波乱含みの日常
「あんなこと」の粗筋(完結編も含む)
この小説は2008年十月に宇治市で実際に起きたセンセーショナルな殺人事件をヒントにしている。犯人と被害者の年齢から推測して高校生ぐらいの子供が居たと仮定した。登場する場所も人物もすべて架空である。そのことをお断りしておく。
高志と佳世は高校二年生である。一九九〇年の八月生まれである。出生地は宇治市の黄檗山万福寺町で同年同月生まれであった。幼児期から一緒に過ごし小中高校を同じ学校で共に過ごした。
二人が育った環境は大いに違った。
高志はワンマンの父親に京大に入学し外交官になるレールを敷かれてその通り歩んできた。佳世は母親が美容院を六店舗経営し、父親も関連店を経営する共働き家庭で育った。持って生まれた性格も環境も違う中、周囲が気にかけほど二人の仲は良かった。互いにカバーし合う相関関係にあった。
高校生活が二年目を迎えたとき、進む方向を巡って別離の兆しが見えてきた。二人に学力差がついていたので高志は京大へ、佳世は私学の道を進むことになった。二人に恋愛感情が芽生えていたので、特にその気持ちが強かった佳世は、何とか高志をつなぎとめようと折に触れ気持ちを表わす。高志は学習能力は高いが軟弱で気が弱く、神経性胃炎を発症する身であった。逆に佳世は肥満体で気が強くて人を引っ張っていくタイプであった。喧嘩しながらも互いに助け合って進んできたが二人の父親の仲違いによって一旦引き裂かれそうになるが踏ん張った。
高志の父親はワンマンで筋を通す性質だ。佳世の父親はひねくれもので、やきもち焼きで、嫉妬深かった。美容界の超スター佳世の母親を巡って両者の仲がこじれてくる。佳世の父親の僻みが原因なのだが、尊厳を傷つけられた高志の父親が佳世の父親を殺害してしまう。高志は親の殺人事件を受けて、経済的基盤を失い、将来の夢を断たれた。佳世の助言でアルバイトしながらなんとか京大を卒業する。佳世は中高校時に家事に追いまくられた反動で、大学に進んでから遊び捲くって当初のボランティア活動家の道を捨ててしまった。高志の外交官への道は遠い、このまま過ごして居れば佳世を誰かに取られてしまうと怯えて、学生時代にアルバイトしていた運送会社に就職し生活の基盤を作る。佳世に結婚を申し出て家庭を持つことを決意する。それは実現したのだが厳しいものだった。結婚式は形だけで新婚旅行すら行けなかった。そんなことがあって八年後、三人目の子をお腹に宿して二人は当時両家族が顔つなぎした思い出の旅館で食事しながら回顧している。
あんなこと
佐倉活彦
波乱含みの日常
宇治市の東部に万福寺という黄檗宗の大本山がある。七堂伽藍を配し、二十院もの塔頭に囲まれ、まるで城郭のような威容を誇っている。
今日は西暦二〇〇八年四月二日、月曜日。熱量の豊かなオレンジ色の陽光が燦々と堂宇に降り注いでいた。
今し方、この門前町に住まいする栗原高志は、坂の上高校の始業式に出席するため、気持ちを昂らせ自転車に飛び乗った。目指す学校は峰々が五つ連なる五雲峰の丘陵地に建っている。道幅が狭くて、しかも上り勾配のうねうねした街中の道を、二十分間自転車を漕がなければならない。学校が好きな高志にとってはそんなことぐらい何のその、体を左右に揺すぶり、顎を上向かせ、まるで鼻歌でも口ずさんでいる様な風体で自転車を漕いでいる。今日の始業式を待ちかねていた、と浮き浮きする内面の心理を如実に表していた。
式の始まる一時間前に校門に到着し、自転車を押して校内の急坂を上り始めた。京都府立校として立派な校名がありながら、坂の上高校と呼ばれるようになった所以の坂である。両脇に桜の大木が植わっていて、青空の下で薄いピンクの花を満開に咲かせている。隙間から差し込む木洩れ日が高志の紺のブレザーに斑点模様を描いた。
職員室の隣にある駐輪場に乗ってきた自転車のスタンドを立てた。鼻筋を伝ってすべり落ちてくる大粒の汗を、白いハンカチで首筋迄丁寧に拭った。やや足を広げズボンのバンドを緩め、カッターシャツの裾を両手で腹に巻き付けるようにしまいこんだ。身嗜みを整えるとバックパックを背負い、足早に廊下の壁に張り出してある各学年のクラス分けを確認しにいった。
出会いと別れ、新たに迎える友に期待してワクワクする半面、一年生時に入学の喜びを分かち合った友と、惜別しなければならない淋しさがある。
二年一組に栗原高志の名が記載してあった。一年生時に同クラスだった木村佳世は三組になっていた。
一組と三組に分かれたか、と残念そうに尖がった顎を親指と人差し指の腹でしごいて顰め面をした。保育園、幼稚園、小中学校そして高校一年生迄、十四年間を共にしてきた仲だ。
徐々に、クラス分けを確認しに来る生徒が増え、周囲がざわざわしてきた。心の内を派手に表すのは女子である。ソプラノに裏返った声が鼓膜に響いた。
「サーちゃん、一緒の組や、よかったなあ」
「よかった、よかった、キクちゃんと一緒や」と、肩を抱きあって飛び跳ね、くるくる回転し狂喜していた。
大袈裟な女子の振舞いに比べて男子は「やあ!」とか「おおっ!」とか短い挨拶を交わすか、手を伸ばして握手するか、して心の内を表していた。
高志はクラス分けを確認した後、これから一年間を過ごす二年一組はどんな教室なのか、覗きに行こうとして二棟に渡る廊下に足を運んだところで後ろから声が掛かった。
「おい! 栗原」
一年生時にクラスメイトだった男子が息の臭いがする位置まで体を寄せてきて、肘で腹を突き、「別々になったなあー」と、意味ありげにニヤッと相好崩した。
傍にいた女子が、「別れるのもいいもんや、思いが募るわ。なあ高志?」と、反応を誘うようにケラケラ笑った。
高志と佳世の並々ならぬ仲の良さは間違いのない噂として同期生に知れ渡っていた。
始業時間を告げるチャイムが鳴り始めた。
ドタドタと音を立て、ハーハー息せきせき駆け込んできた女子がいた。
吹きだした汗を柄物のハンカチで拭いながら、けたたましく声を張り上げた。
「ちょっと、ちょっと、うち何組や!」
ブレザーのボタンを留めることができないほどお腹が出っ張っている。プリーツスカートのバンドに肥肉が被さっている。黒いタイツで太い脚を締めて細く見せかけている。
「佳世! 一大事や、あんたは三組で彼氏は一組や。どうする」
「彼氏はもてるので目を離したら虫がつくわ。知らんで」
佳世は二十顎を突き出して丸っこい目でクラス分けを食い入るように見つめ確認した。お腹が出っ張っていて胴体が大きいことばかり目に付くが小顔で愛らしい顔立ちしている。
「どうすると言われても、まあええやんか、なるようになるわ」と、はぐらかした。みんなが期待しているようなことは起こらないよ、と自信たっぷり答えたのと同じだった。
佳代が登校してくるのを待っていた高志は磁石で吸引されるように近寄っていった。
「クラスが別れたので先に授業が終わった方は駐輪場で待つことにしようか。これまで通り一緒に帰ろう」
「呆れた。この二人もう帰る待ち合わせ場所の相談してるわ」
「引き離されても心は繋がってるね」
「心とは違う別のところで」
「そうか。あそこでな⋯」
「あっ、先生が職員室からぞろぞろ出て来た、式が始まる」
クラス分け表の前の廊下でたむろし騒いでいた女子は、制服のプリーツスカートの裾を翻し、旋風が移動するように廊下を走っていった。男子も釣られて急ぎ足で向かった。
始業式は体育館で行われる。
「整列」
面立ちが、くまのプーさん似なので、プー先生として在校生に馴染んでいる教頭が、ハンドマイク使って、甲高い声で思い思いに散らばっている生徒を中央に招集した。
新入生はプー教頭に向かって右側に、高志と佳世ら二年生は真ん中、三年生は左側に、それぞれ隊列を作って並んだ。前の貴賓席には紅白の幕を背にして学校関係者や来賓者がパイプ椅子に座った。
うんざりする来賓者の祝辞の後に生徒会長が張りのある声で、前日に入学式を終えたばかりの新入生を迎える歓迎の挨拶をした。それに応えて新入生代表が初々しい声で高校生活の期待を述べた。やたら先輩のご指導の下に、先輩を見習って、とへりくだっていた。
佳世は入学した当時を思い出して心が疼いた。
私がこの高校に入学したのは高志が選んだので追随しただけや。両親にも相談せず一人で決めた。高校に進学しても家の用事を一切合財引き受けていかなければならないので、勉強やクラブ活動に専念できないのは分かり切っていた。一年生時は成績が悪いのを境遇の所為に責任転嫁してきたけど、本当は勉強嫌いをごまかすためやった。今日から二年生になったんや、もうそんなことは言うてられへん。これまでのサボリ癖を反省して、心機一転大学進学を目指して勉強に励むからな。新入生の中にも私と同じような境遇の生徒がいるはずや。応援するので頑張りや。私も頑張るからな。
一組の高志は勉強に専念できる恵まれた家庭で勉学にいそしみ、一年生時の成績は学年トップやった。二年生になったので、大学受験の足場固めするつもりで張り切っていると思う。
成績が抜きんでて優秀な彼と、落ちこぼれている彼女、という関係。繊細でやや陰気なところがある彼と、ヒマワリのような陽気が取り柄の彼女という関係。体形が華奢でひょろひょろとした彼と肥満体で肉の塊のような彼女、という関係。性格も気が弱くて常に誰かを頼りしている彼と、気が強くて人を牽引していくタイプの彼女、という関係。性格が相反する二人は周囲が気を揉むほど仲が良い。本人たちは幼馴染を理由にして仲を説明しているが、本当は欠けている部分をカバーし合って、共存共栄を図る相関関係にあるのだと周辺の大人は理解している。
始業式を終え新しい教室に入った二年一組の様子を覗いてみた。
ホームルーム担任の先生が挨拶を終えると、まちまちに座っていた全員を立ち上がらせ教室の後方に下がらせた。あいうえお順になっている名簿を読み上げていった。「はい」と返事して外窓際の前の席から順々に着席していった。一年間過ごす席が決まると、きょときょと前後左右を見回し、居心地を確認した。律儀に挨拶している生徒、冗談を飛ばしている生徒、それぞれの落ち着き方である。
担任が注意した。
「この教室で一年間勉強します。汚さないように、それから壊さないようにしてください」
女子が、首を捻ってやんちゃぽい男子に眼差しを送り、クスッと笑った。
「それでは名簿順に起立し自己紹介してください」
高志の席順は真ん中ぐらいであった。
立ち上がると生真面目に、端的に、「栗原高志です。これといった趣味はありません。大学進学をめざして勉学に励みます」、と宣誓するように高らかに述べて着席した。クラスメイトからヤジはなく拍手のみであった。高志が優秀であることは知れ渡っていた。茶化す隙を与えなかったのかもしれない。二年生になって初めて高志と同クラスになった生徒は、こいつが秀才で通っている栗原か、賢そうな顔しとるわ、と羨望し一目置いた眼差しで窺っていた。
もう一人、同じような扱いを受けた男子生徒がいた。服部興起君だ。この二人は別格と認めた感があった。
二年三組の佳世のクラスでも自己紹介が行われていた。
佳世が起立したとたん、何かやってくれるだろうと期待して、ざわめいた。
「二年生になりますので将来を考えて体形をモデルさんのようにしなやかにほっそり作り変えます。ウエストのくびれもはっきり見えるようにします。大根足をバレリーナと同じように細く整えます。男っぽい短髪を女の子らしくロングにして縦巻きにカールさせ金色に染めます。それから⋯⋯」
やんちゃ風な三人が示し合わせたように机を叩いた。それ以上喋ることを許さなかった。さらにヤジを飛ばして囃したてた。
「できもせんことを言うな。弁当食べて、サンドイッチ食べて、コーラがぶがぶ飲んで、何がモデルさん体形になるや」
「勉強の目標はないのか、此処は芸能事務所ではないぞ、学校だぞ」
「午後の一時限目に居眠りしているやろ。先生に失礼だぞ」
佳世は大袈裟に両手を耳に当て鎮まるのを待った。それから両眼をこすった。
「シクシク。みんなが虐めるので、ストレスでこんな体形になりました。どうしてくれはるのどす、文部大臣に訴えます⋯⋯え」
芸舞妓さんがよく使う京言葉を真似て「⋯⋯え」に力を入れ、体を捻ってなまめかしい仕草をした。教室全体が爆笑し窓ガラスがビリビリ振動した。期待に応えたことを確認して、よいしょと掛け声を掛けドスンと座った。椅子を前後に揺すって軋ませ爆笑の余韻を引きずらせた。
自己紹介が終わるとクラス別に記念写真の撮影と検診が行われた。
それから災害時の緊急避難サイレンを鳴らして避難訓練が行われた。全校生はお祭りに行くような感覚で賑やかにグランドに集合した。揃った組順に点呼が行われた。ホームルーム担任が「〇年〇組異常ありません。全員無事です」とプー教頭に報告した。一学年で七組あるから全校生の点呼報告に時間が掛かった。形式ばった点呼に暇を持て余し、体重を右足左足に乗せ換えて、腕を前や後ろに組み替えて、終了するのを待っていた。そのうちに辛抱できなくなって、あちこちで話し声がするようになった。〈鉄人28号、白昼の残月〉や〈蟲師〉の粗筋を喋ることで乱れがちな列をかろうじて維持していた。
報告が終わるのを待って、プー教頭は再びハンドマイクを握った。
「今日は避難訓練です。実際の災害の時は今日のような緊迫感のない行動や私語を慎しみ迅速に対応してください。特に日頃慣れていない理科教室や音楽教室、家庭教室など特別教室で授業を受けているときに、災害が発生した場合を想定して、日頃から避難順路を頭に入れておいてください。それでは解散!」
全校生八百人は、一旦各教室に散って、学級担任から明日以降の授業プログラムを記載した冊子を受け取った。こうして新年度の始業式は定めにのっとって滞りなく終わった。
高志と佳世は約束した通り駐輪場で待ち合わせた。狭い住宅街の抜け道を自宅のある万福寺町に向かって自転車を押して歩き始めた。高志が前で佳世が後ろと決まっている。家庭や学校の出来事を喋りながら楽しそうに帰る。
佳世が高志の背に呼び掛けた。
「三組に、校則すれすれの柄物のカッターシャツ着て髪を五分刈りにしているやんちゃが三人居る。ちょっとしたことで騒ぎ立てよる。一組は如何や」
「いるけど、何処の組にもそんなやつ居るからな。気になるほどではない」
「私な、ダンスクラブに入ろうかなあーと思ってるけど」
「まじか。好きにしたらええけど」
「ちょっと言うてみただけ。実際は家の用事に追いまくられているのでクラブ活動する時間ないわ」
「茶道部に入ったらええね」
「それは嫌味か! 家の用事に追われてクラブ活動する時間ない、て言うたやろ」
「正座できひんねやろ」
「できるわ」
「足が圧し潰されるな」
「耐えられるように太くできてるで」
「自己紹介のとき、将来モデルになると言ったそうやなあ」
「誰が告げ口したんや。私は、みんなの期待に応えんとあかんね。教室の雰囲気をワーと沸騰させ、明るくするのが役目や。学業には誰も期待してへん。目立ちたがりに見えるけど実際は裏方の人間や」
「演じんでも、佳世が姿を現すだけで周囲がパーと明るくなる。得難い性分や」
「そんな風に言ってくれるのは高志だけや。他の人は何か面白いことをさせようとちょっかいだしてくる」
「関心持たれているのは幸せやで。無視されたらどんだけ辛いか」
「高志に言われると煽てられているようには思えへん」
「佳世、此処から道が狭くなるので気いつけんとあかんで」
「へい」
「佳世はお調子もんやな直ぐに乗ってくる」
「放っといて」
万福寺町の古い街中に、整然と区割りされた同規格の新興住宅が、といっても十八年経つのだが、十軒ずつ三列並んで建っている。高志と佳世は此処に住んでいる。周辺には漆喰の塗屋造りの酒屋や、虫籠窓の中二階がある駄菓子屋が残っている。新旧混在した環境の中で生まれ育った。
「それじぁ、バイバイ」
「また明日、バイバイ」
高校二年生の初登校日を終えた。
*
高志と佳世の登校スタイルはかなり違っている。
高志は五時半に起床してトイレ洗面を済ませ食卓の前に座る。中二の妹志乃と一緒に父親の高雄さんがこんがり焼いた五枚切りのトースト、焼き立てのスクランブルエッグ、胡麻ドレッシングをかけたサニーレタス、バナナ一本、マグカップ一杯の牛乳、の朝食を「いただきます」と合掌してから食べる。食事を済ますと「ごちそうさまでした」と感謝の言葉を発し洗面所に向かう。礼儀を重んじる習慣は身に浸透している。歯磨きを終え食卓に戻ると卓上に高雄さん手作りの弁当が二つ並んでいる。感謝の気持ちを表すため、通学バックパックに収める際、上半身を前に傾けて御辞儀する。その頃になってやっと母の美鈴さんが、二階の寝室からパジャマの上にガウンを羽織り、寝起きのぼんやりした顔つきで姿を現す。階段の手すりに掴まり、体を左右に揺らし、ゆっくり下りてくる。父は母の朝食もちゃんと用意している。七時二十分に家を出る。前日に時間割を見て教科書など教材はすでに通学バックパックに収まっている。近くの化学工場で工程管理の職員としてマイカー通勤している父親とほぼ同時刻に家を出る。自転車は通称チャリンコと呼んでいるシティサイクルである。ピカピカに磨かれているものの古いのでペタルを漕ぐ度チェーンの擦れる音がする、サドルのバネも軋む。右手に萌黄色に染まった五雲峰の山嶺を見ながら気分良く学校に到着する。校門で服装チェクをしている当番先生に、「おはよう、今日も早いな」と声を掛けてもらう。四季の移ろいに従って変容する桜の大木を観察しながらゆっくり坂を上がる。始業時間は八時半だから廊下もゆっくり歩いて二棟の二年一組の教室に入る。大概一番乗りだ。一時限目の教科担任が姿を現すまで、教科書を広げ予習しながら静かに待つ。ゆったりと流れる時間が勉強する環境を整える。
佳世の朝は大変忙しい。六時に目覚ましが鳴る。三分後にもう一度鳴る。観念したように、「ええぃ」とベッドの掛布団を太い足で跳ねのける。目を擦りながら階下に降りる。パジャマ姿のままで洗面室に向かい、洗濯機に洗剤を入れてスイッチをONにする。昨晩風呂に入った際、脱ぎ捨てた衣類が手荒く放り込んである。それから台所に立って、菓子パンをもぐもぐ咀嚼しながら妹と父の朝食の用意をする。ケトルがピーと音を鳴らしたところで、二階で寝ている小四の妹の紗世を叩き起こしに行く。さらに隣の部屋に入って父の純雄を起こす。「起きろ! 」と、金切り声上げても聞こえない振りして寝ている。声を掛けるのは一度だけ、後は放っておく。一階に降りると、五枚切りの食パンがチーンとトースターから飛び出した。
「はい、紗世、自分でバター塗ってさっさと食べや。バナナと牛乳を残したらあかんで、大きくなれへんで」
朝の時間は経つのが早い、食事を終えた紗世の手を引っ張って洗面所に連れていく。歯磨きと用足しを終えて着替えさせる。ランドセルの中を覗いて、忘れ物ないか調べ、集団登校の集合場所になっている町内の集会所に連れていく。それから駆け足で帰り、洗濯機から洗濯物を取り出してベランダに干す。歯を磨き洗顔して教科書を整え制服に着替える。お父んはまだ起きてこないので、食卓にパンと牛乳とバナナ一本を置いて放っておく。母は深夜に帰ってきたようだが、家で食事しないし、九時ごろまで三階の部屋に設けた豪華な天蓋付きのダブルベッドで女王様のように眠っている。母も放置しておく。用事がある場合は食卓の上に置手紙をしたためておく。もう久しく直接会話をしていない。家を出たのは八時十分。学校目指して上り勾配の道を腕時計の分針を睨みながら必死にペダル漕ぐ。始業時間の八時三十分ぎりぎりに校門に到達する。服装当番の先生が、「走れ」と、叱咤する。「はい」と元気よく答えて駐輪場まで自転車を押して駆け上がる。バックパック背負い、階段を勢いよく駆け上がる。カランカラン、とチャイムが鳴り終わると同時に教室の入り口に立つ。
引き戸を勢い良く開け、右手を挙げて朝の挨拶をする。
「ピンポーン、ピンポーン。グッドモーニング」
「セーフ、セーフ」クラスメイトが囃す。
