死亡願望
生きてる。
…何故だ。何故生きている?大学入試にことごとく失敗して、それで…俺は首を吊った。何故生きている。
俺は仕方なく閉じていた眼を開けた。白に統一されたカーテン、天井。…病院か。俺は慎重に上半身を起こした。身体は全くもって損傷はないようだ。
「和也…」
すぐ右から弱々しい声が聞こえた。その方向に顔を向けると、相変わらずのボサボサの長い髪を垂らした母のシミだらけの顔がほっとした様子でこちらを見ていた。まだ明るいのに仕事はしなくてもいいのか。
「すぐに医者を呼んでくるから待っててね」
母はバタバタと駆けていった。みっともない。
…いや、みっともないのは俺だ。何故生きている。もう生きたくないんだよ。死なせてくれよ。
「先生、どうですか?」
荒い息遣いで帰ってきた母の後に続いて結構な歳の爺さんが白衣をなびかせながらやってきた。
「気分はどうですかな?」
助けたのはこいつか。こいつのせいか。こいつのせいで俺は死ねなかったのか。そう思うと目の前の老人が白衣の悪魔に見えてきた。
「何故俺を助けたんだよ」
沸々とわいてくる怒りが勝手に俺の口を動かしていた。ただ訂正する気もない。
「先生に何言ってるの和也!」
母の言葉にも怒りの意が込められているようだ。ただ、謝る気なんざ微塵もないぞ。
「ふむ。意識さえはっきりしているようであれば、2~3日ほど様子を見た後ですぐに退院できますな」
人の顔を借りた悪魔は俺の言葉を気にも留めてないようだ。なら何度でも言ってやるさ。
「何故助けた」
母は必死に人の仮面をかぶった悪魔に頭を下げている。みっともない。すると仮面の口が動いた。
「実のところ、私は何もしていない。お母さんが早くに発見して、大事に至らなかっただけのことだ」
なんだ。こいつは悪魔じゃないのか。どうやら俺は人と悪魔を見間違えていたらしい。悪魔は巧妙に人間に化けていた。
「何故助けたんだよ」
最早お前は母なんて呼べる代物じゃない。人じゃない。
「何故?何故の意味がわからない。和也の為に助けたのよ」
「お前の言葉の意味がわからない。本当に俺の為なら、そのまま死なせてくれよ。
お前なら俺のことをよく知ってるはずだろ。小さい頃から何をやっても駄目で、いつもいじめられていた。スポーツもできない、勉強も出来ない、友達もいない。
今年になって、お前が言うように必死に勉強したさ。大学は行かなきゃダメ、これは和也の為よってな。人生で初めて死ぬ気でやったさ。寝る間も惜しんでな。その結果がこれだ。どうせ俺は何もできないんだ。これ以上生き恥をさらしたくないんだよ。こんな人間、生きたところで価値なんてない。そうじゃないか?
それにこれはお前の為でもあるんだぞ?俺のせいでお前が笑われてることぐらいわかってる。こんな出来の悪い奴、いなくなるほうがマシってもんだろ?こんなに“親孝行”な息子の気持ちぐらい汲みとれよ。それこそ死ぬまで言い続けてやる。
俺は死にたい」
俺は一気に長年の不満とともに毒を吐き散らした。悪魔はその毒にも屈さなかった。
「私は生きてほしい」
「何故?」
「何故何故って、そんなに理由が必要なの?」
「ああ。理由がほしい。俺を生かす理由がほしい。どうせお前は理由もなく良い親ぶってるんだろ」
もはや本音を隠す気なんてない。さぁ、嘘で塗り固められた理由でもいいさ、何か言えよ。
「親より先立つなんて親不孝が許されるわけないじゃない。残される親の気持ちも考えてよ」
「自分勝手な話じゃないか。お前が悲しみたくないから生きろ?俺はロボットじゃない。人間だ。俺にも自由に生きる権利はある。お前が自分の喜びのために俺を生んだだけでは飽き足らず、死ぬときまで自分たちに都合よく死ねってか。つくづくめでたい思考回路だ」
思いの丈を全てぶちまけた。こんな快感は俺の人生で初めてだ。
「割り込んですまないが、君は十数年の出来事で人生を捨てるのかね?これからの数十年は素晴らしい出来事が待っているかもしれんぞ?」
爺さんまだいたのか。まぁ確かに、言ってることは理解できる。確かに理解はできるが、
「それが絶対とは限らない」
「努力すればよい」
素っ気ない即答に俺の心の中では再び反発心が沸いて出てきていた。
「必死に努力したところで何もできなかったんだ。俺の努力なんて無駄なんだよ」
「じゃあ、君は何故君は立てるのかね?」
この言葉は理解できない。今の話と何の関係はあるんだ?
