50話『三月とミカン』
何が嘘で、何が本当なのか。そんなこと、俺にはわからない。黒猫を飼っていたのも俺の嘘の記憶の中なのか、本当の記憶なのか。もうひとりいた誰かが、誰なのかも、居たのか居ないのかもわからない。勝手に連想で現れる残像の閃光に目の奥が焼かれるようだ。
彼女が、まるで昔から居たみたいに。初めて会ったのに温かくて、思わず感涙した夜のこと。
三月。あの家出の少女はきっと……俺は本当はわかっていて、気づきたくなかった。
「莉緒――今から、家に来てくれ」
一言出すたびにそのまま吐いてしまいそうな、けれどそれどころでは無い。俺は何度もこみ上げるものを押し込んで、強くそう言った。
莉緒は強く頷いて震える手と声でタクシーを呼んだ。
車内で二人は顔色悪くしていた。目を腫らし、しゃくり上げるような呼吸を繰り返し。運転手には申し訳ないほど気まずい空気。
二十分ほどで到着。
「……」
「……私、ここに来るの。怖かった……」
身体が熱い。頭は信じられないほど痛い。吐き気を抑えつけながら、俺は階段を踏みしめる。ギシギシと異音を上げる階段。
これが悪い夢だったら。この二年間、俺はいつもそう思っていた。
都合の悪いことを忘れた今でも、そのことだけは頭にこびりついていた。今だから見えたのかもしれない。
「ただいま……三月」
俺はあれほど自然に口にしていた言葉を、今では何かを壊す、呪いの言葉のように思った。
認めてしまえば俺も、莉緒もきっと今まで通りにはいかないかもしれないくらいに。けれど莉緒はそんな弱い女の子じゃないことを知らせた。
背後で嗚咽を漏らす莉緒が俺を退けて部屋に走った。
ただその光景を、俺はドアの前で憮然と見つめていた。
莉緒の小さな身体に押し倒された三月。けれどその顔は不思議と崩れていき泣いていた。
上体を起こした二人は俺を見つめ、酷い泣きっ面で招いた。
いいや、莉緒は小さくなかった、今では三月と並んで、三月と同じくらいの身長だった。
三月だけが、あの時のまま、時が停まっていた。
俺の足は不安定で妙に軽い。莉緒は震える手で、声で、それを手に握らせた。
「これ、修哉が捨てたやつ」
「……捨てたのか」
言われてみればそうだったのかも知れない。小さな紺色の箱。それがリングケースだとわかった。嵌められたダイアがきらりと輝く。本当に俺が買ったのか……。どうするべきか、莉緒に言われなくてもわかる。踏み出すたびに莉緒はポロポロ可愛らしい涙を落とした。
「三月、手、出してくれ」
「……うん」
お互い油の足りない機械みたいに手が震え、そして冷たく。暖かい。
濡れてもう何も見えていないであろう茶色の瞳。かすかに琥珀が揺れた。
そっと、俺は三月の涙を拭って、細い指に指輪をはめた。言うべき言葉などわからない。けれどこの口が漏らした言葉がきっと決別で、正しい言葉だと俺は信じている。
「好きだ、三月」
「私も、好きです。修哉くん」
きっと、悪い嘘だったんだ。全部。
食い下がり言う三月は俺と莉緒を強く抱きしめ。
「みんな、大好き」
ただひたすらに耳を莉緒と三月の声が叩いた。
熱くて、幸せな、いつだったか、言われた言葉みたいに妙に安心した。そして、俺は初めて現実を受け入れて、けど受け入れたくなくて、ただ一人のために泣いた。
滲んだ瞼の裏にまた、いつしか夢で見た青い蝶が際限なく飛び交う草原。
いつの間にか心に固まっていた鉛のような思いは消えていた。
体の熱が解けるのと一緒に薄れゆく意識に抵抗はできなかった。