二年三組は人気役者の佳世を迎えて慌ただしく授業が始まる。
*
今日は生徒会主催の新入生歓迎クラブ紹介が放課後に体育館で行われた。当たり前かもしれないが一年生はほぼ全員参加した。二年生はクラブ関係者含めて全体の三分の二が参加、三年生は大学センター試験を控えて退部したものが多く三割方の参加に留まった。
高志と佳世はクラブ活動していないので歓迎会に出席しなかった。授業が終わると縦列になって自転車を押して自宅に向かって歩き始めた。二人の下校時の様子は仲良しカップルが心の根を絡ませる時間といってよかった。
「高志、なんでクラブに入らへんの」
「どのクラブにも興味がないことにしている」
「変な言い方するなあ」
「本当は経済的な理由や。僕とこはお父さんの安月給でギリギリの生活をしているんや。子供を大学に行かせるために郵便局の学資保険に妹の分も入れたら月二万円近く積み立てている。学校の授業料は年に十一万八千円やそれを四回に分けて収めている。他に制服代や週に一回塾に通っているので月謝もいる。模擬試験代もいる。合計したら自由に使えるお金なんて残ってない。クラブに入れば用具代も要るし付き合いでお金も必要になる、とても小遣い増やしてくれとは言えへん。そんな理由で諦めている」
「うちとこは、お母んがたんまり稼ぐのでお金の心配はないねんけど、主婦代わりに扱き使われているのでクラブ活動する時間がないね。ダンスクラブに入って思い切り跳び撥ねたいわ。要は憤懣を発散させたいだけやけど」
「クラブに入ってない方が余計なこと考えないで済む。勉強に集中できる。間違いない」
と高志は降りかかる火の粉を振り払うように、ハンドルを強く握って上半身を左右に泳がせた。
「勉強ばっかりしてたら気が滅入るやろな。神経性の下痢するときもあるやろ。体育系のクラブに入って、ひと汗かいたらそんなことなくなるわ。べつに大学から勧誘されるような一流の選手を目指さんでもええやんか」
「自転車で通学しているので、心肺機能も脚力も高まる、気分転換にもなる」
「高志は早く出てくるからトレーニングしている気分でペダル漕げるね。うちは忙しいので時間ギリギリに家を飛び出して、始業時間に間に合うように必死にペダル漕いで滑り込むんや。これではイライラしてストレスを蓄積するだけや、トレーニングにはならん。家事に疲れて授業中に居眠りしてしまう。こんな生活アホらしくなって、家出したろかと思うときあるわ」
「まじか! 物騒なこと言うな。どの家も他人に晒したくない裏事情を抱えているもんや。高校生活なんてあっという間に過ぎる。もう一年過ぎたんや。時間は問題を解決してもしなくても、確実に過ぎていくからな」
「おっさんみたいなことを言うな」
「家の事情で毎日バタバタしていると思うけど、進学するんやったら早よ大学を決めて勉強せんと間に合わへんで」
「進学するつもりなんやけど、家事に追われているので勉強する時間がないね。用事をいかにして切り詰め、あわよくばしないで、受験勉強に専念できる時間を生み出すか、そればっかり考えている。その問題を解決せんことにはどうにもならんわ。高志は中学生の頃から、京大法学部を卒業して外交官になると言っていたな。今もその気持ちに変わりないんやろ。今日までモチベーションを維持してきた理由は何や」
「お父さんや。僕を大学に進学させるために一生懸命働いている。その姿を目の当たりにしていると、もっと勉強しなあかんと心が燃えてくる」
「そんなお父さんうらやましいわ、うちのお父んとえらい違いや。お母んの尻の下にひかれて、文句も言わず指示された通り働いとる。主導権のない姿を見てたら情けなくて、とてもや燃えてくるどころか消沈してしまうわ」
「お父さんは何処の家庭でもお父さんや。存在感に優劣なんて付けられへん。お父さん像は家族が鑿で削ってコツコツ仕上げる彫像作品や。立派な彫像ができるかどうかは家族の腕次第や」
「ええこと言うなあ、感心するわ」
佳世は父親を比較すると腹立たしくなる。
「佳世、此処から道が狭くなるので気を付けなあかんで」
「此処に来たらいつも同じこと言うな。言われんでもわかっているわ」と、むくれた。
高志の家の前まで帰ってきた。
「バイバイ」
「それじゃあな、バイバイ」
佳世は家に帰る前に寄り道した。万福寺の総門を潜ると右手に放生池があって休息できるように長椅子が置いてある。周囲をソメイヨシノや椎の大木が取り巻いていて静かだ。蓮が池面を覆っていてその下を鯉がゆったり泳いでいる。亀が首を伸ばしてのんびり浮かんでいる。時たまカワセミが食事にやってくる。長椅子に座ると池越しに巨大な三門が人心の悩みを聞くように構えている。
大学に進学する、とはどういうことなのか。うちのお父んは高卒、お母んは中卒だ。髪結いの亭主に納まっているお父んのことはさておき、お母んは家が貧乏だったので中学すらろくろく通っていない。しかし今では美容室を六店舗経営する実業家だ。お父んと結婚し二人の子供を設け家庭を構えた。ところが理想の家庭を築いたとはどう見ても言えない。経営に奔走して夫や子供を犠牲にしている。いったい誰のために働いているのだ。権勢を追う自己満足にすぎないのなら心の底から怒鳴り付けてやりたい。犠牲になっている夫と子供に普通の生活をさせろ、と。これが学問を身に付けなかった人の極みなのか。幼少期の育ち方が人生を左右するのだ。
はたして高志はどうなんだ。京大を卒業して外交官になると息巻いている。学校では群れを抜いて成績優秀である。夢を叶えるかもしれない。しかし念願かなって外務省に入ったその先に問題を抱えている。外務省は成績優秀者だらけだ。その中に交じって頭角を現すには別な要素が必要になる。巧みな口舌と行動力を駆使することによって、外交官として昇格できるのはごく一部の限られた人間だ。過保護で、緊張した時は神経性下痢を発症するあのガラス体質は、厳しい世の中の人間関係を乗り越えていけるのか。外交官は夢で終わるのか。
私は家の用事を積み重ねているうちに世の中の仕組みを知らずしらず習得している。物価も世間の不平も知っている。高志は父親に世間の付き合いを遮断されて、動向を知らずに学業に専念している。脇目も振らず専心して第一関門の京大法学部をクリヤーできたとしても、次の過程は世間に通じていなければクリヤーできないだろう。そこで蹴躓いて挫折する可能性はある。無学のお母んはそこをどのようにしてクリアーしたのか。
中卒あるいは高卒と大卒では社会通念に雲泥の開きがある。今の社会は成熟していて住みわけがきちっとされている。学歴や資格で差をつける社会秩序は強固で揺るぎそうにない。社会に出る時の学歴を誤ったら一生を台無しにする。お母んがひた走ってきたバブル期の混沌とした社会は過ぎた。現在の家庭環境を容認して家事に専念してもよいと思うときがあるけれど、自分を犠牲にして家のために尽くしても、精々お世話になった、で終わりだ。失った期間は永遠に取り戻せない。同期生は私を置き去りにしてどんどん我が道を進んでいる。大学進学を諦めてはいけない。諦めたらその時点で将来は惨めなものになる。方法はあるはずだ。
膨らみかけた蓮の蕾を自分に例えて視線を上げた。どっしり構えた巨大な三門が内心を確かめるように見下ろしていた。
*
今日は放課後、英会話教室でイースターイベントが行われた。
高志は佳世に誘われたが参加しなかった。邪道に踏み込まないように、我が道を外れないように、一心不乱に歩もうとしていた。
佳世は将来に不安を抱えているので一時的にせよ忘れることができるお祭り騒ぎにふらっと逃避するときがある。新しくクラスメイトになった静穂に誘われてイベントに参加した。
英語専従講師がイースター(復活祭)について由来を語った後にイースターエッグの写真を見せた。
「工芸品のように手が込んでいて鮮やかでしょう。卵の表面に食紅を使って彩色しています。後で食べるからです。卵が用いられるのは命を宿しているからだと言われています。キリストを信仰するヨーロッパの各家庭では、彩色した卵を家の中や庭に隠して、それを子供たちが探し出し、お菓子と交換して貰うゲームが行われます。また兎のおもちゃがイースターバニーとしてこの時期に登場するのはたくさん子供を産むので縁起が良いとされているのです。春の楽しい行事です」
佳世は、英会話教室に足を運んだことは一度もなく今回初めてやってきた。静穂は毎日放課後に入り浸り英会話を楽しんでいた。卒業したらニューヨークに住むつもりなのだ。そこで何になるかは聞いていない。
佳世は、「日本の正月みたいなもんやな。先祖をお迎えに行って仏壇に祀り一緒にお雑煮食べて、一家そろってゲームして楽しむやろ。それとも盂蘭盆会の地蔵盆にあたるのかな?」と疑問符をつけた。
「それは違う。亡くなった人や先祖をお祀りする行事とは違う。十字架に磔にされたイエス・キリストが復活された喜びを祝う行事や」と静穂が説明した。
佳世の家は分家なので仏壇はない。ただし稲荷神を祀る神棚はある。千本鳥居のうちの一本はお母んが建てた。稲荷神を崇めているので商売が順調にいっているのだ、とかつて神棚にローソクを灯しながら説明したことがある。
静穂の家は旧家なので仏壇がある。春秋のお彼岸や盂蘭盆会には浄土宗のお坊さんが先祖を供養しに来る。静穂は物心が付いた頃から両親と並んで座り数珠を手にしてお経を捧げていた。これは特別な家庭ではない。根っからの京ではごく普通の様式である。玄関の屋根には怖い顔した鍾馗さんが疫病退散の守り神として祀ってある。鍾馗さんは道教の神である。台所には竈の神様愛宕神が、トイレには厠の神様烏枢沙摩明王を祀っている。神様だらけの環境下で育ってきた。キリスト教を受け入れるのも神が一つ新たに加わったぐらいで多神教者特有の信仰心である。
英語専従講師が提案した。
「それでは独自のイースターエッグを作ってください。画用紙に適度な大きさの卵の図柄を描いて、用意してある絵具とクレヨンで彩色してください。完成したら後ろのボード版にピンで留めてください」
佳世と静穂が描いたデコレーションエッグは似ていた。卵を顔に例えて描いてみると誰かになった。ボード版に張り出して互いに顔を見合わせニヤッと唇の端を歪ませた。
生徒が描き終わるのを待っていた講師は、
「校内のどこかにプラスチック製のイースターエッグを隠してあります。各教室には隠しておりませんので入らないでください。そんなに込み入ったところではありません。エッグにナンバーが記入してあります。前のテーブルに縫いぐるみのイースターバニーやお菓子のプレゼントを用意しています。そこにもナンバーを記入してあります。探し出したエッグの番号と合致したら持ち帰ってください。参加してくれた諸君に対するプレゼントです」
みんな、わーと声出して散った。探し物をしてプレゼントが貰えるとなれば活気づく。女子が多いので校内を探し回る喧噪で沸いた。
佳世と静穂のチームは二個見つけてチョコレートとお菓子を手にした。
「なんや、このチョコレート!」
佳世は包装紙をビリビリと破いて段ボールに色付けしたチャチな模造品の板チョコを取り出した。わざとらしく噛んで「美味しい」と表情歪め右足を高く上げ、ドスン、ドスン、地団駄踏んだ。
ワハハ。アハハ。教室は笑いで揺らいだ。
佳世は先に高志が帰ってしまったので、一人でペダルを漕いで住宅街の抜け道を万福寺町の我が家に向け急いだ。青空に入道雲が出ていた。静穂の顔が、にゅっと浮かんだ。
侮れんな、あいつ。私を誘って挑戦状を突きつけよった。あれはどう見ても高志の顔や。ハートマークも添えよった。うちは添えてへん。あいつの方が思い入れが強いのかもしれん。けどそうはさせんぞ。持ち前の闘争心がふつふつと沸いた。
突然出現した対抗馬の存在を意識して、サドルから腰を浮かせ、ペダルを力一杯漕ぎだしたところ、ハンドルが泳いで自転車がぐらついた。
「プッ、プッ」とクラックションの音。
おっとっと。今日は、「佳世、此処から道が狭くなるので気をつけなあかんで」と注意してくれる高志がいないんや。
慎重に自転車を漕いで、万福寺の総門を過ぎ、箱庭のように整備された一画に帰ってきた。「高志! 無事に一人で帰ってきたで」と思い入れを籠めて手を振った。
*
始業式が四月の十一日だったので新学期が始まって一か月ほど経過した。クラスメイトの選別が進み確定された時期になる。三組の佳世のクラスは進路別に四つにグループ化した。私学の関関同立派と産近甲龍派があり、専門学校派がある。各グループは休憩時間や放課後に情報を交換し合っていた。特別教室に移動する際も食堂に向かう際も、群をなす。佳世や静穂は進学先が未定なのでどのクループにも属さず気楽に往還していた。
高志のクラスは六グループに細分した。国公立派が高志と服部君にもう一人女子が加わって三人になった。関関同立派が関関の大阪派と同立の地元京都派に分化した。安全志向派は産近甲龍派と摂神追桃派に分化した。専門学校派もいる。
高志は七時限目の授業を終えると駐輪場の前のベンチに座って佳世を待っていた。
「彼女、もうすぐ出てきゃはるからな」
「いつも大変やな、先に帰ったら怒られるのか」
顔馴染みの女子が冷やかして次々通り過ぎた。
授業が終われば解放感で心が弾む。静穂のように英会話教室で専従講師と会話を楽しみ、海外に夢を馳せる生徒もおれば、高志や佳世のように、直帰するため待ち合わせしている生徒もいる。単独で自転車や徒歩で帰宅する生徒もいるし、塾に向かうため時間に追われて一目散に急坂を下る生徒もいる。
「駅まで一緒に行こうか」
「三角比の定義何とか解ったわ」
「〈嵐〉ええな、〈コブクロ〉もええけど、私は〈コブクロ〉が好きや」
「ワンピの四十六巻目読んでるね。もうすぐ次の巻が出るねんて、楽しみや」
「ラインなんて気にせんとけ、あいつら好き勝手に書き込んで憂さ晴らしとるだけや」
学校の見えない鉄格子から解き放され、課題や息抜きや悩み事を洗いざらいぶちまけ、お喋りが弾む。中には興奮して唾を飛ばし眼を三角にして、教師の悪口を言っている生徒もいる。
高志と佳世は自転車を押して前後に連なり、住宅街の抜け道を自宅のある万福寺町目指して歩き始めた。帰りは下りになるのでペダルを漕げば十五分で済む道程を、こうして倍以上の時間をかけて押して帰るのは、学校であったことや家族の話を止めどなく打ち明けて、心の根を絡ませるためである。
「あーあ、一学期の期末考査がもうすぐ始まる、準備何にもしてへん。家の用事が忙しくてそれどころではないわ」と後ろから佳世がため息を交えて語り掛けた。
「今に限ったことではないと思うけど。やる気があれば時間を捻出できるけどな」
と高志は前を向いたまま高い空に向かって呟いた。
「あんたは席順トップやけど、うちはビリから数えた方が早いね。気にせん訳にはいかん」
「なんで今回に限って気になるね」
「進学相談の時、進路指導の先生に、関関同立に行きたい、と答えたら、大学を馬鹿にするな、と笑われた。今の成績では受け入れてくれへん、もっと勉強に励め、と発破かけられた」
「アハハ」
「笑わんといて、目標は高いところに置くもんや。根性で関関同立のどこかに滑り込んだる」
「中三の時もこの高校に滑り込んだる言うてたな」
「その通りになったやろ。高志が決めたから私もと思ったんやけど、担任の先生からその成績では無理やと一瞥されて根性滾った。私は追い込まれたら強いね」
「何度も言っているけど、僕の進学先は京大の法学部や、外務省に入って末は外交官や。日本の代表として世界を股にかけて活躍するね。第二の杉原千畝になるね」
「うちはまだそこまで絞り込んでへん。目標にする人もいいひん」
「目標がなかったら勉強に身が入らんやろな。本当に大学に行く気あるのか? 何度も言うけど、進学するんやったら早く受験に取り組まんとあかんで」
「そんなこと分かってるわな、家庭の事情を解決せんと受験先を決めても勉強する時間がないんや。何回も言うてるやろ!」
つい腹の底から鬱憤を吐き出すように大声を出してしまった。
「どんな事情か分かってるけど、佳世とこは金持ちやから、そんな風に暢気に構えてられるね。僕とこはそんな余裕ない。落ちたら人生終わりや。必死や」
「何にもわかってへんな。暢気に構えているのではないね。両親と話し合ったわけではないけど、自分が家庭で置かれている立場を考えたら決断が付かへんね」
「この間お母さんを見かけたわ。宝塚の男役のような髪型して黒のブレザーに裾広がりのパンタロンスーツ姿で、真っ赤なフェラーリから降りてきた。胸や腕に金ピカの装身具をキラキラ光らせて女優みたいに眩かったわ。とても、でかい高校生の娘がいるようには見えんかった」
「でかい高校生は余分や。可愛い女子高校生と言い直してんか」
「はい、はい」
「その返事は私を馬鹿にしているな。お母んの派手な形は経営している美容室の広告塔になってるからや。広告塔は目立たんと役目をこなしていることにならへん。フェラーリのボディにビュティサロンmitiyoと書いてたやろ。お母んの名は道世や。美容室の宣伝のために人の目を引いとる」
「お父さんは近頃見かけへんけどどうしてるの」
「相も変わらず稼ぎの少ないぐうたらや。朝九時ごろ古びた背広着てルイ・ビトンの偽バッグ脇に挟んで、十年前に買った塗りの褪せたおんぼろ軽自動車に乗って出かけよる。運転席側のドアに木村商事と書いたる。これが一人社長の専用車や。夕方時間を見計らって、疲れた、腹減った、言うて帰ってくる。いっぱし仕事をしてきた振りして帰ってくるけど、あの稼ぎではどうにもならん。うちの家庭はお母んの稼ぎで成り立っているね。夫と妻の稼ぎが逆転している家庭は他にもあると思うけど、うちの場合は家庭崩壊の危機に直面している。お父んに忍耐力があるので、嫁はんに虚仮にされても何とか崩壊を免れている。けど、いつまで夫婦で居られるか心配や。それというのも結婚した動機が、間に合わせ、だったからや。好きになって結婚したのではなかったんや。聞きかじった話になるけどな、お母んは中学生の時から近所の八百屋や小間物屋の配達をして生活費を稼いでいたと言うてた。父親は腕の立つ大工やったらしいけど、酒飲みでおまけに賭け事にのめり込んで、生活費をほとんど家に入れなかったらしい。母親はあちこちに手伝いに出て稼いでいたらしいけど、額は知れたる。子供二人を学校に行かせても給食費は払えなかったらしい。そんな状況なので自分も手助けせんと飢え死にしてしまうと想ってせっせと働いたらしい。中学をお情けで卒業して、近所の美容室の下働きしながら技術の習得に励んだ、と言うてた。学校を出ていないんで手に職をつけんと将来は惨めなものになる、と考えたらしい。資格を八年掛かって取ったんやで。大した根性や。その頃から近辺で評判の美人だったらしい。背は高いし色は抜けるように白いし、彫りの深い顔立ちしている。外人のモデルさん並みや」
「なんで母親に似なかったんやろな」
「なんやその言い方。今は食い気が勝っているねんや。そのうちお母んを飛び越すええ女になるからな。そんなことどうでもええわ。絶世の美人に成長したお母んを店主が放っとくかいな。言い寄られて関係を持ったんやけど、ちゃっかり支店を出させて店長に納まりよった。腕とセンスが良かったし口も達者だったので、本店より繁盛したらしいわ。その頃すでに美容室を六店舗経営する才覚の一端をみせていたんや。経営が順調にいくといつまでも愛人の立場で満足できひんわな。関係を清算するように迫って、独り立ちすると、持ち前の美貌と口八丁手八丁で世を渡り始めたんや。言い寄ってくる男に気のある素振りみせる手口で資金を集め店舗を次々増やしていったんや。危ない橋を渡っているのでどうしてもバックに睨みの利く男が必要になる。店に業務用の化粧品を下ろしに来ていたお父んに目を付けたんや。二十八歳の時だったと聞いている。お父んは三歳下なんやけど、見ため強面で眉が吊り上がり目つきが鋭い。気安く声かけられない雰囲気を醸しだしとる。実際は優男で性格の軟弱な腰抜けや。そこを見抜いて、この恐面は役に立つと判断して入籍したんや。「うちの人は怒らせたらなにするかわからへんで、ちょっとあちら系や」と吹聴する一方で、人目に付かないところでは思うが儘に奴隷のように扱っていたらしい。一人社長に治まってする仕事はお母んが経営する美容室に業務用商品を納めるだけや。他の店に販路を広げる能力なんてないのは承知の上だったと言うてた。経営する美容室に高く売りつけ、利ざやを稼ぐダミー会社でよかったんや。近所では男勝りの凄腕嫁はんに、腰巾着の旦那、とか、金魚の糞、とか、髪結いの亭主、とか揶揄されている。家を三階建ての洋風に建て直した頃から成金として近所の好奇の的になっている。私がその陰で家事に追われて辛い思いをしていても同情してくれる人はいいひん。小さい頃は共稼ぎの並みの商売人の家庭やったから、可哀そうに思って、おやつをくれたし世話焼いてくれたんやけどなあ」
