8話『海水は目に沁みる』
「じゃ、行こう修哉くん。怒られちゃうよ? 莉緒時間にうるさいから、それにすごい楽しみにしてたからねぇ」
「じゃ少し早歩きで行くとするか」
三月は夏らしい薄手の白いワンピース。肩口から晒される白い肌は陽の光を浴びて輝く。
長い黒い髪と相まって大人っぽい。そんな三月はさながら上流階級のお嬢様みたいだった。もちろん俺は直視することなどできず。景色を見る振りをしてチラ見。
ちっこくちっこくと三月は呑気に言いながら歩く。遅刻はしなかった。
むしろいつもより少し遅い位の十分ちょっとで駅に到着。照り返しが熱く、すでに肌が赤を持っていた。
三月は鷹揚と手を大きく振った。駅ホーム入り口に立つのは莉緒。彼女は彼女で丈の短い夏らしいズボンで太ももの大部分を露に、白くて細くて傷など一つもない脚だった事にはやはり驚く。
――やっぱり女子なんだな。
けれど佇まいは活発で、教官のような逞しさ。
「修哉遅刻! 一分も、遅刻!」
「二分くらい前から見えてただろ、しかも遅刻は俺だけ? 三月は?」
「女の子にはいろいろ準備があるし、男に準備なんてないでしょ?」
苛立った教官は声を張る。恐ろしくてそれ以上反論する気は無い。
「……まぁいいや、後五分で電車来るぞ、急がないと、ほら走れ!」
アプリの時刻表を莉緒の顔に押しつける。
「修哉が遅刻するのが悪い!」
「説教は後で訊くから急げって」
俺も意外と今日という日を楽しみにしていた。昨日の夜はそわそわして上手く寝付けず、瞼を閉じたのは空が明るくなってきたころ。そんな俺は二人より少し先を早足で先導。事前にチャージしていたカードを改札にかざす。我ながら遠足を楽しみにしていることに驚く。
「荷物、持ってやるよ」
「……見ないでよ?」
俺は重そうに持つ手提げを莉緒と三月から受け取る。勿論中身は見ていないが中身はアレだ、間違っても覗いてはいけないもので、覗いたら楽しみも削がれてしまうそういうもの。やはりそんな重要なものを持たされている、というのは妙な背徳感があるわけで、信頼されている証でもあるのかもしれないと思う。
俺たちはなんとか電車に駆け込み無事出発。それから一時間車内、車内で適当に話していたらあっという間に乗り換えの駅、それからレトロな電車に乗り継いでさらに三十分ちょっと。
「ねぇ、写真、撮らない? 初めて三人で来たっていう思い出にさ」
そう提案したのは三月、もちろん断る理由は無い。三月の提案なら莉緒も断らない。
ユニークな形の駅を背後に一枚、二枚、三枚と、気に入るまで撮った。その写真は俺と莉緒のスマホに送られた。もちろん、お気に入りに追加……。思わず口角が上がった。
それから十分ほど歩き、海の家で着替えること三十分。
「……」
「……」
「……」
「何か言ってよ! 超気まずいから!」
莉緒は小さな頬を赤らめて言うそんな彼女の格好は、すこし背伸びした様なひらひらの付いたビキニで、上に灰色のパーカーを羽織ってポケットに手を強く突っ込んでいた。けれど背が小さいのでなんだかお姉ちゃんになれなかった妹みたいな雰囲気。勿論姉は三月だろう。
三月は黒のビキニで……言うまでもなく直視などできやしない。それなら俺は太陽を直視する。
「あぁ、似合ってるし、可愛いよ………………なんで黙るんだよ!」
「あ、あぁ……そりゃどうも」
「そう言ってもらえると、こんな恥ずかしい思いした甲斐があるかも」
そういう三月は腕を後ろに組んでちょっとだけ胸を張る。電車からも見えていた青い海は果てしなく広大で、押し寄せる波が夏の日差しをキラキラと纏う。押し寄せる潮の香りにここは海だと再確認。海上の陽炎の向こうに多くの帆がなびく。
三月と莉緒はかけっこで波打ち際に走った。俺は後塵を拝することに。少し遅れて二人の合間に入る。
ただ今思うと間違いだったかもしれない。
「うわ! こんにゃろ!」
目に入った海水が沁みる、俺は目を眇めながら両手に掬ってばっさと莉緒に仕返し。
俺は二人の標的に。前から莉緒に、後ろから三月に、俺の手ではどうしても対処などしきれない。もうどうにでもなってしまえと、早々に諦めた。しかも通りすがりの男の子が海水水鉄砲で俺の顔を撃った。
「えいっ!」
どさくさにまぎれ、俺の身体は押し倒される。失敗したハグのように、意外としっかりしているのだなと、俺はそう二つの感触を腹部で感じる。
手で顔を拭い、上を向けばそこには三月が居て、軽い悲鳴と、莉緒のムカつくほど馬鹿にしたような笑いが、海面に少しだけ出た耳が聞き取る。
「これには訳が――」
「――!」
三月の白い脚が持ち上げた海面が俺の顔に襲い掛かる。
きっと一生のこの日の事を忘れないだろう。今生で最も充実した夏休みの、充実した一日目。
それから俺はお詫びと渡された生地の薄いパーカーを頭から被らされた。
「良いのかよ、風邪ひくぞ?」
