復讐に燃える戦争の英雄様を説得したら、幸せな日々が待っていました。
よろしくお願いいたします!
「……あんな奴等、生きてる意味なんてない。消えてしまえ」
裏庭の端で城壁に蔦を伸ばして咲いた薔薇を眺めていたクロエは、風に乗って遠くから聞こえてきたその声に気付いて駆け出した。
今夜は王城で戦争の勝利を祝う夜会が開かれている。クロエは夜会に参加していないが、万一こんなときに王城内で事件でも起これば、それはなんて不吉なことだろう。
声が聞こえた方向に走って行くと、やはり人気がないところに一人の男性が立っていた。
その男性の近くの地面には、何らかの魔法を発生させるための魔法陣が書かれており、今にも周囲を焼き尽くそうとするかのような不吉な赤い光が浮かび上がっている。
それが形作ろうとしているのは、炎の鳥だ。
「待って!」
クロエは数年ぶりの大声で男性を制した。
男性の赤色の瞳がつまらないものを見るようにクロエに向けられ──その一瞬の隙をついて、クロエは近くにあった小石を拾って思いきり投げる。
起動途中だった魔法陣に傷が付く。
難しい魔法や規模の大きい魔法ほど、魔法陣の形は複雑になり、同時に繊細になる。この傷が付いた魔法陣は、もう用をなさないだろう。
不吉な赤い光も消えていく。
つまりこれで、今夜起こるであろう事件が一つ未遂に終わったことになる。
ほっと息を吐いたクロエは震える足で立っていられず、男性に数歩歩み寄ったところで
ぺたりと座り込んだ。
「……何の用だ」
男性が冷たい声で言う。
フード付きのマントを被っているが、その中に着ているのは夜会用の盛装だ。
招待客の一人なのだろうか。それとも、招待客のふりをした犯罪者なのか。
いずれにしてもクロエは、この男性に犯罪をさせるつもりはない。
「この王城内で起ころうとしていた犯罪行為を見逃すわけにはいきません」
座ったまま顔を上げて男性の顔の辺りを睨み付ける。
家族から忌み嫌われている夜の闇より深い黒髪がさらりと揺れて、隠れていた金色の瞳が露わになった。
瞬間男性が息を呑んだのを、クロエは見逃さなかった。
この国の国王には、王子が二人と王女が三人いる。
二人の王子は評判も頭も良い美青年。
二人の王女は美しい金色の髪を持つ華やかでしとやかな令嬢。
最後の一人──末っ子の王女は、呪われた子だ。
「その髪と瞳──第三王女か」
クロエが呪われていると言われる理由は単純で、黒い髪が不吉だからだ。
この国では昔から黒は死を司る色だとされている。
それを持って生まれた子は不吉だと、凶事を呼び込む忌み子だと言われ、まだ赤子の内に殺してしまうのが常識だった。
しかしクロエの母親は隣国の王女だった。
隣国では黒に対する偏見はない。クロエの母親は、生まれたばかりの赤子が殺されようとするのを見て、子供を殺せば自分も死ぬと抗議した。
そうしてクロエは生き残ることができたが、母親が数年前に死んでからは義母や姉妹達から虐げられるようになり、同時に怖い話の一つとして語られるようになった。
そのため、クロエは誰にも姿を見せないように後宮の奥に引きこもっていたのだ。
風が吹いて、男性のフードが落ちた。
そうして露わになったのは、炎のような赤髪だ。男性を知らない人間は、この国にはいないだろう。
クロエも後宮内の噂話をこっそり聞いて知っている。
「ええ。そう言う貴方様は、戦争の英雄様ではありませんか」
名前はロベール。
いかにも男性らしい大きな身体を持つ赤い髪と瞳のこの男性は、長く続いた魔界からの侵略戦争を終結へ導いた英雄である。
「せっかく貴方が守った国を、破壊することもないのでは? 褒美もたくさんもらえるのでしょう?」
両親を亡くし教会に身を寄せていたロベールは、幼少期の内に国から剣と魔法の才能を見いだされ、特別な訓練を受けたのだという。
その努力と才能が魔界との戦争を勝利へと導いた。
魔物との戦いで最前線で戦い、それまで誰も見つけることができなかった魔界から人間界へと魔物がやってくる唯一のゲートを発見し、独力でそれを破壊したのだ。しかもそのゲートは、王都から見える山の頂上にあった。
国王の駒の一つだった戦争兵器が、その瞬間に国の英雄になってしまった。
誰が見てもロベールの功績だと分かってしまう戦争の終結に困ったのは、国王と貴族達だったに違いない。