「僕とこも変わった家庭やで、知ってると思うけど。お父さんが家の掃除洗濯料理をすべて引き受けてるね、お母さんの唯一の仕事は二日に一度、お父さんのメモ通りスーパーへ食材買いに行くぐらいや、それ以外は何にもせんでええね。毎日長い時間かけて化粧して、床の間に座ってお父さんの帰り待っているか、いそいそ河原町四条に出掛け、ウインドウショッピングしてくるか、そんな風に過ごしている」
「まあ、いろんな家庭があるわ、だから世の中面白いね」
「此処から道が狭くなるので、気いつけなあかんで」
「思い出した。この間イースターイベントがあったやろ。誘ったのに高志は来いひんかった。その理由解ったわ。私を一人で帰らせて自動車に轢かせ殺そうと企んだんや。危うく難逃れたけどな」
「おい、おい、まじか、なんちゅう難癖付けるね。此処で轢かれそうになったんか?」
「そうや、もうちょっとで命失うとこやった。そのとき高志と静穂の顔が並んで頭に浮かんだ。ニヤニヤ笑み浮かべてた」
「何があったんか知らんけど邪推するな。静穂は派手やから男子の間で目立ってるけど僕は口きいたこともない」
「信用してええんか」
後ろから佳代の自転車が高志の年代もんのチャリンコのバンパーを、返答の真意を確認するようにコツンコツンと二度突いた。
「壊すな! 高校卒業するまでこの自転車に乗り続けるからな」
「じゃあな、バイバイ」
「また明日、バイバイ」
難癖付けて絡まった佳世も、絡まれた高志も、機嫌よく片手を高く挙げ左右に大きく振って笑顔で別れた。
佳世はイタリア産の大理石を敷いた玄関で靴を蹴飛ばすように脱ぎ棄て、長い廊下の突き当りのダイニングに、ドスンドスンと音を立て駆け込んだ。
歳の離れた妹の紗世がチーク材で作ったアールヌーボー風のダイニングテーブルを机代わりにして宿題していた。勉強が好きで成績は優秀だ。髪をポニーテールにしてブルーのリボンで結んでいる。趣味は栞を集めること、ピカチュウのキャラクターを集めること、である。特定の人としか付き合わないので友達は少ない。食が細くやせているが小学四年生である。佳世と八歳離れている。
「お姉ちゃん、あんな⋯⋯」と、紗世がタイミングを計り、声をかけた。
「はい、はい。もうちょっと待ってね、先に夕食の下拵えするからね。終わったら話を聞いてあげるからね」
紗世は可哀想な奴だ。戸籍上では自分とは八歳違いの妹である。が出生に秘密ある。お父んの血液型はAB型でお母んはB型である。佳世はB型なので問題はないのだが紗世はO型である。生まれるはずがない血液型の子を、お母んは堂々と何の憚りもなく産んで、ポイッとお父んに預け育児を任せた。受け入れたお父んは、ミルクを飲ませ、おむつ換えをし、風呂に入れ、可愛い、可愛い、と抱き上げてあやし、愛しみ育てた。紗世はお父んの子ではないと知ったとき、自分なら浮気相手の子を産んだ妻など殴りつけて蹴飛ばし家から追い出すのに、と下げ荒み軽蔑した。しかし我が家の事情というものが大きく立ちはだかった。お母んを失くしたらやっていけないのだ。紗世が小四年生に成長した今となっては曲がりなりにも世の中の仕組みを鵜のように丸呑みし、お父んがそれでよいのなら、と納得している。ただ何も知らない紗世が不憫だ。
紗世の話は、仲の良い友達と栞の交換を巡って喧嘩し、仲直りしたいのだが自分から言い出しにくいのでどうしたらよいか、という悩み事だった。たわいない、小四ならこんなものかな、とお姉さんぶって頭を撫で諭した。
「その子が欲しいと言っている栞をプレゼントする、と言ってあげたら。そうしたら仲良しに戻れるわ。紗世にはもっと綺麗な栞を買ってあげるから」
紗世はこっくり頷いた。悩みを打ち明けて心の重荷が取れ、安堵したのか、甘えた声で、「お姉ちゃん⋯⋯」と言って抱き着いてきた。紗世の温もりが五体を巡った。お母んに抱きしめられているところを見たことがなかったので、その代わりだと思って強く抱きしめた。
佳世は三人分の夕食を作った。お母んが家で子供や夫と食事を共にすることは滅多にない。今夜帰ってくるのかもわからない。お父んと紗世と三人で暗い洞窟の中で蠢いている名もなき虫のような惨めな思いに浸った。
*
今日も佳世と高志は駐輪場で待ち合わせして、下校の途に就いた。
「ええ天気やし、久しぶりに東部公園に寄っていこうな―」と、佳世が誘惑するような甘い声で囁いた。
「うん、寄っていこうか」
高志は佳世が誘うときは憤懣が渦巻いて吐き出したいときだと分かっている。
東部公園の芝生広場にやってきた。五雲峰の裾に設けられた市民公園でテニスコートや野球場、ラグビー場が設けられ児童向けの遊具も設置されている。春夏秋冬市民の憩いの場になっている。
二人はお皿を伏せたような芝生広場の上に足を投げ出して座った。
木洩れ日が芝生に光輪を落としている。名木の枝垂桜がそよそよと風に揺らいでいる。タイワンフウがピーンと青空に突き刺すように伸びている。大木に成長した欅も若葉を繁茂させている。
佳世は深呼吸して家庭や学校と味の違う空気を吸った。家事に追われる日常を忘却するかのように空間に目を泳がせた。
高志は無防備な佳世の頬に愁いを帯びた影が張り付いているのを見た。学校では陽気に振舞って隠匿している影である。
佳世は自分の境遇に苛立っていた。現状では大学進学に向け勉強する時間がない。家事を放り出して勉学に専念すればお父んや紗世の生活が立ちいかなくなる。どうしたらいいんだ。堂々巡りしているうちに腹が立ってきた。突然首を左右に激しく振って、心底に溜め込んでいた日頃の憤懣を吐き出すように静寂の空間にぶち撒いた。
「悪いのはお母んや! 夫や子供を放置して家庭が成り立つと思っているのか! お金さえ与えておけば親の役目は済むと思ってるのか! 家に帰って来ない母親とは何者や、放置するのもええ加減にしとけ。ええぃ、くそぅ」
芝生に落ちていた枯れ枝を掴んで思いっきり投げ飛ばした。
しばし放心していたら、頭脳に樹木の爽やかな香りが浸透してきた。近くに小川が流れているので飛んできた鶺鴒が芝に降り立ってトットットッと胸を張り悠然と歩きだした。
高志は思う。佳世は滅多に口にしないが、ヤングケアラーである。可哀相だが手を差し伸べることは実質的にはできない。精々鬱積を発散させる相手になってやるしかない。
佳世は一時間ほど喋りまくってゴロンと仰向けに伸びた。出っ張ったお腹が小刻みに上下しているので泣いていたのかもしれなかった。
*
佳世が心持を刷新した翌日の放課後、坂の上高校では学内施設の英会話教室でpubquizが開催された。
高志は佳世に気遣いして誘いに応じた。佳世のクラスメート静穂が私も仲間に入らせてほしいと言って強引に割り込んできた。三人でチームを組んでpubquizに挑んだ。チーム名は(jastise正義)と高志が名付けた。
佳世が「堅苦しい名前やなあ。pure・trioに変更してな」と文句つけた。
静穂が「ええやんか、正義を貫かんと」と肩入れした。そして「stickig to jastise」と滑らかな発音で応じた。
佳世が静穂の参加申し出を敢えて断らなかったのは、高志の前で内心を探ってみたい思いが強かったからだ。イースターイベントの際、静穂はハートマークをつけて、高志に似せたイースターエッグを描き、挑戦状をたたきつけたのだ。そのことが頭にこびりついていた。
高志も自分を巡って二人に険悪な駆け引きがあることに薄々気づいていた。
「三年生になったら此処で楽しんでる余裕なんてないんや。今日は一致団結して楽しまんとあかん」と二人の融和に努めた。
英会話専任の講師が第一問を出した。勿論英語である。
List the most popular tourist destinations during Golden Week in order
静穂が(「ゴールデンウイークで人気だった観光地を順に並べてください)と、和訳した。
「簡単や有名観光地を書き出したらええね。まず京都やな」と高志が答案用紙にローマ字表記ですらすらと記入した。
静穂が「「順位をつけなあかん」と訂正を命じた。
頭を突き合わせ、ここでもない、あそこでもない、と意見を交わし、解答用紙うえで時折指が触れ合った。
佳世は鋭い眼つきで微に入り細にわたり窺っていた。
第一門の答えはFirst place is Hakone・ second place is Ūrayasu・ Third place is Kyotoだった。
静穂が一位は箱根、二位は浦安、三位は京都、だったと佳世に向かって和訳したところ、
「そんなこと訳さんでもわかってるわ」と佳世が口尖がらして反発した。
次の問題はLook at the illustration and pick out the right wordsだった。
佳世の様子を窺っていた静穂が「イラストを見て適切な言葉を選びだしてください」と、言っているで。と蔑むような眼つきした。比喩の和訳もしなければならない。静穂の独壇場になった。問題も英語だし答えも英語なので聞き違いやスペルの一文字の間違いで意味不明になる。辞書で確認しながら修正を繰り返した。静穂は積極的に高志に話しかけて意気統合していた。佳世は疎外感を味わい胸が締めつけられて息苦しかった。
出題ごとに回答が明らかになるので、自チームの答えを肯定する歓声が上がったり、間違っていたため、溜息が漏れたりして賑やかだった。
終わってみれば、(jastise)チームの成績は静穂の活躍で四位と好成績修めた。上位三チームに記念品が贈られた。
静穂はスタンデングオブベーションで称えた。立ち居振る舞いに洋式が身に付いていた。
「(jastise)チームのメンバーが最強ではなかったからなあ、もうちょっとで入賞できたんやけど、しゃあないわ。なあ、高志」と視線を絡ませ佳世に下げ荒んだ視線を漂わせた。
佳世は、ブチ切れそうな感情を抑えて、「英語に慣れてへんので足引っ張ったかも」と細い声で詫びた。
高志は、「勝ち負けではない、楽しんだんや」と庇い、二人が険悪な状態に陥るのを避けた。
いつもの帰り道。自転車を押しながら仲良しカップルは心の根を絡ませた。
佳世はすこぶる機嫌悪かった。
「なんもおもろないわ。あいつなんであんなにはしゃいどったんや。高志も一緒になってはしゃいでたな」
「気分転換できた。それだけや。塾に行くので飛ばして帰ろか」
高志はそんな予定がないのに嘘ついて嚙みつかれるのを避けた。
二人は自転車の車輪を風車のように回転させて、うねうねする道を走り抜けた。先頭を行く高志は後ろから追ってくる佳世が家近くの東部公園の外周路に差し掛かった時、さかんに覗きこんでいたことに気づくはずなかった。
その日の夕方、西日が真っ赤に街を染めている中、夕食の下拵えを済ませた佳世は自転車に乗って出かけた。ビニール袋の中に火挟を隠していた。
東部公園の外周路付近まで来ると、きょろきょろと人気を窺いながら奥に入っていった。
お父のおんぼろ軽自動車を見つけた。何にも言わずに火挟を取り出して周りに散らかっているゴミを回収し始めた。コンビニ弁当や飲み物の空き缶、煙草の吸殻、それにティシュが散らばっていた。
お父んは夕闇迫る薄暗い中で目を近づけて本を読んでいた。仕事を終えると図書館で読書するのが唯一の楽しみだった。しかし図書館は十七時に閉館する。追い出されるとこの場所に移動して車を止め、読書の続きをしていた。軽自動車の狭い室内で、誰にも邪魔されない自分だけの空間にどっぷりはまり込んで気ままを楽しんでいた。夜の帳が下りて、家に帰っても家族や近所に顔が立つ時間がくるまで此処がお父んの安心で安全な居場所だった。
佳世はゴミ拾いを終えるとトントンとサイドミラーを叩いた。そこにお父んの顔が映っていた。にっこり微笑んでいた。小さなミラーを通して父と娘が交流した。
「ごみのポイ捨てしたらあかんで」
「世話掛けるなあ、すまんなあ」
「早よ帰っといでや。好きなおかず用意したるからな」
「この章を読み終えたら帰る」
*
中間考査が終わって、一週間掛けて行われた生徒会の役員選挙期間が過ぎた。佳世は立候補しなかったが、人気者なので三人の立候補者から応援演説を頼まれた。その中で、一番早く依頼してきた同組の田中君の応援演説を引き受けた。三組にやんちゃが三人いると言っていた内の一人である。勉強はそこそこできたし目立ちたがり屋で世話焼きである。
放課後に三棟ある校舎の渡り廊下やクラブのボックス前でメガホンを握り声を張り上げた。ユーモアとナンセンスを交えて田中君への投票を呼び掛ける佳世の推薦演説に人だかりができた。
開票の結果、田中君が選ばれた。木村佳代と記入した無効票もかなりあった。
放課後待ち合わせの駐輪場に佳世がやってきた。「あー、終わった、終わった。田中君がお礼やとコーラ二本くれた。気い利くやろ。二本やで。生徒会長は心配りができるもんないとな。応援した甲斐があった」
貰ってきたばかりらしくコーラ二本を愛おしそうに胸に抱いている佳世を見て、高志は可愛い奴だと単純に目を細めた。
「帰りに万福寺の蓮を見に行こうか?」
と高志が誘った。
二台の自転車が縦に並んで登下校路になっている町中の狭い道を走り抜け、住まいする町内まで帰ってきて、唐風の総門の横に設けてある駐輪場に自転車を止めた。総門を潜って右に入り、菱形の敷石を踏んで、蓮が群生している放生池の端に置いてある長椅子に腰かけた。周辺に人の気配はなく巨大な三門が二人の心を透かすように見つめている。
「此処はいつ来ても静かや、空間に心を曝け出せる」
「私も時折ここにきて考え事をしているときがある」
「考え事か。佳世には似合わんな」
「悩みを鎮めたいときもあるわ」
高志が突然父親の話を始めた。心を曝け出せると言ったので何かを曝け出したいのだと佳世は思った。
「お父さんは職場の話はしないけど、いろいろな悩み事はあると思う。なにしろあの性格や、作業の辻褄がきちっと合っていないと承知できなくて声を張り上げ怒るらしい。きっちりしている方がよいのかもしれんけど、正しいとか間違っているとか、数学の答えのように決まっていたら問題ないけど、仕事の成果を巡ってそこに至るまでの方法は幾通りもあると思う。それぞれに考えがあるので反する意見を述べる人もいるはずや。もう少し視野を広げて柔軟性を以て応じないと職場の間関係がギクシャクすると思う。他人の言い分を受け入れるような人ではないからな。僕の父親の日常を聞いても面白うないかもしれんけど、勤め先から帰ってくるとガレージで三十分かけて洗車するね。それから家に入ってくるね。入るなり洗面室で歯を磨き顔と手をごしごし洗うね。今度は自分を洗車するんや。『あー、すっきりした』と笑顔で皆のいる居間に入って来る。休む間もなく流しの前に立って前掛けをして調理師に様変わりする。冷蔵庫開けて母に指示して買っておいた食材取り出し夕食を造り始めるね。手際よいし楽しんでやってる。手間取っても一時間以内につくり立ての手料理が食卓に並ぶんや。その間、母や妹はテレビ見て押し黙って待っている。決して、手伝おうか、と言わない。お父さんの分野に口出ししたら気分を害すると分かっているからや。僕は本を読みながらお腹グーグーならして待ってるね。食事中は料理の出来栄えを巡っていろいろ意見交わす。味付けが薄いとか濃いとか辛いとか甘いとかいろいろ意見が出る。黙って黙々と食べたら『気に入らんのか!』と言って怒るから、なんか出来栄えを言わないといけないんや。引き続いて食後の団欒に移る。家族四人長い時間かけて近頃の出来事を話し合う。それからお父さんは新聞に目を通した後、流しに立って後片付けし、僕らはそれぞれの部屋に引き籠って自分の時間を楽しむ、僕は勉強するけど妹はイヤホーンで流行りの洋楽聞いて楽しんでいるようや。お母さんはどうしているのかしらん。家事一切をさしてもらえないから部屋に引っ込んでお父さんを待っているしかないんやろ。休みの日は一家総出でお父さんの指示通り家の掃除に精出す。屋内が終わったら外回りの草むしりや。お母さんは庭に出てきても、手を汚したり汗を掻くのが嫌いなんで、何にもせんと眺めているだけや。お父さんは手伝えとは絶対に言わへん。それで午前中が終わってしまう。午後はお父さんが運転する自動車に乗って、家族連れだって郊外のデパートへ買い物に行くか、行楽地へ遊びに行く。足伸ばして美山の茅葺きの里や舞鶴港や天橋立方面までドライブに行くときもある。先週の日曜日は天気が良かったので、笠置のキャンプ場訪れてバーベキュウ楽しんだ。家族サービスに徹しているお父さんにそれが押し付けであっても感謝せずにはおられない」
「うちとことえらい違いや。食事の用意は私が中学生になるまでお父んぶつぶつぼやきながらやっとった。大概できあいのお惣菜を食卓に並べるだけやったけどみそ汁は手作りしとった。お母んは仕事に追いまくられて何にもせえへんからお父んがするしかなかったんや。しょっちゅうイライラして私に当たり散らしとった。不機嫌なわけは、お母んの態度にあるんや。働きながら炊事こなしている奥さんが当たり前やったから、お母んが気い利かして『ありがとう、こんなことまでしてもらって』とか言って機嫌とったら不満の幾分か和らいだと思うけど、あんたが甲斐性ないんで私が働いて一家を支えているんや、的な態度で接しているのでもう修正できひん夫婦仲になってしまった」
「僕とこは夫婦仲が良いのか悪いのか、ようわからん。夫婦喧嘩しているところは見たことないけど、なんか打ち解けた関係ではないように思う。お父さんはあんな性格やから、お母さんに口挟ませへん。自分の考えを押し付けて従わせている。お母さんはその方が楽だとみているのか文句言わへん。けど、しょっちゅう河原町四条界隈に出かけるのは買い物ではなく鬱積を晴らす外出やと思う。一見平穏に見えるけど、何かあったら夫婦一致協力して問題に当たるのは難しいように思う。すべてお父さん一辺倒の家や」
「高志はお母さんとしっくりいってないのか? 批判ばっかりしているな」
「相談や頼みごとをすることはまずないな。例えたら床の間に飾ったる着せ替え人形やな。化粧して毎日お召し物を取っ替え鎮座している。お父さんはその姿見てニアケとる。着飾った妻の姿を見て己に甲斐性があるから働きに出ないで済んでいるんや、と言いたげや。それが加茂の社家と言う由緒ある家で育ったお嬢さんを妻にした男の姿や。お父さんが病気か怪我して入院でもしたらどうするんや、と心配するときあるわ。家事一切できないからな。ジャガイモの皮はおろかリンゴの皮もよう剥かへんで。中学生の妹も僕もできるのにな。お父さんがメモした食材をスーパーで買い揃えてくるのが唯一の家族貢献や。時折品切れになっていて代替品がわからなくて父にケータイで問い合わしてる、気を回せない困ったお母さんや」
