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彼女と黒猫  作者: M.H
彼女は黒猫 (下)
38/54

38話『辛いものは苦手』

 莉緒と喫茶店で分かれ、俺はバイト先へと向かった。店長の愚痴に適当な相槌を打って、暇な時間など無く、客を捌く。それから三時間、バイトが終わり、店長が「もうちょっと働けない? 人手無いんだよぉ」というので「失礼します」とだけ残して退勤。俺はさっさと買い物を済ませ、家に戻って九時頃。

 片手に持った大きなビニール袋には一ヶ月分の食材。重たくピンと張り詰めている。

 毎日その日の分だけ買って帰るのは面倒だからまとめ買い。こうなるのは仕方ないこと。というか独りであればカップ麺とかコンビニ飯で十分だと、俺は本気で思う。お湯を注ぐだけあるいはレンジで数分温めるだけで身にしみるほどおいしい。少なくとも俺の技術では作れない味が楽しめる。

 けれどこの食材を買ったのは所謂家出少女な三月という少女の事を考えてのことで、もし家に居なければ料理は作らずカップ麺で済ませよう。そう思いながら俺はカギを回す。

「ただいまー」

 俺の住むアパートに仕切りらしい仕切りの無いワンルーム。そのためすぐに居間が見える。いるか居ないかはそれ以外の要因でもすぐにわかる。人の熱と香りと音。俺はわずかにほっとした。

「お帰りなさい」

 彼女はまだこの家に、六畳ほどの居間に存在していた。

 俺はすとすとお出迎えをしてくれた三月に白いビニール袋を渡した。

「えっと、何を作ってくれるのか知らないけど食材は買ってきた」

 鍋の素、カレーの素とか、そう言う失敗しにくくてご飯に合いそうなモノを買ってきた。

 鍋は簡単で栄養価も高いらしくて、それより冬と言えば鍋だ。

 カレーは昼も食べたがそれでも飽きない。作りすぎても冷凍保存しておけば良い。

 広くはない台所スペース。床にとりあえず袋を置いて中身を取り出していく。冷蔵品は冷蔵庫へ、常温品は棚へ。

「別に無理して作らなくても良いからな?」

「いいえ、大丈夫です。これだけの食材があれば……」

 そう自信があるわけでも無く無いわけでも無い表情で三月は浮かべてうなずく。

 少なくとも俺より下手、ということは無いだろう……女子だし。

「任せても大丈夫そう?」

「はい、出来るまで時間が掛かると思うので」

「じゃぁ風呂でも入るかな」

 俺は羽織っていたモノを脱ぐ。三月が渡してくれたハンガーに掛けて壁に。

 片手でネクタイを緩めながら俺は脱衣所へ。

 風呂に入っている間に火の海になっていたら俺は何処に逃げれば良いのだろうかと、そんなことを考える。下は大火事、上は洪水。とか。

 蛇口をひねり熱いお湯が湯船に注がれていく。シャワーで身体を綺麗にした頃には半分ほどたまっている。

 そんな半身浴みたいな状態。

「ふぅ」

 と、自然に口から漏れる安息。身体が心地よく圧迫される感覚はマッサージみたいで好きだ。

 俺はいつも通りたっぷり一時間ほど浸かって、身体を拭き、部屋着に着替える。

 そういえば、三月はシャツのままだった。なんか部屋着とかあった方が良いかも。そう思ったが俺が勝手に買ってきたら気持ち悪いことこの上ない。後で訊いてみよう。

 洗面所から出ると部屋にはすこしすっぱい良い香りが満ちていた。コレは俺が買ってきたチゲ鍋の素。冬と言えば辛いもので、手癖でカゴにいれたのだ。割と辛いものがいける口の俺でも頻繁に鼻をかみ、汗を拭うほど。彼女も辛いものが好きな同士だったのか、とチョコミント党を見つけたときのような気持ちに浸る。

 半熟の卵が二つ真っ赤なスープに浮かんでいる。まんべんなく煮込まれた野菜たちやお肉たち。

「やっぱり、冬は鍋だよな、それも辛めのヤツ」

「……そう、ですね。あ、よそいますね」

「じゃぁ頼もうかな」

「はーい……」

 三月は小皿に黄色み掛かった真っ赤なスープを注ぎ、野菜と肉を盛り付けてくれた。

 小さな鍋は俺の前に置かれた。

「いただきます」

 俺はスープから啜る。得も言われぬ辛さと具のうまみが広がる。やっぱり鍋がいちばんだ。「あれ、三月? 大丈夫か?」

「……いえ、その……私実は……辛いもの、苦手なんです」

 そう双眸に湧いた大粒の涙。みるみるうちに口を中心に顔がほてっていく様子。

 そう、彼女は辛いものが駄目だった。なぜ作ったのか、それは具材と、俺が買ってきてしまった素が結ばれた結果だった。三月がこの家に居る間当分辛いものはお預けだ。

「ほら、牛乳飲むか?」

「はい、ありがとうございます」

 三月はコップをぐいぐいと傾けて落ち着いたように息を吐いた。ひとまず落ち着いたらしい。

 俺は半分以上鍋を平らげ、残りは朝ご飯にでもしよう。


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