「領地と爵位と金。あと嫁だそうだ」
「すばらしいことですわ」
地面に座ったまま、ちらりと魔法陣に目を向ける。
改めて見ると、それは王城をすっぽり覆ってしまうほどの大規模な炎を生み出す魔法陣だった。火力も最大になるよう設定されている。
王城にいる人間をすっかり全員消し炭にするほどのものである。
本来王城内で魔法は使えないのだが、王城内の魔力封じを無効化する術式まで刻まれている。さすが、英雄になるに相応しいだけの能力だ。
「それで、どうしてこのようなことを? 守った国を滅ぼすこともないでしょう」
「領地は故郷を含む辺境の貧しい土地で、金は金貨一袋。……爵位は伯爵だそうだ」
「それは──」
「この冬を乗り越えるだけでも、金貨は足りないだろうな」
クロエは自分の父親である国王の考えを理解してしまい、目を伏せた。
魔界からの侵略の危険がなくなった以上、ロベールの持つ力は危険かつ不要である。しかし他国に逃げられてしまえば、今度は自国に攻めこんでくるかもしれない。
逃がさないために人質となる領地を与え、国のために更に力を利用するためにわざと金貨を少なく与え、維持になにかと金のかかる爵位だけは高位の伯爵にする。
分かりやすい飼い殺しの報奨だった。
せめて金がこの十倍あれば、故郷を復興させるために国が援助するという建前くらいにはなっただろう。
「英雄様に与える褒美ではございませんね……」
「だろう? しかも俺の領地のいくつかの村では、戦争が終わった後に不審な火事があったらしい。どうやら国に雇われた破落戸のようだ。……そんなに俺に殺されたいというのだから、望み通り殺してやろうかと思ってな」
領地の復興のためにロベールを縛り付けるためなのだろう。
ロベールの顔は笑っているのに、目が少しも笑っていない。
「……ですが、王城を燃やしても、村は戻りません」
「だが、死者まで出た大火事だった。命を命とも思わないのなら、自分もどうなっても良いということだろう」
「確かに、良い人間ではありませんが」
クロエを後宮の奥に押し込め、誰にも会わないよう軟禁し、厳しい教育を受けさせた。体罰を受けたこともある。不吉なことが起こるたび、クロエのせいだと責められた。
自分は決して立ち入ることのできない華やかな夜会の明かりを、遠くから見ることができれば良いと、それだけでこっそり誰もいなくなった後宮を抜け出してきた。
クロエも国王を、そしてこの国の言い伝えを恨んでいる。
「そうだろうな」
「ですが、王城には罪のない人が大勢います。彼らを巻き込むのはいただけません。それに国王を殺したところで、何も変わりません。ただ貴方の名前が落ち、殺され、苦しむのは領民です」
クロエが言葉を重ねるたび、ロベールが落ち込んで小さくなっていく。
きっと今ロベールにこの言葉が届くのは、クロエが呪われた子だからだ。同じ者を恨む仲間として、言葉が届いているのだ。
誰に褒められなくても、ここでロベールがこの犯罪を止めてくれるのならば、クロエにも生きた意味があるような気がする。
弱い心を隠して、必死でロベールの瞳を見つめる。
「復讐心に囚われるくらいなら、前を向きましょう。貴方の領民を救えるのは、貴方だけなんですから」
ロベールの領民を守れるのはロベールだけだ。
クロエの話を真剣に聞いていたロベールは、右手で髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、クロエと視線を合わせるようにその場にべたりと座り込んだ。
その行動に驚いて咄嗟に下がろうとしたクロエの手首が、ロベールに握られる。
「──……俺はどうしたらいい」
「領民のために良き領主となり、国が一目置く貴族になるのがよろしいかと」
「俺には貴族らしい振る舞いも、領地運営の知識もない」
「奥様をもらわれるのでしょう? お話を聞く限り貴族の令嬢でしょうし、その方に教えてもらえばよろしいかと思います。指導者を雇うという方法もございますし」
「妻に……」
「ええ。それに英雄様はお顔も整っていらっしゃいますし、きっと奥様とも仲良くやれると存じますわ」
「……お前はどうだ」
「え?」
「王女は、もし嫁いだら夫のために色々教えるのか?」
クロエは不器用な笑みを浮かべた。