「私のお父んも困った人や。大きくなった娘に家事をバトンタッチして、木村商事を拡大するために奔走するんやったら文句ないね。それなら私も納得して家事をこなす。でもそうではないんや。時代小説を読んで過ごす趣味の時間を増やしただけや。仕事に精を出さないで読書に閉じこもっている姿を見ていると、生き方について考えてしまう。梅田のおばちゃんが、佳世ちゃんのお父さんは髪結いの亭主や、何にもせんと遊んでいたらええがな、と話していた。お父んの耳にも入っていると思うけど、何とも思っとらへん。その方が楽なんやろな。お母んに与えられた現状に納得し、世間でいう卓越した人間に擬態化して生きとる」
「佳世はお父さんがリーダーシップを発揮しないので嘆かわしいようやけど、僕は佳世のお父さんのやり方でよいと思う。夫婦であってもどちらかが従の立場を取らんと衝突して家庭が成り立たへん。親は家の統率の仕方を知ってるんや。僕と佳世との関係も僕が従の立場にあるから継続しているね」
「一方的にそんなこと言わんといて。高志を随分引き立てているけどまだ不足か」
「そういう言い方するから陰で支えているように受け取れへんね。まあ性格やから仕方ないと思うけど」
「話し戻すけど、お母んは中学生のときから働いとるので、私が家事に追われていても、そんなことは当たり前や、アルバイトせんでも学校に行けるのは誰のおかげや、と言いたいに違いない」
「僕のお父さんは子供の目から見たら余計なことしているように思う。町内の便利屋になっている。台所の排水が詰まった。蛍光灯取り換えてほしい。足が悪いのでコンビニまで振り込みに行ってほしい。頼まれたら否とは絶対に言わへん。この間なんか家庭菜園の土の入れ替えを手伝いに行って上着やズボンをどろんこにして帰ってきた。そんな、ちょっとお人よしのところがあるお父さんや。それでも家族は、余計なことせんでもよい、と文句つけへん。絶対君主やから文句言わせないところもあるけど、他所の家に自己満足という憂さ晴らしに行くのは自由や。着飾って床の間に鎮座しているだけのお母さんについても、本人が納得しているなら、それでよいと思う。実際は憤懣を溜め込んでいると思うけどな。鬱積は好きなことをしていても溜まる。佳世のお父さんも、家庭を放棄して読書に親しんでいるように見えるけど、鬱積を発散させているのだと思う」
「親は捌け口を作って適当に発散せてるけど子供はそういう訳にいかんへん。お母んは私を黙らせるために殺し文句使いよる。『ご飯食べていかんならんやろ』と言われたら黙るしかないわ」
「それでも自己主張はせんとあかんで。黙って従っていたら不満が募ってあらぬことを考えてしまう。家出したろか、と思うときがあると言ってたやろ。家庭内の立場を考えて、黙って犠牲になっていると言っているけど、その考えは間違ってる。将来に禍根を残さないために、大学受験に向けて勉強できる環境を早く作らなあかん。自分で切り開いていかんとだれも作ってくれへんで。親はずるいから子供が切羽詰まるまで放置しておいてやっと重い腰上げるからな」
佳世はおのずと気づいていたことを高志に指摘され確信を得た。自分で自分の道を切り開いていかなければならないと決心した。家庭の事情に流されて、愚痴を溢して、その中で自分を慰めているようでは、無駄に時間を過ごしているだけで、将来を没にしてしまう。積極的に取り組まんと同世代のみんなに置いていかれる。高志が言ったように禍根を残す。
長い時間かけて昏々と説得された気がした。自分の父親の話しから始めたのは高志らしいと思った。すべてが父親から始まるのだ。
心持を新たにして万福寺を出てほんの数分のところにある自宅に向かった。
目の前に規則正しく区画された三十軒の住宅が現れた。
それじゃ明日、バイバイ」
「バイバイ」
佳世は高志の心遣いを重々噛みしめて自転車を自宅のガレージに収めた。玄関に靴を脱ぎ捨て廊下をドスンドスン音立ててダイニングルームに飛び込んだ。今夜こそお父んと進学について話し合い、お母んに連絡とって承諾を得なければならない。意気込んでいたところ紗世の様子がおかしい。
「お姉ちゃん、頭がくらくらする。熱があるみたい。寒気がする」と、縋るように訴えた。元気がなく声音も弱々しい。
「いつからや、今朝は如何もなかったんと違う」
「給食食べていたら味が変、風邪引いたのかもしれん」
佳世は慌てて体温計で熱を測った。三十九度あった。インフルエンザが流行しているので、病院に連れて行った方がよいと思うが、その判断を仰ごうとしてお父んのケータイに電話した。
「忙がしい、お前が病院に連れて行け」と、にべもない返事した。
「何が忙がしいや! 仕事は終わっているはずや! 図書館で暇つぶししているだけやろ! 親の役目を放棄する気か! 進学の事で相談したかったけど、止めた」
猛り狂ったがそれ以上は言えなかった。紗世を突き放す気持ちはわからんでもない。
お母んに電話した。
「紗世が熱をだしてる、インフルエンザに罹ったんかもしれん、帰って来てくれへんか。別に私の進学のことで相談したいし」
「今、名古屋にいるね、ホテルの人と商談中や、ビューティサロンmitiyoが東海地方に進出する大事な会談やから途中で放り出して帰るわけにはいかへん。佳世が連れて行って。それから、相談て⋯⋯どんなことや、急がへんやろ、帰ったときに聞くわ」
「自分の子供やで! 商売を優先して紗世の命を犠牲にするのか! 私のことは後回しにするんか! それでも親か!」
「何をそんなに怒っているね。子供が大事なことは分かっているけど、御飯食べていかんとなあ」
「またそれを言うのか! わかった、もう頼まへん!」
お母んにも猛り狂った。名古屋に居る、とぬけぬけ言ったけど、怪しいもんや。仮に本当だとしても、新幹線に乗ったら一時間で帰って来られる。
こうなったら仕方ない。自分が紗世を病院に連れていかなければならない。マスク掛けさしてヘッドギアで頭覆って自転車に乗せ、病院に向けガムシャラに走った。タクシーを使う手もあったが、もしインフルエンザに感染していたら迷惑かけるので止めた。
到着して、受付に駆け込んだ。
「熱のある人は病院内に入らないでください。玄関の外に待機する場所があります。目印に赤色のコーンを置いてあります。そこから病院に電話して係の者が伺うまで待機してください」
受付事務員が汚らわしそうな目つきで、距離を置いて指示した。
風の強い日だった。吹きっさらしの玄関横でケータイを取り出して、症状を詳しく告げ、五分ほど待った。
年配の看護婦がめんどうくさそうにやってきて、赤いコーンの傍に設けてある六畳間ぐらいのプレハブの建物に押し込んだ。ドアに隔離室と書いてあった。人工色彩も飾り物もない殺風景な部屋だった。壁際で大型の空気清浄機が稼働音を響かせていた。天井の空調が微風をそよそよ送っていた。神経質な紗世は何事が始まるのかと怯えて肩をすぼめ身を固くしていた。
若い看護婦がやってきて、紗世の脇の下に体温計を突っ込んで測ったのちに、綿棒を鼻孔に突っ込んだ。同伴者の佳世も同じ扱いになった。
「検査は直ぐ判明します。結果が出る迄この部屋から出ないで待っていてください」
紗世が両手伸ばして縋りついてきた。抱きしめたら震えていた。
狭くて薄暗いプレハブの部屋で三十分間待った。発熱内科で医師の診察を受けた。
「キットの検査では陰性でした。安静にしておれば回復します。ただし検査を行った時期が早すぎたかもわかりませんので、容態が思わしくないようでしたらもう一度来院してください」
先ほどの看護婦が残念そうな顔つきで佇んでいた。
栄養剤と解熱剤を処方してもらい帰ってきた。
翌日の朝。始業時間前に小学校に電話して症状を伝え紗世を休ませた。
「お父ん、今日は出かけたらあかんで。美容室の巡回を一日飛ばしても差し支えないやろ」
「今な、山本周五郎の「牡丹花譜」読んでるね。初々しい十七歳の乙女に恋い慕われる若武者がいるね。後の城主⋯⋯いやこの先は読んでへんのでわからん。続きが楽しみや」
「本と紗世とどっちが大切なんや!」
「分かっていることを聞くな。俺の気持ちを支えているのは紗世と佳代や。言う通りにする」
「ちゃんと様子を見てなあかんで、おかしかったら病院に連れて行くんやで。昼ご飯も作ったらなあかんで。約束できるな」
「ああ」
紗世は登校する佳世の手を掴んでなかなか離さなかった。諸状況から判断して高校を休んで当然だったかもしれない。しかし高志に、今、何をしなければならないのか、と昏々と説教されたことが頭にこびり付いていて、休めなかった。
バタバタと身支度して学校にすっ飛んで行った。一時限目のカリキュラムが終わったところで家に電話した。
お父んが電話に出た。
「紗世はよう眠っている。薬が効いて熱は下がったようや。体温計で確認したら平熱やった。顔色に赤みが差してきた」と答えたので安堵して胸なでおろした。
二回目の連絡は昼食を食べに食堂に行く途中で入れた。
紗世が細い弱々しい声で電話に出た。
「お父さんは出かけた。直ぐに帰ってくると言ってたけどまだ帰ってきいひん。お腹空いてきたのでパン焼いて食べる。心配せんでもええで、紗世は大丈夫や」
佳世は食堂のテーブルについても頬に涙が伝って止まらなかった。眼鏡かけているし念のためにマスクしてきたので、みんなに気づかれないと思っていたが、高志がトレーにお父さんが作った弁当乗せて隣の席に座り、佳世を一瞥して、「なんかあったんか?」と訊ねた。
紗世の身に起こった一件を泣きながら話したら、「帰れ! 直ぐ帰れ! そんな気持ちで授業受けても頭に入らへん。紗世ちゃんが心配や」と強く指示した。
早退届を出して職員室から出てきたら、高志が待っていた。
「スピード出すなよ、狭くなるところは気をつけろよ」
高志の心遣いが身に沁みた。涙が出て顔が歪んでみえた。
自転車を飛ばして自宅に戻ってみると紗世はパジャマ姿でダイニングテーブルに両肘を突いて、両手を組み合わせ、その上に顎をのせてテレビを見ていた。体温を測ったら平熱だった。一安心していつものようにベランダに干してある洗濯物を取り込み胸の前に抱えて降りてきた。折り畳んで箪笥にしまい込んだ後、演歌を口ずさみ夕食の下拵えに取り掛かった。懲らしめのために、お父んの分は作らないでおこうかと思案したが、「俺の気持ちを支えているのは沙世と佳世や」と煽てた言葉が怒りをかろうじて鎮めた。
食卓について、椅子を引き寄せ、唇をわなわな震わせて礼を言った。
「お父ん! 今日はありがとう。紗世の世話してもらって!」
返事は返ってこなかった。なんで私がお礼を言わなければならないのか、逆ではないか、こんな無責任な父親に進学相談する気が起こらなかった。
*
今日は坂の上高校の学校行事の一つ遠足の日である。神戸へ行くことになっている。その前にしておかなければならないことがある。紗世をいつも通りの起床時間に起こして食事を済ませ集団登校の集合場所に手を引っ張って連れて行った。ふらふらした足取りが気になったが母親を代行しているので甘い顔するわけにはいかなかった。
バタバタと着替えていつものように自転車を必死に漕いで登校した。校門前に観光バスが待機していた。
同じ二年生の遠足でも高志のクラスは神戸ポートアイランド、佳代のクラスはハーバーランドになっていた。
目的地に着いた後は自由行動なので、高志はクラスメイト六人と水族館atoaに入館した。煌びやかな人工光線に晒されて魚や水生植物やサンゴは生かされた標本になっていた。元来、自然派なのでこの環境は馴染まなかった。ざっと一巡した後は岸壁に座り沖を行き交う船を眺めながら語り合った。
「此処は空気が違うな。塩の匂いがする、耳をくすぐるノイズも違う」
「あの沖を行く船は外国から来たのか、それとも出て行くのか、船を見ていると夢が膨らむな」
「僕らの普段の生活は山の中の穴倉に籠って息を潜め、外界に飛び出すチャンスを狙っているようなもんや」
「高二になったんや、バックパッカーになって、世界に飛び出していくか」
「訪れた国の実情は想像していたものとかなり違うらしい。西側のプロパカンダによって見識が歪められていたんや。自分の目で把握してこそ真実を理解できるのだ」
「大抵の親は政府や企業に騙されて子供を養育する真意を見失っている。就職先を安定と繁栄を基準にして推薦してくるようでは、どうにもならん」
「僕らは自分の目で社会の実情を見て、何が求められているか確認してから、大学や学部を選んだらよいと思う」
「そうやな、学ぶ意義を得ると勉強に熱が入るな」
「平和な時代であっても、階級闘争でしのぎを削って、敗者を死に至らしめている」
「指導的立場を勝ち取った人は自分を守る方策を立て、自分の有利な方向に誘導して、従ってきた者を分身のように扱い取り立てていく。そうやって城を築いて城主になるんや、そんな世の中やで」
「将来進むべき方向をいろいろ考えたけど、僕は公務員志向や。民間会社は不安定だし国家公務員は家を離れる公算が強いので親を抱えている僕は地方公務員を選択する。宿舎に住んで家族を養っていければそれでよい。大きな目標を掲げたところで、生きる年数は定まっているんや」
「僕は建築家志向や。歴史に残るような建造物を建てたい。丹下健三さんが目標や。東京都庁舎や草月会館の写真を見た。フジテレビ本社ビルの三十二メートルもある球形の展望台を見て発想の豊かさに惚れ込んだ。大学で勉強してまず一級建築士の資格を取る。能力に限りはあるけど精一杯努力する。山猿では終わりとうない」
「僕は歯医者さんになりたい。無理やと親は笑っているけど、手先の器用さを生かした職に就きたい。能力的に駄目なら木工職人になる。東北に渡って就業し、こけしを作る」
「僕は外交官になる。赴いた先で国の担い手になって尽くしたい。正論は暴力によって封じられてはならない。赴任先で母国を捨て亡命する外交官も居るが、命を託すのは覚悟の上や」
「けれど現実は厳しいで。僕はアニメーターになる。夢の世界はアニメの映像の中で焼結する。映画館を出て自動車が疾走している騒音の渦の中を、夢遊病者のように彷徨いながら帰ることになる。家の玄関戸を開け、母親の顔を見た途端に現実に戻る。それでよいのかもしれんけど、つかの間の夢世界に導く仕事に就きたい。悩める人を一時的にせよ救えるのでやりがいある」
その頃、ハーバーランドでは佳世と静穂がモザイク観覧車に乗って内面を波立たせていた。二人切りになるのは気乗りしなかったが、強引に誘われて乗ってしまった。
「順番待ちせんとゴンドラに乗れてよかったな。あれ六甲山と違うか」
と、佳世が山側の風景を見ながら語りかけた。
「みんなはファッションに興味あるからそっちに行たんと違う。神戸大橋が見えてきた」
静穂は海側の風景を見ながら返事した。
二人が目を向けている方向は反対だし、会話はかみ合わず、途絶えた。ゴンドラは重苦しい雰囲気を内包しゆっくり回り、頂点を越えた。小さく見えていた建物が大きくなってきた。
「佳世、私な、高志君に手紙を書いて渡したんやけど返事きいひん。私を如何思っているのか聞いてくれへんか」
胸の前で両腕をⅩに交差させて、ジーと覗き込んでいる瞳は熱を帯びてメラメラ燃えあがっていた。
突然静穂に告白された。すでにその気であるのは分かっていたが、咄嗟だったのでどのように返事してよいのか、言葉が喉に閊えてしまった。心拍がドクドク音を立てた。
ゴンドラがプラットフォームに近づいてきた。到着する直前はスピードが速まる。係員の姿が見えたと思ったらドアが開いた。
静穂はさっと飛び降りてデッキの階段を駆け降り一目散に近くのアンパンマンミュージァムに駆け込んだ。
捨てられ取り残された佳世はみんながたむろしている岸壁に向かってゆっくり歩いた。胸の動悸は鎮まらず足が左右にふらついた。
「佳世! どうしたん」
クラスメイトが心配そうに近づいてきた。
無視して岸壁に廊下座りして寄せては返す波に目を落とした。
「変な佳世。さあ、umieへ行こう。ファッショングッズ漁ってカフェでコーヒー飲んで楽しもうな。神戸まで来たんや」
「行かへん、此処で海見てる。放っといて」
クラスメイトが佳世の両手を引っ張って立ち上がらせようとした。が、お尻が上がらなかった。
「あかん、重い、一トンあるからな」
「何が一トンや! みんな私を馬鹿にして!」
いつもの冗談が通じなかった。クラスメイトはジリジリ後ずさりした。そして目配せして佳世を残しumieに向かって駆けていった。
*
楽しかった、とはいえない遠足が終わって十日経った。静穂に宿題を出されて気の重苦しい日々が続いていた。
〈手紙を渡したのでその返事を聞いてほしい〉と告白されたことをまだ高志に打ち明けていない。無視はできないし沈黙していても解決にならないことは分かっている。しかし今できるのは沈黙だけだ。高志が静穂の愛の告白に応じるとは思えないが、手紙を渡せば読むに決まっている。動揺して心がぐらつくかもしれない。かといって破り捨てるわけにはいかない。高志を奪われたくない、その一心であった。大学進学について両親と相談しなければならないのだがそれも吹っ飛んでしまい、もだえ苦しみ解決策探して足掻いた。
自転車を押して帰る仲良しカップルが心の根を絡ませる時間になった。
佳世が後ろから声掛けした。
「今度の土曜日に嵐山へ遊びに行かへんか、考査終わったことやし」
と、心底をカムフラージュして誘った。
「うん、行こうか」
考査が終わったので二人とも気分がオープンになっていた。
二日後の土曜日。朝九時ごろ、自宅から歩いて十分足らずのところにあるJR奈良線黄檗駅の上りホームに高志と佳世が現れた。
高志はありふれたブルーのジーンズに、着こなしたモスホワイトの長袖ポロシャツ姿である。胸のところにニューヨークのポロチームの名がプリントしてあった。足元は通学用のスニーカー履いていた。背負っているリュックサックは緑色のGTマークの入ったホーキンス。佳世はブラックのニットデニムパンツにブラックのジップアップタイプのパーカー着用していた。胸元からオフホワイトのTシャツを覗かせていた。リュックサックは皮革のブラックである。ブランド品に違いない。多分母親の物を勝手に持ち出してきたのだろう。足元はナイキの白のキャラバンシューズ履いていた。
ちょうど滑り込んできた四両編成の普通車両に乗った。やっぱり時刻ギリギリセーフ。車内は観光シーズンに入っているので混雑していた。およそ二十分でJR京都駅の十番線ホームに到着した。降車して乗客の流れに混じり、南北連絡橋に上がるエスカレーターに乗った。奈良線ホームは南の端っこにあるのでそこから北西の方角にある嵯峨野線(山陰線の園部迄の愛称)のホームまでかなりの距離がある。混雑しているので通行人とぶっつからないように注意して歩行し、ゼロ番ホームに下りるエスカレーターに乗った。下りて右に向かえば正面改札口、左に向かえば嵯峨野線と関空線のホームである。
「ちょっと、ちょっとあの子見て」佳世が高志の袖を引っ張った。
前を小学三年か四年生ぐらいの男女児がちょこちょこ歩いていた。
男の子が、左手で女の子の右腕の袖をしっかり握ってはぐれないようにリードして歩いていた。
「手を握ったらよいのに」佳世がほほ笑んだ。
「照れくさいんや、男子はそういうとこがある」、高志は自分に照らし合わせて答えた。
大人の足の流れに合わせて小走りで歩行している児童は、清潔な服装して白いスニーカーを履き黒の星印の入ったヒップアップキャップ被っていた。リュックは佳世たちの物より小さいがパンパンに膨らんでいた。
「あんな年頃からデートするんや、近頃の小学生はませとる。妹の紗世も好きな彼がいるみたいやからな」
佳世は自分たちが同年齢であった頃を棚上げしてニタニタしていた。高志との付き合いはデートという感覚ではなかったのだ。
嵯峨野線の列車内は観光客で込み合っていた。
「ちょっと、ちょっと」佳世がまた高志の袖を引っ張った。
「あの中年男の手を見て、女のお尻を撫でとる」
黒っぽいビジネススーツを着た頭髪の薄くなった男が同じく黒っぽいビジネススーツを着た長い髪の若い女性を抱きかかえるようにして腰に手を回していた。
「あの女、あんなことされても嫌がってへん。不倫や。服装がビジネススーツ、となっているところが臭い。休日出勤する振りして家人を騙し出てきたんや」と佳世は鋭い眼つきで吐き捨てた。
