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逃げたその後と初めての会話

 俺は走った。振りむかず、木々が俺の姿を隠してくれる程度の距離を駆け抜けた。

 はあはあと息が切れてきたので立ち止まり。そこでやっと後ろを振り返る。


 女性の居た所がどこなのか、分からない位には離れたようだ。でも方角は見失わないようにしないと。あの道をたどれば人里があるだろうから。


 人里にはすぐには行けないな。

 言葉が通じないことが分かったし、何より人前に出れる格好ではない。

 不審者として捕まるだけならまだしも、石でも投げられて追い返されたらメンタルへのダメージがヤバい。

 それでも、人里については調べておかなければならない。どこにあるのか、ここからどのくらい離れているのか、その規模なんかも一度見ておきたい。

 街なのか村なのか。もしかしたら城塞かもしれない……

 といっても今すぐ行く気にはなれなかった。まだあの場所には女性がいるだろうし、こちらを探しに来ている可能性もゼロではない。


 俺は大きめの木の下に座り込んで辺りの様子をうかがった。やはり静かだ。追いかけて来た様子はない。

 空を見ると、太陽はすでに傾き始めている。

 箒ではいたような雲が薄くたなびいている。冬の空だ。

 ……なにか、ひどく(さび)しくなってきた。

「俺……なにしてんだろ……」

 あの女性を助けようと思って走っていったのに何もできなかった。

 ……いやまあ、何もできないだろうとは思ってたが。なにか、事態が好転すると思ったのに、何も変わらない。


 なんでこうなったんだ?選択を間違えたか。

 神様に、他の能力を貰えばよかったのかもしれない。

 無力感……俺は誰にも必要とされていないんだろうか。このまま、ここで朽ち果てるのが俺には似合っているような、そんな惨めさを感じた。


 泣いても何も解決しないぞ。と思っても自然と涙がこぼれた。

 頭を木の幹にもたれ、ぼんやりとしたまま虚空(こくう)を眺める。涙が頬を伝って落ちる。

 ほっぺたに何かを感じた。胸から伸びたスライムが、俺の涙をぬぐっている。いや、ただ飲んでいるだけかな?

 しかし俺は慰められた気がして少し(かん)(きわ)まってしまった。


「……うう……っ」

 嗚咽が漏れる。このまま大声で泣き叫びたい!

 そう思ったが、だめだ!いつまでも弱いところを見せる訳にはいかない!とグッと気合いをいれた。

「慰めてくれてありがとな。もう大丈夫」

 胸の辺りに向かってそういった。

「……グサ……メ…………ダイジョブ……」


 俺の声ではない。もっと高い声がどこかから聞こえてきた。

「え?……今……しゃべったのか?」

「……シャ……ベタ……」

 聞こえた!間違いない!スライムの声だ!

「……ははっ……スライム、しゃべれるようになったか!」

 さっき泣いていたカラスがもう笑っている、というのはこういう事を言うのだろう。

 先程までの寂しい気分は吹き飛んでしまった。


 今はまだ途切れとぎれにオウム返しする程度ではあるが、自分のものではない、理解できる言葉だ。俺にはそれが希望の歌のように聞こえた。

「もっと話してくれ!例えば……そうだっ、自己紹介をしよう!俺は、カヒトって名前なんだ」

「カヒト?」

「そう!カヒトだ!よろしくな!」


 俺はすっかり興奮し、矢継ぎ早に話しかけた。声は俺の胸の辺りから聞こえる。

 歩いていた時に返事をしてくれていたようなさざ波が、さらに細かくなった振動を作り出しているようだ。

 やはりしゃべるのは疲れるのだろうか。スライムはかなり短いセンテンスでしか話さない。あまり長い発声はできないらしい。

 俺の体の上に薄くひろがった部分を震わせてもあまり大きな音は出せないのだろう。共鳴管も無いし。


 スライムは懸命に出そうとしてくれている声は、耳をすませなければ聞こえないほど小さかった。

 なんとかならないだろうか。わずかな振動でも聞こえるようにするには……

 今のスライムは言わばスピーカーだ。それもハコのない、コーンだけのスピーカーと言える。

 同じ電力でもっと聞きやすくするにはどうしたらいい?……そうだ!答えは、イヤホン。イヤホンならばアンプがなくても聞こえるだろう。


「スライム、ここに来てくれ。ここに来てしゃべってくれないか」

 俺は自分の耳の穴を指差して言った。スライムを耳に入れたら危険かもしれない。力が弱くても鼓膜くらいは破れるだろう。が、不思議とそんなことはされないという確信もあった。