そんなこと、起こるはずがない。
クロエのような不吉な人間を嫁にする人間はこの国にはいないだろうし、万一結婚しても人目に触れないように過ごすよう言われるに決まっている。
または、厄介払いのために外国へ売られるか。そこでならば黒髪への差別はないかもしれない。しかしそうした結婚において、母国で価値のない王女を大切にしようとする夫を得ることは難しいだろう。
苦労して蓄えた知識と能力が今後一生日の目を見ないことは、クロエが一番分かっている。
それでも、ロベールが王城を燃やすことを諦めてくれるのなら、クロエもあり得ない夢くらい口にしよう。
「ええ。私は、夫のため、領地のために持てる全てを捧げるでしょう」
クロエが言うと、ロベールは目を見張って、掴んでいた手首を離した。
少し痛みを感じたそこを反対の手で擦る。
「──言ったな」
「ど、どういうことでしょうか……」
どういうことか、それをしっかりと聞く前に、ロベールは立ち上がってマントを脱いだ。
そのマントをクロエの頭の上に放り投げる。ばさりと乗ったマントで視界が遮られ、慌ててマントの端を引っ張った。
腕の中で抱えたマントから顔を上げると、ロベールはもうそこにはいなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夜、夜会会場の片隅である家の令嬢が泣いていた。
令嬢の名前はカサンドル。とある子爵家の娘である。
泣いていたのは、国から戦争の英雄と結婚しろと言われたからだ。
英雄は顔こそ野性味がある美形だが、平民出身で粗野な男性だという。先程夜会会場で見かけたときにも、貴族の礼儀作法を全く知らない野蛮な振る舞いであった。
領地はど田舎の山しかない貧しい辺境。少ない領民からの税収は微々たる物だそうだ。報奨の金額も少なかったため、これまでのような貴族らしい生活は送れなくなる。
「それもこれも、お父様のせいよ」
国王が議会で英雄の妻を決めたいから誰か名乗り出てほしいと言ったとき、カサンドルの父親が真っ先に手を上げたらしい。
いくら国王に好かれたいからって、娘を売ることないだろう。
母親は抗議してくれたが、議会の決定となったことを『嫌だから』だけで拒否することはできない。
泣くカサンドルを励ましてくれているのは、仲の良かった令嬢達だ。
カサンドルのことを哀れに思いながらも、自分ではなくて良かったと安堵していることが分かる表情で、カサンドルのことを囲んでいる。
「王都に戻ってきたらまた会いましょう」
「いつでも遊びに来て」
令嬢達は、辺境に遊びに来るとは言わない。
つまり、そういうことだろう。
溜息が零れそうになるのを堪えたところで、玉座の辺りが騒がしいのに気が付いた。
カサンドルは手巾で涙を拭いて、様子を窺う。
ひょいと背伸びをして見えたのは、鮮やかな赤い髪だった。
「ちょっと、あれカサンドル様の旦那様になる方では?」
「そうみたいだわ。……でも、様子が変ね」
いくら礼儀作法ができない人だからって、国王と揉め事を起こすタイプではないようだったのに。
カサンドルが首を傾げたとき、玉座の方から衝撃の言葉が聞こえてきた。
「──言い間違いでも聞き間違いでもありません。私は、クロエ王女を嫁にもらいたいと言っているのです!」
クロエ王女が誰か、しばらく考えていたカサンドルは、淑女らしくなくぽかんと口を開けてしまった。
「クロエ様って……あの呪われた王女様のこと……?」
英雄は魔界に近付きすぎて気でも狂ったのだろうか。
カサンドルは少し不愉快な気持ちになったが、同時に、このまま行けばあの名ばかり英雄と結婚しなくて良いのだと、自分の代わりにクロエが苦労してくれるのだと、そう思った。
それはなんて理想的な結果だろう。
「何故あの忌み子なのだ」
「彼女がいれば、私はどこででも生きていけるでしょう。報奨金を上げろとは言いません。クロエ王女を嫁にください」
「──そんなに言うのなら、構わん。私も呪いを手放せることは歓迎だ。ああ、支度金は法律通り用意するが、何かあっても返品は認めんからな。そちらでしっかり処分するように」
クロエとロベールの縁談がまとまった。
「ふふ、最高の気分だわ……」
呟いた言葉は、誰にも聞こえていないだろう。
