6.王弟アルフォンス
自分達の他は誰もいないホールの中央に放り出されたリーフェの頭は真っ白になった。いや、放り出された訳では無くアルフォンスに引っ張り込まれたと言う方が正しいのだが……。
周囲の人だかりから突き刺さるような視線を受けて、リーフェは思わずフルリと震えてしまう。アルフォンスに憧れるご令嬢の羨望の眼差し、彼がファーストダンスに選んだ令嬢を値踏みする視線……中には何の感情も籠らない、傍観者の目も混じっているだろう。けれども社交経験の薄いリーフェには、そこは酷くいたたまれない空間だった。
彼女は注目されるのは慣れていた。だがそれはあくまで学院内限定、教室での講義で特定の生徒から受ける視線に対してのものだった。このように不特定多数の様々な思惑を乗せた視線を受けたのは彼女にとって初めての経験なのだ。
軽く礼を交わしてから、アルフォンスがリーフェの体を優しく迎え入れるように引き寄せる。仮にも侯爵令嬢だ。例えどんなに意外に思われても、それらしくないと言われてもそれは事実である。つまりダンスのレッスンは幼い頃から常に避けられない事だった。だから内心激しく動揺しながらも―――ダンスの組手に収まると、リーフェの背筋は自然と伸びる。
二人が定位置で構えたのを合図に指揮者の指揮棒が優しく振り下ろされ、王立楽団が艶やかなワルツを演奏し始めた。アルフォンスが繋いだ手にグッと力を込めて、大きく一歩踏み出した。頭が真っ白なままのリーフェは何の心の準備も整わないまま、ただ流されるようにそのリードに従って彼が踏み出した足に合わせて体を動かし始めたのだった。
「あっ……スイマセン」
ステップを間違えたリーフェが思わず謝罪の言葉を発すると、微笑みを湛えたままアルフォンスが滑らかに動きを繋いでカバーした。緊張からか練習ではほとんどしないような小さなミスを重ねてしまう。彼女がパニックに陥りそうになるたび、アルフォンスは表面的には綻びが生じていないかのように、上手に一つ一つフォローを重ねて行く。
とっちらかっていたリーフェもその内だんだんと落ち着いて来た。徐々に頭に上っていた血が下がり始め―――頭が通常通り回り出すと、リーフェの中にある疑問が湧き上がって来る。
「殿下?」
「ん?なあに、リーフェ」
キラキラと無邪気な笑顔を返されて、思わずウッと質問を飲み込みそうになったが彼女は堪えて先を続けた。
「……もしかして、私を揶揄って遊んでおられるのですか?」
「は……?」
「殿下は大変余裕でいらっしゃいます!ちっとも緊張されていないじゃないですかっ」
「ええ?そんな事ないよー」
「『緊張して躓くかも』なんて言って、躓いてるの私ばっかりです」
睨みつけるリーフェの瞳が、身長差の関係でどうしても上目遣いになってしまう。アルフォンスは嬉しそうに笑って答えた。
「リーフェが一緒だから、落ち着いていられるんだよ。よく知らないご令嬢と一緒じゃこうは行かない」
「大勢の目の前でダンスなんて……私は苦手ですけど、殿下が緊張するなんてやっぱり有り得ないのでは……」
「そんな事ないよ」
「普段から大勢の臣下に傅かれ、軍隊で男性陣に鍛えられ、各種行事で臣民と接する事に慣れっこなアルフォンスが、どうして誕生会のダンスに限って緊張するんですかぁ……うっあぁ」
唐突にグルンと、大きく振り回されて思わず変な声が出てしまう。矢継ぎ早にアルフォンスは反対方向にスイッチし、またしてもリーフェをグルンと振り回した。持久力はあっても瞬発力やリズム感に恵まれていない彼女は、思わぬ展開に付いて行くのに必死で口をひき結んでしまう。
「でんっ……ちょっ……」
「ハイ、くるっと回って」
パッと体を離されて片手を上げられる。空いた手でアルフォンスに独楽のように回されて、またしても心の準備をしていないリーフェは目を回してしまう。
「ひゃああ」
「ハイ、もういっちょ」
「ひえぇえ」
「上手い上手い!」
リーフェは今まさに、アルフォンスの掌によって『踊らされている』。
小柄なリーフェは抵抗する暇も無く、アルフォンスの思うがままに操られ捲ってしまう。流石日常的に鍛えているだけあって、彼はいとも軽々と彼女の腰を掴んで持ち上げたまま回ってみたりと好き勝手にハードな踊りで彼女を翻弄し始めた。リーフェは息も絶え絶え……(もう無理~)と心の中では叫んでいるが、口から出るのは荒い息遣いだけである。漸く曲が終わりに差し掛かり―――リーフェが内心ホッと胸を撫で下ろして表情を緩めたのを見て取って、アルフォンスはニヤリと笑った。
ジャ、ジャン!
と音楽が止むタイミングに合わせて、グッと体が引き寄せられる。リーフェの背がグイッと大きく仰け反るように倒された。アルフォンスが背を逸らしたリーフェに覆いかぶさるように、息が掛かる程の距離まで肉薄し―――リーフェにニコリと微笑みかけた。そのキラキラした笑顔にリーフェがギクリとしてギュッと目を閉じると……ふにっと額に何かが押し付けられた。
その瞬間人垣から『きゃあっ』と幾つか、か細い悲鳴が聞こえた気がした。
しかしあまりに目まぐるしく振り回され息も絶え絶え、記憶もおぼろげなリーフェには何が何だか把握できない。最後の方は周囲を気にする余裕も無いほど疲れ切っていて、気疲れや眩暈や……とにかく酷くヘトヘトになってしまった。
アルフォンスに支えられるようにホールの端までエスコートされ、顔を強張らせて彼女を待ち構えていた従兄のニークに引き渡される。
一方のアルフォンスは―――ほとんど彼の筋力で一曲踊り切ったにも関わらず、汗一つ書かず息も切らさずホールへ戻って行った。
「……リーフェ、大丈夫か?」
ニークが心配そうに椅子まで彼女を引き摺って行き、水を確保しリーフェに手渡した。
「はぁ、はぁ……う、うん……だいじょうっぶ……はぁっ」
肩で息をしているリーフェの目の前、ホールの中央ではアルフォンスが次のご令嬢の手を取ってユッタリとダンスを踊り始める所だった。
「消耗激しいな」
「う、うん……はぁ」
「殿下は平気そうだな。髪一筋乱れちゃいない」
「た、体力の違い……」
「年の違いじゃね?」
「……」
何か投げつけたくなったが、コップだと割れてしまうし体を動かすのも億劫で……リーフェは黙り込むしかなかった。
「後でもっかい踊るか……?」
気を使ってか、ニークが気を引立てるように明るい声で尋ねたが―――リーフェは首を振った。ニークは何とも言えない表情で気の毒そうに彼女を見ていた。
疲れ切ってホールをただ眺めるリーフェの目の前で、アルフォンスは次から次へとご令嬢を取り換えてクルクルと踊り続けていた。