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彼女と黒猫  作者: M.H
彼女は黒猫 (下)
32/54

32話『学生の本文は勉強です』

 季節は冬に足を踏み入れた十一月中旬。

 本来あるはずの秋はあまり感じない。銀杏並木が黄金色になる前に枯れた、そんな気がした。都会の気温も朝は十度とか平気で下る日も出てきた。人間も元は動物で、やはりその頃の本能で冬はどうしても起きるのが辛い、外に出たくない、目的もなく、ただ食材を買うために家を出たくはない。冬眠したい。けれど冬眠など出来るわけも無く食べなきゃ死んでしまう。だから週にまとめて買って帰る。それが今日という日だ。

 買い過ぎて冷蔵庫に入らなくてもこの気温だ、保存方法には困らないだろう。この冬という時期になると母がよくイクラなんかを漬けてくれた。もう長い事食べていないことにすこし寂しく感じる。

 午前五時十五分――。

 外はまだ深夜と間違うほど紺碧に覆われていた、カーテンの隙間から見せるそんな空はあと一時間もすれば陽が射して、寝ている子どもを起こすように夜がはがされる。

 やっと起きた俺を二度寝に誘う悪魔、ここで寝てしまうと俺はきっと遅刻確定。二度寝の気持ちよさは知っている、だからこそ、俺は悪魔に魂は売らず、大きく伸びと欠伸をした。欠伸のついでに深呼吸をして頭に新鮮な酸素を送り込む。

 午前六時十分――。

 アラームの代わりにテレビがパッと光を放つのに思わずびっくり心臓が止まりかけた。薄暗い部屋を照らす光はやや眩しく目を眇める、布団に眠る三月の滑らかな肌がテレビの色に浮き立つ。それに俺は思い出す。

 そうだ、この家には俺だけではなく、三月、という十五歳の少女がいる。長い黒髪が白いベッドに雑に広がっている。つい数時間前まで開かれていた琥珀眼は長い睫毛に伏せられている。伸ばせばすぐに触れられる滑らかな穢れを知らない白い肌。指先を伸ばしたものの罪悪感に駆られ手を引いた、それでも男かと思うが触れないのが正解だ。

 首が…足が…成長痛ではない、ソファーで寝ていたことがこの痛みの原因だ。

 気が付けば三十分が経ち、蔓延る闇は神々しい太陽から逃げる様に衰退して、その空は霧掛かった水色になっていく。この部屋は日当たりがよくて、朝、こうして日光を浴びると、学校に行きたくない、という気持ちが少しはマシになる。不思議なものだ。

「おはよう」

 静かに仰向けに寝ていた三月が睫毛を揺らし、瞼を細く開いた、ぼやっとした寝ぼけ眼に短くそう言った。日の出のように現れた三月の瞳はまだ曇っていた。

 言葉を探すように三月は二十秒たっぷりかけて三度瞬きして言う。

「お、は、よう……んんっ」

 そう言ってからもぞもぞと布団から両腕を出し、組んだ両手を天井に伸ばし、噛み殺すような欠伸を一つ。

 俺は一足先に朝の身支度。歯を磨いて顔を洗いついでに髭を剃る。

 どうやら三月は朝に弱いらしい、しばらく目を虚ろにして短い夢を見ているようだった。

 午前七時――。

 三月はようやく夢を払って、こちらの世界へ帰ってきた。のそのそと起き上がり、ゆらゆらとしながら、ドアノブに手をかけて言う。

「洗面所、借りてもいい?」

「あぁ、ご自由に、下の棚に新しい歯ブラシとか入ってるから、必要だったら好きに使って」

 ホテルとか旅館とかにあるアメニティ。三月が洗面所にいる間、俺は朝食を作り始めた。

 朝食、と言ってもそんな大それたものではなく、ただパンをトースターで焼き、バターを引き、フライパンにもバターを引き、砂糖入りの卵焼きを作り、後冷蔵庫に眠る野菜を適当に皿に広げる。

 ただ朝の空腹を紛らわせればいいか、健康も考えて野菜も、という朝食。

 育ち盛りの三月には申し訳ないが俺は料理を得意としていない。

 三十分くらいして三月は洗面所から出てきた、目はだいぶはっきりとして、髪は後一つにまとめアップに。

「パンなんだけど、食べるか? あと卵焼きと、野菜……」

 三月は軽くうなずいて、焼き立てのトーストを齧った。ざくざくと子気味良い音が部屋に渡る。

「ごちそうさま……」

「なんか、ごめん」

 きっと年頃だから体重とか、そういう容姿とかも気にする時期だろう。きっとこのくらいの量で十分だ。そんなわけ無い――。

 そんな風に頭の中で自問自答していると三月が言った。

「あの、私が作りましょうか……お世話になったお礼として……」

 三月は恥ずかしさをにじみ出した笑みを精一杯浮かべた。

「じゃぁ、頼もうかな」

 まぁ、三月もこう言っているんだ、頼もう。女子だし……器用そうだし……俺より上手く作るだろう。

 俺は手早に洗い物を済ませ。

 午前七時四十八分――。

 五十分前に俺は家を出る。

「カギ、一応渡しておくよ、家を出るときはカギを閉めること、もし、帰らないんだったらポストに入れておいて」

「はい」

「じゃ、行ってくる」

 俺は紺色の学生コートを、灰色のブレザーの上に羽織り、家を出た。


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