5 川が満ちる
アイルたちは夜の間中、バイユーの中を進んだ。そして夜が明ける頃、ようやく森を抜けた。
アイルはルークとオールを交代したあと、疲労困憊で小舟の底にへたり込んだ。彼はそのままぼうっと川の豊饒な流れを眺めていた。
ラインベルクの川面は、下流で起こっていることは露知らずに、洋々と流れていた。
ローラント南部を東から西へ走るラインベルクは、ウルゴーン山脈から注ぐ幾万もの支流に支えられ、巨大な水量を保っていた。川幅は、下流域のここでは六百ヤードを越えていた。
アイル達がいる左岸と違い、右岸すなわちラインベルクの北側には、草原地帯が広がっていた。
草原はのどかだった。放し飼いにされている牛が、余裕の表情で草をはんでいた。
アイルは皆に指示し、ラインベルクをしばらく進んだあと、船の進路を変え支流の一つに入った。そして藪のなかに船を隠し、一旦陸地に上がった。
【アイル】「今から食料をとりに行ってくる」
アイルはそう言い、森の中に入った。半日ぶりの硬い地面の感触を確かめつつ、彼は山の斜面を駆けていった。彼は狩猟小屋に向かったのだ。狩猟小屋はスホルト村の狩り場の西端に位置し、猟師たちは今いる支流より西側に出ることはなかった。狩猟小屋には食料や酒の備蓄が残っているはずだった。
アイルは、シダが生い茂る山の斜面をかき分けて進んだ。森には何万本という太いアカマツが自生しており、その幹は湿気に濡れてアイルの背の高さまで緑に苔むしていた。やがて木が開けた場所にたどり着き、そこにぽつんと立つ狩猟小屋が見えた。しかし、アイルは一目見て、小屋の異変に気づいた。
小屋の錠が壊されて、地面に散らばっていたのだ。アイルはそのまま歩を緩めずに方向転換し、森を迂回して小屋の側面に回り込んだ。ついで足を忍ばせて小屋の壁に張り付き、中の様子に耳を立てた。
小屋の中から、か細い女の声が聞こえてきた。
【低い女の声】「ここの食料は全て持っていきましょう」
【甲高い娘の声】「え、全部を持っていくの?少しは残しておかないと、あとから来た人が困るんじゃない?」
【低い女の声】「戦線はすでにここを通り過ぎています。残しておいても、腐ってゆくだけですよ」
【甲高い娘の声】「だけど、まだ逃げ遅れた人達がいて、必要とするかもしれないわ」
【低い女の声】「いたとしても、スホルトの人間しかこの小屋を知らないはずですよ。敵は西から攻めてきているのだから、スホルトは既に占領された可能性が高いでしょう」
【甲高い娘の声】「……ごめんなさい、スホルトってどこにあるんでしたっけ?」
【低い女の声】「父君の話を聞いてなかったのですか。ここからパルパットまでの中間にある小さな村ですよ。あなたは下界に降りたことがないから知らないでしょうけど、スホルトの村長はかつてかなり高名な魔術師だったのです。あなたの父君も弟弟子としていくつか魔術を授かったそうですよ」
【甲高い娘の声】「そんなに高名な人が守ってるんだから、村人はまだ生き残ってるかも」
【低い女の声】「それはありえません。希望的観測は捨てましょう。スホルトは全滅したと考えるべきです。さあ、この干し肉を全部詰めて」
【甲高い娘の声】「うん……あれ、これってポルチーニかしら?初めて実物をみたわ」
【低い女の声】「そうみたいですね。それも全部持っていきましょう」
【甲高い娘の声】「かなりの量があるけど……あれ、この魚は何?」
【低い女の声】「さあなんでしょうね。あなた分かる?」
【男の声】「これはタラですね」
【甲高い娘の声】「タラ?」
【男の声】「タラは、海の魚ですよ」
【甲高い娘の声】「へえ、なんかグロテスクね。深海魚ってこういうきちゃない見た目だって聞いたことあるけど」
【男の声】「タラは深海魚でもありますけど、そんなにグロテスクですかね?」
【低い女の声】「アベル、その子はそもそも干物が何なのか分かってないのよ」
【男の声】「ああ、なるほど……」
小屋の中で、三人が立ち上がる音がした。アイルは静かに短剣を抜き、扉の真横に背中を貼り付けて待った。