嵯峨嵐山駅で学童の二人連れも、怪しげな男女の二人連れも、仲良し高校生カップルも下車した。
佳世は駅を降りたところでサンドイッチとコーラとソフトクリームを買った。行楽地に来るとソフトクリームを食べながら歩くのが佳世のスタイルである。高志も買ったが手に持っているだけで食べ歩きはしない。行楽客の流れに乗って一群の魚のように渡月橋を渡り中之島公園のベンチに腰かけた。
「風がそよそよ渡って気持ちええな。青空に白い雲がポカンポカン浮かんでいる」
高志は胸を反らして大きく深呼吸した。
「今日は天気いいし、新緑が鮮やかや」
と、言いながら佳世はじっと高志の手元を見詰めていた。
「ソフトクリーム食べへんの」
「これから食べる」
「私、もう食べてしまった、半分でええし」
「小さいころ思い出すわ、そうやってよくおやつのお菓子盗られた」
「変なこと覚えてるな」
「盗られたもんはいつまで経っても覚えてるね」
高志が幼少期の出来事を語ったので、佳代も振り返った。高二になって、十七年間続いてきた交際の別離が見えてきたように思う。高志とは進学先が違うのだ。来年三年生になればはっきりしてくる。高志は京大の法学部を佳世はどこかの大学を受験しそれぞれの道を歩むことになる。そう考えるとなんか切ない。
高志の食べさしアイスクリームを食べながら遠くを眺めるように、過ぎし幼かった日々に眼差しを漂わせた。
「あれっ、あの子、電車で一緒だった子と違う」
「うん、あの子たちや」
川べりにシートを広げて食事している子たちに目が留まった。向かい合ってちょこんと座りお菓子を一杯広げて楽しそうに語り合っていた。
「イヤー」
佳世は吹き出しそうになって口に手の平をあてがった。
「あの女の子、男の子にお箸使ってお弁当を食べさせている。頷いているので、おいしいか、味は如何や、と訊ねているんや」
「あれ、ええなー 佳世にあんなことしてもらったことないわ。いつも盗られてばかりやった」
「またそんなこと言う」
「あの年ごろやから可愛らしくて微笑んでみてられるね。何処へ消えたんか知らんけど、あの怪しげな二人連れも、あの子らの年ごろやったら抱き合っていても微笑んでみてられるね」
「そういうことやな。高校生になったら、してはあかんことや」
駅前で買ったサンドを食べ終わった頃、高志が突然佳世に向き直った。
「頼みがあるね。静穂から手紙貰ってるね。返してくれへんか」と口元をティシュで拭きながら、普段の話し方で頼んだ。
佳世は高志の方から持ち出してくるとは予期していなかったのでドキッとした。
「自分で返したらええね」と自身の心境を隠して探るように小さな声で言ってみた。
「静穂は佳世と同じクラスや、僕は同じクラスと違うので会うきっかけをなかなかつかめへんね。今日返そう、今日返そう、と思ってタイミング測る毎日を続けて来たんや。多分男女の関係を意識して普段通りの素直な態度取れへんね。いつもザックに忍ばせていて、もう一月近くになってしまった。同じクラスの佳世に返して貰ったらよいとわかっていたんやけど、こんなこと初めてやし、佳世と静穂の仲が一層険悪になると思って頼みづらかったんや」
「返事を書いたんか」
「いや、静穂の手紙を読まんと突っ返すね。読まんでもどういうことが書いてあるのか想像つくしな」
「今日持ってきてるの」
高志は角が丸くなった封書をザックから取り出して渡した。
佳世は高志が静穂の問題で、こういう方法で返事した、と受け取った。
二人は渡月橋を渡り直して保津川に添って亀山公園に向かった。公園の上り坂で佳世が手を差し出したので、高志が自然な手つきで握って展望台まで上がった。
デッキに立つと運よく眼下に見える保津川を遊船が通りかかった。亀岡に向かうトロッコ列車も車体をゆさゆさ揺すりながら走っていった。
高志は佳世の柔らかくてふっくらした手の感触から伝わってくる脈を研ぎ澄まして聞いていた。十七歳になったのだ。心も体も成長している。おそらく同じ大学に進むことはないので、離れ離れになれば心の繋がりも遠ざかっていく。確実に言えることは高校を卒業するまでは繋がっているということだ。それは一年半ほどの束の間の期間でしかない。過ぎていく時間がいとおしい。
展望台を離れ、竹林公園の小径に入っていった。竹の葉が風でこすれあってサラサラたてる音を聞きながらそぞろ歩いた。野宮神社まで来たとき、着物を着た二人連れを乗せた人力車とすれ違った。脇によけたら乗っていた女性がニコッと微笑んだ。天竜寺で庭園と障壁画を見学した後、混雑する人波に押されるように降り立った駅に向かって歩いた。手は繋いだままだ。
今日まで二人が大っぴらに付き合えたのは、両方の両親から咎められなかったことや、町内のおばちゃんたちが好意的に見守っていたことが大きな理由になっている。町の噂の出所になっている梅田のおばちゃんによると、高志の父親は「佳世ちゃんはどんな子かよく知っている。間違ったことにはならへん」と答えていたそうだ。人に頼りがちな息子の性格を熟知して、同じ付き合うなら信頼できる佳世にと、という思いがあったとみえる。一方、佳世の両親は年頃になった娘を気にはしていたが、自身の夫婦仲がうまくいかなくなって別居状態になり、咎めるどころか放置するしかなかった。
*
今日は六月二日、木曜日。夏服に衣替えしたので教室内のイメージが一新した。
耳鼻科の検診があった。佳世は保健室への移動のどさくさに紛れて静穂に近づいた」
「高志がこれ返してくれて頼んだので預かってきた」
「開封してへんな、佳世が読むなと指示したんか」
上目遣いになり憎しみでめらめら燃え上がった眼で睨んだ。
佳世はムカッとして声を張り上げた。
「高志は勉強に集中したいね! 邪魔せんといて!」
「あんたに言われとうないわ! 付きまとって邪魔しているのは佳世や!」
周囲にいたクラスメイトが一斉に眼差しを向け注目した。この時、担任が保健室に入る順番の点呼を始めなければ、取っ組み合いの喧嘩していたかもしれなかった。
下校時間になった。仲良しカップルが心の根を絡ませた。
「高志! 返しといた、静穂は泣いてたわ」と嘘ついて様子窺った。
少し間があった。
「本当は自分で返さなければいけなかったんや。ちゃんと静穂の眼を見て返したなら納得したと思う。佳世を介して手紙を返却した意味を、どのように受け止めてくれたか、に掛かっている。僕には佳世がいるので、と突き放したんや」
佳世は感激して目が眩んだ。それでもしっかりと自分の気持ちを表した。
「静穂には折を見て話しとく。このままでは私の気持ちもすっきせえへん。おそらく小さいころからの慣れ合いを知らんと思う。諦めが付いたら良いけどなあ。この学校は女子が多いので、男女間にまつわるドロドロした話はしょっちゅう飛び交っている。思春期の男女が一緒になって学んでいるね。起こるべきものが起こらへん方が問題や。要は乗り切り方や。妊娠した子もいるし悩んで不登校になった子もいる。大人になる過程でクリヤーしなければならない関門やと思う。ちょっとお姉さんめいた言い方をしたかもしれんけど」
「今度のような問題が起こったとき両親にはなんか気まずくて話せへん。佳世が居てくれので解決できた。この機会に言うとくけど二人三脚で、将来の頂点目指して駆け上ろうな」
佳世はジーンと胸に込み上げてくる高志の愛の告白を聞いた。直接的な言葉を避けていたので一層深く浸透した。高志に抱きしめられて天空に舞い上がっていくような気分だった。
その日の夜、夕食が終わってから佳世はお父んと向き合った。頭の溶鉱炉は熱く滾っていた。「二人三脚で将来の頂点目指して駆け上ろうな」といった高志が何を指したのか判然としていた。頂点に達する前段階に横たわっている問題を解決しなければならない。
「お父んに頼みがあるね。大学進学について相談する懇談会が十三日から始まるね。都合の良い日を予約して行ってくれへんか」
「そういうことはお母さんに頼んでみたら」
「お母んは現在行方不明や、どこに居るのかわからへん」
「忙しいからな。ケータイで呼び出したら帰ってくるやろ。懇談会てどんな話をするんや」
「本人と親と先生が三者会談するね。私は進学希望となっているから、どこの大学やったら入れるとか、そのためにはどのような準備をしなければならないとか、学費の問題含めていろいろアドバイスしてくれるね。うちはこのまま放っておかれたらどこの大学にも行けんようになる。宙ぶらりんで卒業することになる」
「お父さんは懇談会に行っても、娘の進路を決める何の権限もないので行ってもしゃあないと思うけどな。佳世は今の高校を自分で選んで入学したんや。お父さんは何の相談も受けてへん。大学も同じように自分で探して行ったらええね」
「あのときは、中三になっているのに家事押し付けて放っておくから自分で探さなしゃあなかった。(本当は高志に追随しただけ)大学はそんなわけにはいかへん。受験にお金が要るし、受かっても多額の入学金を収めんならん。年間の学費も高校のときと比べものにならないほど多額や。総額いくらかかるか知ってるのか」
「お父さんは用立てするお金を一円たりとも持ってへん。だからお母さんに頼めて言うてるね。心配せんでもあいつは都合付けよる」
「お金の問題だけと違うね。子供を大学に入れる親の心構えも必要なんや。印象を良くして、内申書に責任持って木村佳世を推薦します、と記入してもらわんとあかんね」
「しゃあないな。そこまで言うんやったら都合つけるわ」
「本間か? 本間やな。ウワー ウワー 頼んだ甲斐あったわー」
佳世は興奮して涙で顔をくちゃくちゃにして抱きついた。
二階の寝室に引き上げるお父んの後ろ姿に階段の下から合掌してお辞儀していた。
妹の紗世が近づいてきて後ろから抱き着いた。
「あんな、お姉ちゃん。お父さんは口だけや」
紗世は高熱をだして寝込んでいたとき、すぐ帰ってくる、と言って出かけてしまい、放置された。昼時になってお腹空いてきたので自分でパンを焼いて食べた。あれ以来お父んと口を利かなくなった。
「紗世に言っとくけどな。心を込めて頼んだら、ちゃーんとしてくれる。親とはそんなもんや」
「それは他所の親や」
紗世がここまで言ってのけたので衝撃が走った。風邪引いて寝ていた時のお父んの仕打ちが脳裏にこびついているのだ、と思った。
「あの時のことを恨んで言っているのかもしれんけど、働いているので仕方なかったんと違う」
「お仕事を休んで私に付き添っていてほしかった。大したことなかったけど一人で寝ているのは寂しかった」
「お姉ちゃんに言っているのか」
「お父さんに言っているのや」
お父んにしてみれば紗世の熱が下がったので、部屋に一人ぼっちにしておいても大丈夫だ、もう小四や。と判断して出かけたのだと思う。当時はそんなことをしたお父んに腹の中が煮えくり返って、やるかたない思いをしたのだが、今日は違う。懇談会に行くと親らしい態度を見せてくれたので見方を切り替えた。自分でも単純やなあ、と呆れたが、それほど嬉しかった。
*
今日は蒸し暑い。汗が納豆の糸のようにねばねばする。もうすぐ梅雨入りだろう。
懇談会が始まった。生徒は前日に大掃除して父兄を迎えた。
授業は午前中で終わったので。仲良しカップルが自転車押しながら心の根を絡ませる時間がいつもより早くなった。
「高志、塞ぎ込んでいるな。なんかあったんか」
「僕のライバルの服部君を知ってるやろ。あいつが羨ましいね。模擬テストの成績が抜群に良いのでどんな勉強方法してるのか訊いてみたんや。そうしたら学校の授業だけではこんな良い点数取れへん。毎夜進学塾に通っている。その成果が出ている。国公立大に進学するものはこれぐらいせんと受からへん、とはっきり言った。二年生になって行き始めたそうやけど土日以外毎日通っているらしい。塾と学校では勉強の内容がまるっきり違うので最初は戸惑ったとも言っていた。教科書の予習復習ではなくセンター試験の内容に基づいた勉強するので実践的なんや。知識を詰め込んでおけばよかった時代から応用問題に重点が置かれるようになって内容が様変わりしているようや。英語のリスニングでは聴解力がないと答えを出すのはむつかしいらしい。そんなことは塾に通って初めて知ったといっていた。塾では過去のセンター試験の内容を吟味して徹底的に分析して次年度の出題を探るんや。最新の情報は進学塾に通っている者は得られるが、通っていない者は知らずに、受験に挑戦することになる。学校の進路指導の先生が得ている情報と比べて、進学を専門にしている予備校や塾の情報量は桁違いらしい。また、学校の先生は確実に進学できる大学を推薦する傾向がある。塾では多少無理があっても挑戦するように指導するらしい。僕の場合、京大の法科を止めて他の法科大学にしとけ、というかもしれん。それでは夢が叶わない。どこの大学でもよいのと違う。僕も服部君が行っている進学塾に行きたい。けど家にお金がないのは分かっている、無理を頼めへん」
「それで元気ないのか。私は勇気だしてお父さんに相談すべきや、と思う。お金がないと突き放されたら、週一の現在の塾と学校の授業で頑張るしかないやんか。肝っ玉座ったら前向けるわ。誰でも好条件を求めるけど、逆境に耐えて合格したら、恵まれた環境下で合格した者が体験する喜びの倍になって返ってくる。けどな、お父さんは高志の願いを無下にしいひんと思う。心底に溜めていては前に進まへん。あかんで元々や。体当たりすることや。私が一緒に頼んであげよか?」
「自分の事や、助けを求めずに一人で当たってみる。僕は家の経済事情を気にしすぎるのかもしれん」
「私は私立校選抜試験を受けることにした」
「佳世みたいに、家庭の事情があるにしろ、塾に行かんと、大学受験に挑む者はまれや。早く受験する大学を決めて対策を講じんとどうにもならなくなるで。何回も言うけど」
佳世は二年生になるとクラスメイトの眼の色が変わってきたことに気づいていた。進路先を同じくするものが集まってはひそひそと受験の情報交換していた。佳世もその中に入っていなければならないのだが、輪の中に入ることはできていない。
刺激を受けて帰宅し、お母んの携帯に連絡した。
「お母ん、佳世や」と言っただけで、「後にしてんか、今忙しいので手が空いたらこっちから電話するわ」とプチッと切った。
ダイニングテーブルに突っ伏して途方に暮れていたら、紗世が背中を上から下に何度もさすってくれた。慰めているつもりらしい。
「なあ紗世、お姉ちゃんはいったい誰に相談したらよいんやろ。お父んは懇談会に出席すると言ってくれたけど、おそらく先生の提案を聞いて、頷いているだけで、自分の意見は言わない気がする。どう思う」
「私とこは特殊なんや。親に放ったらかされて子供だけでうろうろ(右往左往)しながら生きている家庭や。気楽でええやんか」
こいつ、なんちゅうこと言うね、小四のくせにやけくそになっとる。
*
懇談会の最終日。
下校時間になった。仲良しカップルが自転車押しながら心の根を絡ませた。
高志が前から語り掛けた。
「お父さんが、今日の最終懇談会で担任の先生に進学塾に毎日行かせると約束してくれた。僕が膝詰め談判して塾に行かせてくれと頼んだ甲斐があった。先生は学校の役割と塾の役割について詳しく説明した。お父さんはかねがね週一の塾通いで京大合格は無理やと考えていたらしい。いくらこの学校で成績が一番でも、それは学校内の評価に過ぎん。国公立大学に多数生徒を送り出している私立高校と比べたら、この学校の成績一番は何の意味もなさない、とはっきり述べた。先生は、受験生は進学塾に通って、受験に精通したプロ集団の指導の下で勉強に励んでいる、と塾通いを推奨した。個人の能力もさることながら受験テクニックを駆使して狭き門に挑む時代なんや。僕もその方法で挑むことに決めた。世の中の倣いに従う」
自転車を押すスピードが今日は違っていた。迷いが吹っ切れて活力が漲っていた。後を行く佳世は元気なく俯いてとぼとぼ歩いていた。佳世の願いは叶えられなかった。お父んは約束した日に来てくれなかった。高志のお父さんは二度も足を運んでいるのに。紗世が言った通り「お父さんは口だけや。放ったらかしにされて子供だけでウロウロしながら生きている家庭や」が正しかった。
うちのお父んは何を目標に生きているんやろ。仕事と言えばお母んが六店舗に拡大した〈ビューティサロンmitiyo〉の一店一店を犬がおしっこでマーキングした縄張りをクンクン鼻を鳴らして辿り、不足している化粧品をチェックして電話で注文する。それだけが仕事である。楽と言えば楽だが、やりがいがないので憤懣が滾っていると思う。火山はマグマが溜まれば爆発する。捌け口が必要なんだがお母んはお父んが置かれている立場をどのように考えているのかさっぱりわからん。
いつものように夕食の下拵えをした後、火挟みをビニール袋に隠して自転車に乗った。
日が長くなったので十九時を過ぎても明るい。
公園の外周路に入る道路に缶コーヒーの空き缶やスナック菓子の空袋が無造作に捨てあった。火挟で摘まんでビニール袋に回収した。ベンチの周辺には煙草の吸い殻が捨ててあった。それらを回収してから、お父んの薄汚い軽自動車に近づいた。父親に会おうとしても、近づいていく序章がないとたとりつきがたいのだ。お父んの軽自動車の周辺には相変わらずゴミが散らかっていた。鼻をかんだティシュがいつもより多く捨ててあった。拾い上げてからコンコンとサイドミラーをノックした。お父んが助手席側のドアを開けたので乗り込んだ。
「悪かったなあ、あの日に限って、不足している化粧品が多く、発注に時間が掛かってどうしても都合つかへんかったんや」
助手席に座った途端、読んでいた時代小説の単行本から視線を上げて遠くを見遣り言い訳した。
見え透いた嘘を吐いたので怒りがむらむらっと込み上げてきた。
「もう済んだ。お父んに頼らんと生きていく」
お父んの眼が刃のようにキラッと光った。
言ってしまってから、血流が一瞬止まり顔色が変わった。ズキンと心臓の音が鈍く響いた。心の底に抑え込んでいた憤りが飛び出してしまった。親に言ってはいけないことだ。と後悔した。
「お父ん、風邪ひいたんか。いつもよりたくさんティシュが散らかっている」と、様子を窺いながら話しかけた。
「風邪を引いたのかもかもしれん。もう年や、体が衰えてきた。幾つになったか知ってるか」
「一九六二年六月三日が誕生日なので四十六歳や」
「当たり、西暦で答えるとは参ったなあ」
佳世は胸をなでおろした。機嫌は損ねていない。
「誕生日に何のお祝いもせんと悪かったなあ。ごめんな」と、気遣った。
「お父さんも佳世に何のお祝いもしてへんのでおあいこや。生まれたんは平成二年の八月二十八日で暑い日やったのは覚えてるで」
誕生日を軽んじているわけではないが、両親はおろか妹の紗世にさえ、「誕生日おめでとう」と礼儀上の言葉をかけるだけで、お祝いらしき贈り物をしていない。木村家は、お金に困らないが家族間の心温まる気づかいや交流はなく、家族それぞれが心を閉ざし仮面を被って生きている。
「お父さんは体力も気力もなくなってきた。朝、目覚めてその日の空気を吸って、吸ったからには起きなければならないと決心して蒲団からでるんや。お父さんが仕事に行っても行かんでもこの家の生活が変わるもんではない、軽い存在や。発展性のない同じことの繰り返しで惰性で生きているようなもんや。この生活は家から放り出されるまで続く。大阪の西成の公園で、段ボール敷いてぼんやり空を眺めている日が来るように思う」
「お父ん、もうやる気なくしたんか」
「店の若い美容師は俺が顔覗かせても挨拶すらしようらへん。薄汚い野良犬が迷い込んできたので蹴って追い出したろか、てな目つきで仕事しとる。普通なら、こんにちは、と挨拶をして、何々が無くなってます、注文しといてください、ぐらいは言うもんや。態度悪いので怒鳴りつけたらよいんやけ、その段階で西成の公園行きや。そのようになることを従業員は知っとる」
