19話【イオン】
夜が明け、オニークスの街はいつも通りの朝を迎えた。昨夜の大事件に関しては一般人にはまだ知らされておらず、街の住人達のほとんどはいつもと変わらぬ生活を送っていた。
「それじゃあ女将さん、色々とありがとうございました。」
街に滞在していたミラは宿屋でのチェックアウトを済ませ、今まさに出発というタイミングであった。
「どういたしまして。ところで、これから先はどういう予定だい?」
「今日はこの後、馬車で国境近くのタンザナっていう街に向かう予定です。そこで一泊したらそのまま国境を越えてアトランドへ戻ろうかと思ってます。」
「そうかい、それじゃ道中気をつけてね。」
笑顔で見送る女将に手を振りながら、ミラは宿屋を出た。
宿屋を出て空を見上げると、昨晩の雷雨がウソのようにすっかり快晴に変わっていた。まだ所々に水溜まりが残っているが、この陽気であればいずれすぐに乾いて無くなるだろう。
だが、そんな天気とは裏腹に街中では何人もの兵士が慌ただしく行ったり来たりを繰り返している。
「随分と騒がしいわね。何かあったのかしら?」
少し気にはなるが、下手に寄り道をして馬車に乗り遅れでもしたらそれこそ大変だ。余計な事に首を突っ込むのは止めて、ミラは馬車の乗り場へと向かった。
その頃、ラッセルハイム伯爵の屋敷のエントランスでは苛立ちを抑えきれない伯爵が兵士達に怒鳴り散らしていた。
「逃がしただと!?馬鹿者が!」
「申し訳ございません、旦那様!」
伯爵が怒るのも無理はない。何しろ20歳にもなってないような男1人を捕まえるのに、大の大人数人がかりで失敗してしまったというのだから。
もっとも、捕縛対象であったアルムはただの一般人ではなく、たった一人で熊や狼、果てには大型モンスターとも渡り合うそれなりの手練れだ。一筋縄ではいかないのは当然であるのだが。
「もう手段は選ばん。何としてでも娘を辱めたあの男を引きずり出してやる!」
伯爵は未だにアルムが禁術を行った理由を昨晩から誤解しているままだが、彼が娘の墓を荒らし、あまつさえ遺体を盗んだのも事実だ。
「レムリアル軍に連絡しろ!奴を指名手配する!」
「ハッ!!」
命を受けた兵士は、すぐに軍への伝令に向かう。1人エントランスに残された伯爵は、逃亡を続けるアルムに対して怒りを剥き出しにしていた。
「必ず見つけ出すぞ、アルム…!!」
昨晩オニークスを出たアルム達は、夜が明けるまでひたすら逃げ続けていた。行くアテなどは無いが、今はとにかくオニークスから離れないと追っ手に見つかる可能性が高かったからだ。
朝日が昇って少しした時、それまで一言も喋ることなくただ黙ってついてきていた少女が、突然倒れた。
「おい、大丈夫か!?」
何も言わずに急に倒れたので、驚いたアルムは声をかけた。もっとも、気を失ったようではないので返事は返ってくる。
「すみません、マスター。疲労が蓄積してしまいこれ以上歩き続けるのは難しいです。」
表情的には先程からずっと同じで無表情のまま変わらないが、顔色はあまり良くはない。それもそのはず、いくら健康体として造ったとはいえ、体力的には一般人と何ら変わりないのだ。
普段から自然の中をあちこち歩き回り、刀一本で戦い抜いてきたタフネスの持ち主であるアルムならまだしも、一般人レベルの、それも10代の少女が数時間もひたすら歩いたり走ったりを繰り返せば疲れるのは明白である。
「そうだな、もう数時間は移動しっぱなしだ。少し休もう。」
ちょうど近くに小川があったので、2人はその辺りで休むことにした。
アルムが小川の水を汲んだり刀の手入れをしてる間、少女はずっと無言で体育座りをしていた。ただ、顔色は先程と比べると幾分良くなっていたので、体調の方はどうかとアルムは聞こうとする。
「えっと、シルヴィア…。」
だが、言いかけて言葉に詰まった。その理由は、単純かつ根本的なものだった。
「シルヴィアじゃ…ないんだよな。」
「マスター?」
聞こえないように小さく呟いた。その様子を、少女は心配そうに見つめていた。
そう、目の前の少女はシルヴィアではない。初めは認めたくはなかったが、それはもう自分自身に対する欺瞞でしかない。改めてそれを理解したアルムは、1つの決心をした。
「名前が…必要だな。」
正直なところ、彼女がシルヴィアではないと認めた途端、急に彼女のことをシルヴィアと呼ぶのに抵抗を感じ始めていた。なので、シルヴィアではなく彼女自身の新しい名前を考えようと思ったのだ。
とはいっても、いちいち悩んでいたらキリが無い。頭にパッと思い浮かんだ名前を付けることに決める。
「よし、決めた。お前の名前はイオンだ。」
あまりにも唐突の提案に、少女は首をかしげた。
「イオン?シルヴィアではないのですか?」
「あぁ、これからはイオンと名乗れ。」
「わかりました、マスター。」
特に理由を聞くわけでもなく、主の命を素直に受け入れた。
「よし。そろそろ行くぞ、イオン。」
「はい、マスター。」
数十分ほど休んで大分疲れも取れたので、そろそろ出発することにした。相変わらず行くアテはないが、実は1つだけ決めていることがあった。
「国境を越えて、アトランドへ行こう。」
アルムは自分が名付けたホムンクルスの少女イオンを連れ、まずは国境を目指して歩き始めた。




