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本当はこのまま、ずっとこのままでいたかった。
でも、ダメ。それは私のわがまま。
理性を無理矢理総動員して、引きちぎられそうな心を押し込める。
大丈夫。もう充分。
私は大丈夫。
***
「来ないっ!」
梅雨明けしたばかりの清清しい夕方。
大学の薬学棟の裏。
周りを白樺の木と整えられた花壇で囲まれたベンチに1人座り、私は文字が素通りして全然頭に入ってこなかった本をバサリと閉じた。
やたらと広いキャンパスの中で、裏門にも学食にも近いのに、ほどよく人が来ない、でも開放的なこの場所は私のお気に入り。
いつもここで待ち合わせてる幼なじみの上村恭太とは、毎日一緒にキャンパスに来てはお互いの講義に行き、ランチでまた一緒になり、帰りも一緒に帰る。それが二人には日常。の、はずなのだが…今日に限って来ない…。
桃井姫乃。それが私の名前。
なんだか甘ったるいフワフワした、いかにも女の子!っていう名前で実はあまり好きじゃない。
都内の大学2年。薬科を専攻したのは、将来薬剤師になるため。結婚して共働きでも、独身のままだとしても食いっぱぐれない職業だから。綾乃お姉ちゃんには「現実的すぎー」って言われたけど、今時何があるかわからない人生だから、自立して生きていきたい。って、私は考えて選んだのに、幼なじみの恭太はあっさり同じ大学の経済学科を選んだ。経済学なら他にもいい大学があるのに、私がいる、というだけで選んだ。
「今朝は一緒に来たのに…?まさか一人で帰った?」
今日の午後の講義の終了時間は私の方が遅い。
恭太が先に来てる時は、いつもベンチで寝転がって、本を顔に乗せて長い足を組んで昼寝してるのを起こす。
入学したての頃は、こんなところで無防備に寝られる恭太に呆れて止めたけど、最近になってちょっとした楽しみを見つけていた。
それは、顔に被せた本をそっとどけて、いつもは前髪で隠れている素顔を観察すること。
もっさい髪型や姿勢、服装で惑わされるけど、実は恭太は結構整った顔立ちをしてるのだ。
前髪が横に流れた寝顔はその長い睫毛がよく見えるし、すっと通った鼻筋と細目の輪郭、閉じられた薄い唇は寝てるとちょっと幼く見えて、小さい頃の恭太を思い出す。
「あれ?旦那どうした?」
ベンチに一人でぼーっとしていたら、通りかかった友人、橘 江奈に声をかけられた。
「旦那」だの「相方」だの、小さい頃からの友人達からは常にセットの状態で認識されてる。
「恭太、見なかった?江奈、6限目同じ講義だったよね?」
「…そーいや見てない。欠席してたかも。そもそも彼、存在感薄いからよくわかんないや」
高校からの友人はあっけらかんと言った。確かに、群衆の中にいたら紛れ込んでしまいそうな雰囲気だけども。
なんでみんな気づかないんだろう?たまに見る猫背でない恭太のスラッとした立ち姿の華やかさを。立ってるだけで華がある、ってどういうことだ?と気づいた時には思ったが、周りの空気さえ違って見える瞬間があることに実は小さい時から気づいてた。
しかも、彼はそれを意図して隠せるのだ。そう、隠してる。長年の付き合いでわかる。隠してる方が彼の素なのだと。
あれは多分、高校の生物の授業で、昆虫の擬態の話が出てきたときだった。
「恭太みたいねえ」
と、無意識に私が呟くと、教科書を開いてた恭太は一瞬、動きを止めて私を見た。
「めんどくさいから」
放たれた一言は、私が本当の恭太が今の状態じゃないことを知ってるのを分かった上で更にどうして擬態してるか、という私がするであろう疑問の答えだ。
頭の回転早すぎ。
と、そんなことを思い出していたら、江奈に心配された。
「アイツがひめの側にいないなんて、大丈夫?ケンカした?え?してない?じゃあ、何かあったんじゃないの?連絡してみた?」
おせっかいと面倒見がいい、の境い目くらいな江奈は矢継ぎ早に質問してくる。
側にいない方が異常。
改めて周りから認識されると、我ながら若干引いた…。
結局、江奈も付き合ってくれたけど一時間ほど待って日も暮れてきたので帰宅した。
「おねーちゃん!恭太どうした!?」
帰宅して玄関をあけるなり、リビングから顔を出した我が妹、文乃が興奮気味に言った。
「え?なんで?今日は帰りから会ってないんだけど…」
自分のセリフも信じられない。
ここ十数年、恭太に会わない日なんてほとんどなかったのに、どうして会ってないのか。
まだ廊下にいるのに更に母まで出てきた。
「恭ちゃん、何があったの?あんなにかっこよくなっちゃって!姫乃、あんた何か言ったの!?」
「どうして、そうなる」
そもそも、かっこいいって何だ?かっこいいって。
っていうか、なんで私は会ってないのに他の人には目撃されてるの?