カサンドルはもうすっかり気を取り直して、早速今夜の男性招待客を物色しようと周囲を窺い始めた。
◇ ◇ ◇
クロエが庭園で偶然ロベールと出会った翌日、国王である父親がクロエのところにやってきた。
「お前の結婚が決まった」
突然言われた言葉が受け入れられなかったのは、あまりに自分の人生に縁遠い言葉だったからだ。
しかし、突然言われた言葉はきっといつか言われるであろうものだった。
クロエはおずおずと上目遣いで父親の顔色を窺う。
「……発言をお許しいただけますか」
「許さぬ」
「……」
クロエの声を聞くのを、この父親は嫌がる。だから仕方がないのだが、ならばもう少し詳しく話してほしいものだ。
視線で訴え続けたクロエに、父親は表情を歪める。
「戦争の英雄であるロベールからの要望だ。家は伯爵家。辺境の領地だから、国防の要所となるだろう」
クロエは黙って父親の話を聞く。
これは、ロベールが言っていた『報奨』の話だ。ものは言いようとはこのことだ。
「ロベールに報奨として貴族の妻をやると言ったら、何故かお前を指名してきた。……あの男の考えることは全く、わけが分からん。ともあれ、結婚式は一週間後だ。荷物の支度を進めておけ」
父親が部屋から出て行こうとするが、正直それどころではない。
「待ってくださ──」
声に返事はなく、遮るように扉が音を立てて閉まる。
「……ど、ういうことかしら」
昨日の夜、クロエはこっそりこの後宮を抜け出して庭園に出た。
呪われているクロエの面倒をすすんで見ようという変わり者の侍女はおらず、兄弟姉妹達が皆夜会に参加していた昨夜は簡単に抜け出すことができた。
そうでなければ、クロエが庭園に出ることはなかっただろう。
騒ぎにならないよう離れた場所で夜会の明かりを頼りに薔薇を眺めていたら、王城を破壊しようとしている戦争の英雄──ロベールに出会った。
まさかそんなことはさせられないと必死で止めた。
「そういえば、あのとき『もし嫁いだら』って聞かれていた……」
本気だったのか。
本気で、クロエを嫁に迎えるつもりだったのか。
「──そんなの、聞いてないわ」
国外に追放するように嫁がされるか、どこかの家に売られると思っていた。どんな理由であれ、誰かに求められるとは思わなかった。
しかも、領地経営の知識がある貴族の妻なんていう、ちゃんとした理由だ。
結婚式は一週間後。
普通王女と英雄の結婚式は大教会でやるはずだが、あの国王がクロエを大勢の目に触れさせるわけがない。小さな教会で家族の参列もなく行うのだろう。
ドレスも簡単なものに違いない。
「……それでも良いわ。ここから、出られるのなら」
ロベールはクロエを意味もなく虐げたりはしなそうだった。黒髪を見てもあまり動揺していなかったようだ。
きっと、ここにいるよりはずっとまし。
そう思いながら、クロエは近付いてくる姉妹のヒールの音を聞こえないふりをした。
そして、一週間後。
クロエは装飾のほとんどない純白のドレスに身を包み、黒髪を隠すために分厚く作られた重いヴェールを被り、王都の外れにある教会の入り口に一人佇んでいた。
驚くべきことに、王族側の出席者はひとりもいない。
中には人がいるのだろうか。
それとも、ロベールに揶揄われたのだろうか。
どきどきと耳元で煩い鼓動の音を聞こえないふりで、扉を開けた。
「──……来たか」
「ロベール、様……」
そこにいたのは二人。
ロベールと、神父。それだけだ。
ロベールは形だけ新郎らしい白い正装姿だが、着こなしはロベールらしく崩れている。
「王女と結婚するとなったらもっと派手にされるかと思ったが、小さいところで安心した」
「その、参列者は……」
「あー。俺には血縁がいない。領地も遠いから、一週間でここまで来られる人間はいない」
「そう、ですね……」
クロエは答えながら、申し訳なさでいっぱいになった。
この人は国を救った英雄だ。それが、クロエを見つけてしまったせいで、こんな小さな結婚式になってしまった。
もしかしたら、盛大な結婚式だったかもしれないのに。
「気にしていないから気にするな。……こっちに来ないのか」
「行きます」
まるでクロエの心を見透かしているような言葉に慌てて返事をして、クロエは早足でロベールの隣まで歩いた。
クロエのヴェールから僅かに覗く黒髪に、神父が怯えた目を向ける。
