25話『狛江修哉は青い蝶を見る』
どんなものでもいつかは壊れてしまう、意外と呆気なく、十本束ねても、百本束ねても折れてしまう線香のように。砕けて元通りにならないパズルみたいに、焼ければ跡形もなく灰になる。そんなことを言われても卑屈に反論したくなる。そんな自分がやはり居た。
そんな自分はすでに空のコップみたいに。砕けた灰を押し込んでも何もならず。ただそうなのだと事実が焼きつけられただけ。
家に向かっていた道で莉緒に襟元をつかまれタクシーで向かった場所は総合病院で陰湿な薬品が鼻腔を突き上げる場所で母親と名乗る人物を初めて見る。五十代後半だろうか。白髪交じりの黒髪は印象のある彼女と同じで。けれどもともと生気のないその瞳がぶつぶつと何か語る。
別に悲しむでもなく、むしろ安堵しているようでもあった。そんな母親だった。父親など姿もない。その理由は俺には全く理解が出来ない。うちのクソオヤジでもきっと俺が――ば駆け付ける。そして顔に刻まれた皴の一本いっぽんに染み渡らせるはずだ。
けれどここには乾いた眼しかない。時々吐くため息が癇に障る。本当はそんな感情もなかった。
誰も何も言わない、けれど事実と、この場所が言う。さっきまで淡く光っていた扉の上の電気が消えることが告げる。扉から出てきた医者が告げる。
次第に薄れゆく感覚が、微かに、その匂いを拒絶していく。熱に蝕まれていく。
こんなのは違う。
こんなのは違う。
誰でもない。
俺は知らない。
――俺は、知らない。
頭が壊れて、脳の形をした灰をさらさらとこぼしていく。
それが誰なのかを知ってしまえば、きっと俺がここにいる、生きている存在意義を壊すから。
奥歯がギシと砕ける。
昔、母が言った。俺が中学生だったか小学生だったか、今ではあいまいだけど、その言葉とやられたことだけは覚えている。
『黒猫なんて連れてこないで、そんな不吉なもの早く元の場所にもどしてきなさい!』
その頃の俺はきっと優しかったんだ、元の場所は、家だと。この子たちが帰るのは温かい家庭だと、家族のように。俺は反発して、内緒で部屋で飼っていた。『さぁ、勝手に逃げたんじゃない?』人の頭でも通るほどの隙間が窓には開いていた。きっと戻るべき場所はここじゃなかったんだ。それだけのことなのに、俺はその日から大好きだった母が、そんな大好きだった母を擁護する父が嫌いになった。そんなどこのだれの猫かもわからない猫よりも、親を怨むことを選んだ。
濡れて固まった灰はかたまる。
誰も知らない、そんな世界に。自分だけが知らないそんな世界に。行きたい。
何度も頬を張ったのは肩口に切りそろえられた明るい髪の少女。とても懐かしいその顔も、記憶に薄い。夢の中の様な。彼女の名前は何だったか。髪を揺らし、唾を飛ばし、何度も叫びで殴る。
――お前のせいだ。
そう何度も叩く。そのたびにねっとりとした灰で固めていく。
もう、聞こえない。そうなるまで。もう、聞きたくない――。
また、青い蝶が、俺の前を過ぎていった。