リビングのソファーに荷物を置いて、母に入れてもらった紅茶を飲みながら、母と文香から話を聞いた。
「夕方、スーパーに買い物に行った帰りに、途中ですれ違ったのよ。あいさつされたんだけど、一瞬誰だかわからなかったんだけどね。ホラ、お母さん最近の恭ちゃんに会ってなかったからさ。でも、小さい頃によく見た優しげーな笑顔がそのままだったから、すぐに恭ちゃんだってわかったわ。
今は近くで1人暮らししてるんでしょ?でも中学高校の頃のヌボーっとしたイメージだったから、パリっと爽やか青年になっててビックリしたのよー」
パリっと爽やか?
一体誰のことを言っているのか。
「私は学校から帰ってくる途中、駅前のコンビニで、カフェオレ買ったら3円足りなかったのよ!そこに横から無言でスッと3円出してくれた人がいてさ。それが恭太だったんだけど、あまりのスマートさに一瞬ホレそうだったわよ!!
今までの、こう、陰気?オタク?なイメージとは全然違うのー!
もっさり長かった髪をさっぱり切って、服装もなんだあれ?コーディネーターでも着いたの?ってくらいコジャレてた!」
スマート?コジャレてた?髪を切った?
「ええと、誰の話しをしてるの?二人とも」
「「恭太だよ!!」」
安定のもささを誇るはずの恭太に二人とも何を言っているのか。
幼なじみの恭太は、普段は猫っ毛の黒髪をボサボサに伸ばして、猫背で私の後ろから着いてくる男の子。大学生になって身長がみんなを追い越しても、その長い前髪の隙間から柔らかい茶色の瞳でほにゃらと頬笑むその姿はいつも私の側にあるものだった。
そう、だった。
なんで?なんで急に避けられてる?
それとも私、何か恭太を怒らせるようなことしたっけ?
一生懸命思い出しても、心当たりがない。
約束してたわけではない。小中高とずーっと一緒に登下校してたから、それが私達の普通だった。と思ってたのは私だけだったの?
確かに、連絡だって毎日しろ、とか約束してたわけではない。わけではないけど、毎日当たり前だと思ってたことが突然なくなると、人は非常に不安になるものなんだな、と変な方に気付いた。
自室のベットの上で鳴らないスマホを握りながら、もやもやした心のまま、眠れない夜を過ごした。
そして次の朝も恭太は駅に現れなかった…。
恭太がいないと満員電車がどれだけ大変か思い知った。
場所の確保はもとより、あんなに圧迫されるとは。今まで背の高い恭太がバリゲードとして防いでくれたのだ。
更には、降りた駅からキャンパスまでの間にある商店街でナンパされる。朝からナンパて。恭太がいれば絶対声なんてかけてこなかったと思う。
講義も集中出来なかった。
スマホに何度もかけたけど、繋がらない。
メッセージアプリにコメントを残したけど、既読が付かない。
昨日は江奈と、まさか何か事件に巻き込まれた!?と、考えたけど、お母さんと文乃に会ってるんだから、それはない。
じゃあなんで?
夏に向かう空は夕方でもまだ明るい。講義を終えて、いつものベンチに座ってスマホを握りしめてたら
「ひめ」
聞きなれた、耳に優しい低めの声が後ろから聞こえた。