「赤ん坊の頃に必死に努力した結果、今君は立つこともできるし、歩くこともできる。君も努力すれば夢をかなえる力を持っているじゃないか」
反論が見つからなかった。俺の口から音が出ないのを確認したのか爺さんは言葉をつづけた。
「周りが追いつけないほど努力すればいい。周りが呆れるほど努力をすればいい。そうすれば君も必ず何か掴めるはず、そう思わんかね?」
この爺さんを悪魔なんぞと思ったのが恥ずかしかった。人間に化けた神様のように思えた。
「それと。お母さんには敬意を払わなくてはいかん。彼女も君同様に悩みながらここまで育てくれた。立派な大人になって彼女を安心させることが息子のするべきことではないのかね?」
気が付けば俺の頬を涙が流れていた。あいつがそんな大層な親ではないことぐらいわかっている。だが、この爺さんの話には人を泣かせる説得力がある。年の功ってやつか。とにかく涙が止まらない。
「…今まで何もできなくてごめんね」
突然涙声で話すこの人はどうでもいい。こんな時に限って、良い親になりきるのだから…。
「何をしたらいいのかわからなくてさ。和也が壊れるのが怖くて触ることができなかったの…」
…この女性は大根役者だ。…下手な芝居だ。…まったく下手な芝居なのに…
「今日は初めて本当の和也の声を聞けて嬉しかった。今までお互い仮面を被って生活してたから。…これからは素顔で話し合いましょ」
俺は赤子のように泣いた。溢れる涙、溢れる声を止めることはできそうになかった。抱きついてきた母と共に泣いた。
唯一意識を保つ耳は神様の朗らかな声を拾った。
「本日で退院しなさい。これじゃ周りの患者に迷惑がかかる」
「なぁ、すげー美味い焼き肉屋見つけたんだけど、例のメンバーで行こうぜ」
「あー、今日はちょっと」
「マジで?もしかしてコレ?」
「小指を立てるな。そういうのじゃない」
俺は一浪してここいらではそこそこ有名な大学に入学することができた。どこから広まったのか、努力の鬼というあだ名もついた。とにもかくにもまぁまぁ順調な大学生活を送れているわけだ。
「それなら俺らだけで美味い肉を堪能してくるわ。後悔すんなよ」
「はいはい。じゃあ」
「じゃあな、また明日!」
今日は誘いには乗れない。特別な日だ。
俺は壁に取り付けられたチャイムを押した。奥から長年親しんだ声ではーいと返事する声が聞こえる。
「どちらさ…あら、和也。どうしたの?」
「いや、今日はちょっと、プレゼント持ってきたからさ」
「こりゃ明日は地震ね」
「茶化すなよ。これ、ケーキ。買ってきたから。今日誕生日だろ?去年は勉強で何もできなかったし」
「あぁ、そうだったね。忙しくてすっかり忘れてた」
「年をとるのが嫌なだけだろ」
「言うねぇ」
「いいから開けろって」
俺の言葉に促されて母は箱を開ける。箱を開ければ、店員に書いてもらった5文字の言葉が見えるはずだ。
思惑通り、母の顔は優しく緩んだ。その笑顔はまるで天使のように思えた。
「私こそ、ありがとう」
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