30.出立の前日
明日は、いよいよアルフォンスの出立の日だ。
「先生、終わったので講義に向います」
「ありがとう。じゃあ、明日の朝の当番もお願いね」
「はい」
ミーシェクが快く返事をして、校内に続く扉の中へ消えて行った。
今日のリーフェの講義は休みの予定だ。まず彼女は生育チェックを終わらせることにした。最低限の作業を終えたら侯爵家に戻り、遠征に向う王立軍の壮行会に出席する準備をするのだ。書類上において現在リーフェは王弟の婚約者となったのだが、正式なお披露目をしていない。今回は表向きには、アルフォンスの家庭教師として出席する事となる。
ホフマンの援軍として特別に編成された遠征軍は、明日タイバー港を目指し王都を出発する。そして翌早朝港を出港し―――ホフマン国を目指すのだ。
ニークが水桶を片付けている。リーフェは畑のチェックを終え温室のチェックを終えてから学院を出るから外で待っているよう、彼に伝えた。
「あと温室だけだから、待っていてね」
「俺、護衛なんだけど。傍を離れるのは……」
逡巡する彼に、リーフェは笑い掛けた。
「じゃあ温室の入口の前でその椅子に座って見張ってちょうだい。これなら護衛をサボる事にもならないわよね?―――いろいろ手伝ってくれたのだから、ちょっと休んでいて。この後、壮行会もあるから立ちっぱなしだしね」
リーフェは、珍しく従兄をねぎらった。
ニークはちょっと目を瞠って、それから微笑んだ。
「じゃあお言葉に甘えて、ちょっと休もうかな?」
リーフェはお茶の入った水筒を、彼に手渡して笑った。
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「ひぃ、ふぅ、みぃ……っと、オッケー。これで、大丈夫……」
「リーフェ」
「ひぃあ!」
突然耳元で自分を呼ぶ声が聞こえ、リーフェは飛び上がった。
ヘナヘナと足元にへたり込みながら振り向くと、彼女の婚約者が呆れたように首を傾げて腕組みをしていた。
「アレフさま……」
安堵の息を吐きながら、手を引っ張られてようやく立ち上がる。
「集中しすぎ」
「……はい、すいません」
素直に謝るリーフェ
「あの、護衛の方はどちらに……?壮行会の準備は大丈夫なのですか?」
「護衛はニークとお茶して貰っている。準備は―――ばっちり。後は着替えて時間になったら、バルコニーに出て手を振るだけだよ」
「そうですか」
そんな単純なものではないだろう……と思いつつもリーフェは素直に頷いた。どんなことも要領良く熟す最高の教え子だ。他人には大事でもアルフォンスにとっては日常茶飯事の些末な事なのだろう、と想像する。
「……二人きりで会えるのは、これが最後」
「……」
アルフォンスの静かな声が―――水面に投じた一石のように、リーフェの心にぽちゃんと同心円状のさざ波を起こした。
「これ、渡したかったんだ」
公式行事が目白押しとなり、最近ずっとこればかり着ている軍服の胸ポケットを探って、アルフォンスは細長い布張りの小箱を出した。パカっと開けると大粒の雫型の真珠のネックレスが、柔らかい台座にきちんと納まっていた。
「まあ、珍しい形……それにこんな大きさの真珠は見た事がありません」
「前王妃の形見なんだ」
「え!そんな大切なもの……こんな場所に持ち出されて大丈夫なのですか?」
「うん、リーフェに貰って欲しい」
「は?」
リーフェは目を見開き、驚きに口を開けて固まった。
それから一拍置いて我に返ると、畏れるように胸の前で両手を組みブンブンと首を振って一歩下がった。
「そんな!いただけません!」
リーフェは慌てた。
それは明らかに国宝級の年代物に見える。
王家の財産を、まだ婚姻も結んでない身で手にするのは許されないと思った。それにかなり厳重に保管されなければならない品物の筈だ。彼女は自分の手に余ると即座に判断した。
アルフォンスはそれを見抜いたように、言い訳した。
「これは王宮の財産では無いんだ。母上が嫁して来る以前から持っていたもので、大切な人が出来た時に渡すよう遺言された物なんだ。兄もこれとは違うタイプの宝飾品を母から形見として受け取っている。―――俺は、俺の大切な人にこれを持っていて欲しいんだ。これを見て、時折俺を思い出してくれると……嬉しい」
「アレフ様……」
「婚約証明書の書類だけじゃ不安なんだ。俺がいない間リーフェに求婚していたニークに全てを任せるなんて―――本当は耐えられない。陛下が直接指示した事だから反対はできないけれど、本当は俺が傍にいてリーフェを守りたいくらいなんだ―――だからせめて、俺の代わりに、これをいつも身に付けていてくれないか?」
切なそうに小箱を持っていない掌が握り込まれ白くなっている。縋りつくような瞳を見て―――リーフェは観念して頷いた。
「わかりました」
アルフォンスは、ホっとしたように表情を緩ませた。
「では、アレフ様はこれをお持ちください」
リーフェは手袋を脱ぐと首の後ろに手を回して、ネックレスを外した。深い緑色の小さな宝石がキラキラと温室に差し込む光を反射している。優しく両手で包み込むように捧げ持って、アルフォンスの目の前に掲げた。
「母の形見です―――父の瞳の色と同じ色です」
ブッと、アルフォンスは噴き出した。
「そこは、『リーフェ』の瞳の色って言ってくれよ!……宰相の瞳の色を身に付けていると思うと、微妙な気分になる……」
リーフェも口を歪めてしまう。一瞬まざまざと父の瞳をリアルに想像してしまって、腹の底から可笑しさが込み上げて来た。
それでも何とか大笑いするのを堪えて、顔を上げると―――
ふと再びアルフォンスの瞳とリーフェの瞳がかち合った。
(―――宰相(お父様)の瞳の色―――)
数秒間、無言で見つめ合った二人は―――次の瞬間、盛大に噴き出したのだった。