それでも流石聖職者というべきか、すぐに穏やかに見える笑みを浮かべた。
「──それでは、結婚式を執り行います」
◇ ◇ ◇
結婚式は最低限で終わらせた。
ロベールはクロエを馬車に乗せると、すぐに用意していた魔法陣の上に移動させた。
ロベールも馬車に入り、クロエの向かいに腰かける。
こんな王都に長居は無用だ。クロエだって、重苦しいヴェールをさっさと取りたいだろう。
「──目を閉じていろ」
ロベールが言うと、クロエは素直に目を閉じる。王族らしくないその素直さに口角を上げて、ロベールは魔法陣に魔力を流し始めた。
少しして、馬車は眩しいほどの光に包まれる。光が収まったときには、既に領地の中だ。
律儀なクロエは、それでもロベールが許可を出すまでは目を開けない。
本来、平民であった自分には──今は伯爵だがそれでも、こんな口を利くことは許されない相手のはずだ。
出会ったときにロベールが捨て鉢になっていたからこその話し方だったのだが、それを許して何の違和感も抱いていないように振る舞うクロエは変わっている。
どうして自然に受け入れているのか、少し考えたら分かってしまう。
それでも今更変えることもできなかった。
「もう良いぞ」
ロベールに言われて開いた目には、金色の瞳。窓の外の景色が変わったことに気付いたのか、外を見たその瞳が、太陽の光を受けて美しく輝いた。
「──まあ」
「ここが、俺の領地だ」
見える範囲のほとんどが畑と草原。
ぽつりぽつりと民家があることで、人が住んでいるのだと分かる。
まだロベールもあまりよく分かっていない、与えられたばかりの領地だ。それでも見て回った範囲では、この長閑な土地以外にあるのは寂れた町と山くらいだ。
つまり、本当に何もない土地だ。
こんなところ、貴族の令嬢は退屈で仕方ないだろうとロベールも思う。
しかしクロエは、瞳をきらきらさせながら、景色を見ている。
「なんてすてきなところでしょう」
そう言って、ふわりと微かに笑う。
その笑顔が、ロベールの心に焼き付いて離れなくなってしまった。
いつの間にかロベールは、自分がこの領地が気に入らなかったことも、王城を破壊しようとしていたことも忘れてしまっていた。
◇ ◇ ◇
案内されたのは、伯爵家らしく大きな邸だった。
しかし以前の領主が放置していて、ロベールに譲られたときにも掃除は入れられなかったのだろう。扉を開けた瞬間、埃の匂いがして小さく咽せてしまう。
ロベールが慌てた様子で清浄魔法を使ったところで、ぱたぱたと忙しない足音が廊下から響いてくる。
現れたのは、四十歳ほどの外見の女性だった。使用人らしい、簡素な服装をしている。
「──お帰りなさいませ、旦那様」
「ただいま」
「奥様は連れてこれましたか?」
「ああ。クロエだ。今日からよろしく頼む」
「初めまして、私はアナといいます。こちらで雇われている使用人です。まだ私しかいないので、何かあれば旦那様か私に言ってください」
「はい。よろしくお願いいたします」
クロエが言うと、アナは嬉しそうにからりと笑った。
唯一の使用人であるアナは、戦争の途中でロベールが助けた女性らしい。仕えていた邸が魔物に破壊され、行き場がなかったのだという。
クロエの黒髪についても話は聞いていたらしいが、王都よりもずっと黒髪を忌む思想は弱いと言って気にしていないようだった。
ロベールは口調こそ荒いが、一生懸命で穏やかな人間だった。
新婚といっても初夜もなく、同居人と言った方が正しいような関係。それでも、クロエが困っていると言えば、すぐに魔法を使って助けてくれる。
そんな人間は初めてで、人に頼るということを照れくさく思いながらも感謝していた。
そしてクロエは有り余る自由な時間で、アナから料理を教えてもらいつつ、領地について調べていた。
ロベールも領政には興味があるらしく、クロエが調べてまとめた資料は目を通してくれる。
朝食と夕食は必ず一緒で、自然な会話もあった。
誰かと話しながらの食事なんていつぶりかとクロエが呟けば、ロベールもあまり経験がないと笑った。クロエが作ったスープを美味しいと言って笑うロベールに、そんな穏やかな時間に、幸福を感じていた。
やがてクロエは、ロベールに教えるようになった。