アイルは高い声のする娘を人質に取りたかった。話を聞いた感じでは、彼女が三人のなかで最も地位が高く、最も頭が悪そうだった。。
扉が開かれ、女が出てきた。女の長いマリーゴールドの髪が、朝の横日を浴びて一瞬まぶしく輝いた。
アイルはその白い細首に腕を伸ばすと、一気に扉から引き放し、喉元にナイフを突き立てた。
【娘】「きゃ!!!」
女は短く甲高い悲鳴を上げた。
【アリア】「そこから動くな!」
アイルは小屋から距離を取りながら怒鳴った。
中の男は、すでに腰の細剣を抜き放ち、小屋から出て大股でアイルとの距離を詰めてきた。
【アイル】「おまえ達は何者だ!」
アイルは後ろ足で下がりながら言った。アイルは男の顔を見て驚いた。側頭部から長く尖った耳が突き出ていたのだ。こいつらはエルフだ。見れば、アイルが今つかんでいる女の頭からも橙色の髪の毛から長い耳が突き出ていた。
【アイル】「小屋から出るな。もう一人の女もだ!返事をしろ!」
アイルは叫んだ。
しかし、男はアイルを無視してさらに距離を詰めてきた。アイルが首を曲げ小屋の中の様子を覗くと、家の中はすでに空になっていた。いつの間に脱出したのだろうか。もし脱出したのだとしたら、森を回り込んで襲ってくるか?
アイルは下がり続け、小屋からも周りの木々からもさらに距離を取った。
【アイル】「お前たちはどこから来た!」
男はなおも無言で距離を詰めた。
アイルは女の細首にナイフの先を突き立てた。一滴の赤い血が細かい金の産毛に覆われた女の細い首を滴り落ち、赤い玉を作った。
男はようやく歩を止めた。
【男】「俺たちはリッテンベルクから来た!ここから南の砦だ!」
【アイル】「なんだと?……そんな砦があるなんて聞いたことはないな。お前の名前は」
【男】「アベルだ」
【アイル】「ここで何をしている?」
【アベル】「……我々はブリスコーへ向かう途中だ。君はこの狩猟小屋の持ち主か?だったら、勝手に使って悪かったな」
【アイル】「なぜブリスコーへ向かう」
【アベル】「砦が魔物に襲撃されたので逃げている。ブリスコーが避難場所だと言われてる」
【アイル】「お前たちはスホルトを知っているようだな。村と何か関係があるのか」
【アベル】「僕たちはスホルトの人間と情報交換をしている」
【アイル】「なんの情報交換だ?」
【アベル】「魔物の活動場所とか、その年の赤竜の飛翔範囲とかだ」
【アイル】「俺はそんな話は聞いたことがないな」
【アベル】「西部連隊の一部とあんたの村の上役しか知らないんじゃないか」
【アイル】「なぜ隠す」
【アベル】「僕たちは隠れて住んでる」
【アイル】「なぜだ?」
【アベル】「自分たちの存在を知られていなければ、厄介者に襲撃されることなどない」
【アイル】「今の話の証拠は?」
【アベル】「あんたのダマスカスナイフが証拠だ」
【アイル】「ほう?」
【アベル】「エルフがダマスカスの作刀技術を南部連隊に渡したんだ。この地域全体の治安維持のためにね。持ち手の装飾を見ろ」
アイルは男の細剣の柄をと自分のナイフの柄とを見比べた。たしかに2つの金細工は同じ美術様式のようだった。
アイルは娘から手を離した。娘は飛び退るでもなく、アイルに振り向き顔を向けた。そこにあったのは一風変わった表情だったたそれは怒りなどではなく、むしろ好奇心とでも呼ぶような表情だった。
なぜだか、彼女はアイルに一歩近づき顔を覗き込んだ。
娘は美しかった。ターコイズブルーの大きな瞳がアイルを見つめていた。
無防備な女だ。
アベルが背後から少女の胸に手をかけ、身を引き寄せた。そして抜身の刀身をゆらゆらとまたたかせながら、再びアイルを睨みつけた。
アイルはため息を付き、両手を掲げて言った。
【アイル】「悪かった。今の話は全部信じよう。俺はスホルトの人間だが、俺たちの村も魔物に襲撃されて逃げてきた。今はブリスコーへ向かっている最中だ。俺たちは船を持ってるし、道もわかる。一緒に来るか?」
