歓喜に包まれ、美しき聖女の誕生に沸き上がった。


そして、誰も思い出さなかった。

あの石畳に跪き、夜明け前の冷たい空気の中で祈りを捧げていた、ひとりの少女のことを。

オフェリアは断罪の後、牢に送られたが、ある朝、彼女は跡形もなく消えた。


最初に変わったのは、空だった。

青く透き通っていたはずの大気は、灰色の膜をまとい始める。雲は重たく、空は日毎に低くなっていくようだった。どこか遠くで雷鳴が響いても、雨は降らず、ただ大地を焦がすような湿った空気が居座り続けた。


田畑は沈黙した。

苗を植えたばかりの水田は、幾度も濁流に襲われ、溝を越えて溢れ出した水は、土と肥料を混ぜ返してしまった。

夏に向けて育つはずの麦も、葉が萎れ、病にかかり、途中で黒く変色していく。


村には、病が流れ込んでいた。

最初に倒れたのは、年寄りだった。次に、子供たち。

高熱に浮かされ、うわ言を呟きながら寝台で身をよじり、やがては息を引き取った。咳と血が混じる吐瀉物は、寝具を汚し、触れた者すら巻き込んでいった。

薬草は効かず、祈りも届かず、戸口には魔除けと称して藁束が吊るされたが、死の気配は家々の中まで染み込んでいた。


王都は、静かだった。

いや、沈黙という名の不安が、人々の口を塞いでいたのだ。


「この異常気象は何だ……?春になったというのに……草木が育たない」


「村に疫病が……神官も何人も倒れていると……」


「昨日まで元気だった子が、今朝には冷たくなっていた……神よ、どうか……」


街角で交わされる声は、どれも低く、耳を疑いたくなるような内容ばかりだった。

神殿の鐘は鳴らず、祭司たちの祈りも響かない。

まるで、国全体が呼吸を止めてしまったようだった。


そんな中、王城の一室――


王となったアムレートは、玉座の間にひとり立ち尽くしていた。


「……何故だ」


その呟きは、誰に向けられたものでもなかった。ただ、空虚に投げ捨てられた問いだった。


「なぜ、これほどまでに……国が乱れている」


傍に寄ったクローディアが、そっと彼の袖に触れた。いつものように、柔らかく気遣う声色で。


「アムレート様……ご心労が過ぎておられますわ。すぐに、この国は癒やされましょう。いいえ、わたくしが……聖女たるわたくしが必ず、導いてみせます」


その言葉には、自らを奮い立たせるような力がこもっていた。だが、それは焦りから来る熱だった。


「なら、何故――聖女の君がいるのに、この国はここまで荒れ果てている?」


アムレートの低く鋭い問いに、クローディアは言葉を失った。

心の底に秘めていた後悔と恐れが、ひたりひたりと這い上がってくる。


聖女など、ただの象徴に過ぎない。そう信じていた。己に聖なる力など備わっていないと、彼女自身が最も理解していた。それでも演じればよかった。信じさせれば、それで良かったはずだった。


だが、聖女が――この国の均衡を本当に保っていたのだとしたら?


彼女が牢に繋がれ、そして――ある日、忽然と姿を消した。

看守は口々に言った。逃げ出せるはずがないと。鍵は確かに閉まっていた。扉も破られてはいなかった。

それなのに、彼女はいたはずの牢から、影一つ残さず消えたのだ。


そのときからだ。

空が不穏に唸り、作物が枯れ、国中に病が侵されたのは。


「オフェリアが、いなくなってから……何もかもが狂っている」


アムレートの手が震える。

口にこそ出さぬが、今、この国が確実に崩れていっていることを、彼は肌で感じていた。


――オフェリアは、本当に“偽りの聖女”だったのか?


その問いが、幾度も脳裏に浮かぶ。

だが、それを認めた瞬間、自分の愚かしさと向き合わねばならない。

かつて愛した人を、冷たく切り捨てたあの日。

オフェリアの瞳が、ただ悲しみだけで染まっていたことを、なぜ気づけなかったのか。


「……あの日、私は……」


思わず膝をついた。


その瞬間、空が雷鳴を響かせた。


窓の外では、黒雲が渦を巻き、地の底から這い上がってくるような風が吹き荒れていた。

遠雷の合間、王都の神殿にあった聖火が、突如として消えた。


それは、何よりも雄弁な“神の怒り”だった。


その知らせは瞬く間に国中を駆け巡った。


「聖火が……消えた……!」


「神は……我らを見放されたのか……!」


国民の顔から、色が消えた。

信仰が日常に寄り添っていたこの国で、神の加護の象徴たる“聖火”が消えるなど、考えられない出来事だった。


そして、誰もが思い出す。


――聖女、オフェリア。


牢に囚われ、やがて姿を消した、あの少女。

いつも祈っていた、あの背中。


今、失われて初めて、国は気づいたのだ。


彼女の祈りが、どれほどに世界を守っていたのかを。

その身を削ってでも与えていた“祝福”が、いかに貴いものだったのかを。


けれど、もう遅い。

彼女は、還ってこない。

この国は、“たったひとりの聖女”を、裏切ったのだから。


王都が濁流のごとき混乱に呑まれる中、聖女オフェリアを蔑み、嘲り、断罪に加担した者たちは、次々とその報いを受けていった。


神殿の高位神官たちは、聖火が消えた瞬間から、神の加護を失ったように病に倒れ、ある者は発狂し、ある者は正気を保てぬまま神殿から姿を消した。神託を偽った罪、そして“本物の聖女”を牢に繋いだ罪は、誰よりも重く神に裁かれたのだ。


