『原発反対』、について考えた〜反対の反対
よく、とくに所謂左寄りと呼ばれるようなひとによって、『原発反対』だとか『原子力発電所稼働停止、廃止を求める』、というような主張が出されるのだと聞く。 それらを聞く度にわたしは、つい、は?と思ってしまってどうしようもないのである。え、なんで?という心境になるのである。なんのために? 震災時の事故を受けて特に声高らかにその主張派唱えられるようになったというきがするのだけれど、それはおそらくしんじつであろう。 しかし、だ。しかしなのだ。 まず、発電
エネルギー需給や国益よりも、ひとの命、安全が大切だ、という考えが根本にあっての、それを基にした主張なのだというのを前提にしよう。それはまんざら間違いでもあるまい。 しかし、そこでだ。 ほお、ひとの命がねえ・・・りなのである。 貴方方は、原発事故によるものより遥かに多くの命が失われているのを目の当たりにするなは何故平気なの?と言いたくなるのである。 そういった方々には、日本における、世界における自殺者の数。ご存知だろうか?と問いたくなるのである。昨今、減少傾向にあるとは言え、日本国内に限って言っても年間二万人超。世界レベルで言えばそれより遥かに多いハズだ。まして、今までの人類の歴史におけるその数と言えば・・・。考えるまでもあるまい。その数と一致する地獄の苦しみがあったのである。 今この瞬間にも自ら命を絶とうと苦しんでいらっしゃる方々がいるのである。 それらの方々の苦しみをよそに・・・、と思わざるを得ないのである。 だって、さ。人類の歴史における原発事故による犠牲者の数って、一体、どれ程のもの?はっきり言って、微々(びび)たるものだよ。比べものにならないくらい。 世界中みたって、今この瞬間、原発事故による犠牲者、ひとりたりとも出てないという気がするのよ。 いや、でも対して今この瞬間に亡くなってる方々って、数千万、下手すれば億単位だと思うのよ。 数ではないという人いらかもしれない。ひとりでも命、なのだと。でもさ。ひとの命を大事にするならもつと効率良い、というか、優先すべきことってない? なにも自殺者数に拘らなくたっていい。原発事故犠牲者
と交通事故の犠牲者の数を比べたっていい。どちらが多いか、数えなくたってわかるっしょ? じゃあ、なんで自動車反対運動、自転車反対運動はしないの? ひとの命は大切だ、って唱えることの本質を理解しようってことなんだよな。 その言葉を便利に、安易に使い過ぎって思うのよね。 発電にはエネルギー確保のための代替案がある、というひとがいるかもしれない。確かに。発電方法は他にもいっぱいある。でもね。経済なんだよね。国益なんだよね。国力なんだよね。経済の、軍事の発展が国民の命を守るんだよね。 お金で買った巡洋艦に搭載する迎撃ミサイル一発が敵の戦略核弾頭を一発撃ち墜とすだけで何十万、何百万もの命が救われるのよね。ざばり、原発動かさないで経済的な打撃があれば、買えるミサイルの数が減るんだよね。救える命が減るのよね。 自◯をしなきゃいられないような生きづらい社会の代替案だってあるはずなのよね。 メガソーラーだのなんだのよりそっちのほうが重要なのかもしれないのよね。 ということ。というような主張。なんだかまとまらない。