「別にいいって、私こう見えても風邪ひいた記憶ないから」
「なら、ありがたく……」
それは高熱過ぎて記憶が無いんじゃ無い? と突っ込みたかったがやめた。
まぁ、莉緒と俺の体格は言う必要もないほどに違う、パーカーの袖に俺の腕が通るわけがない。俺は言葉通り羽織っている。なんだかこの方が恥ずかしくないか、と、シーフードラーメンを啜りながら思う。
それから砂で堤防を作ったり、城を作ったり、埋められたりして時間はあっという間に過ぎた。今では青かった海面は真っ赤に染まり、潮の流れも少し変わったように感じる。
髪の毛とか体に染みつく潮の臭いはシャワーではなかなか落ちなかった。もしかしたら鼻の奥に染みついているのかも知れない。
帰りの電車で、運よく座れた三月と莉緒は互いを支える様に熟睡。俺はそんな二人を守る様に立っていた。
「もう暗いし、さすがに家の近くくらいまで送って行くよ」
まだ少し寝ぼけが残る莉緒を家の近くまで送る。
「大丈夫か?」
「たぶん目の前にベッドがあればすかさず飛び込んで……寝る」
「それは俺も同じだ」
「修哉と同じなんて、何の冗談よ」
「悪かったな、なら三月もそうじゃなんじゃないか?」
「三月と私を同じにするのもどうかと思うけどね」
「今日は楽しかったよ、ありがとう」
「別に、修哉を楽しませるために海行ったわけじゃないから、三月のついでに誘っただけ」
「それでもうれしいものはうれしいけど、できれば聞きたくなかったなぁ」
「もういいわ、家すぐだから」
「そうか、じゃぁ俺はここまでだな」
「ええ、風邪引かないようにね、まだ夏休みは始まったばかりなのだから。近々また誘うわ」
軽く手を振ってその背中をしばらく見届けた後、電車を乗り継ぐまでも無く歩いて俺は自宅に帰った。
階段を登り、三月の部屋の前を通ったすぐあと、ドアが開いた。
「お疲れさま、まだ疲れてなかったらすこし、いい?」
疲れてはいるが、三月の頼み、断るわけがないじゃないか。
そしてしばらくして、俺は風呂から上がり、部屋着に着替える。
俺は猫をじゃらす三月を横目に冷蔵庫を開ける。
「何か飲むか? コーヒーとココアとコンポタならあるんだけど」
「そうだ、えっと……コーヒーには確か、アラビカ種とロブスタ種と大きく分けた二種類があって、ロブスタ種はインスタントのコーヒーに使われる……それに苦い、だから私は、砂糖多め、少し温かい牛乳で作ったココアが飲みたい……」
「ココアね。で、その豆知識はどこ情報?」
「あ、さっきテレビでやっていた情報……です」
そう言って恥ずかしげに笑って見せる。
手に入れた豆知識は誰かに言ってみたくなるモノ、だがそんな情報を言われてもすぐに忘れてしまう。
俺は牛乳を鍋で温め、うんと甘くするために大さじ三くらい山盛りの砂糖を投下、普段より少しだけ多く粉末ココアを投下。混ざったら二つのマグカップに注ぐ。
鼻腔をくすぐる甘い香りが部屋に満ちて酔いそうだ。換気扇を付けてからマグカップを三月の前に。マグカップと交換にミカンを持ち上げケージへ。
一口長く啜る。口の中に広がる絶大な甘さとカカオの風味。男の口には少し甘すぎたかもしれない。
沈黙がひたすら続き、飲み終わったころで、三月が言う。
「修哉くん……私と……付き合いませんか」
まっすぐの瞳が、俺では無くて、壁を見ていた。それから俺の言葉を待つ一泊を置いて。
「え、ごめん、しばらく整理させて――」
「私、修哉君のことが好きです。付き合ってください」
間髪入れずに三月は食い下がる様に二度目の告白を。しっかり俺の頭に届いた。そして理解した。彼女の真剣な瞳が、俺の挙動不審な瞳を捕らえる。本気なのだと。沈黙の間が教える。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
沈黙の間に三回、ミカンがニャーと鳴いた。
「今すぐに、言いません……でも、この夏休みが終わるまでに答えを、訊かせてください……」
「……夏休みが終わったら?」
「その時は私はフラれたってことで、今まで通りです」
しばらくの沈黙の後、三月は場を仕切り直すように空のマグカップを洗い、ミカンと一時間ほどじゃれ、夜の十一時を回ったころ、やっと一人になった。
「はぁーマジかよ、高校って、やっぱ違うなぁ」
断る、という選択肢は俺の頭にはなくて、なら何に悩んでいるかと訊かれたらやはり、どう返事しようかという事。逡巡の果てに深夜に悶え、いつの間にか眠っていた。
付き合うとなるとやはり思ってしまう、自分が彼女の相応しい人間なのか。一生、彼女の笑顔を守って行けるのか。いくら考えてもそんな未来の事なんて予測できない、誰かが教えてくれるものでもない、でもきっと、彼女が、三月が俺を選んだ、だから俺は失望させないように自分の出来る範囲で頑張るしかない。
夢の中で、修哉は覚悟を決めた。




