ユリの家族
勇者になって欲しい、とアクシスから告げられて一週間後。
ヒロトは広大なシース家の敷地内を走り、汗を流していた。
「大体、これで20周くらいか」
そう言って汗を拭おうとするも、タオルがないことに気づいた。
しまった。タオルがーー。
そう思った直後、どこからかタオルが飛んできて、顔面に覆いかぶさる。
「おわっ」
急いでタオルを取り、周囲を見渡すと視界の端にメイド姿の残像が見えた。
どうやら、気を察したメイさんがタオルを渡しにきてくれたようだ。
そういえばこの前は、この前のランニング中も、どこからか水が飛んできて口の中に入ってきたことがあったな。
少し塩分とか甘味が含まれていた水で、ちょうど喉が渇いたと思っていた時に飛んできたのだ。
あの時はラッキーくらいに考えていたけど、もしかしてアレもか。そう思うとちょっと怖いな。
ちらりと時刻を見る。
まだ昼過ぎくらいか。なら、まだ走れるな。
そう思ったヒロトの隣を、びゅんと銀髪を漂わせた人影が追い越す。
「ヒロト。無茶してはいけないのだ」
そんなことを通り過ぎ様、耳打ちしていくまで余裕があるようだ。
「俺も負けてられねぇな……」
ヒロトは再び地面を蹴った。
結果的にはヒロトとロージュは同じ距離を走り抜けた。走り始めた最初はロージュの半分の半分も走れなかったため、十分体力がついてきたなと思う。
続いて、休むことなく剣の鍛錬だ。
ロージュとヒロト、お互いに汗を流し続けて疲弊している状態で、お互いに剣を構える。
「ふっ」
ロージュは一息吹いた瞬間に、一歩踏み出すとそのまま淀みのない流麗な動作で剣を振り下ろす。
ヒロトは剣を盾のように構え、ロージュの一撃を受け止める。
だが、ヒロトが剣を受け止めた瞬間に、ロージュは次の攻撃の初動を終えており、すぐさまヒロトに向けて剣を振り払う。
ヒロトはなんとか背中を逸らし、ロージュの剣を避ける。鼻先に刃先がかすめた。
「よしっ、成長してる!」
ヒロトは高らかに声に出した。
今まではロージュとの剣の鍛錬では1撃目で必ずと言って良いほどやられていた。
だが、今は1撃目を受け止め、2撃目を避けることができた。
と思っていた直後、ヒロトの軸足にロージュが足を引っ掛ける。
「えっ」
軸足で踏ん張れなくなったヒロトはそのまま地面に背中から倒れた。
すぐにロージュが上に跨り、ヒロトに向けて剣を突き刺すーーことはせず、ヒロトの顔の前で剣を止めた。
ロージュが銀髪を揺らしながら、
「まだ甘いぞ。ヒロト。剣以外も見なければいけない。ましてや、魔法も飛んでくるのだ」
「返す言葉もない」
「だが、動きが滑らかになってきたな。ヒロトは実践で成長していくタイプだと思うのだ。そろそろ実践に行っても良いかも知れぬな」
「……そうだな」
ロージュが手を差し伸べ、その手を取って体を起こす。
起き上がると、屋敷の窓から誰かがじーっとこちらを見ていた。
「ユリか。ユリがこっち見てるのか」
ヒロトと目が合うと、ユリはさっと顔を逸らして窓から姿を消した。
別に見ていても良いのだが。
「ユリはいつもヒロトを窓から覗いているぞ。剣の練習してるとき以外に走ってる時もな」
「え? そうなの? 全然気づかなかった。なんでだろ」
「ふふふ、ヒロトはオーバーワークしがちだからな。心配してるんじゃないか?」
微笑むロージュ。
うーん、そうなのか。いつ会ってもずっと無表情だから、心配されてるなんて思わなかった。
ユリはガルフォード家で奴隷として何年間も虐げられていた少女だ。
奴隷として開放された後、ユリを実家に帰そうとしたが、ユリについての情報は国にもガルフォード家にもなく、分かったのは「ユリ」という真名だけ。
