積もりし雪が溶ける時⑦
積雪7話改変
お父様は私が思っていたよりもずっと優しく、そして怖い人だった。
婚約を勝手に決めた事をキツく叱りつけた。それからお母様と一緒に古川さんの所まで頭を下げに行くと言いのこして行ってしまった。
私自身も逃げた事への謝罪をしに行きたいと伝えたが、お父様は怖い顔でそれを却下した。
その時のお父様の顔がとても恐ろしく見えて、今まで見たことの無い表情に私は何も言うことが出来なかった。
そうして家に残された私は自室で何をするでもなくベッドに腰掛けている。
ちなみに無断欠席になると思っていた学校の方は、お父様が電話して病欠と言うことになっているらしい。
結局、私の行動は面倒を増やして、多方面に迷惑をかけただけだ。しかも斎藤さんやお父様の優しさに助けられただけで、何かが違えば大事故、最悪は死んでいた可能性すらある。
今だって、考えても何ができるわけでもない。
余りにも無力なただの小娘。何をどうしたら良いかもわからず、状況が動くのを待っているだけ。
ふと、携帯に視線を向ける。
病欠扱いで休んでいるとお父様から聞いているが誰からの連絡も来てはいない。
お母様に決められた相手だけとはいえ友人は居る。でも、どうやら所詮は家柄だけで繋がれた関係だったらしい。
1人くらい風邪を心配してくれても良いだろうに。
斎藤さんは私を心配してくれた。優しさを与えてくれた。困ったら連絡してくれて良いとも言ってくれた。
勿論、社交辞令的なものだとは思う。それでも私は嬉しかった。頼って良いのだと思えたから。
ズキン。と胸が痛んだ。
「ああ、そっか……。私、寂しいんだ……」
なんてことはない。ただ、私が独りであると実感しただけ。今までと何が変わった訳でもない。はずなのに。
ふと、斎藤さんの顔が思い浮かんだ。
家柄も何も関係ない、私にとって初めてのタイプ。
ちょっとお節介だけど、良い人だったな。
そのお節介のお陰でお父様が動いてくれたし、こうやって無事、家に帰ってくることもできた。
それにお父様に私の気持ちが伝わった。と言っても斎藤さんが言い出さなければ伝えられなかっただろうけど。
ゴロンとベッドに身を倒し天井を見る。
お母様についてもお父様が説得するから私にできることは何もない。何もしなくて良いと、言われた。
もしかしたら探せば何かあるのかもしれないけれど、考えつかない。
その日は考えながら寝転がっていたら、そのまま眠ってしまった。
そして明け方、まだ日が登り始めた頃に目が覚めた。
少し眠いけれど、あまり寝過ぎてもかえって疲れてしまいそうだし、それにとにかくお腹が空いていた。
使用人さんはまだくる時間ではないし、かと言って料理は出来ない。
昨日食べたお味噌汁みたいにお湯を注ぐだけで出来るものがあればと思ったけど、有ったとしてもどこに置いてあるか知らない。
どうしよう、と思いながらキッチンのあるダイニングに行くと、テーブルの上に使用人さんの名前が書かれたメモが置かれていた。
『よく眠っていたようなので起こしませんでした。もしお腹が空いていたら冷蔵庫にサンドイッチがあります』
そのメモの通り、冷蔵庫の扉を開けるとお皿に盛られたサンドイッチがあった。
お皿を手に取ると、お腹がクゥと音を鳴らし、少し恥ずかしい気持ちになりながら被せられたラップを外す。
紅茶でも淹れたいのだけどどこに保管されているのかがわからない。
ふと、自虐気味な笑みがこみ上げた。使用人さんに聞かなければ家にある物すらわからないなんて。
自分に愚痴を吐いても仕方がないので、適当なグラスに水を入れて飲むことにした。
「……あら?おはようございます。お嬢様。起きていらしたのですね」
食事を終え、何をするでもなくぼーっと座っていると件の使用人さん―渡辺さん―がやってきた。
「着替える前ですが、よろしければお紅茶でもお淹れしましょうか?」
「はい。お願いします。恥ずかしながら紅茶の場所がわからなかったもので」
「かしこまりました」
綺麗な所作でお辞儀をした彼女は、テキパキと紅茶を淹れると、着替えてきますと言い残して部屋を出ていった。
少し待ってから被せれたポットカバーを外してカップに紅茶を注ぐと、フワッと紅茶の香りが広がった。
「良い匂いがすると思ったら美雪か、随分と早いな」
ゆっくりとお茶を飲んでいると、お父様が現れてそういった。
お父様はキッチリとスーツを着込んでおり、寝起きには見えない。おそらくは仕事に戻るのだろう。
「おはようございます。お父様。よろしければお父様にもお淹れしましょうか?」
使用人さんが出しておいてくれたテーブル上のティーセットに目配せしながら聞く。
「折角だから貰おうかな。と言いたいところなんだけど、すぐに出なくてはいけなくてね。気持ちだけ受け取っておくよ」
しかしお父様はそう言うと、言葉通りすぐに出て行ってしまった。
抜け出してしまった土曜会の会合に戻るのだそうだ。
本当に迷惑しかかけてないな。私。
再び湧いた自虐的な気持ちを紅茶で飲み干す。されど、燻った感情はさながら茶渋の様に胸に残り続けた。