 しかし、スライムは耳に来てはくれない。さらに小さくなった声で何かを言っている。

 スライムに俺の声が聞こえているのは間違いないだろう。でも、俺の事が見えてはいないんじゃないか?そもそも視覚なんて無い可能性が高い。

 目のような器官はないようだし、物を見るためには光を受けとるセンサーが必要だ。そのセンサーは透明にはなれないはず。

 全体が透明なスライムは物を見ることはできないと考えるのが自然だろう。


 見えなくても誘導する方法はあるはずだ。俺は首の辺りのスライムを摘まんで引っ張ろうとした。しかしうまくいかない。そもそも摘まむことができない。

 親指と人差し指の指先が触れるが、その間にスライムがいない。ツルッと避けてしまっているのか。

 まあ当然か。俺の認識ではスライムっていうのは「動く水」だ。水が摘まめるわけがない。


 いや、諦めない。俺は指先で耳と首の中間辺りをトントントンと叩いた。「こっちへおいで」というつもりで。黙って、辛抱強く、トントントン。

 スライムはかなり頭がいいはずだ(「頭」があるかどうかは別として……)。

 状況を観測し、分析し、推測する。そういった事をしているはずだ。

 そうであれば、俺の意図を理解してくれると思う。

 さらに俺は首のあたりのスライムに指先をあて、その指を耳へとなぞる動きをした。


 スライムには分かるはずだ。トントントンと叩いている理由。耳に向けて指でなぞっている理由。先ほどまでしきりに話しかけていた俺が黙っている理由。


 5分ほど、そうしているとスライムに動きがあった。

 狙い通り!耳のそばまで細長く伸びてきているのがわかった。耳たぶに触れるか触れないかという所まで来て、そして止まった。

「よし、いいぞ!もう少しだ!」

 俺はさらに耳の穴に誘導するべく奮闘した。今度はかなり早く伸びてきた。耳の穴に入るのは躊躇しているようだったが、結果的には完璧だ。耳の穴の内壁に沿って薄く伸びているようだ。


「じゃあ、そこでしゃべるんだ。耳の中で音を出してくれ。」

「……ソコデ……シャベル……オトヲダス……」

「うわ!」

 突然、な訳ではないが耳元で聞こえた声にビックリしてしまった。音量もかなりでかい。

 俺の驚きに反応して、スライムが恐縮(きょうしゅく)するような感覚がある。


「も、もう少し音を小さくできるか?」

 音を小さく、といって分かるだろうか。手本を示すのがいいだろう。

 俺は小声で、ひそひそ話をするように言った。

「小さい声、小声で話してくれ。」

「チイサイコエデ……ハナス」

 うん!いいぞ!