【娘】「行く!私の名前はアリア。もうひとりいた女の子はテオよ。よろしくね」
【アイル】「ああ。俺はアイルだ」
アイルはそう言い、二人とすれ違って再び小屋に入った。すれ違いざま、アベルの持つ細剣が少し揺らいだが、アイルは無視した。彼が小屋の扉をくぐると、後ろで彼が剣を鞘に納める音がした。
彼は小屋に入ると、床板の境目に指を引っ掛けて引っ剥がした。床の下にはまだ四つの荷袋があり、アイルはそれを全て取り出してエルフ達に持たせた。そして自分は棚から薬壺と竹の釣り竿、そして酒の瓶を取り出した。
【アベル】「酒なんか持っていくのか?」
【アイル】「ああ。酒はいろいろ使い出があるからな。まあ、使わなかったなら捨てるよ」
三人は連れ立って森の斜面を降りていった森を抜けると、葦の向こうに小舟が見えた。
小舟の縁に女が立っていた。彼女は長剣を抜き、それをアマンダノ首元に寝かし、やってくるアイルを睨みつけていた。
ルークとペトラは、後ろ手に紐で縛られ、小舟の底に寝かされていた。
アリアが大声で叫んだ。
【アリア】「ナ・カ・マ!」
その女は遠くからみてもわかるほど肩で大きなため息を付き、剣を鞘に収めた。
ーーーーー
三人目のエルフはテオと名乗った。彼女は細い金髪をサイドテールに結った、つり目の凛とした雰囲気の女性だった。
アイル達は船に乗り込んだ。船は七人が乗るには少々手狭だったので、テオとルークは船尾の船べりに腰かけた。積載量としてはほとんどギリギリだろうか、船は水面にどっぷりと沈んでいた。
アイルはバランスを崩さないよう慎重に船を出した。 船はゆっくりと岸を離れ、引き波を川面に立てながら進みだした。
【テオ】「あなたの傷を見せて」
テオはルークに言った。彼は、右の手首から血を流していた。おそれくそれは、テオに切りつけられたのだろう。
テオは荷袋からガラス管のような物を取り出した。その透明な管の底には緑色の液体が入っていた。
彼女は栓を抜き、ルークの傷口に液体を注いだ。
【ルーク】「いっ!」
ルークはそういってピクリと全身を震わせた。
【テオ】「しみるかしら?」
【ルーク】「ああ」
【テオ】「じゃあ我慢して。痛いっていうことは薬が効いてるってことよ」
【ルーク】「……ああありがとう。見た目に違わず、君はSっ気があるようだな……いててっ」
ルークが茶化すと、テオはガラス管を傾けて液体をルークにぶちまけた。ルークは苦悶の表情を浮かべつつ、笑っていた。
【アイル】「なあお前たち、このエルフひとりに負けちまったのか?」
【ルーク】「ああ、そうだ。油断したんだ」
【アイル】「油断で済む問題か?……もしこいつが敵だったら、みんな殺されてたんじゃないか」
【ルーク】「君の言う通りだ。しかし、何ぶんエルフというものをはじめてみたからね。それにこのひとは、美しい。見惚れてしまってね……おいててっ」
テオは包帯をきつく縛って、ルークを黙らせた。
彼らは支流を渡った。そして、葦の中に小舟を隠して、陸地に上がっり、斜面を登った。斜面の上からは、ラインベルクの本流が直接視認できた。
その斜面は緑の草むらからあちこちで白い石灰岩が突き出しているカルスト地形だった。アイルたちはそのうちの一つの岩陰に腰を下ろした。
【アリア】「ねえ……ここって安全なの?」
【テオ】「スノウマンのことなら心配する必要はないわ。やつらは生身じゃ川を渡れないもの。溶けちゃうから」
【アイル】「雪男に追われているのか?」
【テオ】「ええ。でも多分もう撒いたわ……」
【アイル】「まあ、この暑さだし、こんな低地までは降りてこないんじゃないか。ところであらためて言うが、俺たちはスホルトから逃げてきた。今はブリスコーに向かって川を上っている途中だ。ここらの地理にはそれなりに詳しいつもりだ。そっちは?」
【テオ】「私達は山脈の奥にある砦から来たわ。二日前に魔物の軍隊に砦が襲撃されたの。私たちは本体と分かれて川を下ってる。目的地は同じくブリスコーよ」
