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彼女と黒猫  作者: M.H
彼女は黒猫 (下)
50/54

50話『三月とミカン』

 何が嘘で、何が本当なのか。そんなこと、俺にはわからない。黒猫を飼っていたのも俺の嘘の記憶の中なのか、本当の記憶なのか。もうひとりいた誰かが、誰なのかも、居たのか居ないのかもわからない。勝手に連想で現れる残像の閃光に目の奥が焼かれるようだ。

 彼女が、まるで昔から居たみたいに。初めて会ったのに温かくて、思わず感涙した夜のこと。

 三月。あの家出の少女はきっと……俺は本当はわかっていて、気づきたくなかった。

「莉緒――今から、家に来てくれ」

 一言出すたびにそのまま吐いてしまいそうな、けれどそれどころでは無い。俺は何度もこみ上げるものを押し込んで、強くそう言った。

 莉緒は強く頷いて震える手と声でタクシーを呼んだ。

 車内で二人は顔色悪くしていた。目を腫らし、しゃくり上げるような呼吸を繰り返し。運転手には申し訳ないほど気まずい空気。

 二十分ほどで到着。

「……」

「……私、ここに来るの。怖かった……」

 身体が熱い。頭は信じられないほど痛い。吐き気を抑えつけながら、俺は階段を踏みしめる。ギシギシと異音を上げる階段。

 これが悪い夢だったら。この二年間、俺はいつもそう思っていた。

 都合の悪いことを忘れた今でも、そのことだけは頭にこびりついていた。今だから見えたのかもしれない。

「ただいま……三月」

 俺はあれほど自然に口にしていた言葉を、今では何かを壊す、呪いの言葉のように思った。

 認めてしまえば俺も、莉緒もきっと今まで通りにはいかないかもしれないくらいに。けれど莉緒はそんな弱い女の子じゃないことを知らせた。

 背後で嗚咽を漏らす莉緒が俺を退けて部屋に走った。

 ただその光景を、俺はドアの前で憮然と見つめていた。

 莉緒の小さな身体に押し倒された三月。けれどその顔は不思議と崩れていき泣いていた。

 上体を起こした二人は俺を見つめ、酷い泣きっ面で招いた。

 いいや、莉緒は小さくなかった、今では三月と並んで、三月と同じくらいの身長だった。

 三月だけが、あの時のまま、時が停まっていた。

 俺の足は不安定で妙に軽い。莉緒は震える手で、声で、それを手に握らせた。

「これ、修哉が捨てたやつ」

「……捨てたのか」

 言われてみればそうだったのかも知れない。小さな紺色の箱。それがリングケースだとわかった。嵌められたダイアがきらりと輝く。本当に俺が買ったのか……。どうするべきか、莉緒に言われなくてもわかる。踏み出すたびに莉緒はポロポロ可愛らしい涙を落とした。

「三月、手、出してくれ」

「……うん」

 お互い油の足りない機械みたいに手が震え、そして冷たく。暖かい。

 濡れてもう何も見えていないであろう茶色の瞳。かすかに琥珀が揺れた。

 そっと、俺は三月の涙を拭って、細い指に指輪をはめた。言うべき言葉などわからない。けれどこの口が漏らした言葉がきっと決別で、正しい言葉だと俺は信じている。

「好きだ、三月」

「私も、好きです。修哉くん」

 きっと、悪い嘘だったんだ。全部。

 食い下がり言う三月は俺と莉緒を強く抱きしめ。

「みんな、大好き」

 ただひたすらに耳を莉緒と三月の声が叩いた。

 熱くて、幸せな、いつだったか、言われた言葉みたいに妙に安心した。そして、俺は初めて現実を受け入れて、けど受け入れたくなくて、ただ一人のために泣いた。

 滲んだ瞼の裏にまた、いつしか夢で見た青い蝶が際限なく飛び交う草原。

 いつの間にか心に固まっていた鉛のような思いは消えていた。

 体の熱が解けるのと一緒に薄れゆく意識に抵抗はできなかった。


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