ヒロトの過去②
父親が家を出て行った翌日、いつも通り小学校へ向かった。
特に目的があるわけじゃない。給食を食べたかったからだ。今までも勉強のためじゃなくて給食のために行っていた。自分がクズだと理解しても腹は減るのだ。
今までと違い、腰は丸めずに背筋をピンと伸ばして登下校をした。登下校中に突然後頭部に石をぶつけられることも無かった。
俺が教室に入ると教室がザワついた。
背筋を伸ばして堂々と歩く俺を不思議そうに見つめてきた。
その視線を無視して席に座ると、俺の席の前に誰かが来た。
よく俺をいじめてくる男だった。
「お前、野良猫のくせに背筋伸ばして生意気なんだよ」
そう言ってそいつは俺の頭をガツンと殴った。
そして机ごと蹴り上げて地面に踞った俺に追い討ちをかけるように何度も腹を蹴った。
「お前はずっとうずくまっとけ。猫が人間みたいに二足歩行してんじゃねぇよ。ペッ」
地面に転がる俺の顔にそいつは痰の絡んだ唾を吐き捨てた。
周りのクラスメイトはその光景を見て笑っていた。可哀想などと口にしながら口元はにやけている。これがいつもの俺の日常だった。
今までだったらこの状況を受け入れてきた。殴られて当然の人間なんだと。俺が悪いんだと。
でも、昨日俺は変わってしまった。感情を知った。
初めてこの痛みを理不尽だと怒りを覚えた。
さぁ、あとはこの激情に身を任せるだけだ。
拳を強く握りしめて容赦なくそいつの顔面を殴った。
クラス中から悲鳴が聞こえる。
額から流血しているそいつを見て、女子は動揺からか泣く者も出てきた。
そのクラス中がざわついているときに、俺は心地いいと感じた。解放感に満ちていた。
怒りこそが俺なんだと。空っぽだと思っていた自分の中にあった自分らしさは怒りなんだ。
騒動を聞きつけて先生たちが教室にやってくる。
血を流して倒れるそいつと拳から血が垂れている俺。何が起こったかは一目瞭然だった。
クラスメイトは先生に助けてと懇願する。
「ヒロトくんが、一方的に神田くんを殴りました」
先生たちは目の色を変えて俺に迫ってきた。
「なんてことをしてくれたんだ! 最低だぞ! 人を殴るなんて!!」
その先生の言い分に大きな疑問がわいた。
今まで俺は散々人に殴られてきた。
そして先生。あんた達が俺を助けてくれたことはあったか?
あんたらは俺のことを老人みたいで気持ちが悪いと避けてきたじゃないか。
そんな俺がやり返したら最低なのか?なんで?どうして?
「……最低なのはどっちだよ」
「口答えするのか! 野良猫の分際で! 昨日といい今日といい面倒な事しやがって! お前は一生誰かのサンドバッグでいろよ! そうすれば良かったのに! 学校の評判が落ちたらどうしてくれるんだ!!」
「俺は野良猫じゃねぇ!」
目の前の先生を思いっきり殴った。
壁に激突して先生が鈍い声を漏らした。
他の先生はその光景に動揺して俺の元へは近づいてこない。当然、他のクラスメイトも近づこうとはしなかった。一人を除いて。
「もうやめてっ!」
シオリだけが俺に近づいていた
涙目になって言う。
「もう、やめて……。こんなことやめてよ」
「……なんで近づいてくるんだ。涙目じゃないか。怖いんだろ。俺は怒りのままに殴るクズだ。これ以上近づいてきたらお前も殴るぞ」
「怖くないよ。だってあなたはそんなことしない。クズじゃない。あなたは悪くない」
「……意味わかんねー」
そう言って俺は教室から出て行った。
もうここにはいられないと感じていたからだ。皆が俺を見る目がまさに俺が父親に向ける目だったんだ。
その日以来、俺は小学校に行くのをやめた。
特にあてもなく商店街などをうろつくようになった。
その姿はまさに野良猫だった。群れることなく鋭い目でふらふらと歩く。
そんな目つきの悪い俺を多くの不良たちが俺に殴りかかってきた。
彼らは複数人で俺を殴ることで喜びを感じているようだった。
なにが楽しいのかわからなかったが、怒りのままにやり返した。
多人数対一人だと勝ち目はなかったはずだった。でも俺は相手を容赦なく感情のままに殴り、自分が殴られても特に痛みを感じなかった。
正しくは痛みを感じても怯えることはなかった。