【アイル】「山奥って、この川の上流か?リッテンベルクとか言ってたが」アイルが訊いた。
【アリア】「リッテンベルク?それなに?」
アリアが純粋に疑問に感じたような口調でそれを聞いた。テオとアベルは、ふたり揃ってアリアを見つめ、そして大きくため息を吐いた。
【テオ】「リッテンベルクっていう名前はね、煙幕よ。ほんとは砦に名前なんてついてないわ」
【アイル】「なるほどね。課税逃れか」
【テオ】「あ・の・ね、あたしたちはエルフよ。そんな低俗な理由で隠れて住んでるんじゃない」
【アイル】「へえ。じゃあなんで隠れて住んでるのさ?」
【テオ】「私たちはここからもっと東の土地から、訳あって移住してきたのよ。あたしたちの血族は3千年の歴史がある。たとえゼクターの血を継ぐ王権が相手でも、へりくだるわけにはいかないわ」
【アイル】「でも君たちは、これからブリスコーに逃げるんだろ?」
【テオ】「そうよ。何か悪い?」
【アイル】「随分都合のいいことで」
【ルーク】「なあ。君たちはそんな山奥に住んでいて、赤竜に襲われたりしないのか?」
【テオ】「王が千年前に描いた魔法陣が、私達を守ってくれているのよ。私は詳しいことは知らないけど」
【ルーク】「へえ。俺らんところにも魔除けの魔方陣はあるけど、龍が降りてくる度にバリスタ打ち込んだり銃を射ったりで村中てんやわんやだけどなあ」
【アイル】「そうだな。まあ、なにはともあれ、とりあえず飯にしよう」
【アイル】 アイルは荷袋を漁り干し肉を取り出すと皆に配った。肉はかなり湿気っていたが、贅沢は言えなかった。アイルは革袋をルークに放り投げて言った。「それに水汲んできて」
【テオ】「待って。火を起こすつもり?」
【アイル】「ああ。少しの間だけな」
【テオ】「ちょっと待って」
テオはそう言い、ルークから皮袋を受け取った。そして袋の口を開けて地面に置き、その穂口の上で両手の指を組んだ。
テオは口中で静かに呪文を唱えはじめた。みなテオの方を向き、注視していた。
【テオ】「|氷のつららを生む出す魔法《öum el jackt el dhash》…… 」
アイルの耳に理解できない、異国の言葉が響いた。恐らくそれは、古代のエルフの言葉だろう。
やがて彼女の両手の中に、小さな氷のつぶてが現れた。それは段々と長く大きくなり、そして一本の長いつららが形成された。
つららは、青かった。彼女はつららをボキボキと折って皮袋の中に入れた。
【テオ】「魔力が雲散すればそのうち溶けるわ。生水と違って安全よ」
【ルーク】「へえ、すごいもんだな」
しばらく待った後、彼らは皆で革袋をまわして水を飲んだ。アイルは、徹夜の船漕ぎの疲れがたまり眠気を感じたので、草むらに横たわり眠った。
ーー
アイルは体を揺すられてぼんやりと眠りから覚めた。
アリアが彼の体を揺すっていた。彼が身を起こすと、アリアは川を指さした
そこには、帆船がたくさん浮いていた
サれは、ザクセンの船だ。
アイル「いまは川を下れないな。夜になってから移動しよう
テオ「賛成よ」
アイル「じゃあ、寝床を探そうか」
わかったわ
そのうちに天気が変わり、小雨が降り出した。竜は雨を避け、山の方へと飛び去って行った。アイル達は、ゆっくりと森から這いでてきた。
ーー
アイルたちは崖沿いの斜面を登り、雨よけになり、かつ死角になる場所を探した。しばらく丘を少し上ると、彼らは小さな洞窟を見つけた。洞窟は深さ40フィートほどの小さなくぼみで、中は乾燥して清潔だった。
アイルは荷袋から布を取り出し、固く冷たい石の上にそれを広げ、その上にダークエルフをそっと寝かせた。
彼女は深くゆっくりとした呼吸をしていた。細く繊細な銀髪は片口までかかり、白く長いまつげが褐色の堀の深い顔を彩っていた。彼女の両の手首は、縄を解こうと動かしたからだろうか、激しい擦過傷でただれていた。ネネは荷袋から布を取り出し、彼女の全身をぬぐい始めた。