領政の考え方や実際の施策、そして、視察でどこを注視するのか。貴族の礼儀作法や貴族家の派閥と勢力。
ロベールは元々察する能力が高いこともあり、クロエの教えを素直に吸収した。
それでいて、クロエが自信を持てずに悩んでいるときには、妙な勢いで背中を押してくれた。
二人で考えた施策で、領地を立て直していこうと約束した。
使用人を何人か追加で雇って、数ヶ月もすれば邸もすっかり貴族の邸宅らしく整った。
ロベールは遠慮していたが、冬は結婚式の支度で使わなかったクロエの持参金で乗り切った。
この春からは、領地の改革を進めている。
うまくいけば、今年の冬は問題なく乗り切れそうだ。
そしてクロエは、初めての気持ちを持て余す。
ロベールに不意に触れた指先から頬へとのぼっていく熱さや、何気ない言動に詰まってしまう言葉。
それはふわふわとして可愛らしく、掴みどころがなく不安定で、ときに苦しいほどに胸を締め付ける。
「──この感情はなんなのかしら」
手入れが行き届いていないためなんとなく寂しい、しかし風通しの良い庭園の四阿で一休みしていたクロエは、紅茶を飲んでぽつりと呟いた。
側にいたアナが、首を傾げる。
「何か気になることでも?」
クロエはカップをソーサーに戻して、右手で左胸にそっと触れた。
どきどきと、普段通りの速さで鼓動を刻む胸。そのいつも通りに、ほっと小さく息を吐く。
「最近、何かおかしいの」
「おかしい……と言いますと?」
「突然胸がぎゅっと痛くなったり、鼓動が早くなったりするの。何かの病気かしら……」
病気だったら困る。
領地の改革も邸のことも中途半端、ロベールに教えることもまだたくさんあるのに、病気で寝込むわけにはいかない。
こんなに大切なときに荷物になって寝ているなんて、絶対に嫌だ。
ロベールだって、医者を呼ぶにも時間がかかる辺境の地でクロエが寝込んだら困るだろう。
苦しくてぎゅっと胸元を握りしめたクロエに、アナが目を細めて笑いかけた。
「どんなときにそのようになるのですか?」
「ええと……ロベール様に触れられたり」
肩を軽く叩かれたときには、驚きのせいもあったが、鼓動が煩くて、顔が熱かった。きっと熱も出ていたのではないかと思う。
「他にもありますか?」
「ロベール様と二人きりで話していたときも……」
あのときは、ロベールに領政について教えていた。
ロベールがクロエが思いつきもしない施策を考えたため、すごいと感心して顔を上げたら、ロベールの顔が想像以上に近くにあったのだ。
あのときはクロエだけではなく、ロベールの顔も赤くなっていた。
「……他には?」
「──……今、もなの。こうして話していると、どきどきって煩いくらいで」
いつの間にかまた鼓動が早くなっていた。
ロベールの側にいるときにだけそうなるのなら何かのアレルギーかと思うのだが、ロベールがいなくてもこうなってしまうというのはどういうことだろう。
原因が分からなくて不安になる。
「はあ……奥様は、本当に初心でいらっしゃいますね」
「初心?」
アナの言葉にクロエは首を傾げた。
「ええ、そうでございます。旦那様もですが、奥様もとは……それで、なかなか距離が縮まらなかったのですね」
アナはクロエよりもなんでも分かっているような声で言い、なんども頷いている。クロエは分からないことを教師に問う生徒のように、まっすぐにアナを見上げた。
「教えて、アナ。どういうことなの。私のこの症状って」
「奥様。それは、恋の病です」
クロエは息を呑んだ。
アナの言葉を心の中で何度も反芻する。
「恋……」
恋、というのは、あの、男女がするというものだろうか。
これまで自分がする日が来るとはとても思っていなかった。ここでの静かで穏やかな、それでいて忙しく幸福な日々に、すっかり慣れてしまったのか。
自分が、恋をすることができるなんて。
頬が熱くなってくる。
名前が付いてしまえば、それが恋故のものだということが分かる。
好きだから恥ずかしくて、好きだからだきどきするのだ。
「そう、ね。これは、恋だわ」
「そうですよ」
「それでは……どうしたら良いのかしら」
恋をしていると分かったらどうするのか。
普通ならばこれから付き合って、結婚して、と段階を踏むのだろうが、既にクロエはロベールの妻である。もうゴールにいると言って良い。
首を傾げたクロエに、アナは優しく笑う。