「お母んが怖いんか? 歯向かったら家を追い出されると思っているのか?」
「もう追い出されたんも同然や。あいつは俺がうっとうしくて早よ家を出で行きよらへんかな、と思っとるやろ。何となくわかっている。若い男を囲っとるようやし。だから家に帰ってきょらへんね」
「夫婦間が冷めてるのは分かっているけど、お母んと話し合ってみる気はないの?」
「ここまで来てしもうたら無理や」
「商売に励んで見返したったらええね。他所の美容室に食い込んで売上を三倍にも五倍にも伸ばして、もうお前なんか頼らんでもやっていけるぞ、と強い気構えで挑んだら、お母んは見直すわ。お父んは商品のノーハウを長年の経験でいっぱい貯えているやんか」
「高二になってしっかりしたこと言うようになったな。お父さんは今の生き方を変えなあかんと思っているだけで行動に移れへん。持って生まれた性格かもしれんけど。近所では髪結いの亭主で通っている」
お父んの目に涙が滲んでいた。
佳世は家庭内で居場所の存続をかけて、もがき苦しむ生の声を聴いた。何とかできないものかと思案した。だらしないと批判するだけでは子として能がない。お母んと縒りを戻す糸口を見つけるぐらいはしなければならない。そーと助手席のドアを開け、外に出た。
陽が落ちて何時もの帰宅時間になって、お父んは「あー 疲れた。腹減った」と言って何事もなかったように帰ってきた。佳世はこの声を聴くと安心した。
夕飯が終わったところで、いつもならこそこそと二階に引き上げるお父んが珍しく、コーヒーを飲みたいと言った。相変わらず鼻汁を啜っているのでお湯を沸かしホットコーヒーを淹れた。
お父んはコーヒーを一口啜ってから、
「紗世、何年生になった」と語り掛けた。
「親やのに、知らんの!」紗世の返事は軽蔑して冷たかった。
「お姉さんな、大学に進む受験勉強せんとあかんね。もう遅いぐらいなんやけど今からでも間に合う。そこで紗世に頼みがあるね。その先は言わんでもわかっているな、紗世はもう小四や身の回りのことはできるはずや」
しっかり紗世の眼を見て、それだけ言って、マグカップの取手に人差し指を通して持ち上げ席を立った。湯気が小刻みに震えていた。
取り残された姉妹にちょっと間があった。紗世が静寂を破った。
「お姉ちゃん」と決意を秘めて強い語調で呼び掛けた。普段の甘えた言葉づかいではなくキリッと研ぎ澄ました声だった。
「明日から一人で起きる。目覚まし掛けとく。教科書の準備も寝る前にしとく。着替えも自分でする。朝ご飯も自分で作る。夕ご飯はよう作らんけど。集合場所に一人で行く。学校から帰ってきたら着替えて宿題してから洗濯する。お姉ちゃんにしてもらっていたのはそれだけやったな。紗世はちょっと甘えてた」
佳世の眼が潤んだ。お父んが親らしいことをしてそれに紗世が従順に答えたので感激した。親子の関係は閉ざされていなかった。
紗世は言った通り翌日から自分の事は自分で行なった。目覚まし時計が鳴るとパッと勢いよく蒲団から出て階段を下りてきた。朝食のパンを焼きバターを塗っておいしそうに食べ洗顔歯磨きトイレを済ませた。身支度整えてランドセルを背負い、「行ってきます」と胸の前で小さく手を振り、しっかりした足取りで玄関を出て行った。お父んはどうかな、と注視していたら、紗世が出て行った後に同じように流しの前に立って朝食の用意を始めた。
「自分でするので学校へ行きや、遅れるで」と、お父んは普通の語調で言った。
ならば佳世は如何か。勝手が狂ってもたもたしてしまい、結局腕時計の分針覗き込みながら必死にペタルを漕いで始業開始のチャイムと同時に教室に滑り込んだ。
十五時ごろ、七時限目の授業が終わって帰宅する時間になった。
高志は駐輪場の前のベンチに座って佳世を待っていた。
三十分待った。今日に限ってなかなか現れない。しびれ切らして教室を覗きに行こうと職員室の前を通ったら、佳世が先生の前で何度もペコペコ頭下げている姿を目にした。何か知らんけど怒られとるな。と廊下を行ったり来たりしていたら姿が目に入ったらしく、こちらを振り向いてニコニコしながら右手を小刻みに振った。どう見ても注意されているような様子ではない。
安心してベンチに戻った。
佳世が満面に笑み浮かべて近寄ってきた。
「あんな家族が受験に協力してくれるようになったので、勉強する体制が整った、と進路指導の先生に報告してたんや。早急に進学する大学を決めると答えておいた。この先生には家庭の事情を打ち明けていたので、よかった、よかった、と肩叩いて喜んでくれた。待たして悪かった。許してつかわせ、帰ろか、勉強せんならん」
異常なはしゃぎようだった。後ろから自転車押しながら、音の外れた演歌唸り、ついてきた。
「此処から道が狭くなるので気をつけんとあかんで」
佳世のいつもの返事が違った。
「あぁ~わかってぇ~わかってぇ~、ああぁ~」
ガチャンと自転車のひっくり返る音がしたので高志はびっくりして振り返った。
ひっくり返った自転車は接地を外れた前輪がゆっくり回転していた。佳世は起こそうともせず照れ笑いして突っ立っていた。高志が起こしてやった。その後も演歌の唸りが続いた。
*
今日は特に蒸し暑い。昨日が夏至だったのでこれから暑さに耐える日々を送ることになる。
ほぼ同時刻に授業が終わった。 仲良しカップルが心根を絡ませる時間になった。佳世が後ろから語り掛けた。
「静穂と話し合った。もう心配せんでもええ。彼氏ができたらしいわ。六組の鍵田と付き合っているらしい。髪をウエーブさせ柄物のカッターシャツ着てくるので注意されとる軟派や。静穂も合わすようにだんだんと派手になってきた」
「佳世! そんなこと放っておいたらええね」
「せっかく心砕いているのに気に入らんのか」
「静穂は僕を通り過ぎた」
「後始末をしてあげたんや。人の気も知らんと。もう喋らへん」
二人の間に束の間の静寂があった。
佳世がとげとげしい気持ちを払拭させるように、話の内容を変えた。
「遅ればせながらみんなと同じラインに着いたので猛ダッシュ掛けるわ」と明るい声で語った。
高志も気を取り直した。
「その意気込みが大切や。佳世は自己憐憫して逃げてたんや。もともと勉強嫌いやったからな」
「そこまで言うか。私のやる気に火がついたら高志なんて蹴散らすで。塾の夏期講習に参加するつもりや」
「ちょうどええわ。京都駅近くの進学塾が夏期講座を開くね。来月二日の土曜日に受講生の能力テストするね。一緒に受けに行かへんか。おそらく学力を確かめるテストやと思う」
「分かった、行くわ。家族が協力してくれるようになったので、一流大学に入学してみせる。それが家族に対する最高のお礼や」
「ええこと言うなあ、頑張れよ」
高志がどんと背中を叩いた。
*
七月四日。塾の能力テストを受けた五日後になる。今日は朝から灼熱地獄、太陽が火炎銃となって地上の万物に照射している。
下校時間になった。仲良しカップルが自転車押しながら心の根を絡ませた。
高志が浮かぬ顔して元気なかった。
「どうしたん?」
高志は俯いたままで返事した。
「塾の能力テストの結果が家に届いたやろ」
「ああ届いたわ。私は四組にランクされてたわ。一から三組までがAクラスや四組以下がBクラスや、私は四組に入ったのでBの中で最上位の組や。私にとってはこの位置は上出来や」
「僕はAクラスやったけど二組やった。当然一組に入ると思っていたのでがっくりした。お父さんが結果を尋ねるまで黙ってた。英会話の点数が低かった。古文も歴史も悪かった。服部君は一組に入ってた」
「重点的に勉強する教科が見つかったんや。今月二十二日から夏期講座が始まるので頑張ろうな。暑い盛りやけど」
「個別指導受けるか、集団指導受けるか迷ってる。一口座九十分を五回受けたら一万七千五百円掛かる。五教科全部受講すると、個別受講で十五万、集団受講で十万円ほど必要になる。まだ二年生やからこれぐらいで済むけど三年生になったら六万アップするねんで。塾の必修テスト代は別や」
「また、そんなことを心配しているのか。高志がいくら心配してもどうにもならん問題や。費用のことはお父さんに任せといて勉強に専念したらええね。順当に合格したら、掛った費用など安いもんや。今日から期末考査が始まってる。まずそれに全力や」
「それにしてもなあ⋯⋯」
「高志、塾の成績を気にして落ち込んだらあかんで。京都の高校生の学力は全国的に見てどうなのか、知らんけど、他校の生徒が混じると高志の学力は坂の上高校の席順の様にはいかないんや。そんなこと分かっているやろ」
自転車が右に左によたよたしていた。
「あっ、高志、もっと左に寄らんと」
今日は道幅が狭くなる例の場所で佳世が後ろから注意した。落ち込んでいる高志の後ろ姿が忍びなかった。大望を抱いて突き進んでいたものが挫折したら、どうなるか、心配でならない。
「高志! 終わったことに拘っていたら前に進めへん。元気出しや!」
「分かった。それじゃあなバイバイ」
「バイバイ」
*
期末考査が終わった。二十日の終業式を終えるとおよそ一か月間の夏休みに入る。
仲良しカップルが心の根を絡ませる時間になった。
自転車を押して歩いていると太陽が頭のてっぺんからギラギラ照りつけた。路面の照り返しとサンドイッチになり体全体を茹であげた。日中の気温は三十五度近くまで上がる。
「高志、考査が終わったので今夜宇治川の塔の島へ夕涼みに行かへんか。鵜飼を見に行こうや」
「あんまり気が進まんけどな」
「塾の結果を引きずってるから期末考査も芳しくなかったんと違うか」
「その通りや。なんか気が乗らないでズルズルと終わってしまった」
「気分転換しないと立ち直れへんで」
高志は気が進まないまま頷いた。
佳世は夕飯を済ませて、後片付けを紗世とお父んに任せ高志の家へ向うため玄関を出た。
白地に朝顔の花を染めた浴衣を着て草色の帯を締めていた。赤い鼻緒の下駄を履き、手にカゴバックを持っていた。
見送りに出た紗世が後ろから、「お姉ちゃん綺麗」と声掛けた。
お父んも佳世の後姿をじっと目を細めて見入っていた。
「女らしくなったな、着物を着たら高校生には見えん。男に会いに行くのでいそいそしとる」
娘を眩しそうに眺めていたが首を傾げた。
「なんか様になってないなー。髪をアップにして髪飾りつけんとあかん。俺に相談してくれたらアドバイスしてやったのに。あの浴衣はお姉ちゃんが高校に入学した夏に買ってやったんや。カゴバックも帯もセットでな。紗世にも高校生になったらお祝いに買ってあげる」
「お父さんにそんなこと言うてもらったん初めてや。まだ先の話やけど嬉しい」
「あの帯は半復帯と言ってな、普通の帯より幅が狭いやろ。結び方は一文字結びや。着付けをどこで覚えたんやろ」
「動画をアップして繰り返し見てた。私に手伝わせた。何回もおかしくないか、と聞いてた」
「そうか、そうか。その手があったか。親はいらんな」
お父んと紗世が玄関に並んでそんな会話をしながら姿が見えなくなるまで見送った。
高志の家の玄関チャイも押したら父親の高雄さんが出てきた。
「おう、佳世ちゃん、こんばんは⋯⋯⋯よう似合っている」と目を細めて頭のてっぺんから足元まで目を配った。
「こんばんは」佳世はニコッとはにかんで作り笑いした。
「塔の島へ夕涼みに行きます、期末考査が終わりましたので気晴らしです」
「あのな」と父親の高雄さんが唇に人差し指を立て、声を潜めた。
「励ましたって、高志はちょっと落ち込んどる」
佳世の頬が紅色に染まった。
励ましたって、は息子を頼みます、の意味だと解釈した。二人の交際は暗黙の了解の上に成り立っていた。暗黙を取っ払って公然にする嬉しい言葉だった。
「高志君と励ましあって受験を乗り超えます」と高志を引き受けたように答えた。
「母親がもうひとつやからな」と高雄さんはさらに声を潜めて、念を押すように言った。
高志は母親を、床の間に飾ってある人形だ、と例えて冷嘲し突き放していた。家庭環境に恵まれているのは上辺だけで内実を伴っていないのだ。
高志が廊下を歩いてくる足音がした。
「それでは行ってらっしゃい」
父親は意味ありげにニコッと頬の筋肉緩めた。
「お待たせ」
高志はブルーのジーンズに父親の柄物半袖開襟シャツを着て現れたような印象受けた。アンバランスな姿を見て、こういうところに母親の役目が働いていないのだ、と悟った。
十三重の石塔がある塔の島は宇治川の中州を整備した公園だ。夏の時期は本流から派生した塔の川で鵜飼が行われる。夕涼みを兼ねてこの島を訪れる人は多い。
私鉄の宇治駅を降りて瀬音を聞きながら川上へそぞろ歩いて十分弱、宇治神社の赤い鳥居が照明に浮かび上がっていた。神社の前に塔の島へ渡る朝霧橋が掛かっている。まだ西の空がほんのり明るく、川風がそよそよと気持ちよく頬を通り過ぎた。
塔の島をそぞろ歩いて喜撰橋を渡り、遊船の船着場に降りた。他の十人ほどと一緒に一艘の乗合船に乗った。この日は貸切船と合わせて六艘が出た。
闇は急速に風景を飲み込んでいく。遊船に吊るされた提灯の明かりがゆらゆら揺れて幽玄な雰囲気を醸し出していた。
座布団を敷いた船底に座ると視線が下がるので小波立つ暗い川面がグーンと迫った。
上流から、風折鳥帽子に藍色の上着、下は腰蓑姿の女性鵜匠が五羽の鵜を細い糸のような追い綱で操って泳がせ近付いてきた。船の舳先から突き出た篝火が川面を赤く映し出した。
船を操っている船頭が櫓で船縁をバンバンと叩いた。合図になっているらしく鵜が一斉に潜った。浮かび上がっきたときは魚を咥えていた。
高志は「うーん」と唸った。
佳世は「お見事」と拍手した。
「せっかく捕獲しても喉元を括られているので呑み込めないんや。分かっていても繰り返すんやな。喉をグイグイと強く掴まれて吐き出されるのにな、これが宿命とでも思っているのかもしれん」
「そんなこと考えてるの」佳世は風物を受け入れず理屈を捏ねようとする高志に呆れた。
相席となった他の乗船者は情調に富んだ鵜飼見物にくつろいでいた。貸切船では手拍子交えて宴が始まっていた。およそ一時間ほど夏の趣ある宴が終了した。
下船後、塔の川を流れに沿ってそぞろ歩いた。高志は何にも語り掛けなかった。
「いったいどうしたんや。楽しくないのか」
「別に」と高志はぶっきらぼうに答えた。何処を見ているのか虚ろだった。鵜飼を楽しんだようには見えなかった。絶えず溜息を吐いていた。
「あのひときわ輝いているのは金星と違う。なんで星はきらきら瞬くんやろ」と佳世は夜空を見上げ、ごちた。
「空気が風で揺らいだら光も揺らぐ、瞬いているように見えるわけや」と、またしても理屈を捏ねた。
佳世は、フン」と夜空を見上げ返事した。
そのとき、突然高志が喉から絞り出すように、「苦しい、重圧で夜眠られない。このままではノイローゼになる」と、告白した。
父の高雄さんが「落ち込んどるので慰めたって」と息子を預けた言葉が突きあげてきた。
佳世の下駄の音が止まった。
暗くてよくわからない眼の表情を覗き込んだ。
「高志、それほど苦しいんか」
「ああ、常に点数が頭の中で四方八方から交差して攻撃してくる」
「時折、跳ね伸ばしてリフレッシュせえへんからや。何にでも同じことがいえるけど、勉強にもメリハリが必要や。一本調子で勉強していても効果上がらへん。暑い時期やけどジョギングせえへんか。ひと汗掻いたら、すかッとして活力が沸いてくるわ」
「言うてることはなんとなくわかるけど、こんな暑い時期に走る気いせえへん」
「では、どうしたらよいの、なんか解決法があるのか」
「学校に行くのが怖くなった。家に籠って登校拒否するしかない」
と高志は苦しそうに吐露した。
「そんなあかんたれで如何するねん! しっかりしいや!」
佳世は思わず高志の頬に平手打ちをくらわした。汗がビシャッと飛び散るほど強烈だった。
高志は頬に片手を当てて佳世を睨みつけた。
「気合入れられてもどうにもならん。逃げることになるのかもしれんけどしばらく学校を休んで休息する」
佳世を残してさっさと足早に歩き出した。
佳世は叩いた手を袖に引っ込めて呆然と突っ立っていた。高志が私の意見を受け入れるか、受け入れないかは別として、この日のことは一生忘れることはないだろうと思った。
往来の激しい宇治橋を渡って私鉄の宇治駅まで戻ってきたところ高志は佳世の分の切符を買って改札口で待っていた。帰りの電車の中でも無言だった。二駅で降りて自宅に帰る道中でも無言、高志の家の前で手だけ振って別れた。
*
翌日、授業が終わると駐輪場の前のベンチでいつものように待ち合わせた。
喧嘩しても、下校時の仲良しカップルが心の根を絡ませるのは変わりなかった。
「高志、機嫌悪いな。まだ怒ってるの」
「別に怒ってへんけどな。もうちょっと大人の付き合い方をしような。いつまでも小さい頃からの延長ではなく」
「手を挙げたのは間違いやった。まじで謝る、悪かった」
「僕は時々悩んで気弱な面を見せるけど、そんなときは軽くいなしてくれたらよいんや。叩かんとな」
「悪かったと謝っているやんか」
「まじか」
「叩いたんは右側の頬やったな、チューしたげるわ」
「誤魔化すな! それでは謝ったことにはならへん! 口先だけや! 家に帰ってきたときお父さんが僕の顔覗き込んで、『ははあーん、喧嘩したな』と訊ねよったので、『ああ』と返事したら、『その様子では負けたんやろ』と言って笑ってた」
「高志のお父さんは我が子をよく観察しているわ。うちのお父んは私の様子を見て、何の反応も見せへんかった。何にも気づかなかったのか、気づかない振りしてたんかわからんけど」
「僕のお父さんは我が子を監視しすぎや、もう少し放ったらかしにしておいてほしいわ。一緒に住んでみたらどんな人間かわかるわ。佳世の性格とおんなじや。気に入らんかったら暴言吐くし手を挙げる。避けるには黙って従うしかない。僕は家庭でも佳世と一緒に居る時でも、しっぽ巻いて蹲っている弱い犬や、けどこれからは噛みつくで」
「えらいハッキリ言うたな」
高志は返事もせず自転車に跨るやビューと走り去った。
「あっ」佳世は手指を丸めて口にあてがい茫然と見送った。
此畜生。自転車に飛び乗って追いかけた。
高志は道路幅が狭くなるところで片足を着いて待っていた。
「また難癖付けられたら困るからな。此処から狭くなるので気いつけて走れよ」
「お先に、さいなら」今度は佳世が孟スピードで追い越した。
「まてー 」高志は追いかけた。
万福寺の総門の前まで追いかけこして帰ってきたところ町内の梅田のおばちゃんに見つかった。
「あんたらもう高校生やで、小学生と違うで、いつまで自転車乗りまわして遊んでるの」と呆れ果て、肩をすぼめてニアニアしていた。
昨夜の落ち込みは何だったのだ。ノイローゼになるとか言って気を揉ませやがって、さては⋯⋯⋯甘えやがったのかな、頬っぺた叩いてほしかったんかな。小さい頃に戻りたかったのかもしれんな。
佳世は独りごちた。
*
今日は七月二十日、水曜日。一学期の終業式であった。
仲良しカップルが心の根を絡ませる下校時間になった。
佳世は強烈な太陽光から肌を守るため日傘をさして自転車を押していた。高志は鍔の広い麦わら帽子を被って俯いてトロントロン自転車を押していた。
「ちょっと、前のおっさん?」
「何やね、後ろのおばはん」
「期末考査の成績悪かったやろ。自転車がなよなよしてるわ」
「それがどうしてん。おばはんよりはまっしや」
「うち、これまでで一番良い成績やった。平均七十五点やった。先生が私の顔まじまじ見て、どうぞ天変地異が起こりませんように願います、と肩をポンポンと叩いてニタニタ笑いよった」
「まじか、七十五点取ったんか、僕と変わらへん」
「私な、狙うで。京大の法科を受験するからな。覚悟しときや」
「調子に乗るな。そんな点数取ったんは今回初めてやろ、まぐれや」
「ゴールは一年半後や。センター試験にピタッと照準合わせて頑張る」
「僕も負けへん。佳世に負けてたまるか!」
互いに競争心を剥きだした。
佳世は返事代わりに、後ろから高志の自転車の後輪に前輪をコツンとぶっつけた。
