バカと反抗心
窓の外から、セミの鳴き声が聞こえる。そして湿気をまとった風が教室の中に入ってくる。扇風機すらないこの教室では、少年と少女の清涼剤としての役割を果たしていた。教室の中に自分たち二人しかいないことも相まって、どこか寂しさを感じさせた。
「ゲームしようぜ」
勉強に飽きた少年がおもむろに声を上げる。そんな少年の希望に対して、我をよこさないように少女は机に向かい続けていた。腹が立つほど真面目な様子に腹が立った少年にふと、どうでも良い案が思い浮かんだ。
「しりとりしようぜ。俺からな。リンゴ」
少年は言ってから自分の発想の貧弱さに気が付く。これならまだトランプの方が発想は大人だと後悔し始めた。もっとも比べれば五十歩百歩だということは明らかではある。しかし少年にとって予想外なことに、少女にリアクションが起きた。それが消極的な行動であることは少女のため息から伝わってくる。
「ゴーヤ」
「やかん!」
「小学校からやり直したらどう?」
少女は本気か冗談かわからない口調を続ける。少年は冗談で言ってみただけなのにと少しだけ反論したい気持ちにもなったが、余計にバカにされそうなのでぐっと閉口した。しかし、それが少年の反抗心を刺激するきっかけとなった。
「つまりお前も小学校に行きたいということなんだな」
少年はわけのわからない方向へ会話の方向を進めた。少女は無視するかと思ったが、意外にもこの話題に乗ってきた。
「ええ、そうね。私の夢なの」
「ゆ、夢?」
少年はまるで頭の上にはてなマークが浮かぶようにおもむろに首をかしげる。まさかこのようなアホな発言に返答してくるとは思っていなかったのだ。少女はそんな様子に少し満足感を得たのか、口元に微笑みが浮かんでいるのがわかる。
「ええそう、夢よ。毎日決まった時間に学校に行くの。教室に入るとクラスの人はみんな座っている。そんな中で一番前の席にあなたが座っているの。宿題を忘れた子のようにそわそわしながら。そこで私は、教壇の上からあなたをいびり始めるのよ」
「先生かよ!」
少年は小学生に戻ってもバカなままと思われていることに反応して、思わず声を荒げた。しかし少年が改めてよく考えてみる。小学校に戻るということは、今通っている高校までの知識を利用できるということだ。ポジティブに考えてみればそう悪いことではないはずという結論に到達する。
「まあ、いい。だが、俺をいじろうとしても無駄だ。いくら高校の勉強についていけないからと言って、小学校のテストくらい余裕だ。100点連発だぞ。むしろ神童とでも呼びたまえ」
最後の方がやや演技かかってはいたが、少年は満足げな表情をしていた。そんな様子に少女は口を開けて少しポカンとしていたが、それもつかの間、腹を抱えて笑い始めた。少年は何となしに気恥ずかしさが湧き上がってくる。
「自己紹介の時に、あなたと同じ年齢です、って言ってあげる」
「やめて!」
少年の悲痛な叫びが教室中を駆け巡った。少年は、自分でも自分の顔が赤いことが分かった。明らかに高い身長から大人だと分かってしまうのだが、この時の少年の頭ではそこまで考えることができなかった。留年という二文字が頭の中でぐるぐると回っていたためだ。
「しょ、将来は先生になりたかったんだな、お前」
少年は話題を変えたくて仕方がなかった。これ以上からからわれたくないという気持ちでいっぱいだった。そもそも少年は少女に構ってほしかった。今会話が続いているのだから、少年の望み自体は叶っている。ただ、少年はからかいたいのだ。
「え、誰が?」
少女のキョトンとした態度に少年の心は一蹴される。少年はバナナの皮が落ちていればそれを踏んで滑りたい気分になる。滑ったら少女にバカにされるのは目に見えているが、それでもいいやと開き直る気持ちになる。
「わかった。降参だよ。きちんと勉強するよ。じゃあこの単語の意味教えてよ」
「どれ?」
少年の少し真面目そうに尋ねたため、少女はようやくフラットな表情で少年の方を向く。
「なになに……。『はかばかしい』?古典ね。確か、頼もしいとか、そんな意味だった気がするけど……」
そう少女が理解を示すとすぐに解答を寄越した。それにもかかわらず、彼女は自分のカバンから飾り気のない銀色の電子辞書を取り出した。万が一間違えてたらとでも考えているのだろう。真面目というか、神経質というところか。
「あった、あった。てきぱきとか、頼りになるとか、おおよそそんな意味よ。……今気が付いたのだけれど、自分でもすぐに調べられるじゃない」
