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トイレから学食に戻ると、案の定恭太の周りにはヒラヒラと沢山の蝶が舞っていた。
我先にと、一生懸命話しかけてるカラフルな蝶達を、恭太は無機質な顔をして完全無視してる。あそこまで完全無視できるものかね。ちょっと感心しながらも、そこに不用意に近づくことが出来ずに立ち止まってると、恭太がこちらに気がついた。
今までの、美しいけどマネキンのような無表情から一転、艶やかにぶわっとピンクのオーラが一瞬で出たのが見えるんじゃないかっていうくらいの笑顔で私を見た。
周りの女子達は間近でそのオーラにあてられ今まで喋っていたことも忘れて、真っ赤になって震えたり、驚愕のまま固まったり、鼻を押さえてる人もいる。鼻血出た?そこまで?
その隙にしなやかな動作でさっと私の脇に来て、腰をぐいっと抱かれた。
「ちょっ…!」
抗議の声を、耳元で囁いた一言で黙らせる。
「わかってんだろ。助けろ」
ええ、ええ、わかってますとも。
昔、何度も体験したこういう状況。突き刺さる視線という矢も刺さり慣れてるので、さほどダメージは食らわないわよ。
でもね、そっちのダメージは食らわないけど、違う方でダメージを受けた。
普段は柔らかめの口調で喋る恭太だが、たまに出る乱暴ないい方や命令口調に、実は私は弱い。
いわゆるギャップ萌え、というやつだ。
更に、低音で耳障りのいい声質で耳元で囁かれたので、破壊力倍増。恭太にはそれがバレてるのか、たまにこうやってぶっぱなしてくる。
顔が真っ赤になってる自覚はある。
腰を支えられてて逆に良かったかも。だって一人で立ってたら確実に腰砕けで座り込んでた。
真っ赤になって涙目で恭太を睨んでやったら、私の顔を見て、一瞬固まったがすぐ不敵に笑い
「ひめの、かわいい」
またも耳元で囁かれた。
頭から湯気が出てる気がする。
もはや周りからの好奇の目も嫉妬の矢もよくわからない状態のまま、恭太に引きずられるように学食を出た。
この後の講義が休講だという恭太は、私に付き合って薬学部のある棟まで付いてきた。
さすがにもう腰は抱かれてないけど、手は繋がれてる。指と指をからませて握る、いわゆる恋人つなぎというやつだ。もう、どうにでもして。
「こういう状況になるのがわかっててなんで恭太は元に戻ったの?」
ここ数日、ずっと思ってた疑問をストレートにぶつけた。
「じゃあ逆にどうして今まで俺が地味にしてたと思ってるの?」
質問に質問で返された。
恭太がわざと自分を目立たなくするようになったのは、例の落下事件から。
ご丁寧に、突然地味になったのではなく、徐々に服装の色合いを落とし、装飾のないシンプルなサイズの合わない服にして、髪を伸ばしそのキレイな顔を隠していった。
周りは落ちたときに頭を打って、ちょっとどこかがおかしくなったんだと思ったのか、そんな恭太の部分に触れることはなかった。
私も恭太が段々と自分の存在を無くすように地味になっていったのを、見て見ぬふりをした。
でも、内心では喜んでた。
ああ、これで恭太は安全になる。
目立たなくなれば、出かけるたびに刺さる視線もないし、ちょっと顔見知り程度の友達からやたらと遊びに誘われたりしないし、女性の先生からベタベタと体を触られることもないし、誘拐されそうになることもない…。
恭太自身は認めないし、本人も気付いているのかわからないけど、あの容姿のせいで彼は他人を恐がっていた。
身近な友人や知ってるクラスメイトにはそうでもなかったが、見知らぬ人と対峙するとき、彼の背中からはじわりと恐怖が立ち上ってるように私には見えた。
決して顔には出してなかったが。だから私もそのことは気づいてないフリをした。
地味にしてたのは、もちろん自分のせいで私に危害が加えられないように、という理由もあっただろうが、他人をこれ以上寄せ付けないための防御だと思ってた。
だから、なぜ今それを解除したのかわからない。
自分が大人に近づくにつれ、益々容姿端麗になってることに気付いてないのかな?子供の頃の比じゃないくらい、濃厚な密の香りを駄々漏れしてるというのに。コントロール出来るなら隠しておいて欲しい。
また、私が暴走してしまうかもしれないから。
「最初に言ったじゃん。ひーちゃんを驚かそうと思ったって」
無邪気な顔であっさり言った。
確かに、言ってた。けど、それが本当の理由じゃないことくらいわかってるのよ。
というと、突如色っぽい微笑みに変換した顔が近づいてくる。
「な、なに?」
「なんでかな?何がひーちゃんを押さえつけてるの?」
私の状態を正確に読み取ってる恭太は、そう言って私の頬を両手で挟んだ。
「姫乃さえ素直になれば、俺が地味だろうが素だろうが、関係ないでしょう」
顔を上に向かされて目線が合う。諭すように言われたけど、そうじゃないのだ。両手に挟まれたままの泣きそうな顔を左右にゆるく降る。
恭太が地味なままだったら、このままずっと側にいようと思ってた。結婚だって考えたくらいに。
でも、もうダメだ。
元に戻った恭太を周りがほっとくわけない。
そんな恭太のそばにいられない。
でも、恭太から離れたくない。
矛盾する2つの気持ちが胸のなかでぐるぐる廻る。
恭太の明るめの茶色の瞳が探るように見下ろしてくる。
ふいに、せき止めていた大粒の涙がボロボロこぼれだした。
「ひめっ…?」
焦って緩んだ手をすり抜けて薬学棟の中に駆け込んだ。恭太は追ってこなかった…。