オフェリアを「下民の娘風情」と笑っていた貴族出身の聖職者は、泥にまみれた足で逃げる途中、過去に自らが命じて打擲させた女官の手によって顔を殴られ、歯を折られ、命を絶ったという。


豪奢な馬車に荷物を詰め込み、国境を越えて逃げ出そうとした貴族たちも、暴徒と化した民衆に襲撃され、財産を奪われ、髪を刈られ、屈辱のうちに道端へと捨てられた。


そして、“聖女”と謳われ、群衆の歓声に包まれながら王都に凱旋したクローディアは、いまや薄暗い神殿の地下室に、己の爪で壁を引っ掻きながら、嗚咽を洩らしていた。

神殿の神官たちは既に逃げ去り、民の誰一人として彼女を“聖女”と呼ぶ者はいない。


いや、それどころか――


「魔女め!この国を呪った元凶だ!」


「聖女など偽りだったんだ!」


「オフェリア様を嵌めたあの女だ!」


王都を覆う災厄と天変地異に苛まれた人々の怒りと憎悪は、すべてクローディアへと向けられていた。

一時の信仰は容易く裏返る。今や彼女は“聖女”ではなく“魔女”。

国を滅ぼした張本人とされ、民衆の唾を浴び、石を投げられながら神殿の奥深くに閉じ込められた。


最後に彼女が見たのは、朽ち果てた聖堂の天井から差し込む一筋の光。

それすら、雲に覆われて消えた瞬間――クローディアの瞳から、すべての光が消えた。


“理想の王子”と称えられ、誰よりも敬われ、民に愛された、アムレート・レグナス王。

その姿は、今や、髭も剃らぬまま呆けたように虚空を見つめる、かつての威厳を欠いた“廃人”にすぎなかった。


暴徒と化した民衆が、王宮へと押し寄せた日。

“神の怒りを招いた者”として、アムレートは王位を剥奪され、地下牢に閉じ込められたのだ。


「……オフェリア……」


誰に許されるわけでもない懺悔の名が、彼の唇から幾度も洩れる。

その声は掠れ、血の混じった咳に変わった。


水も食糧も、日に一度与えられるだけ。

もはや彼に同情する者など、この国には残っていなかった。


何よりも――アムレート自身が、己を赦していなかった。


オフェリアを切り捨てたあの日から、世界はゆっくりと、だが確実に狂い始めた。

彼女がいたとき、どれだけ平穏であったか。

その祈りが、いかに国を守っていたか。

ようやく理解したときには、既に彼女は牢から姿を消し、二度と還らぬ存在となっていた。


彼の手には、何も残っていない。

王冠も、忠臣も、信じていた“愛”すらも。

クローディアこそが“偽りの聖女”だったと知ったときの衝撃も、もはや遠い。

彼女は狂い、民衆の手で神殿の奥に封じられた。

その姿すらも、もう思い出せない。


残されたのは――ただ、罪と絶望だけ。


「ああ……オフェリア……」


血走った目で、床に倒れ伏す。

その身体は、痩せこけ、王の面影はどこにもなかった。


今や、忘れ去られた地下牢の影の中で、ただ“祈る”しかない身となった。


だが――その祈りに、もう神は応えない。


なぜなら、本物の祈り手は、もういないのだから。


やがて、国の名は地図からも消え、人々の記憶からも薄れていった。

ただ一つ、記録に残されているのは――


「一人の聖女を失った国は、己の愚かさによって滅んだ」


という、簡潔で冷たい一文のみだった。


***


神の御国は、混沌とした現世とはまるで別世界のように、澄み切った光と深い静謐に包まれていた。争いも、嘆きも、もはや存在しない。時はただ、穏やかに、優しく流れている。


その中心で、オフェリアはようやく、安らかな眠りについていた。現世で彼女を苛み続けた苦しみも痛みも、今はもう遠い過去の幻のよう。彼女の顔には、静かな微笑みが浮かんでいた。


神の声が、温もりを宿した光と共に降り注ぐ。


「……よく耐えました。孤独の中でも、祈りを忘れずに生き抜いたその心。どれほど美しかったことか」


慈しみに満ちたその声は、深く、優しく、オフェリアの魂に染み渡っていく。柔らかな光が彼女を包み、過去の記憶がひとつ、またひとつと霞のように薄れていく。痛みの日々も、愛しさを宿した人の面影も、やがてすべては光の中へと溶けて消えた。

オフェリアの祈りは、確かに天に届いていた。人の理では計れぬかたちで、その答えは与えられていたのだ。

そして今、彼女の魂は、神の御許にて永遠の安らぎを得た。そこには、痛みも、涙も、もうない。ただ、静かで、優しい光に満ちていた。


前作との温度差に風邪引きそう。誰も救われない聖女ものを書いてみたくて……。面白いと思っていただけたら、☆マークから評価・お気に入り登録をしていただけると嬉しいです。

また、連載中の『悪役令嬢のダイエット革命!〜前世の知識で健康美を手に入れてざまぁします!~』もよろしくお願いします!

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― 新着の感想 ―
嘘吐き偽聖女の喉を潰し、見たいものしか見なかった愚昧な王の目玉をくり抜いたほうがより相応しい報いだったかもしれません。 苦しみ神の庭に行くことを選んだ聖女を眺めながら悦に浸ってる神様も相当なタマだぞ…
よく日に一度も飯がもらえてるな理想の王子(笑)は 広場に括り付けられて命尽きるまで投石されてもおかしくなさそうだが・・・
神はなぜ愚王の喉を潰されなかったのか!?あれに聖女様の名を呼ぶ資格などないのに!? いや、元凶二人の扱いがはちみつのように甘いな。
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