アイルは急激に疲労を感じ眠くなった。昼間の眠りは中断されたし、おまけに川をひと泳ぎしたのだ。彼は荷袋から自身の布を取り出すと、すぐにその上に横になった。
ルイが荷袋から干し肉を取り出し皆に配った。アイルは寝ながら口の端にそれを咥え、唾液で湿らせて柔らかくしたあと犬歯で噛みちぎった。鹿肉は塩気の利いた野趣じみた味がした。アイルは口を動かしながら言った。
【アイル】「夜の暗いうちに川を下りたい。みんな今日は昼のうちに寝て体力温存してくれ」
アイルは肉を飲み込むと、体を横にずらし場所を開けた。彼の真横に、当然のことのようにルイが横に滑り込んできた。そして二人は肌をぴっちりとくっつけて布の下に並んだ。
【アベル】 アベルは怪訝な顔をして言った。「ええ……君たち何やってるの……」
【アイル】「体を冷やさないように一緒に寝るんだよ。それが一番体力奪われるからな。お前も早く入れ」
アイルは言い毛布代わりの布をはだけて体を見せた。
【アベル】「いや、男同士で寝るのはちょっと、……遠慮しとくわ」
【テオ】「アベル、言う通りになさい」テオが命じた。
ネネはスカートの埃を払った後、ダークエルフの隣に横になった。ララはその反対側から挟み込んだ。アマンダはエルフ達二人と同じ毛布にくるまった。
アイルは体を起こしてテオを見た。女達はすでに肩を寄せて毛布にくるまっていた。女はこういうことに抵抗は少ないのだろう。
このエルフ三人は一体どういう関係なのだろうとアイルは思った。いつの間にかテオは敬語を使わなくなっていた。おそらく最初はアリアの身分を隠したかったのだろう。想像だが、アリアが上級貴族でこの二人はお付きの護衛か何かだろう。
アベルは嫌々アイルの隣に入り込んだ。アイルはアベルの体に毛布をかけた。
【アベル】「……この布、なんだか温かいな」
【アイル】「石綿っていうんだよ。繊維みたいにほぐれる石があって、それをフェルトにしてあるんだ」
【アベル】「へぇ」
【アイル】「この布って火をかぶっても燃えないんだぜ。だから火浣布とも呼ばれてるんだ。エルフなのに知らないのか?」
【アベル】「知らないな。俺たちは千年間山奥に引きこもって、ほとんど誰とも交流はなかったから……」
【テオ】「アベル。あんまり私たちのこと喋らないでね」
【アイル】「俺は別に詮索してるわけじゃないよ。ただの世間話じゃない」
【テオ】「……」
【アイル】「なあ、お前たちってこの川の上流から来たんだろ。あのワイバーンをどうやって避けてるんだ?確か魔方陣があるとか言ってたな」
アベルはテオの方を振り向き、喋っていいかという顔をした。テオはため息をついた。
【テオ】「なんでそんなこと知りたいの?」
【アイル】「後学のため知りたい」
【テオ】「……ダヴィデの防御円よ」
【アイル】「それってダヴィデの防御陣とおなじものだよな?六芒星を円で囲ってある……」
【テオ】「ええ、それならおなじものよ」
【アイル】「俺たちの村にも防御陣はあるけど、しょっちゅうドラゴンに襲撃されるけどなあ」
【テオ】「それはたぶん、標高が関係あるんだと思う」
【アイル】「標高?」
【テオ】「防御円は、物理攻撃に対しては脆弱だけど、本来ならその鉛直上には魔力を一切通さない絶対的な魔力防御があるのよ」
【アイル】「一切?」
【テオ】「そう、一切。だけど実際には、防御円の上には空気が広がっている。そして矢の速度が空気の力で減衰するように、防御円の力も空気に触れて減衰していくのよ。標高が高い場所では、空気が薄いから、この減衰が緩やかになる」
【アイル】「なるほど」
【テオ】「そして一定高度を越えると、今度は竜の飛翔限界を超える。これによって、高度地帯では防御円は竜に対して無敵に近い防御力があるのよ」
【アイル】「へえ」
【テオ】「本来、ダヴィデの防御円は天候不順ですぐに結界が破れるっていう弱点があるけど、ウルゴーンに住んでいるのは火竜でしょう?雨や雪が降ると、あいつらは巣穴に引きこもっちゃうから……」
【アイル】「なるほどな、それで火竜に対しては無敵なのか。とすると、俺たちは逆に、山脈の奥に住んじゃった方が安全なのか?」