クズな自分がどうなってもいい。そんな考えが根本的にあったのだと思う。
相手が意識を無くなっても殴り、痛みで怯まない俺は負けなかった。
同い年のやつらが中学生になっていく中、当然のように俺は中学に行かなかった。
いつも通りあてもなく彷徨っていると、ふと登下校中の中学生のシオリを見つけた。
シオリは……泣いていた。後ろ髪にはガムをつけられ、服はびしょぬれ。
明らかにいじめられているようだった。それでのシオリは泣くもんかと必死に我慢しているようだった。
オンボロのアパートの前に立つと、急いで涙を拭いて虐められている様子を消そうとしていた。
俺はシオリに話しかけた。
「……後ろの髪にガムついてる。あとスカートが切られてる」
シオリは俺の姿に一瞬驚いた顔をしたが、すぐに照れたように笑った。
「ヒロト君か。ビックリしちゃった。久しぶり。3年ぶりかなって言っても喋ったことあるの1時間くらいしかないけど。恥ずかしいところ見られちゃったな。……って髪にガム!? うわっ! 本当だ汚い! 誰よ! 全く!」
「いじめられてんのか。なんでお前が?小学校の頃はすぐに人気者になってたじゃないか」
「去年、お父さんの会社が倒産しちゃって……。それでこのボロボロのアパートに住んでるんだけどね。それが中学生の皆にばれて虐めの対象になってるの。やーい、オンボロ女ーだって! ふんっ! 私の心は美しいのに! 今をときめく日本一美しい女子中学生よ!? 失礼しちゃうわ!」
そう言って冗談を言うシオリの様子は明らかに無理をしているようだった。
「やり返せよ。殴られたんなら殴り返せ。そうすれば虐めはなくなる」
だがシオリは首を横に振った。
「それじゃダメよ。そんなことをすれば相手と同じじゃない。きちんと話し合えば伝わるはずよ。……きっと」
「相変わらず能天気な奴だな。あとなんで虐めの痕跡を消そうとしてるんだ?」
「それはお父さんたちに迷惑を掛けたくないから。娘がこんな姿で帰ってくれば心配するでしょう?」
「心配、か」
恵まれているなと思った。別に捻くれて言っているわけじゃない。
ただの事実だ。俺と違って家族がいる。家族が心配をしてくれている。
だからここまで綺麗な心を持っているのだろう。俺はもう人を殴っても何も感じなくなってしまった。
「ああ、そうだ。ヒロト君。ずっと君にこれを言いたかったの。あの時はごめんなさい。その、花を折られてヒロト君が激怒したとき」
「……?なんでお前が謝るんだ?」
「あの時、殴りに行くヒロト君を私が止めていればヒロト君が学校に来なくなることもなかった。ずっと謝りたくて」
「別にあれは関係ない。元々俺にはクズの血が流れていたからどうせ何か事件を起こして学校には来なくなっていたさ」
「そんなことないよ」
「あるね。怒りのままに人を殴るのが心地いいんだ。気が付いたら皆倒れている。それを見ても何も感じないんだ。性格は生まれつきだ。俺は生まれつきクズだった」
「あなたはクズじゃない。生まれつきクズの人なんていないわ」
その言葉は俺を無性にイラつかせた。
空っぽな人間だと思っていた自分に芽生えたクズ人間という人格すらも否定された気になった。俺にとってクズではないという言葉はあなたは何もないと言われることと同義だったんだ。
「……お前には俺のことがわからねぇよ」
そう捨て台詞を吐いて俺はシオリの元から立ち去った。
家に帰ると児童相談所のやつらが家の扉の前で俺が戻ってくるのを待っていた。
俺は面倒だとため息をついて家に戻るのをやめた。かと言って他に行く当てもなく、町の図書館に寄った。
俺は図書館で暇つぶしのために適当な本を手に取った。
その本はファンタジー小説で、主人公は魔法を使って様々な人を助けていた。
俺はその本に夢中になって読んだ。様々な人を助けて色んな人に愛される主人公に少し憧れたのを覚えている。けど、もちろんそれを目指そうなんて思っていなかった。俺はクズだから。こんな主人公にはなれない。だからこそ憧れ以上の感情は抱かなかった。
中学はたまに市の役員に見つかり強制的に行かされたこともあったけど、俺は教室へは行かずに保健室で色んな本を読んだ。俺の教養は本だった。