「ユリは、まだ奴隷生活の傷が癒えないのかな」
ロージュがヒロトの上からどいて、銀髪をタオルで拭く。
「うむ。そう簡単に癒ぬさ。奴隷生活は地獄だ。時間かかる。だが、最近はメイの仕事とかも意欲的に手伝おうとしてくれるみたいだぞ。少しずつ、紐づいていくだろう」
「せめて、家族のことが分かればなぁ。そうすれば、あんな鉄仮面のような無表情が崩れるかもしれないのに」
「それは、そうだな。お父様が合間をぬって他国の知り合いとかに調べてもらってるらしいのだが、未だに何の情報も出てきていないらしい」
「うーん、ネットワークとかスマホがあれば、調べられてすぐに見つかるんだけどな」
「ネットワーク、スマホ……?」
聞き慣れない言葉に当然首を傾げるロージュ。
「悪い、俺のいた世界の話だよ」とヒロトが言うと、「なるほど」とロージュは答える。
「どちらにしろ、俺は早くあの鉄仮面を取ってやりたいよ。あいつの笑顔、俺は見たい」
すると、ロージュがふふふと笑う。
「優しいのだな、ヒロト。だが私も同じ気持ちだよ。ユリに笑ってほしいのだ」
「そうだな。それには家族だな。やっぱり早くユリの家族を探さないと。せめて、ユリが兄がいたとか、姉がいたとか、一人っ子だとか家族構成を覚えていればな。もう少し探しやすいんだけど」
「ユリを責めても仕方あるまい。奴隷生活で忘れてしまったのだ」
「ん、あぁ、責めたつもりはないよ。少し嘆いただけさ」
ヒロトもようやく立ち上がり、剣を木に立てかける。
そして剣を握っていた右手をじっと見た。
察したロージュが剣を再度握り、息を吐いた。
「するか? 虚物状態での練習」
「あぁ、そうだな」
「だが30秒で終わるぞ。それ以上は身体への負担が大きいとルーナが言っていただろう」
「あぁ、……分かった。じゃあ、よろしく」
ヒロトがふぅーと息を吐いた。
その瞬間、空気がピンと張り詰めた。ロージュの額から汗が垂れる。
「……来いっ、虚物状態のヒロトには一切容赦しないぞ。私にも余裕がないからな」
二人は再度訓練を開始した。
遠く離れた屋敷、ユリは窓からひょっこり顔を出して二人の訓練をじっと見つめていた。
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訓練を終えた夜、ヒロトはトイレで目が覚めた。
ベッドから抜けてトイレに行こうするが、いかんせん寒い。
尿意と眠気が脳内で激しい戦闘を行い、尿意が勝利。
気合いを入れて、布団から抜け出す。
冷気が一気に全身を通り抜け、体温低下。温もりの布団へと帰りたくなったが、どうにか抜け出してトイレへと向かう。
トイレもちょっと遠い。
長い廊下の突き当たりにあるため、体を丸めながらヒロトは廊下を進んだ。
そしてユリの部屋の前を通った時、扉が微かに開いていることに気づいた。
このままだと廊下の冷気が部屋に入ってしまうと、気を利かせて閉じようとしたとき、かすかにユリの声が聞こえた。
「……お姉様」
「えっ」
今、お姉様と言ったのか?
恐る恐る隙間から顔を覗かせてみたが、ユリは扉に背を向けて寝転んでいた。
「ただの寝言か……」
まぁ、そうだよなと心の中でつぶやく。
ユリは家族構成を覚えてないと言っていた。今のはただの寝言か、それともーー?
逡巡するヒロトの脳内に、尿意の二文字が思い浮かぶ。
「やべっ」
ヒロトは股間を押さえて、バタバタと廊下を走ってトイレへと向かった。
ヒロトが消えた後、ユリは再度つぶやいた。
「お姉様、私は……私は……」
廊下に背を向けながら、ユリの目はパッチリと開いていた。
だがそのことにヒロトが気づけるはずもなかった。




