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彼女と黒猫  作者: M.H
彼女は黒猫 (下)
29/54

29話『髪を乾かす』

「タオルは右側の棚にあるから、好きに使ってくれ……まぁ、ごゆっくり――」

 街で琥珀眼の彼女と出会ってからの話。俺は何を考えたのか同じ傘の下で、同じ帰路に就き、俺の家に連れてきてしまった。そんな、野良猫を拾った、みたいな感じでいいのか、絶対にダメだろう。

 そして現在、風邪をひいてしまったら大変だと思い俺は風呂を勧めた。

「いいです」「いや、いいから」「いいです」「いや、いいから」と問答を数回繰り返した後、彼女は風呂に入った。きっと『男』ということで警戒をしたのだろう。無理もない、それが普通の反応だ。俺だって女子に誘われた家に行ったらいきなり風呂を勧められた、なんてことになったら何か事件の一つでもあるんじゃない? と勘繰ってしまう。

 俺も正直、この屋根の下で女子と二人きりというのは――得体のしれない興奮じみた感情があった。

 もう思春期の盛り時期は過ぎたとはいえ男だ……間違いが起こらないとは――言い切れたのだが人間、欲を前にしたら豹変する。それは男も女の平等だ、ただ少し男の方が力があるというだけ。

 そんな煩悩を掻き消すように突発的な鋭い痛みが襲った。片頭痛の類、付き合いは長く耐えられないほどでもなく、耳鳴りも今では慣れた。

 一呼吸して目を瞑る。

 あの黒く細い髪と、思惑を見抜くような、博物館で見た琥珀のかかった丸い瞳、そういえば、最近黒猫を見ないなぁ、確か……俺がまだ中学生だったか小学生か曖昧な時期に拾った思い出がある。その頃の写真は無くて、記憶の中に幻覚のようにあるだけ。もしかしたらドラマでそういうシーンがあっただけかもしれない……その猫はどうなったんだっけ。ふと思い出そうとした瞬間再び鋭い痛みが雷のように走る。

 しばらくしてシャワーの音が途絶え、ガチャと戸が開く音が薄いドアから漏れる。

「あ、俺のシャツだけど、洗ったばかりだから使っていいよ」

「…………」

 返事は無い。彼女は口下手なのか、警戒しているだけなのか来る途中に交わした会話は「おなかすいてる?」とか。まぁ返事はない。

 それからガサゴソと衣擦れの音が落ち着き、ドアが開かれた。

「お風呂、あがりました……」

 そうドアの狭い隙間から顔を覗かせ、拙く言った彼女。俺のワイシャツはやはりその身体には大きかったようで。裾の長いシャツから伸びた白く傷の無い滑らかな肌……いったいその裾を捲ったら何が見えるのか。しばし俺の瞳は釘付け。下心なんて全然ないんだけど。不思議だ。

「あの」

「あ、なんでしょう……って」

 見据える茶色掛かった琥珀の瞳に合わせ、俺はあと思い言う。

「髪、まだ濡れてるよ、これじゃ風邪ひく」

 それは彼女の髪がしっかりと乾いていなかったから。けれどそれだけのことでそれ以上のことは無いのに。不思議と俺の頭は、拭いてあげないと、と、言う衝動に駆られた。

 俺は立ち上がり、洗面所から数回しか使った事のないメタリックピンクのドライヤーを手に、コンセントに挿す。これは確か引っ越し祝いの時に母からもらったものだったと思う。

「そこ、座って……髪、乾かしてあげるから」

 けれどこの妙な感情は下心、というやつなのかもしれない。男としての本能を長い事疎かにしていたことが祟ったのか反応は示さない。

 ドライヤーに電源を入れる前に、俺はその長い髪を少し、手に取った。

 濡れた細い髪の毛が水分を吸って一本一本柔らかく、乾いたらきっと驚くほどさらさらとしているのだろう。俺の心は強く圧迫されるように苦しかった。喉は掴まれるように苦しかった。緊張と罪悪の感情。

「あの……」

「あ、ごめん、すぐに乾かすよ」

「……」

 誰かに詳しく教わったとか、そういう訳ではなく、自然と身についた技術で、俺は彼女の髪を偏りなく乾かしていく。乾かされていくにつれて艶をみせ、さらさらと軽く、シャンプーの良い香りが立ってくる。不思議なものだ、俺と同じシャンプーなのにこんないい香り絶対にしない。それからあっという間にふんわりと乾いた。見立て通り、彼女の髪はビロードみたいに輝いていた。

 修哉の指先は静かに震えていた。それはただ、きっと寒いだけだと。そう思う。


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