振り返った高志が、「佳世、二十二日やで。わかってるな。遅刻したら教室に入れてくれへんで。初日はいろいろ説明あるので三十分早く行かんとあかんで、そのように書いてたやろ」と念押した。
「ふふふ、これまでの佳世と思ってたらあかんで」
「よしっ、その心意気や。此処から道が狭くなるので気いつけなあかんで、日傘を傾けんと」
「言われんでもわかってまーす。おっさんの麦わら帽子、ジャマや」
高志の家の前まで帰ってきた。
「それじゃバイバイ」
「バイバイ。明後日やで、忘れんなよ」
*
高志がしっかり念押した七月二十二日、金曜日。夏休みに入って二日目になる。
佳世は蝉の鳴き声に見送られ駆け足で高志と待ち合わせているJR黄檗駅に向かった。
二分前なのに高志が来ていない。えー、こんなことあるんか。明後日やで、忘れんなよ、と活入れていたくせに。
脅かすつもりで隠れているのかな、とキョロキョロ上り線ホームを端から端まで目を配った。この駅は田舎の貧相な構えでホーム幅が狭く、身を隠す場所はない。列車が到着したとき携帯が鳴った。耳に当てて列車に飛び乗った。
「下痢が止まらへんね。今日休んで明日から受講すると塾に電話しといた」
胃腸が弱いのは知っていた。今日は塾の夏期講習の初日だ。こんなことで緊張して下痢しているようでは先が思いやられる。センター試験の日に、下痢が止まらないので⋯⋯と、やりかねない。体を鍛えなければどうにもならない。やっぱりジョギングを強制せんと。
佳世は一人で受講した。一人といってもクラスは二十八名だった。
一講座九十分の受講が終わった。午後の部は十三時に始まる。
気になったので高志の携帯に電話した。
「初日に下痢で休むとはどういうことや! 体を鍛えんとあかんで。共通試験まで長丁場になるので、体力のないものは振い落とされる。これから東部公園三周しといで」
と、長年の付き合いからくる命令口調で指図した。
「情けない、と、自分でも思う。薬を飲んで明日は必ず行く」
佳世は昼休みに教室の長椅子に座って持参した弁当を食べた。冷凍ハンバーグはレンジでチンとやれば済むので手軽だが弁当のおかずに入れてくる者は稀だ。ブロッコリーが言い訳するように一つ添えられていた。二段式になっている弁当の御飯はぎゅうぎゅうに詰めてお米の形が潰れていた。格好つけてサイズの小さい弁当箱を使用しているとはいえ、きれいに平らげて、まだ物足りないのでコンビニへサンドイッチ買いに走った。
午後の九十分授業が始まった。学校ではパンパンに膨らんだお腹を抱えて睡魔と戦っている時間に当たる。今日は丸い目を大きく開いて耳を兎のように立て集中していた。
初日の講習を終え家に帰ってきて早速高志に電話した。
「みんなの気構えが違うわ。学校のように早く終わらないかなと、緩慢な眼差しで受講している生徒はいいひん。講師も熱弁振るって講義に集中させていた。銃持ってセンター試験の会場に乗りこめ、そこは戦場や、と言っていた。それからな、学校で習ってない項目もあった。講師は教科書を基にしていると言っていたけど、大学受験生しか入学させていない私立学校と、卒業したら社会に出ていく生徒も万遍なく受け入れている公立校では授業の科目も使用している教科書が違うんや。成績に差がつくのは当たり前や。本番になったら全国の高校生を相手にしなければならないんや。レベルが低いも高いも一緒くたや。京都という地方区から全国区に対象を広げて勉強せんとあかんわ、そうしないと受験競争に勝てへん。東京の進学塾の講習を受けてみたいわ。通信教育があるしな」
佳世は興奮して声を張り上げ捲くし立てた。
その夜遅く、高志がハアハア荒い息遣いでケータイに電話してきた。
「夜の公園を走るのは怖いので町内を三周してきた。おばちゃんたちが冷やかすので恥ずかしかったけど頑張った」
「明日、必ず出てこんとあかんで。この段階で振り落とされたら京大法科はないで、外交官は夢想に終わってしまうで。おやすみ」
佳世は慰労せず突き放した。
*
八月になった。連日の猛暑で草木は萎れ犬猫もぐったりし元気がない。
京都は地形の関係で全国有数の高温都市である。昨日の公式最高気温は三七・二度。日本の主要都市の中で最も高かった。
高志と佳世は進学塾の夏期講習に通いだして二週間過ぎた。授業を受けている教室が違ったが、午前に一教科、午後に一教科受講した。質問の時間を含めても十五時には終える。
受講が終わってから二回目の模擬試験を受けた。初回の模擬試験での評価は厳しいものだった。高志は国公立に合格するラインに届かなかった。理数はまあまあだが英語と古典に弱い、となっていた。佳世は関関同立は受かりそうだが、ぎりぎりのライン上にある。国公立は難しい。基礎学力が身に付いていない。特に理数に問題がある、と指摘された。
講習が終わって塾が入っているビルを退出した。烏丸通を下り、京都駅の下を南北に貫いている地下道を歩いて、商業施設のアバンティに出る階段を上っていった。ニョキッと地上に顔を出すと自動車の騒音が脳神経を震わせた。近くに大きなホテルがあって各方面に向かう長距離バスの発着場もある。綺麗な公衆トイレもある。なによりもここに来る目当てのベンチがある。
仲良しカップルは此処で心の根を絡ませる時間をつくっていた。
「ちょっと遅くなるかもしれんけど今日も走ろうか」と高志が誘った。
「休みたい、陽が傾いても沈む前なので、路面が火傷しそうなほど熱い、一人で走ったら」と佳世は拒否した。
「走れ、といったんは佳世や。体調がよくなったので続ける」と高志は強い意志を示した。
「確かに私やけどな、神経性胃腸炎を克服する目的や。あんたのため想って進めたんや、私は胃腸が丈夫やから走らんでもええ」
「一人では心細いんや。止めてしまうかもわからん。そうしたら胃腸炎でダウンして塾に通えんようになる。京大に落ちる」
「あんた! 落ちたら私に責任を押し付ける気か?」
「また怒る。一人で走るわ。スマートになると思って誘ってるのに」
「口上手になったな」
「梅田のおばちゃんら四、五人が夕涼みを兼ねて床几に座り見物するようになったんやで。お茶飲みながらお菓子食べて、べちゃくちゃ喋っている。佳世ちゃんは走り始めてからちょっとスマートになったかな、と言うてた」
「あの人らに評価されるために走っているのではないわ」
「本心を言えよ。嬉しいのと違うんか」
「今度は煽てて誘導するのか」
夕方になった。短パンにTシャツ姿の二人が姿を現した。
「今日も走り始めたなあ、高志君は背が高いし足長い、スタスタ走っているけど、佳世ちゃんはおっぱいをゆさゆさ揺すって、太股の肉をタブタブ泳がせてドスンドスンと地響きたてて走ってるわ」
「いつもヒーヒー言いながら追いかけてる」
「小さいころは佳世ちゃんが高志君を『こらあー、待てー』と追いかけていたんやけどなあ」
「うちの子は佳世ちゃんに遊んでもらってたけど、泣かされて帰ってきたこともある」
「ガキ大将やったからな」
「あの二人、高校生になっても交際続けているなあ」
「男と女やから中学生になったら意識して別れると思っていたけどその時期が過ぎても続いていることは、このまま結婚してしまうのと違うか。そのようになるように嗾けたろか」
「どうやろ、大学生になったら変わるかもしれんで」
「まさか同じ大学に行くことはないやろ。高志君は優秀なので京大を受験させたいとお父さんが言っていた。佳世ちゃんは頭悪いという噂や」
「あの子は家のおさんどんに追いまくられて、勉強どころではないのと違うか。母親が出ずっぱりやからな。妹が小さいので仕方ないと思うけど」
「来た、来た、地響きがしてきた、これで四周目や、後一周や」
「佳世ちゃん頑張れー、高志君と手をつないで走れ!」
「あいよ、スマートになるから応援してね」笑顔作って片手をひらひらと振って応えた。
「愛嬌は一品や、うちの孫が、佳代さんは胴体がハムでその上に頭乗せて手足をくっつけたような人や、と言うとった」
「ちょっとひ弱いところのある高志君に似合いの嫁さんになるで。あの体力で子供をポコポコ生むのと違うか。やっぱりくっつくように嗾けなあかんな」
二人は近所の噂など何のその、町内を五周してジョギングを終えた。
*
今日は二学期の始業式である。長かったのか短かったのか、およそ一か月間に渡った夏休みは終わった。登校すると早速大掃除をした。綺麗になった教室で一年生と二年生は課題テストが行われた。センター試験に挑む三年生は早速カリキュラムに沿った授業を始めた。例えるなら第三コーナーを回ってホームストレッチを全力で走り始めたことになる。
二年三組のホームルームで担任の先生がいつもと違う厳しい語調で注意した。
「先生は皆さんを信じています。夏休みを補習に当てた生徒がほとんどだと思います、が、高額のバイト料に誘われて反社会的な仕事に就いた生徒がこの組から出ました。まだ決まっていませんがおそらく退学処分になると思われます。世の中には世間知らずな生徒を勧誘して悪の道に誘い込もうと手ぐすね引いている大人が鵜の目鷹の目で待ち構えています。楽に稼げるバイトは存在しません。もしあるとするなら、裏に犯罪が潜んでいると考えてまず間違いありません。もし誘われたら勇気を出して学校に相談してください」
佳世は静穂が欠席していることについて変な噂を聞いた。
「三組の静穂と六組の鍵田の二人が警察に補導されたみたいや。やばいバイトに手を出したんやて」
どうやら、オレオレ詐欺グループの一員に組み込まれて、指示されるがままクレジットカードを受け取りに行って捕まったようだ。
夏休みを高志や佳代のように大学進学という大きな目標を持って勉強に没頭した生徒は悪の手が忍び寄るスキを作らなかった。それ以外の者は一か月に及ぶ長い期間をバイトに精を出し小遣い稼ぎしていた。SNSで〈短期バイト、高額希望〉と打ち込んで探せば直ぐに、〈一日十万円可能〉と返事が来る。身分保障は学籍証明で可、となっておれば安易にコピーして応募してしまう。いったん引きずり込まれたら、親や学校にバラスと脅されて抜けられなくなる。社会に出る関門を前にして静穂と鍵田は躓いた。
仲良しカップルが自転車を押して心の根を絡ませる下校時間になった。
先を行く高志に佳世が後ろから語り掛けた。
「夏休みが終わって一か月ぶりに顔合わせたら溌溂として眩い姿で出て来た者もいたし、こいつ何しとってん、と嘆きたくなるほど、しょぼくれ姿で出てきたもんもいた。過ごし方が充実していたか、ふしだらな生活を送っていたかの違いやと思う。私はこの休みの間に受験する大学を絞った。国公立を狙うと大きなこと言うてたけど、塾の成績を見て、実力に応じた程々のところを探すことにした。私学の一般受験にするか学校推薦にする」
「学校推薦は英検一級とか、スポーツなら全国大会に出場したとか、推薦してくれる条件がいる。佳世はこれといった特技がないので一般推薦になると思う。大学によっては目立った実績がなくても小論文と面接で意欲が伝われば合格できるところもあるらしい。佳世は物怖じしないし、雄弁なので自分をアピールする能力に長けている。心配することはないと思う」
「学校推薦と一般入試と二通り考えている。センター試験も受けてみる。三回入試受けるつもりや」
「そういう考えの人は多いように聞いている。一年後に迫ってきたので、早く受験校を決めんとあかんで、何度も言うてるけど」
「地方の私立大学は定員割れしているとテレビで報道していた。少子化で志願者が少ないねんて。ある私立大学の法科の名も挙がってた。高志が見向きもしない大学やけど、私はそこでもええかなと思っている。入学してから国家試験に向けそれこそ死に物狂いで勉強する。今は高学歴の時代や、有力な資格がないと安定した職につけへん。高志は大学の箔に拘っているやろ。最終は外交官試験であることを忘れたらあかんで」
「別に京大でなくとも、と佳世は言いたのだと思うけど、小さいころからの夢を叶えたい。夢を実現させるために今日まで勉強してきたんや」
「ロマンチストやな、もっと現実的になった方がよいと思うで。高志が外交官に向いているかどうかも考えんとあかんで。京大に入学して国家公務員採用総合職試験までは本人の努力次第でクリアーできると思う。その後に外務省専門職員採用試験が控えている。英語で自分の考えを述べるには人並以上の語学力が必要や。英語以外の言語も試される。自分を売り込むパフォーマンスも必要や。語学が苦手と違うの、どちらかといえば人見知りして集団の輪の中に飛び込んでいくのは苦手と違うの。そんな人かどうやって外交官の道に進んでいけるの。体力面も心配や。デリケートで神経性胃炎を発症する人が、知らない人の中でどうやって生活していけるの。大学を卒業して社会に出たら誰も面倒見てくれへんで、お父さんの手から離れて生きていくんやで。理想は誰にでもあるけど成長するにしたがって理想とする位置から自分相応の位置を見付け、そこに落ち着くんや」
「僕に外交官になる能力はないと言いたいのか」
「能力とは学習能力が高いだけのことを言うのと違うで。頭が良いのに世間に埋もれている人はいくらで居る。飲まず食わず、で仕事に打ち込む強靭な体力も、打ちのめされてもへこたれへん図太い神経も、どんな場面でも突進していく獰猛さも、その人が持っている全てのことを能力というんや」
「なんかむかつく、僕に欠けているものがあると言っているようやけど、まだ十七歳や。先定性の部分に知識と体力を追加していったら大成できる。大学生になって院生になって、外務省に入省し前途洋々や。佳世! もうこんな話はやめよう。気遣ってくれるのはありがたいけど、一度の人生や、僕の考えで突っ走る。方向転換したらこれまでの努力が水の泡になる。僕を今日まで育て、支援してくれてるお父さんに顔向けできない。僕の気持ちをわかってほしい」
「わかった。もうこのような話はしないことを約束する。やる気を削ぐようなこと言ってごめんな。それじゃあバイバイ」
「バイバイ、また明日な」
佳世はそのまま家に帰らず万福寺の総門を潜った。今の気持ちを誰かに聞いてほしかった。高志が自分の手から離れていく、そんな気がしてならなかった。放生池の長椅子に座って蓮を眺めていたら正面の三門が中に入るようにと促した。
境内は広い。大雄宝殿の十八羅漢の前に立った。小さい頃は見あげる目線と見おろす羅漢さんの目線が合ったので順々に巡ってにらめっこしていた。ニコッと笑えば羅漢さんも微笑んでくれた。阿保と睨み付けたら羅漢さんも怖い顔して睨み付けた。背が高くなった今では膝を屈めて視線を合わさなければ、にらめっこできなくなった。
羅悟羅尊者の前に立って腰を屈め目線を合わせた。両手でお腹を左右に割って中の仏を覗かせている奇怪な尊者である。小さい時は不気味だったが今ではこの尊者と対面し自分の胸中を晒すことが多くなった。
「尊者様、私は大切な人、に見捨てられたのでしょうか」
「人はフラフラと彷徨うからな」
「待っておれば戻ってくるのでしょうか」
「御身次第だ。魅力があれば戻ってくるのではないか。相手を信じるしかないな」
浄財箱に十円硬貨を一枚落として大雄宝殿を後にした。
夕方、佳代が珍しく玄関を掃除していたところに高志が自転車を漕いで通りかかった。
「どこ行くの」
「妹の志乃が東部公園で友達と遊んでいて足挫いて歩けなくなった、と連絡してきたんや。それで迎えに行くね」
「私も行くわ」
「頼むわ。あいつは中学生になってから扱いにくいね。ちょっと体に手が触れただけで、いやらしい、スケベ、とか言って変な目つきするので困るんや。佳世が手を貸してくれたら助かる」
東部公園の芝生広場について志乃の友達の柄の悪さに驚いた。制服を脱いで私服に着替えているとはいえ、中二生が身に付ける衣服ではない。透け透けのブラウス着て、太股をむき出したショートパンツ、あるいは派手な色合いのミニスカート、胡坐をかいて芝生に座り込んで煙草を廻し吸いしていた。
眉をそば立てたら、こそこそと煙草を芝にこすり付けて揉み消した。
ぴっこ引いている志乃ちゃんに足の傷み具合を聞いていたとき前を佳世のお父んが運転する軽自動車が通った。
気付いた高志はぴょこんと頭を下げたが佳世は気付かない振りしてやり過ごした。
「志乃ちゃん、振り落とされんように私の背中にしっかり掴まっとりや」
結局志乃は佳世の自転車に乗って自宅に帰った。
*
九月になった。真夏日が続いていても学校の行事は二学期モードに切り替わった。校外と校内に分かれて二日間行われた文化祭が終わり体育祭の準備に入った。
仲良しカップルが心の根を絡ませる下校時間になった。
高志が二学期の到達度テストの結果を話題にした。
「僕は予定通り進んでいる。塾に毎日通って、東京の進学塾の通信教育受けて、忙しくて気の休まる暇ないけど、成果出ているので励みになる。一時の落ち込みから立ち直った。成績が良いと悩まんでよい」と自信に満ちた答えを返してきた。
「私はまあまあや。私学を受けると決めたのでこのまま進んでいったら大学生になれる」
「進学先を決めたようやな」
「その外国語大学の偏差値は五十五や。私の実力からして絶対に入れる。京大の法学部は七十四や。絶対に入れへん。分相応の所を選んだ」
「出願提出は期限ぎりぎりにすると言ってたけど、提出書類を整えなければならない先生は急かすで。それで将来何になるんや」
「フフフ、内緒や」
「佳世のことや、とてつもない分野に進む気やろ。家業を継ぐ気はないんか」
「美容界は向いてへん。お母んから離れて違う道を進む。高志を安心させるために言うとくわ。外交官になる。びっくりしたか」
「まじか⋯⋯」
「私は商売人の子や、計算高いで。卒業して就職した際の初任給を調べたら外務省に総合職で入省したら二十三万三千円も貰える。こんな高い初任給だしてくれるところ他にないで、しかも安定しているしな。それでここに決めた」
「聞いてあきれるわ。初任給が高いので決めたとは」
「それは言い訳や、面白いので言うただけや。私の話を聞いてちょうだい、ウフフフ」
声色が不気味に翻った。
「外務省を志すには高い理念が必要や。緒方貞子さんを目標にするね、この人に憧れてんね」
「どう考えても佳世と結びつかんな」
「国連の高等弁務官として難民の支援にあたっている人や。家柄や学歴からして、もっと華のある部署で活躍しても良さそうなのに、裏の仕事を受け持って頑張ったはる。私はいわば国内難民の一人や、家族のために犠牲になってきた。決して恵まれた生き方をしてきたわけではない。私が選んだのは二流の大学や。二流の大学卒業しても二流の会社にしか就職できひん。ひょっとしたら非正規の職に甘んじることになる。二流の大学出て一流になるにはどうしたらよいか考えていた時、この緒方貞子さんをユーチューブで知ったんや。この人によって私の将来が決まったのも同然や。私はまず英会話を身に付けるために外国語大学に行く。卒業したら法律を勉強するため法科大学院に行く。在学中に国家公務員採用総合職試験を受ける。そして外務省専門職採用試験も受ける。外務省に入省したら私のような家庭の雑事で勉学を妨げられている各国の人を助ける仕事に就く。幸い私の家にはお金がある。その間の学資は心配せんでもええ。腰を据え、緒方貞子さん目指して頑張る。⋯⋯⋯この高校卒業したら別々の道を歩むけど」
「進む大学が違うだけや。家も近いし、いつでも会える。宇治川べりを散歩して桜やもみじを見て季節の移ろいを楽しんだらよい。夏になったら鵜飼を見に行ったらよいね。足腰弱って歩けなくなるまで」
佳世はこの高志の励ましに息がキュッと詰まった。
*
今日の授業は明日体育祭なので四十五分授業に短縮された。佳世は高志に将来の進む道を語って踏ん切りをつけた。残る課題はお母んと話し合って学費を出してもらう取り付けをしなければならない。
お母んを家に帰ってこさせるため強硬手段をとっ.た。
ケータイにメール送った。
〈いつまでも家族を放ったらかして帰ってこないんやったら、家なんて必要ない。放火したる〉
忘却の彼方にあったお母んは娘の脅しに嵌って帰ってきた。