やや嬉しそうな彼女の声色は、傘を持たずに出かけて雨に降られた日のような微妙な物へと変わっていった。
「紙の辞書しか持っていなくて、というよりもそれで調べるのが面倒くさい」
少年の素直な本音に対して、彼女の冷たい視線が刺さる。それはもう、虫眼鏡を使って太陽光で蚊を退治できそうな勢いだ。温度は真逆になってしまうが。
「まあ、待ってくれ。こうやって聞くと結構記憶に残ったりするんだ。そう、お前がはかばかしい人だからこそこうやって聞いているんだよ」
「何ですって、馬鹿馬鹿しい人?あなたには言われたくないわ!」
「言ってねえよ!」
耳がおかしいじゃないのかと少年は心の中で強く思ったが、事態を余計に悪化させるだけだと思い、口を押える。それほどまでに少女の口調は強かったのだ。
「まあ冗談だけど」
少年は少女のこの言葉に安堵した。実は自分の滑舌だけが老化しているのではないかというありもしないことに悩み始めていたからだ。……少しは怒ってもよかったのだろうけど。
「でもよかったよ。最初はとても馬鹿だって意味だと思ってたから。これでテストに出ても安心だな」
「……どうしてそうなったの」
少年の緩みきった口から出てきたことは、彼女の瞳を再び凍らせた。少年は再び焦り始めた。また馬鹿にされてしまうのではないかという焦燥感のためだ。
「ほ、ほら、はかばかしいって、『はか』『ばか』『しい』だろ?『果てしなく、限りなく』『馬鹿』『な限りだ』という感じで翻訳できるだろう。つまるところ馬鹿なんだ!」
少年は馬鹿、馬鹿と言いすぎて、何が馬鹿なのかがわからなくなってしまい、馬鹿馬鹿しくなってくる。これがはかばかしいということなのだろうか。(意味をもう忘れかけていることに、この時、少年は気が付くことはなかった。)
「……まじめに勉強しましょう」
少女は少し悪乗りがすぎたと反省したように少し目をそらしながら提案する。少年はそれに対してそうだな、と答える。このまま勉強から逃げていたら、赤丸をもらって補習を歓迎することになる。そう考え、机の上のお気に入りの黄色のシャープペンシルをとる。いつもの癖でくるりと右手の甲でそれを回す。きれいに一回転して親指と人差し指の間に収まる。あまりに華麗に収まったので、つい人差し指と中指を使って、ハチの8の字ダンスの要領で再び回し始める。
「何してるの?」
目の前の少女から腹の底から出したような声がズシリと聞こえる。ふと少年は我に返って前の方に視線を向けると、ジトッとした目と合う。うっ、と少年は少し後ずさりながら、言い訳を思いつく。
「これはあれだよ、振動の確認だよ。ほら物理であったけど、ばねの運動って上下に規則正しく動くだろう。ペンをくるくる回すことで、実験をしていたのだよ」
とっさの言い訳としてはよくできたものだと少年は自分に自画自賛していたが、少女が口元をわずかに歪めているのが見えるとまさかと身構える。
「バンジージャンプって知ってる?」
その言葉を聞いた少年は、空から落ち、さらに舞い上がる人の姿が思い浮かぶ。それはまるでバネのようにしなやかで。
「飛べっていうことですかね!」
「やだなあ、もう。屋上に行こうなんて誰も言ってないわよ」
少女の少し小悪魔じみた笑顔を見たのち、少年は窓の外の空に視線を移す。このままでは自分の生命がこの青色に溶け込んでしまうと少年は思ってしまう。
「せめて命だけはお助けをぉ」
少年のまるで時代劇のようなセリフに、少女はやや呆れたような表情を見せた。もう少しその棒読みを何とかしなさいよ、と聞こえてきそうだ。
「じゃあ、試験が終わった後にでも遊園地とかで飛んできたらいいんじゃない」
遊園地、という魅惑的な単語が少年の脳内に駆け巡る。遊びたいという気持ちも当然ある。それと同時に、少年の小さな希望があった。
「じゃあ、遊園地に行って飛んでやるから、俺の勇姿を下から見といてくれ」
そう、少し勇気を振り絞って少年は前に進む。
「絶叫している瞬間のところを、ばっちりフレームに収めてあげる」
そう、少し勇気を振り絞って少女は横に向く。
太陽が傾き、それと共に照らされた光が、少しずつ少年少女を赤く染めていった。
初投稿です。小説を書いたことがなかったので、表現が拙いと思います。
読みにくかったと思いますが、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。