そのまましばらくの間、ダイニングでボーっと過ごして、やがてお母様が起きたらしき物音を聞いてから自室に戻った。
なんとなく、顔を合わせたくなくて。
1人になりたくて。
いつものように勉強したり、本を読んだりして過ごそうとしたけれど、どれも身が入らなかった。
お父様はお母様を説得したと、婚約の話も古川家に出向いて取り消したと言っていたけれど、それでも怖くて。
お母様が私のことをどう思っているのか、どうしてほしいのか、もう何もわからない。
幸い、仕事だったり人付き合いもあってお母様が家にいる時間はそう多くない。意識的に会うことを避けるのは容易だった。
そうして過ごしているうちに1日が終わった。
翌日は学校に行った。なんとなくサボってみようかとも思ったけれど、ドライバーさんが迎えに来てしまったから。
学校の方は特に変化もなかった。強いて言えば体調不良ということになっていた私を気遣う人が居たくらい。でも、私は気遣ってくれた彼らの名前すら覚えていなかった。彼らがお母様が認めた“友人”ではなかったから。
「なんて薄情な人間なのでしょう」
と、心の中で独り言つ。
たった一夜にして、自分を見失い、何をしたらいいのか、何が出来るのかすらわからなくなって。ずっと自虐的な思考が止まらない。
不安は孤独感を増大させ、得も知れぬ淋しさを生みだす。
机を囲み、話に花を咲かせている賑やかな学友達が憎くてたまらない。
友人と休日にお買い物に行ったり、食事を共にしたり、ときに喧嘩をしたり、そんな彼らにとって『普通』であろうものが私には無い。
石崎家の人間として様々な物を与えられてきているけれど、そんな『普通』すら手に入らない。
それから4日後、お父様が土曜会の会合から帰ってきた。
この4日間過ごしていて、私はお母様とほとんど顔を合わせることがなかった。いくら何でも不自然なほどに。
今までは事あるごとに学校での様子を聞いたり、勉強の進み具合を確認しにきていたのにそれがない。
私は気づいてしまった。お母様は私を見ていたのではなく、石崎美雪を見ていたのだと。操り人形の糸繰りが解けたことでお母様にとって価値がなくなったから干渉しなくなったのではないか。
もちろん。こんなのは私の勝手な憶測。
でも、一度そうだと思ったら、他の考えが浮かばなくなってしまった。
折角、お父様も帰ってきたのに家の中はギクシャクした空気に満ちあふれていた。
この空気を生み出した発端は私だ。私の我儘から始まった。ならばいっそ石崎家として価値がなくなった私が居なくなってしまえば。
極端な考えだってことは解っている。それでも行動が前に出た。
海外旅行用の大きなキャリーケースに思いつく限りの日用品や制服などの衣類を詰め込む。
「……お嬢様?どうなされたのですか?お旅行のご予定はありませんでしたよね?」
準備中、お茶を持ってきた渡辺さんが不思議そうに聞いてきたので、
「家出のための準備です。お母様には内緒ですよ?」
「家出!?そんな―」
「―しー!声が大きいですよ!」
慌てふためいて大きな声を出した渡辺さんを制止する。
幸い、家にいるのは私と渡辺さんだけなので誰かに聞かれる心配はないけれど、それでも騒がれるのは困る。
「だ、だめですよ家出なんて!」
「ごめんなさい。でももう決めたのです」
「そんな!」
黙って首を振ると、それ以上何も言わなかった。いや、言えなかっただけかもしれないけど。
「…………お気をつけて、いってらっしゃいませ」
家を出る時、複雑そうな顔で見送る渡辺さんに若干の申し訳無さを感じながら予め呼んでおいてもらったタクシーに乗り込んだ。
「どちらまで行かれます?」
抑揚の無い声で聞いてきた運転手に一枚の紙切れを渡す。
「このメモの住所まで、お願いします」
「んー、はいはい。あの辺りね。はい、メモはお返ししますよ」
走り出すタクシーに揺られながら何処か気分の高揚を感じていた。きっとそれは自分が『悪いことをしている』と自覚している所から来ているものだろう。
家出なんて非行を自らの意思で選んでいる。今の私は自由だ。だから好きなようにしようと思う。
しばらく車に揺られていると次第に見覚えのある2階建てのアパートが見え、タクシーはそのアパートの前に止まった。
車から降りると冷たい風がヒューっと肌を撫でる。
空を見上げると、厚い雲が広がり太陽がまだ空にあるはずなのに暗かった。それもそのはず、天気予報では夜から雪が降ると言っていたのだから。
しかし、今回は服を着込んでいるしカイロも持っているため耐えられない寒さではない。寒いは寒いけれど。
私は部屋の前にキャリーケースを置いて、その上に座り携帯を弄ったりしながら家主の帰りを待った。
日が落ち、寒さが増して、次第にちらほらと雪が散り始める。携帯を持つ手はかじかみ、吐く息は白く線を残しながら風に消える。
やがて、携帯の充電が5%を切った頃、彼は現れた。私にとって唯一、石崎家との関わりがなく、頼ることが出来る相手が。
「おかえりなさい。斉藤さん」
私は面を食らった表情で立ち尽くす斉藤さんにそう言った。