「旦那様に、想いをお伝えしてみてはいかがでしょう」
「想いを?」
「はい。一人で抱えているものではございませんし。それに──」
アナが手の平を四阿の外に向ける。
そこにいたのは、たった今話題にしていたロベールだ。
アナはもう一つのカップに紅茶を淹れて、微笑む。
「夫婦関係において、恋は二人で育てるものです」
耳打ちされたクロエの頬はまた赤くなった。
ロベールがやってきて、アナがカップを置いた場所──クロエの隣に腰掛ける。
アナが一礼して四阿を出て行った。
「休憩か?」
「ええ。ロベール様もですか?」
「そうだ。町の復興が済んできたら、今度は商人が煩くてかなわん」
「良いことですよ。商人に活気があるということは」
「……そうだな」
ロベールがカップを傾ける。
ごくりと飲んだ紅茶と共に上下する喉を見つめてしまい、クロエはロベールに気付かれる前にとそっと視線を逸らした。
「何かあったか?」
「何か、ですか?」
「ああ……元気がないように見える」
どうした、と伸ばした手がクロエの頬に伸びる。大きくて硬くてかさついた手が、クロエの頬の熱に触れる。
そこから、熱がクロエに移った。
「風邪か?」
「いいえ……」
熱い。
熱くておかしくなってしまいそう。
この熱の行き場は一つしかない。
「ロベール様」
「なんだ?」
僅かに首を傾げたロベールに、出会った当初のような棘はない。
領地をよりよくすることに子供のように夢中で、貴族として邸の管理にも真面目に向き合っている。
クロエの黒髪を厭うこともなく、それどころかこの数ヶ月で、邸内では誰もクロエの色を気にする素振りを見せなくなった。
辺境という立地のせいもあるが、それがロベールの気遣いの結果であることに、クロエは気付いている。
クロエに向けられる赤い瞳は炎の色だと思っていたが、今は朝日を浴びた咲き初めの薔薇のように優しく感じる。
「好きです」
ぽつり、と、唇から零れた。
ロベールが目を丸くする。
止まらなくなった想いに、もう、蓋をすることはできない。
「ロベール様が好きです。真面目なところも、可愛いところも、優しいところも……私、いつの間にか、貴方に恋を──……っ」
言葉は、抱き締められた腕の中に吸い込まれた。大きな身体に包み込まれて、すっかり身動きが封じられている。
それなのに、何故かロベールが小さく震えていて、クロエはどうしていいか分からなくなる。
「あ、あの……?」
「クロエ」
「はい」
「──俺も、クロエが好きだ。愛している」
腕の力が強くなる。
誰かにこんなに強く抱き締められたのは初めてだった。
「愛して……」
「愛している。出会ったときから、ずっと好きだった」
「え?」
「俺が王城で全部燃やしてしまおうとしていたあの日……クロエでなければ、俺を止めることはできなかったと思う」
ロベールが腕を少し緩めて、代わりに艶やかな黒髪をそっと撫でた。
擽ったくて、僅かに目を伏せる。
すると今度は、指先でこちらを見ろというように顎を上向けられた。
「俺は、世界で一番不幸なのは自分だと思っていた。でも、そうじゃなかった。不幸も苦労も、名前を付けているのは自分なんだと……あの日、強い瞳で俺を射貫いたクロエに気付かされた」
こつん、とクロエの額に、ロベールの額がぶつかる。
少しでも動けば唇が触れてしまいそうで、呼吸も届いてしまいそうで、クロエはただじっとロベールを見つめることしかできずにいる。
それでも、その言葉はすうっとクロエの耳に届いた。
「俺もクロエも、きっと不幸でなんかなかったんだ」
唇が触れる。
瞬間、クロエは幸せだと思った。
アナ曰く、恋は二人で育てるものらしい。
ならばきっと、今クロエの恋は少し成長したのだろう。
「ロベール様」
小さな声で名前を呼ぶと、ロベールはすぐにクロエの目を見てくれる。
そんなことで、また好きな気持ちが大きくなった。
「──私も、幸せです」
微笑むと、また唇が重なった。
柔らかな風が吹く。
二人分の幸せが乗った風は、この辺境の地にこれからより多くの幸せを降らせるだろう。
ふと書きたくなって、勢いで書いてしまいました。
読んだよ!という方、よろしければ下の☆評価をぽちっとしていただけますと嬉しいです。
お読みいただきありがとうございました!