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無謀にも手を伸ばした。
落ちてくるのが彼女だとわかった瞬間、体が勝手に動いてたんだ。
彼女が着ていたパーカーの裾を掴めたが、4階からスピードに乗った彼女の体重を片手で支えられるわけもなく、俺も手摺をなんなく越えて落下した。
2階から地面まではあっという間のはずだった。
パーカーを手繰り寄せて彼女の腕をつかみ、二人で落ちていく短い間、俺は幸福の絶頂だった。
裾を掴む前に見た、落ちてくる姫乃の顔が恍惚とした笑顔だったから。
それを見て、俺はわかってしまった。
姫乃は、わざと自分から落ちた。
*****
いつものベンチで本を読みながら、姫乃の授業が終わるのを待った。
無理に追わなかったのは、結局姫乃はここに来るだろう、と思ってたからだ。
姫乃が何に怯えてるのか、薄々検討は付いてる。
けど、俺からではなく姫乃から言って欲しい。俺から言っても結局姫乃は同じことになる。
彼女から俺を欲してほしいのに。
そこまで考えて、ふと視線が気になった。
ベンチの先には小道があって、その先には薬学部に続く広い道につながっている。周りは開けた芝生と花壇なので、棟の入り口まで見通せる。
その、広い道の方に男が1人立っていた。
学生にしては年齢が上に見える。院生か、若い講師か。ごく普通のジャケットにスラックス、ちょっと遠目だからよく見えないが、サラリーマンのようなスーツではなさそうだ。短めな黒髪に細目のメガネをかけている。
そんな男がこちらをじっと見ている。
女性からの視線には慣れているが、男性からの熱視線は初めてだ。こちらもじっと見返してやったら、軽く会釈された。
条件反射で会釈を返したが、一体何者なのか分からない。
男はそのまま薬学棟に入っていった。
このことを俺はすっかり忘れてしまっていた。
「コンパ?」
大学に入ってから降るように誘いの来る、コンパや合コンを姫乃は今まで全て断ってきた。もちろん、地味俺に誘いが来ることはなかったので、二人してそのようなイベントには参加したことがない。
「なんで急に?」
「テニスサークルの中山さんって副部長に声かけられて…」
言いながら、姫乃は海苔にせっせと酢飯を乗せている。
姫乃の母からのお誘いで、あのあと姫乃んちで夜ご飯を頂くことになった。今晩は手巻き寿司だ。
姫乃は昼間のことをひととおり説明し終わると、パクリと自分で巻いたまぐろの手巻き寿司を頬張る。かわいい。
「コンパって大学生!って感じ。でもさぁ、ぶっちゃけ合コンと何が違うの?」
その隣で高校の制服のまま、味噌汁をすすってる姫乃の妹の文乃が言った。
「合コンは、お見合いみたいなもんじゃない。彼氏彼女を見つけるための戦場よ。コンパは仲良くなるための飲み会。」
海苔で巻けないんでは?っていうくらい具をこんもり乗せたオープン手巻きをダイナミックに頬張りながら綾乃さんが言う。
「お姉ちゃんはしょっちゅう参加してたわよねぇ~」感心とも呆れとも言える顔でおばさんが呟く。
三姉妹が勢揃いしてるのを久々に見た。
事件があったとき、文乃はまだ幼く何があったのかよくわかってないようだった。
綾乃さんは、当時、誰よりも早く俺の闇に気づいた人で、それでいて一番の理解者だった。
事件の後、両家でもたれた話し合いに中学生ながら参加して、親達が二人を引き離そうとしていたのを止めてくれたのは彼女だ。一体どうやって両方の両親を説得したのかは、今だ教えてもらっていないが。
「ひーちゃん、コンパ出たいの?」
俺はできれば出たくない。姫乃が他の男と接触する機会を増やしたくないし、俺自身もかしましくまとわりつく女子達から出来るだけ離れたい。
いつもの姫乃ならそんな俺の気持ちをわかって、行かないと言うのに今回は違った。
「たまにはさ、違うお友達を作ってもいいんじゃないかな?お互いに」
お互いに、と言いつつ俺に向けてる言葉だと、この場にいる全員がこちらを見た。
姫乃には中学や高校からの友人が、そう多くはないがいる。橘さんもその1人だ。
対して俺は、大学でふたことみこと話すような知人はいるが、友人と呼べるような人はいない。それも素に戻ったことで、だいぶ遠巻きになったが。
中学では、生徒はほぼ小学校からの持ち上がりで、事件を知る生徒達はどんどん地味になる俺を不気味がり近づいて来なかったし、高校でも似たようなものだった。
まあ、姫乃さえいれば後はどうでも良かったからあまり気にしてなかったが。
「姫乃が参加するなら、俺も行くけど?」
「じゃあ、次の木曜日ね」
話がまとまったところであやのさんが言った。
「参加するのはいいけど、姫乃、コンパの間恭太から離れないで。」
「へ?」納豆巻きをモゴモゴしながら姫乃は聞き返す。
「恭太も。コンパなんて酔っ払っておかしくなるやついっぱいなんだから、飄々とした変な男に姫乃をかっさらわれたりしないように」
「いやに具体的なんだけど……」
なんだか含みのあるあやのさんの言葉に一抹の不安を覚えたが、結局、姫乃と俺はコンパに参加することになった。