「よしよし!じゃあ、スライム。あらためて、ありがとう。お前のおかげで本当に助かったよ。」

 スライムは返事をする代わりに全体をゆらゆらと波打たせた。喜んでいる感じだ。

「いろんな言葉を覚えてくれたら、もっと助かるな。そうだ、まずは自己紹介かな。俺の名前はカヒトって言うんだ。ってこれはさっきも言ったな……。」

「カヒト……カヒト」

「そうそう、スライムは名前はあるのか?」

「ナマエはアル?ノカ?」

「分かんないか……いつまでもスライムって呼んでるのも変だし……とりあえず、『スラ子』、でどうだ?」

「……」

「スラ子、気に入らないか?まあ、センス無いよな。うーん……そうだなぁ……」

「スラ子……。スラ子。スラ子!」

「お、おお。いいのか。でもまあ、何かもっとちゃんとした名前を考えるよ。」

「スラ子です。私の名前はスラ子です!」

 ……気に入ってくれたらしい。……しかし自分でつけといてなんだが、もう少し他に無かったのか。


 俺は時間も忘れてスラ子との会話を楽しんだ。色々と聞きたいことはあったが、とりあえずは言葉を覚えてもらうのが先だろう。であれば、なんでもいいので話しかける事だ。


 前の世界での俺の好きなもの、趣味、仕事の話や子供の頃の事を話した。

 トラックにはねられてこの世界へ転移した事なんかも話した。転移の事は秘密にしておくべきなんだろうか。大丈夫だろう。スラ子なら。


 しかし俺はそんなに話し上手は方ではない。すぐに話題に困り、苦し紛れにおとぎ話を始める。

 桃太郎に浦島太郎。スラ子は適度に相づちとして質問をしてくる。桃って?洗濯ってなんですか?

 おれはできるだけ丁寧に答えた。といっても、その答えのなかで聞きなれない単語が出てくるのだから、スラ子にとって疑問は解消できていないだろうけど。


 いくつかの昔話をしたあと、スラ子から歌をリクエストされた。

 森の道の女性の悲鳴を聞く前におれがしゃべっていた言葉を「歌」というのだと教えると、また歌ってほしいと言われたのだ。

 ()われれば悪い気はしない。歌う。

 何曲か歌い、「夕焼けこやけ」を歌っている時に気がついた。もう日が落ちている。

 まさしく夕焼けで空が真っ赤だ。


 ヤバイ!話しに夢中になりすぎだ。

 改めて考えてみると、俺はこの世界に転移してきてから何も食べていない。

 飲み物は、ついさっきもスラ子から何かの液体を飲ませてもらったので問題ないが、腹は間違いなく空いていた。


 ゆったり話をしているのではなく、何かしらの食料を探すべきだったのだ。

 今からでも間に合うだろうか。日が完全に落ちれば視界はまったく利かないだろう。

 冬のぐんぐん落ちていく太陽を眺めながら、暗くなる前に食べるものが見つかる可能性があるか考えた。


 ……無いな。

 ほぼ1日。少なくとも半日は歩いていたのに何も見つからなかったのだ。……メガネがない事を差し引いたにしても食料は簡単には見つからないということだ。


 俺は諦めた。幸い、凍える事はない。今日はこの木の下から動かないのがいいだろう。

 夜行性の獣やモンスターの襲撃を考え、木を登ろうかとも考えたが手が届く高さに枝がなかった。ロッククライマーならともかく、俺では落ちて骨折するのがオチだ。

 せめて隠れておいた方がいいと思い、辺りの落ち葉を少し集めて木の根本に積んでみた。そのなかに(もぐ)り込めば見ただけでは分からないだろう。……まあ、落ち葉が山になっている時点で怪しいのだが。


 落ち葉に潜る。暖かい……かと思ったが別にそんなことはない。スラ子がしっかりと俺の体を保温してくれているのだ。落ち葉の有無は関係ない。ただし首から上は少し温もりを感じる。

 俺は寒い季節は起きたとき目玉が冷えてつらい思いをする。ひどいときはそれが原因で朝から頭痛に悩まされる。前の世界では、普通に夜中寝るにもアイマスクが手放せなかった。


 スラ子が顔も覆ってくれればいいのだが、やっぱり首から上に来るのは相当躊躇するのだろう。耳の中に入ってはいるが、耳と首の間はごく細いラインで繋がっているだけのようだ。


 落ち葉に身を隠しながらまだまだスラ子に言葉を教えようと思ったのだが、1時間も経たないうちに眠気が我慢できないほどになった。

 1日歩きずめだったし、始めての世界に緊張していたのだろう。

 時計があれば、恐らく午後6時にもなっていないはずだが、俺は寝た。

「おやすみ、スラ子……」

 あくび混じりに、言った。

「おやすみなさい。カヒト」

2021/12/19 改行と一部表現を修正

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