【テオ】「けど人間にとって、雪山で暮らすなんて酷じゃない?エルフでも凍死するぐらい寒いけど」
【アイル】「あ~確かに。寒すぎるのはつらいかもね」
【テオ】「食べるものもないし」
【アイル】「なるほどね。エルフは苔を食うって聞くね」
【テオ】「イシクラゲとかね。人間はこれ食べてるって言うとドン引きするらしいけど」
【アイル】「確かにドン引きだわ」アイルは笑った。
【テオ】「けどあなた、こんなこと聞いて、どうする気?」
【アイル】「ああ、村に戻ったときのために、参考にしたいとおもってね」
【テオ】「戻るって、どうやって?」
【アイル】「どうもなにも、戦って村を取り戻すつもりだ」
【テオ】「戦うって、騎士団にでも入るつもり?」
【アイル】「騎士団か、徴募兵か。義勇兵か、冒険者か。あるいは傭兵か。なんでもさ」
【テオ】「そう、立派ね……」テオは短くそういうと、再び布を頭からかぶった。
【アイル】「みんな聞いてくれ。これからのことを話す」アイルは言った。「このあと、船でブリスコーへ向かうが、その前に、ルアンという村に寄りたい。さっき言った、石綿の鉱山がある場所だ。もう避難はしてるとは思うけど、念のためオークについて警告して、できれば避難も手伝うつもりだ」
【テオ】「人助けなんかしてる余裕、あるかしら」テオが毛布の下から反論した。
【アイル】「友達がいるんだよ。どうしても寄りたい」
【テオ】「さっきも話したけど、昨日の夜にこの支流の出口に帆船が停泊してたわ。だからラインベルクはもうとっくにオークの支配下にあるはずよ」
【アイル】「そうかもね。だが下流が全部そうなってるかは分からない。もしルアンが敵に支配されてどうしようもない場合は、そのときはルアンは諦めてブリスコーに進む。それでいいか?」
【テオ】「分かったわ」
【アイル】「アリア、あんたはそれでいいか?」アイルが訊いた。
【アリア】「え?うん、いいわよ」アリアは答えた。
【アベル】「なんでアリアに聞いて俺に聞かないんだ?」アベルが抗議した。
【アイル】「ああごめん。だってお前三人の中じゃ一番下っ端だろ」アイルが言った。
【アベル】「なんでそう思うんだ?」
【アイル】「別に、態度見てればなんとなくわかるよ。多分アリアはお前たちの貴族かなんかなんだろ」
アベルは毛布の中でびくりと体をこわばらせた。テオは毛布をはねのけ、アイルを睨みつけた。
【テオ】「何を根拠にそう思うの?」
【アイル】「あ、やっぱりそうなんだな」
【テオ】「鎌かけなの?ふざけないで。小屋の会話を盗み聞きしたのね」
【ネネ】「あたしも、二人の会話を聞いてて、なんとなくアリアちゃんは偉い人なのかな、とは思ったけど……」ネネが隣から口を挟んだ。
【テオ】 テオは横目でネネを睨んだ。「あたし、何か口を滑らしたかしら?」
【ネネ】「まあ、会話の端にちょっとだけ。ほかには、アリアちゃんの仕草とか、話してる感じとかでなんとなくそう思ったの。あとは顔かな?すごい美人だから……」
【テオ】「顔?」テオは眉間にしわを寄せた。
【ネネ】「そう、顔。なんとなく高貴なお顔をしてるな、と……」
アイルは、アリアの地位を示唆する会話があったか、記憶を探したが見つからなかった。恐らくアイルが眠っている短い間の会話で何かあったのだろう。
テオは、「はあっ」と大きなため息を吐くと、今度こそ頭から毛布をかぶり、起きてこなかった
【アリア】「あたしってそんなに美人なの?」
【ネネ】「ええ、とってもかわいいわよ」
【アリア】「やっぱりぃ?私もしょっちゅう鏡みながらあたしって美人じゃないかって思ってたのよ~」
二人は笑いあった。アイルは二人に向かって口を開いた。
【アイル】「悪い。散々俺が話振っといてあれだけど、もう寝たいから……」
女二人は、くすくす笑いながら静かになった。
アイルは強い睡魔に襲われた。彼は毛布に顎まで潜り、強く目をつぶって眠りに落ちて言った。