久しぶりにダイニングルームで対面した。流行の衣服と厚化粧の下に隠れているずぶの母を目の当たりにした。正直言って身体の張りを失って疲れていた。老い顔になって目尻の皴が増えていた。首の皮膚も弛んでいた。その姿を見前にして、意気込んでいた気骨が萎えそうになった。それでも自分の将来が掛かっているので、勇気を奮って立ち向かった。
「ちょっとも連絡せんと、子供やお父んを放ったらかしてどこで何してたんや、母親としてどう思ってるの」
久しぶりに会った娘から詰られて母は身構えた。
「こんなことは今まで佳世に話したことないけど、経営が行き詰ってきた。つなぎ資金対策に走りまわる毎日送っている。月末には従業員の給料支払わないといかんし、仕入れた業務用品の支払いもしなければならない、何時までも古い用具を使っているわけにはいかへんので最新のものに買い換えなければならない。店もあちこち傷んできたのでメンテナンスに追われるようになった。それにな、昨今の不景気で客足落ちてる。今は金利が低いからええようなもんやけど、上昇してきたら経営破綻する。京都左京の清水店はビュウティサロンmitiyoの基幹店や。腰据えるため二階の一室で寝泊まりしている。そういうことはお父さんと相談して決めた。子供が大きくなったので大丈夫やとお父さんも言ってくれた。この店は従業員宿舎を兼ねているので、何気ない会話から流行りをキャッチできるし、何よりも絆が深まって人の流出を防げる。油断してたら、引き抜かれるか独立していく。神経休まることない日々を送っている」
経営が順調だと思っていたので、頭をガツーンと打たれた。巷では販売不振に陥り倒産とか、店終いとか、耳にするが私とこは大丈夫だと勝手に判断して気に留めていなかった。お母んの店もご多分に漏れず経営が苦しいことを初めて知った。
「何にも知らなかった。状況を話してくれへんからや」
「佳世に話したところでどうにもならんがな。心配せんでもええで。話があるんやろ。大学進学の事やろ。お母さんは中卒や、はっきり言って大志を抱いて大学に進むんなら全面援助するけど、みんながいくので大学にいっとかなあかん、程度の理由で進むんやったら反対や。美容師になって跡を継いでくれとは強制しないけど、手に職をつける専門学校に進んだ方がよいと思う。例えば看護師になるとか」
佳世は自分の進む方向を緒方貞子さんを持ち出して懇切丁寧に説明した。母親の胸に飛び込んで熱く語り心身を揺す振った。
「大それた希望やけど、よう解った。外務省に入るため外大を経て法科大学を卒業して大学院まで行かせてくれと言うことやな。佳世の学費ぐらい捻出できる。経費を節約して従業員一人解雇したら済むことや。佳世はそのことを頭に入れとかなあかんで。犠牲になった人の分で大学に行くんやからな」
母親が娘に諭す思いは厳しかった。
「私は家にいないときが多いので何事もお父さんに相談しいや。あの人は頼りないように見えるけど、判断が必要な岐路に差し掛かった時は適切な道を示す人や。若いころから家の事はお父さんに任せてきた。今日までちゃんとやってくれてる。そら、不満は渦巻いていると思うけど、不満のない人間なんて居いひん。お母さんは佳世は表に出るよりどちらかと言えば裏で支援する仕事に向いていると思っている。さっき看護師は如何やと進めたけど、弱者に寄り添うこともできるし困難に立ち向かう根性も忍耐力もある。愛嬌があって憎めへん特質を持っている。絶望している患者さんの女神になると思ったけど、佳世の話を聞いて考えと違った。法律を勉強して国家公務員になって外務省に入省できたとしたら、マスコミにもてはやされる華々しい出世街道を進むのではなく、恵まれない人の縁の下の力持ちになって尽くす仕事を選ばんとあかんで。高志君は外交官になって華々しく活躍したいようやけど相談したんか」
「一人で決めた。高志君とは別な大学に行くので高校卒業したら別れることになる」と言いきった。
「そこまで覚悟して決めたんなら、お母さんは応援する。途中で挫けたらあかんで、女子大生になったら誘惑が多いからな。遊びに染まったら歯止めが利かんようになる。そんなことは滅多にないと思うけどな。お母さんも経営危機を乗り切ってみせる。指切りしようか」
お母んの小指は佳世の半分もない太さだった。指切りしてから握りしめた手は火傷しそうなほど熱かった。
佳世は快い疲労感に満たされてその日の眠りに落ちた。夢の中でお母んに強く抱きしめられて眠っていた。
*
今日は体育祭である。どんよりした空模様ですっきりしなかった。しかし佳世の心には淀みのない澄んだ青空が広がっていた。
高志も佳世も思いっきり羽を伸ばしはしゃいだ。クラス対抗リレーでは闘志むき出しでヤジを飛ばしあった。
「おいっ、一組のヒヨロヒヨロ君、ラインからはみ出んと走れ!」
「三組のだるまさん、転がっ方が早いぞ!」
玉ころがしでは、佳代が躓いて玉の上に乗ってしまい、もんどりうって前に落ちた。
「こらー、余興すんな」
日頃、大声を出すことがないのでこの時とばかり喉が涸れるほど騒いだ。
下校時間になった。仲良しカップルが心の根を絡ませた。
「高志、毎日ジョギングしているので百メートル競走などへっちゃらやったな。二位になったのでびっくりしたわ」
「服部君は何にもしとらへんので、ビリやった。ゴールしてから魚のようにパクパク空気吸って座りこんどった。クラス対抗リレーで、ヒョロヒョロ君とヤジ飛ばしてたのを聞いたぞ」
「高志のヤジの方がきつかったわ。みんなは気にせんでええ、前と比べたらスマートになったと気遣ってくれた。ジョギングをもう一周増やしてもええで、スマートになるために。その方がええねんやろ」
「センター試験を乗り切る体力つけんとあかんからなあ。増やそうか」と、高志は佳世の理由づけをかわした。
「お母んと、じっくり話しあった。進学先の承認と学資を出してもらう約束を指切りした。外務省に入って働きたいと言ったとき、お母んは外交官志望の高志君と相談したんかと訊ねてた」
「突然外務省を目指すと打ち明けたら誰かの差し金かと思うわ。僕もびっくりしたからな。話し合えてすっきりしたやろ」
「すっきりした。これで勉強に専念できる」
「此処から道が狭くなるので気いつけなあかんで」
「ありがとう」
「素直な返事したのは初めてやな。あざっす、とか言っていたのに」
「勉強する時間をなかなか確保でけへんかったので、拗ねて不貞腐れていたけど解決したので、元の素直な私に戻らんとな」
「元は素直だんか、ぬけぬけと言ったな」
「ウザイわ」
それじゃあバイバイ」
「バイバイ」
*
佳世はもう一つ解決しなければならない問題を抱えていた。
夕食の下拵えを済ますと自転車に乗って東部公園に出かけた。外周路まで来ると、お父んの軽自動車の周りにごみがポイポイ捨ててあった。火挟で一つ一つ拾い上げてビニール袋に収納していった。ゴミで膨らんだビニール袋を自転車のハンドルに引っ掛けて帰路に就いた。
お父んはこの行為を止めない。お母んはお父んを全面的に信頼している口ぶりだった。公園でごみのポイ捨てして境遇の憂さ晴らししていることを知らないのだ。この事実を暴くのには勇気がいる。お母んのことだ、知ったらぼろくそに扱き下ろすに違いない。今以上に夫婦仲を裂くことになってしまう。不満のない人間なんていない、と一般的な感覚でお母んは言っていた。ひんねしの塊のようなお父んには当てはまらない。そんなことは夫婦なんだから分かっているはずなのに。それとも夫婦なんだから認めさせようとしているのか。
佳世は帰宅して、このところおませになって、話の相手ができるようになった紗世に打ち明けた。
「お父さんのポイ捨ては理由があるんや。その理由を大切にしたげた方が良いと思う。強制的に取り上げたら別な方法に奔るだけや。」
「そうか、そういうことか。だとしたらお姉ちゃんと紗世は如何したらよいんやろ」
「静かに見守っているしかないのと違う」
佳世は深刻に考え込んだ。話し相手の意見としては十分だった。
お母んに捨てられて、どうやらこうやら一つ屋根の下で付き合いが継続している父子三人の夕食が終わった。
突然、紗世が語り掛けた。
「あんなあ、好きな人がいるね」
ギクッとして心臓の鼓動が早くなった。
「その人が栞の裏に、〈沙世、好き〉と書いて渡してくれた」
「ああ、前に栞の交換で喧嘩したと言っていた子か?」
「そうや、あの時は恥ずかしくて言えへんかった」
「紗世はどのように返事したんや」
「〈私も好き〉、と書いてその栞を返した」
「それからどうなったんや」
「今のところそこまで、続きを待っているね。高志さんとはどんな付き合いしてるの、参考までに」
参考までに、か、こいつ、こましゃくれたことを言うようになったと思ってクスッと笑った。しかし先ほど一人前の意見を聞いたので茶化すわけにはいかなかった。
「そうやなあ、小さいころから一緒だったので高志君を好きな人として考えたことはなかった。友達としてずるずると付き合っている関係や」
「嘘や、嘘に決まっている。二人でよく遊びに行ってるやんか。どこへ行って、何してるの」
「あちこち行って、サンドイッチ食べたりアイスクリーム食べたりしている」
「ちゃんと答えてんか。もうキス何回ぐらいしたん」
「一回もしてへん」
「手を握ったことは」
「それはあるわ、小学校のときは手を繋いで学校に行っていた」
「ごまかさんといて、今の話をしてんか」
「紗世は小四や、その頃の話でよいのと違うの」
「そら、そうやけどな」
ここで思い出して、高志と嵐山へ行った時に出合った小学生の二人連れの話をした。
「ふーん。ご馳走作る勉強しなあかん。明日から夕食の支度を手伝うので教えてな」
こいつ真剣なんだ、子供扱いにしてきたが段々と大人の領域に迫っている、扱い方を見直さなければならない。
高志も妹の志乃に絡まれていた。
「お兄ちゃん。佳世さんとうまいこといっているのか?」
「うまいこといっているときもあるし機嫌損ねて口利かへんときもある。長い付き合いや、いろいろあるわな」
「足首痛めた時なんで佳世さん連れて来たんや。私は頼んでへん。私を出しにして誘いに行ったんやろ。なんでも佳世さんに相談しに行く、佳世さんでないと治まらんのか」
「志乃はそういう相手いないので僻んでるのか」
「学校から帰ってきても、お母さんは出かけているし、お兄ちゃんが帰ってくるまで一人ぼっちや。寂しいのでつい、はみだし者がたむろしている東部公園に遊びに行く」
「お母さんは何処へ出かけてるんや」
「昨日は四条の高島屋とかいうてた。何にも買ってこないのでウィンドゥショッピングして楽しんでいるのだと思う。綺麗な着物着て出かけるときは観世会館へ能や狂言を見に行くときや。祇園の歌舞練場へ踊りを見に行っているときもある。南座が興行しているときは歌舞伎を見に行ってる。実家に電話してチケット買ってもらっている。一度だけやけど、私も連れて行ってほしいと頼んだんやけど、子供が行くところではないと言って断られた」
「お母さんは家に閉じ込められているので憂さ晴らしに行くのかもしれん。お父さんはお母さんの好きなようにさせているつもりかもしれんけど、大きな間違いしていることに気づいていない」
「お母さんはそうやって憂さ晴らしているけど、私はどうしょうもない」
「脇目も振らず一生懸命勉強してたら進む道が見えてくる。お兄ちゃんは勉強することで憂さ晴らししてきた」
「私は勉強嫌いや。高校なんて行きたくない。お父さんはお兄ちゃんの大学進学で頭一杯や。私なんてどうでもよいと思っている。公園でたむろしている子にそんな話をしたら、『親は男の子に肩入れする、女は放ったらかしにしておいても風俗で生きていけると思っている。薄暗くなってネオンが瞬き始めたら京都の繁華街に移動してお爺をからかいお金巻き上げるね。学校なんて行かんでも面白く生きていける、グループの仲間になれ』と何度も誘われた」
高志はショック受けた。三歳下の志乃が兄妹の待遇に格差がついている、このままだとグレてやると言った。両親は気づいているのか、多分気にもかけていないだろう。
*
十月に入ると暑さは一段落して秋の気配を感じるようになった。
二学期の中間考査が今日から始まった。七日まで四日間続く。
下校時間になった。仲良しカップルが心の根を絡ませた。
「どうやった」と佳世が訪ねた。
「まあまあできた。僕らは試験の成績に一喜一憂して過ごすんや。中学は高校の予備校。高校は大学の予備校、大学は企業の予備校、みたいなもんや。社会人になったら企業の歯車になって生きていくんや。壊れたら取り外されて捨てられ、新しいものと交換されて終わりや。まあ、僕らは使い捨て歯車やな」
「えらい厭世気味たこと言うな、投げやりになったらあかんで、世の中は複雑なんや思う通りに行かへん」
「三年生は今月六日に大学センター試験の出願締め切りを迎えている。もう二日後や。来年は僕らの番や。一喜一憂している頃になる」
「それで、ええやんか、私はワクワクするわ」
「仕組まれたレールにそのまま乗っていく自分の姿に嫌気がさしてきた」
「そんなこと言うんやったら死んだらええね。悩まんでもええわ。生きていくには、世の中の仕組みにとけこんで上手に泳いでいかんとしゃあないやんか」
「佳世はそんなことを考えたことないの?」
「ない!」
「怒っているのか?」
「女々しい! この時期になってなんてこと言い出すの。呆れた。京大に入って外交官目指す、と言ってのけたあの意気込みは何処へいったんや。なんか嫌なことがあったんか」
「別にない、ふっとそんな風に考えるようになったんや」
「勉強本位の日々送っているから逃げたくなったんか。けどあと一年や、一年頑張ったらええね。頑張り次第で次のステップに移れる。大望を成し遂げる段階を克服せんと将来はないで」
腹立てたが高志の気持ちが何となくわかる。父親の方針に乗って一本道をひたすら走っているのだ。将来はこうあるべきだと摺りこまれてその気になって走ってきたが、これでいいんだろうかと首を傾げる時機がきたのだろう。余暇がなくて勉強しかすることがないように仕組まれれば、立ち止まって懐疑的な見方をしてしまう。苦しい、ノイローゼになる、と打ち明けたことがあった。その時は心の根まで深く追求しなかった。ほっぺたを叩いて気合入れた。ジョギングは他の目的で始めたのだが、高志が止めようとしない理由を今になって知った。苦しみを開放する手段はジョギングしかないのだ。一途な性格だけに心配だ。
「私が漫画読むのは漫画の世界で笑ったり怒ったり泣いたりして発散させているんや。演歌を口ずさむのもおんなじや」
「僕の家に漫画は置けない。歌えない。父親の許可なくしてリラックスすることはできない。なにしろ家中を絶対権限で統率して、四六時中見張っている父親に、歯向かうことは家庭を壊してしまうことになる」
「私の家は子供たちに開け放たれている。無防備で暗黙の自由がある。その方が良いとは一元的に言えないけれど、切羽詰まってノイローゼになるような圧迫感はない。別な悩みはあるけど」
「一時的な邪気かもしれん」
「邪気と違う弱気や。高志! 頑張るしかないで!」
後ろから自転車をぶっつけて気合入れた。
「バイバイ」
「ああ、バイバイ」気のない返事が返ってきた。
佳世がリビングのドアを開けたら珍しくお父んと紗世が仲良くコーヒー飲んで羊羹を食べていた。
「お前の嗅覚はすごいな」と、お父んがニタニタして言った。
「これ、万福寺の塔頭が作っている蓮の実入りの羊羹や」
「そうや、おいしそうだったので二本も買ってしまった」
「そんなら一本高志君にあげるわ。あいつこの頃元気ないね」
「また高志さんや」紗世が冷やかした。お父んも笑っていた。
一筋違いの高志の家に向かい、チャイムを押した。
母親の美鈴さんが出てきて「頂きます」と手を出して受取り玄関ドアをピシャと閉めてしまった。
佳世は去りがたく「せめて高志を呼んでくれたらよいのに⋯⋯」と不服そうに、閉まったドアの曇り硝子に映った自分の顔を見て、髪を手櫛で直してから踵を返した。
*
翌日の下校時間。仲良しカップルが自転車押しながら心の根を絡ませた。
「佳世! 羊羹ありがとう。お母さんはつっけどんな対応したと思うけど悪気ないから気にせんといてや。僕に会いに来たことぐらいわかりそうなもんやけど、そこまで気が回らなかったんやろな」
「何とも思ってないで、気い使わんといて」
「お母さんは家庭内阻害にあっとる。妹の志乃なんて、母親とは思えへん口の利き方して遠ざけとる。まあ、あれではしぁないな」
お母さんを見下したので、此処迄関係が悪くなっているのかと危惧した。
「話変わるけど七月にベネッセの高二進研模試受けたやろ、その時の平均点が六十点やった。六十五点以上取らんと難関国立大には受からへん。この点数では並の国公立大しか入れへん。お父さんにしこたま怒られた。毎日塾に通い、通信教育も受けて、頑張っているけど成果が上がらへん。いつも服部君に負けている。来月にまた模試がある、憂鬱や。成績なんて急に上がるもんではないからな。この辺りが僕の能力の限界やと思うようになった」
「服部君に負けてばっかりやから意欲が萎えたんか。そういう人を根性なしというね」
「うん⋯⋯」
「何が、うん、や!」
気合を入れるために佳世が後方から自転車を激しくぶっつけた。それでも高志は何の反応も示さなかった。
「あんなあ、高志、迷うは育てると同じや。すんなりいったら世の中を甘く見て増長する。せっかく得た成果を軽んじてしまう。まだ二年生や。いろんなことがあると思うけど頑張ろうな」
「⋯⋯」
秋は暮れるのが早い、自転車を押して歩く二つの影が長く伸びていた。道が細くなる箇所に来ても高志は何にも声掛けしなかった。家の近くで分かれる際もいつものバイバイをせず、しょんぼり別れた。
*
今朝は冷え込んだ。通学する生徒はネックウオーマーして首筋を覆っているか厚手のコートを羽織っている。高志は見かけによらず寒さに強くブレザーの下にベストを着用しているだけである。佳世は寒がりでセーターを着て、厚手のタイツ穿いている。さらに首筋にマフラー撒いてその中にこっぽり顔をうずめている。
高志と佳世はベネッセの高二進研模試を受けた。七月に続いて二回目である。高志が憂鬱やといっていたあの試験である。長時間なので終わったら気力体力を消耗してぐったり、しばらく椅子から立ち上がれなかった。
下校時間になった。仲良しカップルが自転車押しながら心の根を絡ませた。
「できたか?」と佳世が冴えない顔している高志に呼び掛けた。
「あーあ、つかれた。深呼吸何回もして脳に酸素送り込んだけど途中で集中力きれた。前回より悪いかもしれん。三回目は来年一月や。それまで脳を鍛えて立て直さんとあかん。佳世は如何やった?」
「四月のときの平均点は四十点やった。それよりは良い結果が出ると思う」
「目指す大学は楽勝やな」
「もうちょっとがんばったら公立大を受験できるかもしれん。くよくよしていてもしょうがないから前向く」
「明日から懇談会が始まる。お父さんが乗り込んでくる。前回四月分の模試とこれまでの学内考査が懇談の対象になる。身に余る支援をしてくれているので辛いわ」
「私とこはお父んとお母んが揃って来てくれる。両方に頼んだらどっちか来てくれるやろと思って二股かけたら両方とも行くと約束してくれた。私の進学に関心持つようになったので嬉しいわ」
「此処から道が細くなるので気いつけんとあかんで」
「あざっす」
「調子に乗ってたらまた自転車ひっくり返すで」
「さーせん」
「今日はご機嫌やな」
「当たり前や。両親が揃って懇談会にきてくれるねんで。小学生のときも中学生のときも、参観日に一度も顔出さなかった両親が来てくれるねんで、こんなこと前代未聞や。楽しみでしようがないわ。ウフフフ」
佳世が天空に駆け上がりそうなハイテンションで、
「バイバイ!」と高志を見送った。
「あー、バイバイ~」と疲れ切った声が帰ってきた。
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